外計局の訳あり男とロスカリファ   作:Bestmeever

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【OS】3人分の食卓

百年前、まだロスウィックが人の声で賑わっていた頃。

 

ロゼッタデータの理論検証が成功したその夜、俺はレミエールとベリオラに連れられ、研究所から少し離れた店へ来ていた。

 

案内されたのは店の奥にある広い個室だった。今夜は研究に携わった者たちだけで、ささやかな祝いの席を設けることになったらしい。もっとも、俺自身は研究に関わっていないので、本来ならここにいる理由などないのだが、二人に誘われた以上は遠慮するつもりもなかった。

 

室内にはいくつかのテーブルが並び、普段は難しい顔をしている研究者たちも、今夜ばかりは楽しそうに杯を交わしている。

 

「アステル、そっちじゃなくてこっち!」

 

先に席を取っていたレミエールが、俺へ大きく手を振っていた。窓際の四人掛けの席で、向かいにはベリオラが座っており、空いている椅子の一つには荷物が置かれている。

 

「ちゃんと三人分取ってあるからね。キミ、さっきまでどこ行ってたの?」

 

「ジョイアスに捕まってたんだよ。休暇のたびに何してるんだって聞かれてさ」

 

「それは、もっともな疑問ですね」

 

ベリオラはそう言いながら、俺が座れるように椅子の荷物を移した。

 

「せっかく軍の仕事がお休みなのに、研究所で何時間も待たされたのでしょう?ほかにしたいことはなかったのですか?」

 

「別に。お前らが終わったら飯でも行こうと思ってたし、結果的に予定どおりだよ」

 

「それなら、最初からそう言ってくれればよかったのに」

 

「言ったらお前、研究が終わるまで来るなって言うだろ」

 

ベリオラの手が止まった。

 

「……言いますね。少なくとも、勝手に研究室へ入るのは止めます」

 

「ほらな」

 

「アステル?」

 

声は穏やかなのに、こちらを見る目が少し厳しくなった。俺が慌ててメニューへ視線を落とすと、隣のレミエールが楽しそうに笑い始める。

 

「ベリ、もう許してあげなよ。せっかくのお祝いなんだし」

 

「あなたも昼間、彼が研究室にいるのを見つけた時は怒っていたでしょう?」

 

「それはそれ。今はご飯の時間だから」

 

「切り替えが早いですね……」

 

ベリオラが小さく息を吐く。俺はメニューを開きながら、二人のやり取りを聞いていた。子供の頃から見慣れた光景だった。レミエールが何かを言い出して、ベリオラが困った顔をする。昔はもう少し素直に言うことを聞いていた気がするが、いつからか立場が逆転してしまったらしい。もっとも、ベリオラ自身も本気で嫌がっているわけではないのだろう。

 

「ところでアステル、何頼む?」

 

レミエールが俺の手元を覗き込んできた。

 

「肉にしようかな。昼からほとんど食ってないし」

 

「じゃあ私はこっちの魚料理にしようかな。ベリは?」

 

「私は野菜の煮込みにします。昼間、少々食べすぎてしまったので」

 

「えー、それだけ?今日はお祝いだよ?」

 

「あなたこそ、先ほどからお菓子ばかり食べていたでしょう。きちんと食事も取ってくださいね」

 

「分かってるよ。だから魚も頼むんじゃん」

 

レミエールはそう言うと、俺のメニューへもう一度目を向けた。

 

「……ねえ、そのお肉って大きい?」

 

「写真だと結構でかそうだな」

 

「ふうん」

 

「何だよ」

 

「別に?ちょっと気になっただけ」

 

そう言いながら、自分の注文を終えたレミエールは妙に機嫌がよかった。嫌な予感がしたが、俺はひとまず何も言わないことにした。

 

◇

 

料理が運ばれてきた頃には、室内も一段と賑やかになっていた。離れた席からジョイアスの声が聞こえてくる。どうやら誰かと飲む量について言い合っているようで、そのたびに周りから笑いが起こっていた。

 

「……あいつ、明日大丈夫なのか?」

 

俺がそちらを眺めていると、ベリオラが苦笑した。

 

「明日はお休みだとおっしゃっていましたよ。もっとも、飲みすぎていい理由にはなりませんが」

 

「明日になったら絶対後悔してるよね、ジョイアスくん」

 

「毎回そう言ってる気がするけどな」

 

俺たちは揃って笑った。目の前には焼きたての肉料理が置かれている。香ばしい匂いに釣られて早速ナイフを入れると、思った以上に柔らかく、口に運んだ途端に肉汁が広がった。

