百年前、まだロスウィックが人の声で賑わっていた頃。
ロゼッタデータの理論検証が成功したその夜、俺はレミエールとベリオラに連れられ、研究所から少し離れた店へ来ていた。
案内されたのは店の奥にある広い個室だった。今夜は研究に携わった者たちだけで、ささやかな祝いの席を設けることになったらしい。もっとも、俺自身は研究に関わっていないので、本来ならここにいる理由などないのだが、二人に誘われた以上は遠慮するつもりもなかった。
室内にはいくつかのテーブルが並び、普段は難しい顔をしている研究者たちも、今夜ばかりは楽しそうに杯を交わしている。
「アステル、そっちじゃなくてこっち!」
先に席を取っていたレミエールが、俺へ大きく手を振っていた。窓際の四人掛けの席で、向かいにはベリオラが座っており、空いている椅子の一つには荷物が置かれている。
「ちゃんと三人分取ってあるからね。キミ、さっきまでどこ行ってたの?」
「ジョイアスに捕まってたんだよ。休暇のたびに何してるんだって聞かれてさ」
「それは、もっともな疑問ですね」
ベリオラはそう言いながら、俺が座れるように椅子の荷物を移した。
「せっかく軍の仕事がお休みなのに、研究所で何時間も待たされたのでしょう?ほかにしたいことはなかったのですか?」
「別に。お前らが終わったら飯でも行こうと思ってたし、結果的に予定どおりだよ」
「それなら、最初からそう言ってくれればよかったのに」
「言ったらお前、研究が終わるまで来るなって言うだろ」
ベリオラの手が止まった。
「……言いますね。少なくとも、勝手に研究室へ入るのは止めます」
「ほらな」
「アステル?」
声は穏やかなのに、こちらを見る目が少し厳しくなった。俺が慌ててメニューへ視線を落とすと、隣のレミエールが楽しそうに笑い始める。
「ベリ、もう許してあげなよ。せっかくのお祝いなんだし」
「あなたも昼間、彼が研究室にいるのを見つけた時は怒っていたでしょう?」
「それはそれ。今はご飯の時間だから」
「切り替えが早いですね……」
ベリオラが小さく息を吐く。俺はメニューを開きながら、二人のやり取りを聞いていた。子供の頃から見慣れた光景だった。レミエールが何かを言い出して、ベリオラが困った顔をする。昔はもう少し素直に言うことを聞いていた気がするが、いつからか立場が逆転してしまったらしい。もっとも、ベリオラ自身も本気で嫌がっているわけではないのだろう。
「ところでアステル、何頼む?」
レミエールが俺の手元を覗き込んできた。
「肉にしようかな。昼からほとんど食ってないし」
「じゃあ私はこっちの魚料理にしようかな。ベリは?」
「私は野菜の煮込みにします。昼間、少々食べすぎてしまったので」
「えー、それだけ?今日はお祝いだよ?」
「あなたこそ、先ほどからお菓子ばかり食べていたでしょう。きちんと食事も取ってくださいね」
「分かってるよ。だから魚も頼むんじゃん」
レミエールはそう言うと、俺のメニューへもう一度目を向けた。
「……ねえ、そのお肉って大きい?」
「写真だと結構でかそうだな」
「ふうん」
「何だよ」
「別に?ちょっと気になっただけ」
そう言いながら、自分の注文を終えたレミエールは妙に機嫌がよかった。嫌な予感がしたが、俺はひとまず何も言わないことにした。
◇
料理が運ばれてきた頃には、室内も一段と賑やかになっていた。離れた席からジョイアスの声が聞こえてくる。どうやら誰かと飲む量について言い合っているようで、そのたびに周りから笑いが起こっていた。
「……あいつ、明日大丈夫なのか?」
俺がそちらを眺めていると、ベリオラが苦笑した。
「明日はお休みだとおっしゃっていましたよ。もっとも、飲みすぎていい理由にはなりませんが」
「明日になったら絶対後悔してるよね、ジョイアスくん」
「毎回そう言ってる気がするけどな」
俺たちは揃って笑った。目の前には焼きたての肉料理が置かれている。香ばしい匂いに釣られて早速ナイフを入れると、思った以上に柔らかく、口に運んだ途端に肉汁が広がった。
