「……やっぱり今日も来られないの?」
レミエールが尋ねると、端末の向こうでアステルが申し訳なさそうに頭を掻いた。
『悪い。昨日までの仕事が結構溜まっててさ。これ以上抜けたら、さすがにヴェリナに怒られる』
「ふふ、キミって本当にヴェリナさんには頭が上がらないよね」
『そりゃ普段から世話になってるからな。それに、今回ばかりは俺が悪いし』
画面の奥には、外計局の執務室が映っていた。アステルの机には書類が積まれ、その向こうではノルムーが何やら忙しそうに動き回っている。先日のロスウィック探索に同行するため、無理を言って仕事を調整してもらったらしい。その埋め合わせをしているのだから、こちらとしても無理に誘うわけにはいかなかった。
『それで、今日はどこまで調べる予定なんだ?』
「この前リンちゃんが集めたデータの確認だよ。シンギュラ・リークを利用して偽物を移動させるにしても、実際に使える経路があるか確かめないといけないからね」
隣にいたリンが、端末を覗き込むようにして会話へ加わった。
「ロスウィック周辺のデータは取れてるけど、そこから先の経路はまだ予測の段階なの。今回は現地で観測値を照らし合わせるだけだから、長居するつもりもないよ」
『ならいいけど。何かあったらすぐ連絡しろよ?』
「大丈夫、ちゃんと連絡する。こっちにはレミエールもいるし、Fairyも手伝ってくれるから」
リンはそう答えながら、手元の端末を軽く持ち上げた。
『……それはそれで不安なんだよな』
「ちょっと、どういう意味?」
「アステル、私がいるのに心配なの?」
二人から同時に抗議され、画面の向こうのアステルが苦笑する。
『お前ら、何か見つけたら絶対調べに行くだろ。リンは特にそうだし、レミエールも面白がって付き合いそうだしな』
「……否定しづらいのが腹立つ」
「私はちゃんと止める時は止めるよ?」
『その言葉、覚えとくからな』
そこへ、画面の奥からノルムーの声が飛んできた。
『アステル!話してる暇があるならこっちも手伝うのだ!昨日の分がまだ終わってねーのだ!』
『分かってるって!今行くから!』
アステルは一度振り返り、それからこちらへ顔を戻した。
『じゃ、二人とも気をつけてな。終わったら飯でも食いに行こうぜ。この前の約束もあるし』
「いいね。じゃあ、今日はキミの奢り?」
『なんでそうなるんだよ』
「ふふ、冗談だって。お仕事頑張ってね、アステル」
『おう。そっちも、帰ったら結果教えてくれよ』
通話が切れた。
レミエールは暗くなった画面を少し眺めてから、端末をしまった。つい先日までは、百年前の知り合いとこうして何でもない会話を交わせる日が来るなんて、想像もしていなかった。
「……さて、それじゃ行こっか」
「うん。先に観測装置の準備を済ませよう。今日はアステルがいない分、ちゃんと慎重に進めないとね」
「リンちゃんって、私一人じゃそんなに頼りないと思ってる?」
「そういうわけじゃないけど、あんたも結構無茶するでしょ」
「もう。キミたち、揃って私のこと信用してないんだから」
レミエールがわざと不満そうに言うと、リンは小さく笑った。その反応が少し嬉しくて、レミエールもつられて笑う。以前なら、こんなふうに誰かと笑い合う時間が、自分にとって大切なものになるとは思わなかった。
◇
スカモールホロウの内部は、相変わらず落ち着かない場所だった。
先日訪れたロスウィックも、百年前とは比べものにならないほど姿を変えていたが、今回の目的地はさらに外側の区画にある。傾いた建造物の間を進むたび、空間の歪みによって周囲の距離感が変わり、少し離れた場所に見えていた通路が、次の瞬間には別の方向へ伸びていることもあった。
リンは端末に表示された経路を確認しながら、慎重に足を進めていた。
「Fairy、現在位置とロゼッタデータの照合結果は?」
『現在位置を確認。先日取得した観測データとの差異を検出しました。対象区画の空間構造は依然として不安定ですが、想定範囲内です』
「よし。じゃあ、予定してた観測地点まで進もう」
レミエールはリンの少し前を歩きながら、周囲へ目を配っていた。今のところ、目立ったエーテリアスの反応はない。とはいえ、ここはスカモールホロウだ。普通のホロウ以上に何が起こるか分からない場所で、油断するつもりはなかった。