 

「……うまっ」

 

「そんなに?」

 

レミエールが顔を上げた。

 

「ああ。当たりだな、これ」

 

「へえ……」

 

俺の皿を見つめるレミエールの目が、少しずつ輝き始める。その視線には見覚えがあった。

 

「……お前、自分の魚食えよ」

 

「食べてるよ?」

 

「だったら俺の皿ばっか見んな」

 

「見てないって。たまたまそっちを向いてただけ」

 

隣に座っているのだから、こちらを向けば皿が視界に入るのは当然だ。そんな理屈を並べるレミエールを横目に、俺は肉をもう一切れ切り分けた。すると、レミエールの手が伸びてきた。

 

「ねえ、ひと口だけちょうだい」

 

「自分で頼めばよかっただろ」

 

「でも、食べてみないと美味しいか分からないじゃん」

 

「俺が美味いって言っただろ」

 

「キミの感想だけじゃ判断できないでしょ?」

 

こいつ、本当に遠慮がなくなったな。俺が返事をする前に、レミエールはフォークを手に取っていた。こちらの反応を窺いながら肉を一切れ刺し、そのまま口へ運んでしまう。

 

「んー!美味しい!」

 

「もう食ってんじゃねえか」

 

「ほら、やっぱり自分で確かめて正解だったよ」

 

「確認にしては随分でかい一切れだったな」

 

レミエールは満足そうに笑うばかりで、悪びれる様子もない。向かいに座っていたベリオラが、ようやく口を開いた。

 

「レミエール。人のお皿から勝手に取ってはいけませんよ」

 

「ちゃんと聞いたよ?」

 

「返事を待っていませんでしたよね?」

 

「……ベリって、そういうところよく見てるよね」

 

「あなたが分かりやすいだけです」

 

ベリオラに指摘され、レミエールは唇を尖らせた。それでも反省した様子はなく、今度はベリオラの煮込みへ視線を移す。俺とベリオラは、ほとんど同時に自分の皿を手前へ引き寄せた。

 

「ちょっと!二人ともひどくない!?」

 

「いや、お前の行動が予想できるだけだ」

 

「アステルの言うとおりです。自分の分を食べ終わってからにしてください」

 

「だって、二人の料理も美味しそうなんだもん!」

 

その言葉に、俺たちは顔を見合わせた。結局、ベリオラが自分の煮込みを少し取り分けることになった。俺も諦めて肉をもう一切れ渡したが、レミエールはそれを口に運ぶと、さっきより嬉しそうな顔をした。

 

「ふふ、ありがと。やっぱり二人と食べるご飯っていいよね」

 

「人からもらえるからだろ」

 

「それもある!」

 

「否定しろよ……」

 

ベリオラが声を立てて笑った。普段は何かと俺たちを注意しているくせに、こういう時だけ妙に楽しそうなのだから、少しずるいと思う。

 

◇

 

食事が進むにつれ、話題は自然と昼間の出来事へ移っていった。レミエールは何度も今日の成功を喜び、そのたびにベリオラが笑顔で頷いている。俺も何がそんなに大変だったのか聞いてみたが、詳しい仕組みについては、今の俺が聞いても理解できそうになかった。

 

「まあ、研究の細かいお話はここまでにしましょう。せっかくのお食事ですし、今夜は皆さんが頑張ったことをお祝いすれば十分ですよ」

 

ベリオラはそう言って、グラスを置いた。この場にいるのは研究の関係者ばかりだが、それでも技術的な話を何でも口にしていいわけではないのだろう。実際、ほかのテーブルからも聞こえてくるのは、研究中の苦労話や、ようやく一息つけるという冗談ばかりだった。

 

「それで十分だよ。どうせ俺には難しくて分からないし」

 

「もう、アステル。少しは興味持ってよ。今日の成果って、本当にすごいんだから」

 

「それは分かってるって。お前らがあんなに喜んでたんだからな」

 

レミエールは不満そうに頬を膨らませたが、やがて小さく笑った。

 

「……まあ、そうだね。私たち、ずっとこの日のために頑張ってきたんだもん」

 

「ああ。だから今日は、ちゃんと祝わないとな」

 

俺がそう返すと、ベリオラも嬉しそうに頷いた。しばらくして話題が変わり、今度は俺の軍での仕事について聞かれることになった。

 

「そういえばアステル、明日はもう戻るんだっけ?」

 

レミエールが尋ねる。

 