「……うまっ」
「そんなに?」
レミエールが顔を上げた。
「ああ。当たりだな、これ」
「へえ……」
俺の皿を見つめるレミエールの目が、少しずつ輝き始める。その視線には見覚えがあった。
「……お前、自分の魚食えよ」
「食べてるよ?」
「だったら俺の皿ばっか見んな」
「見てないって。たまたまそっちを向いてただけ」
隣に座っているのだから、こちらを向けば皿が視界に入るのは当然だ。そんな理屈を並べるレミエールを横目に、俺は肉をもう一切れ切り分けた。すると、レミエールの手が伸びてきた。
「ねえ、ひと口だけちょうだい」
「自分で頼めばよかっただろ」
「でも、食べてみないと美味しいか分からないじゃん」
「俺が美味いって言っただろ」
「キミの感想だけじゃ判断できないでしょ?」
こいつ、本当に遠慮がなくなったな。俺が返事をする前に、レミエールはフォークを手に取っていた。こちらの反応を窺いながら肉を一切れ刺し、そのまま口へ運んでしまう。
「んー!美味しい!」
「もう食ってんじゃねえか」
「ほら、やっぱり自分で確かめて正解だったよ」
「確認にしては随分でかい一切れだったな」
レミエールは満足そうに笑うばかりで、悪びれる様子もない。向かいに座っていたベリオラが、ようやく口を開いた。
「レミエール。人のお皿から勝手に取ってはいけませんよ」
「ちゃんと聞いたよ?」
「返事を待っていませんでしたよね?」
「……ベリって、そういうところよく見てるよね」
「あなたが分かりやすいだけです」
ベリオラに指摘され、レミエールは唇を尖らせた。それでも反省した様子はなく、今度はベリオラの煮込みへ視線を移す。俺とベリオラは、ほとんど同時に自分の皿を手前へ引き寄せた。
「ちょっと!二人ともひどくない!?」
「いや、お前の行動が予想できるだけだ」
「アステルの言うとおりです。自分の分を食べ終わってからにしてください」
「だって、二人の料理も美味しそうなんだもん!」
その言葉に、俺たちは顔を見合わせた。結局、ベリオラが自分の煮込みを少し取り分けることになった。俺も諦めて肉をもう一切れ渡したが、レミエールはそれを口に運ぶと、さっきより嬉しそうな顔をした。
「ふふ、ありがと。やっぱり二人と食べるご飯っていいよね」
「人からもらえるからだろ」
「それもある!」
「否定しろよ……」
ベリオラが声を立てて笑った。普段は何かと俺たちを注意しているくせに、こういう時だけ妙に楽しそうなのだから、少しずるいと思う。
◇
食事が進むにつれ、話題は自然と昼間の出来事へ移っていった。レミエールは何度も今日の成功を喜び、そのたびにベリオラが笑顔で頷いている。俺も何がそんなに大変だったのか聞いてみたが、詳しい仕組みについては、今の俺が聞いても理解できそうになかった。
「まあ、研究の細かいお話はここまでにしましょう。せっかくのお食事ですし、今夜は皆さんが頑張ったことをお祝いすれば十分ですよ」
ベリオラはそう言って、グラスを置いた。この場にいるのは研究の関係者ばかりだが、それでも技術的な話を何でも口にしていいわけではないのだろう。実際、ほかのテーブルからも聞こえてくるのは、研究中の苦労話や、ようやく一息つけるという冗談ばかりだった。
「それで十分だよ。どうせ俺には難しくて分からないし」
「もう、アステル。少しは興味持ってよ。今日の成果って、本当にすごいんだから」
「それは分かってるって。お前らがあんなに喜んでたんだからな」
レミエールは不満そうに頬を膨らませたが、やがて小さく笑った。
「……まあ、そうだね。私たち、ずっとこの日のために頑張ってきたんだもん」
「ああ。だから今日は、ちゃんと祝わないとな」
俺がそう返すと、ベリオラも嬉しそうに頷いた。しばらくして話題が変わり、今度は俺の軍での仕事について聞かれることになった。
「そういえばアステル、明日はもう戻るんだっけ?」
レミエールが尋ねる。
「ああ。午後には出発するつもりだよ。休暇も終わりだしな」