「それにしても、リンちゃん。あの古い設備から、よくここまで正確なデータを取れたね」
「私一人でやったわけじゃないよ。Fairyの解析もあったし、レミエールも昔の設備について教えてくれたでしょ?」
「まあね。でも、あの機械を実際に動かせたのはキミだよ。サンブリンガーが見たら、きっと喜んでただろうなあ」
口にしてから、レミエールは少しだけ足を緩めた。リンがこちらを振り返る。
「……レミエール?」
「ん?ああ、ごめん。昔のこと思い出しちゃった」
「この前も、あの研究所で色々思い出してたもんね」
「そうだね。あそこには、みんなとの思い出がたくさん残ってるから」
百年前のロスウィックは、今のような静かな場所ではなかった。研究所には毎日のように人が出入りし、レミエールが顔を出すたびに誰かしらが声をかけてきた。ジョイアスは研究に没頭しているかと思えば、何でもないことで騒ぎを起こしていたし、サンブリンガーはそんな周囲の様子を、いつもの落ち着いた顔で眺めていた。
そして、ベリがいた。
仕事の合間にもレミエールの面倒を見てくれて、時には呆れながら、時には本気で叱ってくれた。アステルが休暇で帰ってきた時には、三人で食事に出かけたり、稽古場へ顔を出したりもした。今では、どれも遠い昔の出来事だ。
「……ねえ、リンちゃん」
「なに?」
「さっきアステルも言ってたけど、この件が全部終わったら、みんなでどこか食べに行こうよ」
リンは少し意外そうな顔をしたあと、すぐに頷いた。
「いいよ。せっかくだし、お兄ちゃんも誘っていい?」
「もちろん。人数が多い方が楽しいしね」
「じゃあ決まり。アステルにもちゃんと予定空けてもらわないと」
「ふふ、そうだね。今度は仕事を溜めないように言っておこうかな」
レミエールが笑うと、リンの口元も緩んだ。こんな約束をするのは、いつ以来だろう。明日のことを考えて、誰かと予定を立てる。百年も生きてきたのに、そんな当たり前のことが、今は少しだけ特別に感じられた。
「……よし、そろそろ目的地だよ」
リンの声に、レミエールは顔を上げた。崩れかけた建造物の向こうに、開けた空間が見えている。周囲には古い観測設備の残骸が散らばり、地面にはエーテルの影響で変色した金属片が転がっていた。
「ここで合ってる?」
「うん。シンギュラ・リークの経路を予測するために、ここの観測値が必要なの。少しだけ調べるから、周りをお願いしてもいい?」
「任せて。何か来たら、すぐ片付けてあげる」
レミエールが光剣へ手を伸ばすと、リンは端末を操作し始めた。しばらくの間、機械の作動音だけが周囲に響いていた。
◇
最初に感じたのは、奇妙な違和感だった。
レミエールは何気なく顔を上げ、崩れた建物の奥へ視線を向けた。何かがいる。エーテリアスの気配とは違う、もっとはっきりした、覚えのある感覚だった。
「……?」
足を止める。ありえない。こんな場所で感じるはずのないものだ。
「レミエール?」
リンが端末から顔を上げた。
「どうしたの?」
「……ちょっと待って」
レミエールは片手を上げ、リンをその場に留まらせた。周囲は静かだった。風に似たエーテルの流れが廃墟の隙間を抜け、遠くで金属の軋む音が聞こえる。目を凝らしても、建物の奥に動くものは見えない。けれど、確かに何かがいる。その気配を感じるたびに、記憶の奥にある懐かしい姿が浮かびかける。レミエールはそれを振り払おうとした。そんなはずがない。あの人が、こんなところにいるはずがないのだから。
「……そんなはず」
言い終えるより早く、背後の瓦礫が音を立てた。レミエールは反射的に振り返り、光剣を抜いた。次の瞬間、鋭い刃が振り下ろされた。
「――っ!」
金属が激しくぶつかり合う。とっさに掲げた光剣が斬撃を受け止め、凄まじい衝撃が腕を伝ってきた。足元の地面が砕け、レミエールはリンを巻き込まないよう、相手の力を横へ逃がしながら距離を取った。
「レミエール!」
「下がって、リンちゃん!」
叫びながら二本目の光剣を引き抜く。リンもすぐに反応した。
「ピュロイス!」