「ああ。午後には出発するつもりだよ。休暇も終わりだしな」

 

「もう少しゆっくりできたらいいのに」

 

「そういうわけにもいかないだろ。お前らだって、今日の成果が出たからってずっと休めるわけじゃないんだろ?」

 

「それはそうだけどさ」

 

レミエールはグラスの縁を指でなぞりながら、少しつまらなそうに答えた。向かいのベリオラが俺を見る。

 

「次の任務は、もう決まっているのですか?」

 

「一応な。詳しいことは話せないけど、そんな大げさな仕事じゃないよ」

 

「あなたの言う『大げさじゃない』は、あまり信用できません」

 

「ベリオラまでそんなこと言うのか?」

 

「今までのことを考えれば、当然でしょう」

 

まったく反論できなかった。俺が軍へ入ってからというもの、二人はやたらと任務のことを気にするようになった。帰ってくるたびに怪我の有無を確認され、少しでも包帯を巻いていれば、どちらかが必ず理由を聞いてくる。心配してくれるのはありがたいが、俺だってもう子供ではない。

 

「大丈夫だって。それに、いつまでもお前らに守られてばっかりじゃ格好つかないだろ」

 

「……アステルは十分頑張ってるじゃん。それなのに、まだ足りないの?」

 

レミエールが顔を上げた。

 

「足りないっていうか……できることは増やしたいだろ。お前らが戦ってる時、俺だけ何もできないのは嫌だし」

 

レミエールは何か言いかけたが、その前にベリオラが静かに口を開いた。

 

「アステル。あなたが軍でしている仕事も、私たちにとっては大切なものですよ」

 

「ああ、それは分かってる」

 

「なら、あまり自分を軽く扱わないでください。あなたの役目まで、私たちと同じである必要はありません」

 

真っ直ぐに見つめられ、俺は思わず言葉を探した。ベリオラは昔からこういうところがある。俺が何を考えているのか、全部分かっているような顔で話してくるのだ。子供の頃からそうだったし、今もあまり変わらない。

 

「……分かってるよ。別にお前らと同じになりたいわけじゃないんだ。ただ、自分の力が足りないせいで誰かを置いていくのは嫌だからさ」

 

ベリオラは俺の言葉を聞き、しばらく考えるように目を伏せた。

 

「そうですか。でしたら、少しだけお手伝いできるかもしれませんね」

 

「手伝い?」

 

「明日の朝、三代目も稽古場へいらっしゃる予定なんです。私もご一緒することになっていますから、アステルも参加してみませんか?」

 

思いがけない誘いに、俺は顔を上げた。

 

「三代目もいるのか?」

 

「ええ。以前もあなたに剣の扱いを教えてくださったでしょう?また機会があれば、一緒に稽古をしてもいいとおっしゃっていましたよ」

 

それは覚えている。以前、ベリオラに付き合って稽古場へ顔を出した時、三代目から何度か剣の振り方を教わったことがあった。正式に弟子入りしているわけではないが、俺の動きを見ては時折声をかけてくれる。もっとも、その教えを十分に身につけられたかと聞かれれば、少々自信がない。

 

「……前よりはマシになってると思うんだけどな」

 

「それなら、なおさら見ていただくといいでしょう。明日の午前中だけなら、帰隊にも間に合うはずです」

 

「ふふ、いいじゃん!アステル、ちょうど強くなりたいって言ってたところだし」

 

レミエールまで嬉しそうに身を乗り出してきた。

 

「でも三代目の稽古って、結構厳しくなかった?」

 

「……それは、まあ」

 

以前のことを思い出し、思わず口ごもる。俺が一太刀も当てられずに転がされたあと、三代目は涼しい顔で姿勢を直すよう助言してくれたのだ。あれを稽古と呼んでいいのかどうか、今でも少し疑問が残っている。そんな俺を見て、ベリオラは口元を綻ばせた。

 

「大丈夫ですよ。私も一緒にいますから」

 

「……それ、安心していいのか?」

 

「もちろんです。きちんとお相手しますね」

 

ベリオラは笑顔だった。昔から知っているはずなのに、その笑顔を見ていると、どうにも断りにくい。

 

「……分かった。じゃあ、明日の朝な」

 

「ええ。三代目にもお伝えしておきます」

 

そう言ってベリオラが頷くと、レミエールは満足そうにグラスを持ち上げた。

 

「じゃあ明日は、私も見に行こうかな」

 

「お前、研究の仕事は?」

 

「朝なら少しくらい時間あると思うよ。久しぶりにアステルが稽古してるところ、見てみたいし」

 