「もう少しゆっくりできたらいいのに」
「そういうわけにもいかないだろ。お前らだって、今日の成果が出たからってずっと休めるわけじゃないんだろ?」
「それはそうだけどさ」
レミエールはグラスの縁を指でなぞりながら、少しつまらなそうに答えた。向かいのベリオラが俺を見る。
「次の任務は、もう決まっているのですか?」
「一応な。詳しいことは話せないけど、そんな大げさな仕事じゃないよ」
「あなたの言う『大げさじゃない』は、あまり信用できません」
「ベリオラまでそんなこと言うのか?」
「今までのことを考えれば、当然でしょう」
まったく反論できなかった。俺が軍へ入ってからというもの、二人はやたらと任務のことを気にするようになった。帰ってくるたびに怪我の有無を確認され、少しでも包帯を巻いていれば、どちらかが必ず理由を聞いてくる。心配してくれるのはありがたいが、俺だってもう子供ではない。
「大丈夫だって。それに、いつまでもお前らに守られてばっかりじゃ格好つかないだろ」
「……アステルは十分頑張ってるじゃん。それなのに、まだ足りないの?」
レミエールが顔を上げた。
「足りないっていうか……できることは増やしたいだろ。お前らが戦ってる時、俺だけ何もできないのは嫌だし」
レミエールは何か言いかけたが、その前にベリオラが静かに口を開いた。
「アステル。あなたが軍でしている仕事も、私たちにとっては大切なものですよ」
「ああ、それは分かってる」
「なら、あまり自分を軽く扱わないでください。あなたの役目まで、私たちと同じである必要はありません」
真っ直ぐに見つめられ、俺は思わず言葉を探した。ベリオラは昔からこういうところがある。俺が何を考えているのか、全部分かっているような顔で話してくるのだ。子供の頃からそうだったし、今もあまり変わらない。
「……分かってるよ。別にお前らと同じになりたいわけじゃないんだ。ただ、自分の力が足りないせいで誰かを置いていくのは嫌だからさ」
ベリオラは俺の言葉を聞き、しばらく考えるように目を伏せた。
「そうですか。でしたら、少しだけお手伝いできるかもしれませんね」
「手伝い?」
「明日の朝、三代目も稽古場へいらっしゃる予定なんです。私もご一緒することになっていますから、アステルも参加してみませんか?」
思いがけない誘いに、俺は顔を上げた。
「三代目もいるのか?」
「ええ。以前もあなたに剣の扱いを教えてくださったでしょう?また機会があれば、一緒に稽古をしてもいいとおっしゃっていましたよ」
それは覚えている。以前、ベリオラに付き合って稽古場へ顔を出した時、三代目から何度か剣の振り方を教わったことがあった。正式に弟子入りしているわけではないが、俺の動きを見ては時折声をかけてくれる。もっとも、その教えを十分に身につけられたかと聞かれれば、少々自信がない。
「……前よりはマシになってると思うんだけどな」
「それなら、なおさら見ていただくといいでしょう。明日の午前中だけなら、帰隊にも間に合うはずです」
「ふふ、いいじゃん!アステル、ちょうど強くなりたいって言ってたところだし」
レミエールまで嬉しそうに身を乗り出してきた。
「でも三代目の稽古って、結構厳しくなかった?」
「……それは、まあ」
以前のことを思い出し、思わず口ごもる。俺が一太刀も当てられずに転がされたあと、三代目は涼しい顔で姿勢を直すよう助言してくれたのだ。あれを稽古と呼んでいいのかどうか、今でも少し疑問が残っている。そんな俺を見て、ベリオラは口元を綻ばせた。
「大丈夫ですよ。私も一緒にいますから」
「……それ、安心していいのか?」
「もちろんです。きちんとお相手しますね」
ベリオラは笑顔だった。昔から知っているはずなのに、その笑顔を見ていると、どうにも断りにくい。
「……分かった。じゃあ、明日の朝な」
「ええ。三代目にもお伝えしておきます」
そう言ってベリオラが頷くと、レミエールは満足そうにグラスを持ち上げた。