呼びかけに応じ、リンの傍らにエーテル特異体が姿を現す。ピュロイスは二人の前へ出て追撃に備えたが、相手はそれ以上踏み込んでこなかった。ただ、崩れた壁の向こうからゆっくりと姿を現し、こちらを見つめている。
その顔を見た瞬間、レミエールの呼吸が止まった。
「…………ベリ?」
見間違えるはずがなかった。何度も隣を歩いた。何度も剣を交えた。くだらないことで言い合って、最後にはいつも笑っていた。百年前の記憶に残る、あの姿。
そこに立っていたのは、ベリオラ・ヴァイクだった。
「……え?」
少し離れた場所で、リンも息を呑んだ。彼女も知っているはずだ。レミエールの記憶を見た時、そこにはベリオラの姿もあったのだから。けれど、ここにいるはずがない。ベリオラは百年前に結使となった。そして、その最期を看取ったのは、ほかでもないレミエール自身だった。
「……ベリ、なの?」
問いかけても返事はなく、目の前の人物はただ静かに剣を構えていた。レミエールの知っているベリオラなら、こんな時に黙っているはずがなかった。
「……違う」
思わず、声が漏れた。ベリは死んだ。あの日、自分の目で最期を見届けた。剣を振るったのも自分だ。だから、目の前にいるのは別の何かだ。そう考えているのに、その立ち姿も、剣を持つ手も、見慣れたものとあまりにもよく似ていた。
「レミエール、離れて!」
リンの声が響いた。我に返った時には、再び刃が迫っていた。レミエールは光剣を交差させて受け止める。先ほどよりも重い衝撃が走り、踏ん張った足が地面を滑った。
「ピュロイス、お願い!」
リンの指示で、ピュロイスが相手の側面へ回り込んだ。鋭い攻撃が放たれ、レミエールへ向けられていた刃がそちらへ動く。レミエールはその隙にタウミエルの翼を広げ、地面から身を浮かせた。二本の光剣を構えたまま相手の側面へ回り込むが、相手はすぐにピュロイスの攻撃を受け流し、再びこちらへ迫ってきた。
「くっ……!」
間髪入れずに次の攻撃が来る。一撃、二撃。受け止めるたびに、腕が痺れた。この速さも、間合いの詰め方も、知っている。誰よりも近くで、その剣を見てきたのだから。
レミエールは歯を食いしばり、強引に相手の剣を弾いた。
「……どうして、ベリの姿をしてるの……?」
答えは返ってこなかった。
◇
「Fairy!目の前の相手、何か分からない!?」
リンはピュロイスに攻撃を続けさせながら、端末に向かって叫んだ。
『対象を解析中。高いエーテル反応を検出しましたが、既存の観測データとの照合が完了していません』
「だったら、先に退路を調べて!このままじゃ危ない!」
『了解しました。周辺経路の再演算を開始します』
ピュロイスが相手の攻撃を受け止めたところへ、レミエールの光剣が振り下ろされる。相手はその刃を逸らし、ピュロイスの追撃もかわしてみせた。リンは唇を噛んだ。普段なら、あれほど激しい攻撃を受けても、レミエールが一方的に追い詰められることは少ない。リンはこれまで何度もレミエールの戦いを見てきた。虚狩りとしての彼女の実力を、疑ったことなどない。だが、今は明らかに様子がおかしかった。相手の攻撃には反応できているし、ピュロイスとの連携で反撃する機会も作れている。それなのに、レミエールが攻撃へ移るたび、ほんのわずかに動きが止まってしまう。
「レミエール!そいつ、ヴァイク大佐じゃないんでしょ!?」
「……分かってる!分かってるよ、そんなこと……!」
返事はあった。レミエールは目の前の相手を見据え、光剣を握り直した。リンには、彼女も相手がベリオラ本人ではないと理解しているように見えた。
リンは端末に表示された周辺図を確認した。近くにはオービットレールへ繋がる経路もあったが、相手を振り切ってそこまで辿り着けるかは分からない。少し先に、まだ作動可能な隔壁がある。古い設備ではあるが、Fairyなら遠隔操作できるかもしれなかった。
「Fairy、あの隔壁を動かせる?」
『制御系統への接続を試みます。作動まで時間が必要です』
「お願い。できたらすぐ教えて!」
リンはピュロイスへ意識を向けた。
「レミエール!あっちの通路まで引こう!ピュロイスと私で援護するから、隔壁が閉まるまで何とか距離を取って!」
その声が届いたのか、レミエールが一瞬こちらを見る。