「……笑いに来るんじゃないだろうな」

 

「そんなことないって!」

 

即答されたが、その顔は明らかに楽しそうだった。俺は少しだけ後悔し始めていた。

 

◇

 

店を出た頃には、外はすっかり暗くなっていた。研究施設の明かりが夜の街を照らし、通りには仕事を終えた人々の姿が行き交っている。街はいつもと変わらない様子だった。今夜、子午館でどんな成果が生まれたのか、まだ知らない人も多いのだろう。いずれ今日の研究が誰かの暮らしを変えるのだとしても、今はまだ、研究に携わった人々だけがその喜びを分かち合っている。

 

「いやー、食べた食べた!」

 

レミエールが満足そうに伸びをする。

 

「お前、最後のデザートまで一人で食ってたもんな」

 

「美味しかったよ。キミも頼めばよかったのに」

 

「俺はもう腹いっぱいだったんだよ」

 

「ふふ。アステルは途中から、私たちの話を聞くより食べる方に夢中でしたね」

 

「難しい話されるより、そっちの方が得意だからな」

 

俺が笑うと、ベリオラも小さく頷いた。

 

「それは否定できませんね」

 

「おい」

 

二人が揃って笑う。子供の頃からの付き合いとはいえ、最近はそれぞれの仕事が忙しく、三人でゆっくり食事をする機会も減っていた。ベリオラと先に知り合った頃は、こんなふうに誰かと食卓を囲むようになるとは思っていなかった。そこへレミエールが加わり、いつの間にか三人でいるのが当たり前になったのだ。

 

「……あ」

 

レミエールが空を見上げた。つられて視線を上げると、頬に冷たいものが落ちてきた。

 

「雨か?」

 

「そうみたいですね」

 

ベリオラが答えた直後、雨脚が一気に強くなった。通りを歩いていた人々が慌てて軒下へ駆け込んでいく。俺たちも近くの屋根へ逃げ込んだが、レミエールの翼はすでにかなり濡れてしまっていた。

 

「うわ……最悪」

 

「だから天気を確認しておくように言ったでしょう?」

 

ベリオラが濡れた翼へ視線を向ける。

 

「雨具を持っていないのですか?」

 

「だって、研究所を出た時は晴れてたんだよ?」

 

「それは持ってこなかった理由にはなりませんよ」

 

「ベリのそういうところ、ほんと厳しいよね……」

 

レミエールは不満そうに翼を揺らした。そのたびに水滴が飛んでくるので、俺は慌てて距離を取る。

 

「おい、こっちに飛ばすなって」

 

「しょうがないじゃん、濡れちゃったんだから」

 

「俺が濡れる理由にはならないだろ」

 

「キミは翼ないからいいよね。こんな時、ほんと羨ましいよ」

 

「普段は散々飛び回ってるくせに」

 

「雨の日だけの話だよ!」

 

レミエールはそう言って翼を畳もうとしたが、濡れた羽根が邪魔になったのか、途中で顔をしかめた。さすがにこの状態で歩かせるのは気の毒だ。

 

「……ここからなら俺の部屋が近いな。とりあえず寄ってくか?」

 

「いいの!?」

 

返事が早かった。

 

「その翼のまま帰れないだろ。ベリオラも来る?」

 

「そうですね。私も手伝います」

 

「決まり!じゃあ早く行こ!」

 

レミエールは勢いよく軒下から飛び出そうとした。

 

「待て待て!傘もなしに出てどうすんだよ!」

 

「……あ」

 

ベリオラが額を押さえる。

 

「レミエール。少しは落ち着いてください」

 

結局、俺たちは雨脚が弱まるのを待ってから移動することになった。

 

◇

 

「……だから言っただろ。床が濡れるって」

 

部屋に入るなり、俺はため息をついた。レミエールが一歩歩くたびに、水滴が床へ落ちている。玄関である程度は拭いたはずなのに、翼の根元にはまだかなり水が残っていた。

 

「ごめんって。でも、ちゃんと拭いたよ?」

 

「表面だけだろ。ほら、そこ座れ」

 

俺は棚からタオルを何枚か取り出し、レミエールへ渡した。ベリオラも上着を脱ぎ、濡れていない場所へ丁寧に掛ける。それからレミエールの背後へ回ると、翼の状態を確かめ始めた。

 

「思った以上に濡れていますね。このまま乾かすと羽根を傷めてしまいますよ」

 

「うん……だからお願い、ベリ」

 