「じゃあ明日は、私も見に行こうかな」
「お前、研究の仕事は?」
「朝なら少しくらい時間あると思うよ。久しぶりにアステルが稽古してるところ、見てみたいし」
「……笑いに来るんじゃないだろうな」
「そんなことないって!」
即答されたが、その顔は明らかに楽しそうだった。俺は少しだけ後悔し始めていた。
◇
店を出た頃には、外はすっかり暗くなっていた。研究施設の明かりが夜の街を照らし、通りには仕事を終えた人々の姿が行き交っている。街はいつもと変わらない様子だった。今夜、子午館でどんな成果が生まれたのか、まだ知らない人も多いのだろう。いずれ今日の研究が誰かの暮らしを変えるのだとしても、今はまだ、研究に携わった人々だけがその喜びを分かち合っている。
「いやー、食べた食べた!」
レミエールが満足そうに伸びをする。
「お前、最後のデザートまで一人で食ってたもんな」
「美味しかったよ。キミも頼めばよかったのに」
「俺はもう腹いっぱいだったんだよ」
「ふふ。アステルは途中から、私たちの話を聞くより食べる方に夢中でしたね」
「難しい話されるより、そっちの方が得意だからな」
俺が笑うと、ベリオラも小さく頷いた。
「それは否定できませんね」
「おい」
二人が揃って笑う。子供の頃からの付き合いとはいえ、最近はそれぞれの仕事が忙しく、三人でゆっくり食事をする機会も減っていた。ベリオラと先に知り合った頃は、こんなふうに誰かと食卓を囲むようになるとは思っていなかった。そこへレミエールが加わり、いつの間にか三人でいるのが当たり前になったのだ。
「……あ」
レミエールが空を見上げた。つられて視線を上げると、頬に冷たいものが落ちてきた。
「雨か?」
「そうみたいですね」
ベリオラが答えた直後、雨脚が一気に強くなった。通りを歩いていた人々が慌てて軒下へ駆け込んでいく。俺たちも近くの屋根へ逃げ込んだが、レミエールの翼はすでにかなり濡れてしまっていた。
「うわ……最悪」
「だから天気を確認しておくように言ったでしょう?」
ベリオラが濡れた翼へ視線を向ける。
「雨具を持っていないのですか?」
「だって、研究所を出た時は晴れてたんだよ?」
「それは持ってこなかった理由にはなりませんよ」
「ベリのそういうところ、ほんと厳しいよね……」
レミエールは不満そうに翼を揺らした。そのたびに水滴が飛んでくるので、俺は慌てて距離を取る。
「おい、こっちに飛ばすなって」
「しょうがないじゃん、濡れちゃったんだから」
「俺が濡れる理由にはならないだろ」
「キミは翼ないからいいよね。こんな時、ほんと羨ましいよ」
「普段は散々飛び回ってるくせに」
「雨の日だけの話だよ!」
レミエールはそう言って翼を畳もうとしたが、濡れた羽根が邪魔になったのか、途中で顔をしかめた。さすがにこの状態で歩かせるのは気の毒だ。
「……ここからなら俺の部屋が近いな。とりあえず寄ってくか?」
「いいの!?」
返事が早かった。
「その翼のまま帰れないだろ。ベリオラも来る?」
「そうですね。私も手伝います」
「決まり!じゃあ早く行こ!」
レミエールは勢いよく軒下から飛び出そうとした。
「待て待て!傘もなしに出てどうすんだよ!」
「……あ」
ベリオラが額を押さえる。
「レミエール。少しは落ち着いてください」
結局、俺たちは雨脚が弱まるのを待ってから移動することになった。
◇
「……だから言っただろ。床が濡れるって」
部屋に入るなり、俺はため息をついた。レミエールが一歩歩くたびに、水滴が床へ落ちている。玄関である程度は拭いたはずなのに、翼の根元にはまだかなり水が残っていた。
「ごめんって。でも、ちゃんと拭いたよ?」
「表面だけだろ。ほら、そこ座れ」
俺は棚からタオルを何枚か取り出し、レミエールへ渡した。ベリオラも上着を脱ぎ、濡れていない場所へ丁寧に掛ける。それからレミエールの背後へ回ると、翼の状態を確かめ始めた。
「思った以上に濡れていますね。このまま乾かすと羽根を傷めてしまいますよ」