「……分かった。リンちゃん、先に行って!」
レミエールは光剣を大きく振り、相手との間に光の軌跡を描いた。ピュロイスも追撃を牽制しながら後退し、その隙にリンが通路へ向かう。だが、追ってきた相手は、レミエールの攻撃を正面から受け流していた。
「……っ!」
その動きに、レミエールは目を見開いた。何かを思い出したように、構えていた光剣がわずかに下がる。
「……ベリ」
思わず名前を呼んだ瞬間、相手の剣が向きを変えた。
「レミエール!!」
リンの叫び声で、レミエールは我に返った。目の前に刃が迫っていた。慌ててタウミエルを動かし、宙に浮いた身体を横へ滑らせる。それでも避けきれず、頬のすぐ横を剣が通り過ぎ、淡い桃色の髪がひと房、宙を舞った。
「……っ、危な」
『隔壁の制御権を取得しました!』
Fairyの声が響く。
「今!レミエール、こっち!」
リンが叫び、レミエールは後方へ飛び退いた。重い音とともに隔壁が動き始める。ピュロイスが追撃を阻む間に二人が通路へ飛び込むと、背後で巨大な金属板が落ちてきた。
「……よし!」
リンが声を上げた、その直後だった。隔壁の向こうから、鈍い衝撃音が響いた。一度目で金属が大きく歪み、二度目には中央から裂け目が走る。三度目の斬撃が振り抜かれると、隔壁は耐えきれずに砕け散った。
「……嘘でしょ」
舞い上がる粉塵の向こうから、ベリオラの姿をした何者かが歩いてくる。その歩き方に焦りはなかった。まるで、最初から逃がすつもりなどないかのように。
◇
「……リンちゃん、もう少し下がって」
レミエールは光剣を構え直した。何とか声を落ち着かせようとしたが、自分でも分かるほど呼吸が乱れていた。目の前にいるものが何なのか、理解できない。ただ一つ、確かなことがある。あれはベリではない。ベリはもういない。たとえ姿が同じでも、あの人が百年後のスカモールホロウで、何も言わずに自分たちへ襲いかかってくるはずがなかった。
そう頭では分かっているのに、剣を交えるたびに記憶が揺さぶられる。相手の剣を受け止めた時に伝わる重さも、次の一撃へ移る速さも、あの日まで一緒に戦っていた彼女のものだった。
「……ベリ」
呼びかけてみても、相手は答えない。そのまま、一歩踏み込んできた。レミエールは斬撃を受け流し、光剣を横へ振るった。相手の腕を狙った一撃だったが、剣が届く寸前で手首が止まってしまう。この顔を斬っていいのか。目の前にいるのが別の何かだとしても、どうしても、あの日の記憶が重なってしまう。次の瞬間、相手の剣がレミエールの脇腹を掠めた。
「……くっ!」
痛みが走る。リンがすぐにピュロイスを前へ出し、相手へ攻撃を仕掛けた。レミエールもタウミエルを動かして上方へ逃れようとするが、相手はピュロイスを退けると、着地しようとした彼女へ迫ってくる。レミエールは二本の光剣を使い、どうにかその攻撃を凌いだ。
百年前にも、こんなふうに剣を交えたことがあった。ただし、あの時は稽古ではなかった。ベリオラが結使になった、あの日。もう元には戻れないと分かっていても、最後まで諦めたくなかった。何度も名前を呼んだ。どこかに昔の彼女が残っていると信じたかった。それでも、最後には自分の手で終わらせるしかなかった。剣を振り下ろした時の感触を、今でも覚えている。
『ごめんね、ベリ……』
あの時、何度も謝った。もっと早く気づいていれば。何か違う方法を選べていれば。もしかしたら、彼女は今も隣にいてくれたのではないか。
「……レミエール!」
リンの声が聞こえた。いつの間にか、相手はすぐ目の前まで迫っていた。レミエールは反射的に光剣を交差させたが、受け止めた刃を押し返すだけの力が入らない。そのまま押し込まれ、片膝が地面についた。
「ぐっ……!」
刃が近づいてくる。相手の顔も、すぐ目の前にあった。見慣れた顔だった。けれど、そこには昔のような表情がない。
「……ねえ」
レミエールの声が震えた。
「何か言ってよ、ベリ……」
返事はない。
「あの時みたいに、私のこと叱ってよ。ちゃんと話を聞きなさいって……そう言ってくれればいいから」