「まったく。今日だけで何回あなたに注意したでしょう」

 

そう言いながらも、ベリオラの手つきは慣れたものだった。俺も別のタオルを持って、レミエールの反対側へ回る。

 

「こっちは俺がやるぞ。痛かったら言えよ」

 

「はーい」

 

レミエールは大人しく翼を広げた。普段ならあれほどよく動くくせに、こういう時だけ妙に素直になる。俺は羽根の流れに逆らわないよう気をつけながら、水分を拭き取っていく。濡れた羽根は思った以上に重く、根元まで乾かすには時間がかかりそうだった。

 

「……アステル」

 

「ん?」

 

「もうちょっと右。そこ、まだ濡れてる」

 

「はいはい。ここか?」

 

「そうそう。あー、気持ちいい」

 

随分とくつろいだ声が返ってきた。隣を見ると、ベリオラが小さく笑っている。

 

「レミエール、あなたはもう少し感謝した方がいいですよ」

 

「してるって。ありがと、ベリ。アステルも」

 

「言葉だけじゃなくて、次から雨具を持ってきてくれ」

 

「それは考えておくね」

 

「絶対持ってこないやつだろ、それ」

 

レミエールは笑いながら肩を揺らした。その拍子に翼まで動いたので、俺たちは揃って手を止める。

 

「動くなって。せっかく揃えた羽根が乱れるだろ」

 

「あ、ごめん」

 

「ほら、もう少しで終わるから」

 

俺が羽根を整えていると、レミエールは何を思ったのか、急に静かになった。いつもなら何かしら喋っているのに珍しい。

 

「……眠いのか?」

 

「別に。ちょっと気持ちよくなってきただけ」

 

「なら寝るなよ。終わるまでもう少しだ」

 

「うん」

 

その返事は、いつもより少し柔らかかった。ベリオラはそんなレミエールを横目で見ていたが、何も言わずに手元の羽根を整え続けた。

 

◇

 

翼の手入れが終わった頃には、雨もだいぶ弱まっていた。レミエールはソファへ深く腰を沈め、すっかりくつろいでいる。

 

「はぁ……生き返った気分」

 

「大げさだな」

 

「キミには分かんないんだよ。翼が濡れるとほんと大変なんだから」

 

「それはさっき十分分かったよ」

 

俺は使ったタオルをまとめ、洗濯用の籠へ放り込んだ。部屋へ戻ると、レミエールはまだソファに座っていた。その隣ではベリオラが、俺の棚に置いてあった本を手に取っている。

 

「アステル、これ、以前私がお貸しした本ですよね?」

 

「ああ、そうだっけ」

 

「そうだっけ、ではありません。返ってこないと思ったら、こんなところに」

 

ベリオラが本の表紙を見せてきた。確かに見覚えがある。

 

「……ああ!それ、お前が読めって言ってたやつか」

 

「まだ読んでいなかったのですか?」

 

「いや、途中までは読んだよ」

 

「どこまで?」

 

「……最初の方?」

 

ベリオラは本を閉じ、こちらへ向き直った。

 

「アステル。貸してから随分経っていますよ」

 

「分かってるって。次の休みには読むから」

 

「前も同じことを言っていました」

 

「よく覚えてんな……」

 

そのやり取りを聞いていたレミエールが、ソファの上で笑い始めた。

 

「ふふ、アステルってベリには昔から弱いよね」

 

「お前も大概だろ。今日だって散々怒られてたじゃん」

 

「私はちゃんと言うこと聞いてるもん」

 

「雨具は?」

 

「……次から持ってくるよ」

 

「ほらな」

 

ベリオラはとうとう声を立てて笑った。いつもは落ち着いている彼女が、こんなふうに笑うのは珍しい気がする。

 

「もう、二人とも。本当に昔から変わりませんね」

 

「そういうベリオラだって変わってないだろ。昔から俺らに説教してるし」

 

「誰のせいだと思っているのですか?」

 

「……俺たち?」

 

「自覚はあるのですね」

 

レミエールが隣で笑っている。ベリオラも呆れたように笑ったままだった。俺はその顔を見ながら、ふと思い出した。

 

「そういや、今日のレミエールも相当だったぞ。俺の肉勝手に食ったし」

 

「えー、まだ言うの?」

 

「食べただけならともかく、最後に俺が取っておいた付け合わせまで持ってっただろ」

 

「だって残してると思ったんだもん」

 

「最後に食べようと思ってたんだよ」

 

レミエールは少し考えたあと、妙に得意そうな顔をした。

 