「うん……だからお願い、ベリ」
「まったく。今日だけで何回あなたに注意したでしょう」
そう言いながらも、ベリオラの手つきは慣れたものだった。俺も別のタオルを持って、レミエールの反対側へ回る。
「こっちは俺がやるぞ。痛かったら言えよ」
「はーい」
レミエールは大人しく翼を広げた。普段ならあれほどよく動くくせに、こういう時だけ妙に素直になる。俺は羽根の流れに逆らわないよう気をつけながら、水分を拭き取っていく。濡れた羽根は思った以上に重く、根元まで乾かすには時間がかかりそうだった。
「……アステル」
「ん?」
「もうちょっと右。そこ、まだ濡れてる」
「はいはい。ここか?」
「そうそう。あー、気持ちいい」
随分とくつろいだ声が返ってきた。隣を見ると、ベリオラが小さく笑っている。
「レミエール、あなたはもう少し感謝した方がいいですよ」
「してるって。ありがと、ベリ。アステルも」
「言葉だけじゃなくて、次から雨具を持ってきてくれ」
「それは考えておくね」
「絶対持ってこないやつだろ、それ」
レミエールは笑いながら肩を揺らした。その拍子に翼まで動いたので、俺たちは揃って手を止める。
「動くなって。せっかく揃えた羽根が乱れるだろ」
「あ、ごめん」
「ほら、もう少しで終わるから」
俺が羽根を整えていると、レミエールは何を思ったのか、急に静かになった。いつもなら何かしら喋っているのに珍しい。
「……眠いのか?」
「別に。ちょっと気持ちよくなってきただけ」
「なら寝るなよ。終わるまでもう少しだ」
「うん」
その返事は、いつもより少し柔らかかった。ベリオラはそんなレミエールを横目で見ていたが、何も言わずに手元の羽根を整え続けた。
◇
翼の手入れが終わった頃には、雨もだいぶ弱まっていた。レミエールはソファへ深く腰を沈め、すっかりくつろいでいる。
「はぁ……生き返った気分」
「大げさだな」
「キミには分かんないんだよ。翼が濡れるとほんと大変なんだから」
「それはさっき十分分かったよ」
俺は使ったタオルをまとめ、洗濯用の籠へ放り込んだ。部屋へ戻ると、レミエールはまだソファに座っていた。その隣ではベリオラが、俺の棚に置いてあった本を手に取っている。
「アステル、これ、以前私がお貸しした本ですよね?」
「ああ、そうだっけ」
「そうだっけ、ではありません。返ってこないと思ったら、こんなところに」
ベリオラが本の表紙を見せてきた。確かに見覚えがある。
「……ああ!それ、お前が読めって言ってたやつか」
「まだ読んでいなかったのですか?」
「いや、途中までは読んだよ」
「どこまで?」
「……最初の方?」
ベリオラは本を閉じ、こちらへ向き直った。
「アステル。貸してから随分経っていますよ」
「分かってるって。次の休みには読むから」
「前も同じことを言っていました」
「よく覚えてんな……」
そのやり取りを聞いていたレミエールが、ソファの上で笑い始めた。
「ふふ、アステルってベリには昔から弱いよね」
「お前も大概だろ。今日だって散々怒られてたじゃん」
「私はちゃんと言うこと聞いてるもん」
「雨具は?」
「……次から持ってくるよ」
「ほらな」
ベリオラはとうとう声を立てて笑った。いつもは落ち着いている彼女が、こんなふうに笑うのは珍しい気がする。
「もう、二人とも。本当に昔から変わりませんね」
「そういうベリオラだって変わってないだろ。昔から俺らに説教してるし」
「誰のせいだと思っているのですか?」
「……俺たち?」
「自覚はあるのですね」
レミエールが隣で笑っている。ベリオラも呆れたように笑ったままだった。俺はその顔を見ながら、ふと思い出した。
「そういや、今日のレミエールも相当だったぞ。俺の肉勝手に食ったし」
「えー、まだ言うの?」
「食べただけならともかく、最後に俺が取っておいた付け合わせまで持ってっただろ」
「だって残してると思ったんだもん」
「最後に食べようと思ってたんだよ」
レミエールは少し考えたあと、妙に得意そうな顔をした。