言い終えてから、そんな願いが叶うはずもないことに気づいた。目の前の相手は、レミエールを見下ろしたまま、さらに力を込めてくる。光剣が軋む。ベリだったら、こんなふうに黙ったまま剣を押しつけたりしない。そんなことまで分かっているのに、自分は今、誰に話しかけているのだろう。もう一度、この顔を斬らなければならないのか。それを考えただけで、あの日の光景が頭を離れなくなった。
「レミエール、しっかりして!ピュロイス!」
リンの声に応じ、ピュロイスが横合いから割り込んだ。放たれた一撃を受け、相手の剣がレミエールから離れる。ピュロイスは間髪入れずに追撃したが、相手はそれを受け止めて距離を取った。ほんの一瞬できた隙に、レミエールはどうにか立ち上がる。
「リンちゃん……!」
「今のうちに逃げよう!ピュロイスがいるうちに、少しでも距離を取らないと!」
リンはレミエールの腕を掴み、無理やり走り出した。その手は小さく震えていた。怖いはずだ。目の前には、レミエールとピュロイスの二人がかりでも押し切れない相手がいる。ホロウの中でこんなものに遭遇してしまったら、普通なら逃げることしか考えられない。それなのに、リンは逃げずに戻ってきた。自分を助けるために。
「……ごめん、リンちゃん」
「謝るのはあと!今はこっち!」
リンに引っ張られ、レミエールは走り出した。だが、数歩進んだところで背後から強い衝撃が伝わってきた。振り返ると、ピュロイスの攻撃を退けた相手が、再び剣を構えていた。逃げ切れない。このままではリンまで巻き込んでしまう。
「……リンちゃん、先に行って」
「何言ってるの!?一緒に帰るんでしょ!」
「うん。分かってる。だから、ちょっとだけ時間を稼ぐよ」
レミエールはリンの腕からそっと手を離し、再び相手へ向き直った。今度こそ、本気で戦わなければならない。ベリではないのだから、迷う必要なんてない。そう思おうとするたび、目の前の顔が、百年前の記憶を連れてくる。
◇
『H\.D\.D\.との通信リンクを確立。助手二号へ緊急事態を通知しました』
Fairyの声が端末から響いた。リンは何度も画面を確認したが、まだ返事はない。
「お願い、早く……!」
周囲の空間は徐々に不安定になっていた。激しい戦闘の影響なのか、観測装置が次々と異常を示している。端末に表示される経路も、少し前とは大きく変わっていた。リンはピュロイスを通じて、近くのオービットレールに繋がる道を探った。そこまで辿り着ければ、ピュロイスの力でこの場から離れられるかもしれない。以前もオービットレールを利用して、危険な場所から高速で移動することができた。
だが、今は相手がこちらを追い詰め続けている。経路を探ろうとしても、そのたびにピュロイスを戦闘へ戻さなければならなかった。何より、レミエールが相手から離れられないままでは、リンだけが逃げても意味がない。アキラに連絡は届いた。けれど、それで今の状況が変わるわけではない。まずはレミエールを連れて、この場から逃げなければならなかった。
「レミエール、こっちに来て!オービットレールまで行ければ、ピュロイスの力で逃げられるかもしれない!」
リンが呼びかける。レミエールも応えようとした。しかし、目の前の相手が一歩踏み込むと、身体が反射的に剣を構えてしまう。ピュロイスが横から攻撃を仕掛け、レミエールもそれに合わせて光剣を振るった。タウミエルを動かして身を浮かせ、相手の頭上を越えようともしたが、剣を向けられた瞬間、反撃をためらって動きが鈍る。白い光とエーテルの輝きが交差する。それでも、相手は攻撃を受け流し、少しずつ距離を詰めてきた。
リンにも分かった。レミエールは、明らかにいつもの力を出せていない。ピュロイスが隙を作っても、その先が繋がらない。
「レミエール!あんた、今のままじゃ……!」
言葉を続けようとした時、激しい音が響いた。レミエールの光剣が弾かれた。一本が地面を滑り、離れた場所へ転がっていく。ピュロイスが追撃を止めようとしたが、相手はその攻撃をかわしてレミエールへ踏み込んだ。残った一本で斬撃を受け止めようとするものの、すでに体勢が崩れていた。次の一撃がレミエールの肩を捉え、その身体が地面へ叩きつけられる。
「レミエール!!」
リンはピュロイスを向かわせながら、自分も駆け寄ろうとした。しかし、レミエールがこちらへ顔を向け、必死に首を振った。