「でもキミも、前に私の残してたパン食べたじゃん」

 

「あれはお前が腹いっぱいって言ったからだろ」

 

「あれはデザートのあとで食べようと思ってたの!」

 

「もう食えないって言ったのに!?」

 

「少し休めば食べられたもん!」

 

思わずベリオラを見ると、彼女は本を抱えたまま肩を震わせていた。

 

「……お前、笑ってないで何とか言ってくれよ」

 

「ふふ……すみません。でも、二人とも本当に食べ物のことになると譲りませんね」

 

「俺は普通だと思うけどな」

 

「私も普通だよ?」

 

「そうですか。では、次からは私が先に取り分けることにしましょう」

 

それで話が終わるかと思ったのだが、レミエールが不満そうに口を尖らせた。

 

「えー、ベリが分けたら全部同じ量になるじゃん」

 

「同じ量で何か問題が?」

 

「……アステルの方がちょっと多いかもしれないし」

 

「何で俺の分を狙ってるんだよ!」

 

ベリオラは本を膝の上へ置き、また声を立てて笑った。俺もつられて笑ってしまった。そんな俺たちを見て、レミエールは少し不満そうだったが、やがて自分でもおかしくなったのか、三人揃って笑い続けることになった。

 

◇

 

雨が止んだのは、それから少ししてのことだった。ベリオラが窓の外を確かめ、そろそろ帰ろうと立ち上がる。レミエールも名残惜しそうにソファから腰を上げたが、すぐに何かを思い出したように振り返った。

 

「そうだ、アステル」

 

「何?」

 

「明日の朝、ちゃんと起きてね。三代目を待たせたら大変だよ?」

 

「ああ、そうだったな」

 

「忘れてたの?」

 

「忘れてねえよ。ちょっと考え事してただけ」

 

レミエールが疑わしそうにこちらを見る。ベリオラは靴を履きながら、小さく笑った。

 

「大丈夫ですよ。私からも連絡します。明日の稽古では、アステルの今の動き方を一度見ていただきましょう」

 

「……手加減してくれるかな、三代目」

 

「ふふ。それは実際にお会いしてからのお楽しみですね」

 

「それ、一番困る返事なんだけど」

 

「強くなりたいとおっしゃったのは、あなたでしょう?」

 

ベリオラが悪戯っぽく微笑んだ。俺は苦笑しながら頷く。

 

「そうだな。せっかくの機会だし、よろしく頼むよ」

 

「ええ。こちらこそ」

 

そう答えると、ベリオラは少しだけ表情を和らげた。

 

「ただし、無理はしないでくださいね。明日の午後には軍へ戻るのでしょう?」

 

「分かってるって。怪我なんかしたら、任務に響くしな」

 

「そうですね。そこは忘れないでください」

 

隣でレミエールが手を上げた。

 

「じゃあ私は、二人が稽古してるところを見に行くね!」

 

「お前も少しは参加しろよ」

 

「えー、私は応援担当でいいかな」

 

「都合いいな……」

 

三人で笑いながら玄関を出ると、ベリオラが先に廊下へ足を踏み出した。

 

「それでは、明日の朝に」

 

「ああ。寝坊しないようにするよ」

 

「じゃあね、アステル!」

 

レミエールが手を振る。俺も軽く手を上げ、二人が廊下の向こうへ歩いていくのを見送った。曲がり角へ差しかかる直前、レミエールが何かを言い、ベリオラが足を止めた。少し離れていたので、何を話しているのかは聞こえない。ただ、ベリオラがレミエールの方へ顔を向け、先ほどと同じように笑ったのが見えた。その隣でレミエールが慌てたように何かを言い返している。また何か変な話でもしているのだろう。俺は小さく笑い、部屋へ戻った。

 

テーブルには三人が使ったカップが残っていた。ソファの背にはまだ乾ききっていないタオルが掛かっていて、窓を開けると、雨上がりの涼しい空気が部屋へ入ってくる。

 

明日の朝は稽古か。昼間も子午館で三代目には会ったばかりだが、実際に剣を見てもらうのは随分久しぶりだ。以前より少しは上達したところを見せられるだろうか。ベリオラも一緒にいるというし、何かあっても心配はいらないだろう。そう考えながら、俺は洗い物を片付け始めた。

 

……そういえば、前に二人と稽古した時も、同じようなことを考えていた気がする。

 

「……明日、ちゃんと立って帰れるよな?」

 

誰もいない部屋で呟いてみたが、当然返事はなかった。

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