「でもキミも、前に私の残してたパン食べたじゃん」
「あれはお前が腹いっぱいって言ったからだろ」
「あれはデザートのあとで食べようと思ってたの!」
「もう食えないって言ったのに!?」
「少し休めば食べられたもん!」
思わずベリオラを見ると、彼女は本を抱えたまま肩を震わせていた。
「……お前、笑ってないで何とか言ってくれよ」
「ふふ……すみません。でも、二人とも本当に食べ物のことになると譲りませんね」
「俺は普通だと思うけどな」
「私も普通だよ?」
「そうですか。では、次からは私が先に取り分けることにしましょう」
それで話が終わるかと思ったのだが、レミエールが不満そうに口を尖らせた。
「えー、ベリが分けたら全部同じ量になるじゃん」
「同じ量で何か問題が?」
「……アステルの方がちょっと多いかもしれないし」
「何で俺の分を狙ってるんだよ!」
ベリオラは本を膝の上へ置き、また声を立てて笑った。俺もつられて笑ってしまった。そんな俺たちを見て、レミエールは少し不満そうだったが、やがて自分でもおかしくなったのか、三人揃って笑い続けることになった。
◇
雨が止んだのは、それから少ししてのことだった。ベリオラが窓の外を確かめ、そろそろ帰ろうと立ち上がる。レミエールも名残惜しそうにソファから腰を上げたが、すぐに何かを思い出したように振り返った。
「そうだ、アステル」
「何?」
「明日の朝、ちゃんと起きてね。三代目を待たせたら大変だよ?」
「ああ、そうだったな」
「忘れてたの?」
「忘れてねえよ。ちょっと考え事してただけ」
レミエールが疑わしそうにこちらを見る。ベリオラは靴を履きながら、小さく笑った。
「大丈夫ですよ。私からも連絡します。明日の稽古では、アステルの今の動き方を一度見ていただきましょう」
「……手加減してくれるかな、三代目」
「ふふ。それは実際にお会いしてからのお楽しみですね」
「それ、一番困る返事なんだけど」
「強くなりたいとおっしゃったのは、あなたでしょう?」
ベリオラが悪戯っぽく微笑んだ。俺は苦笑しながら頷く。
「そうだな。せっかくの機会だし、よろしく頼むよ」
「ええ。こちらこそ」
そう答えると、ベリオラは少しだけ表情を和らげた。
「ただし、無理はしないでくださいね。明日の午後には軍へ戻るのでしょう?」
「分かってるって。怪我なんかしたら、任務に響くしな」
「そうですね。そこは忘れないでください」
隣でレミエールが手を上げた。
「じゃあ私は、二人が稽古してるところを見に行くね!」
「お前も少しは参加しろよ」
「えー、私は応援担当でいいかな」
「都合いいな……」
三人で笑いながら玄関を出ると、ベリオラが先に廊下へ足を踏み出した。
「それでは、明日の朝に」
「ああ。寝坊しないようにするよ」
「じゃあね、アステル!」
レミエールが手を振る。俺も軽く手を上げ、二人が廊下の向こうへ歩いていくのを見送った。曲がり角へ差しかかる直前、レミエールが何かを言い、ベリオラが足を止めた。少し離れていたので、何を話しているのかは聞こえない。ただ、ベリオラがレミエールの方へ顔を向け、先ほどと同じように笑ったのが見えた。その隣でレミエールが慌てたように何かを言い返している。また何か変な話でもしているのだろう。俺は小さく笑い、部屋へ戻った。
テーブルには三人が使ったカップが残っていた。ソファの背にはまだ乾ききっていないタオルが掛かっていて、窓を開けると、雨上がりの涼しい空気が部屋へ入ってくる。
明日の朝は稽古か。昼間も子午館で三代目には会ったばかりだが、実際に剣を見てもらうのは随分久しぶりだ。以前より少しは上達したところを見せられるだろうか。ベリオラも一緒にいるというし、何かあっても心配はいらないだろう。そう考えながら、俺は洗い物を片付け始めた。
……そういえば、前に二人と稽古した時も、同じようなことを考えていた気がする。
「……明日、ちゃんと立って帰れるよな?」
誰もいない部屋で呟いてみたが、当然返事はなかった。