「来ないで……リンちゃん!」
その声に、リンは足を止めた。ピュロイスが相手の前へ割り込もうとするが、レミエールとの間に入る前に剣で退けられてしまう。立ち上がろうとするレミエールの前で、相手がゆっくりと剣を持ち上げた。何度も戦う姿を見てきたはずのレミエールが、今はあまりにも頼りなく見えた。
◇
レミエールは地面に片手をつき、どうにか身体を起こした。肩が痛む。息を吸うだけでも、脇腹に鈍い痛みが走った。手元には、一本だけ残った光剣がある。まだ戦える。身体は動く。相手の攻撃だって、すべてを見切れないわけではない。それなのに、もう一度あの顔を見てしまうと、身体が思うように動いてくれなかった。
目の前にいるのは、ベリオラの姿をした何者かだ。百年前、自分が手にかけた親友は、もうここにはいない。それくらい、誰よりも自分が知っている。
「……そっか」
小さな声が漏れた。どうして、よりによってあの人の姿で現れたのか。その答えは分からない。けれど、不意に思ってしまった。もしかしたら、これは罰なのかもしれない。
あの日、ベリオラを救えなかったこと。自分だけが百年もの時間を生き延び、何もかも変わってしまった世界で、今もこうして息をしていること。そして、つい最近、ほんの少しだけ、この時代に生きてもいいのかもしれないと思ってしまったこと。
アステルがいた。リンちゃんもいた。昔のことを知っている人も、今の自分を受け入れてくれる人もいた。百年前には戻れなくても、この時代で新しい思い出を作っていけるのかもしれない。そんなことを考えるようになっていた。アステルと次の食事の約束をして、リンちゃんと笑い合って、また明日も会えるのだと思って。いつの間にか、明日が来ることを楽しみにしていた。
「……ごめんね、ベリ」
目の前の相手へ、レミエールは小さく呟いた。
「キミのこと、忘れたわけじゃないんだよ……」
返事はなかった。相手は、ゆっくりと剣を構え直す。本当は分かっている。ベリが自分を責めに来たわけではない。あの人が、そんなことを望むはずもない。それでも、あの顔を前にすると、あの日の後悔が一斉に押し寄せてくる。自分だけが、あの頃のことを思い出にして、新しい毎日を楽しもうとしていたから。心のどこかで、もう許されてもいいのではないかと思ってしまったから。だから今、こんなにも苦しいのだろうか。
どれほど似ていてもベリではないと分かっているのに、剣を向ける先にあの人の顔があるだけで、足がすくんでしまう。相手が一歩近づいてくる。レミエールは光剣を握り直そうとしたが、指先に力が入らない。最後に剣を交えたあの日の記憶が、また蘇ってきた。もう一度、同じ顔に剣を振り下ろさなければならないのだろうか。
「……ベリ」
目の前で、剣が振り上げられる。レミエールは、静かに目を閉じた。あの人の顔に、もう一度剣を向けるくらいなら。ここで終わっても、いいのかもしれない。
「レミエール!!」
リンちゃんの声が、遠くから聞こえた。ピュロイスが再びこちらへ向かってくる気配もあった。ごめんね。せっかく、あんなに頑張ってくれたのに。アステルにも、まだ約束が残っていたのに。そんなことを考えた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。けれど、もう身体は動かなかった。迫ってくる刃の気配を感じながら、レミエールはただ、目を閉じていた。
――ガキィンッ!!
耳をつんざくような金属音が響いた。身構えていた衝撃は、いつまで経っても訪れなかった。代わりに、すぐ目の前で誰かが地面を踏みしめる音がした。
「……え?」
レミエールは、恐る恐る目を開いた。目の前に、誰かが立っていた。見慣れた背中だった。片手には刀を握り、振り下ろされた刃を真正面から受け止めている。その姿を見た瞬間、レミエールは声を失った。どうして、ここに。今日は仕事があるって言っていたのに。そんな疑問が頭を駆け巡るより早く、男が口を開いた。
「……ったく」
アステルは刀を握り直し、目の前の相手を見据えた。それから、いつもの軽い調子で言った。
「こんなところで同窓会か?俺、呼ばれてないんだけど」