「キミは、何者なの?」
その問いかけに、アステルは足を止めた。
レミエールの声は静かだった。いつものように軽口を返せる雰囲気ではないことくらい、アステルにも分かる。彼女の手はまだ自分の腕に添えられていて、離そうとする様子もなかった。
「……何者って、また難しいこと聞くな」
「ごまかさないでよ。私、ちゃんと聞いてるんだから」
レミエールが顔を上げた。怒っているようには見えなかった。ただ、その表情には、いつになく真剣な色が浮かんでいた。
「さっき、キミが倒れた時……私、本当に死んじゃったと思ったんだよ」
「……ああ」
「それなのに、キミは起き上がって、あんな怪我まで全部治っちゃって……ねえ、アステル。あれ、どういうことなの?」
アステルは返事に困り、破れた胸元へ視線を落とした。ベリオラの姿をした相手に貫かれた場所には、もう傷一つ残っていない。肩や手首も元どおりで、身体には十分な力が残っている。だが、上着には大きな穴が開き、乾きかけた血が布地にこびりついていた。いくら身体が治ったところで、何が起きたのかまでなかったことにはできない。
「……悪い。俺にもよく分からないんだ」
「……え?」
「説明してくれって言われても無理なんだよ。俺自身、どういう仕組みでこんなことが起きてるのか知らないんだ」
レミエールは何も言わなかった。アステルは胸元に手を当てる。服の下では、いつもどおり心臓が脈打っていた。
「ただ、普通の身体じゃないことくらいは分かってる。さっきもそうだったけど、死ぬような怪我をすると、勝手に身体が治るんだ。自分でやろうと思ってできるわけじゃないし、普通の怪我じゃ何も起きない。だから、戦ってる間は肩も手首もやられたままだっただろ?」
レミエールが小さく頷いた。
「でも、胸を刺されたあと……」
「全部治った。前から負ってた怪我もまとめてな。正直、仕組みはさっぱりだよ」
アステルは苦笑したが、レミエールは笑い返さなかった。彼女の視線は、今も血の跡が残るアステルの胸元に向けられていた。
「……じゃあ、百年前も?」
その言葉に、アステルの笑みが薄れた。レミエールは彼の顔を見つめたまま、続ける。
「キミのお葬式があったんだよ。遺体は見つからなかったけど、ちゃんと亡くなったって聞かされて……私たち、ずっとそう思ってた」
「ああ。そこは間違ってない。少なくとも、あの時に俺が死んだのは本当だと思う。そこからどうして今こうして生きてるのかは、俺にも説明できないけどな」
アステルは少しだけ目を伏せた。百年前の任務で、確かに自分の命は尽きたはずだった。けれど、そのあと何が起きたのか、すべてを覚えているわけではない。目を覚ました時には、世界そのものが変わっていた。
「……俺だって、最初は何が何だか分からなかったよ」
レミエールは彼の胸元を見つめ、なかなか言葉を返さなかった。アステルが顔を上げても、その視線は血に染まった服から動かない。百年前の死についても今日の修復についても、本人がまともに説明できないのだから、戸惑わせるのも当然だった。
「でも……あの金色の光は?」
レミエールの視線が、アステルの首筋へ移った。つい先ほどまで、そこには金色の細い筋が浮かんでいた。けれど、話している間に少しずつ薄れていたらしく、破れた襟元から覗く肌には、もうその痕跡が見当たらない。
「あれも、修復すると出るの?」
「……ああ。傷が治るときに出るんだ」
アステルは首元へ手をやった。
「でも、いつの間にか消えるんだよ。今もたぶん、もう消えてるだろ?」
レミエールは少しだけ近づき、彼の首筋を確かめた。確かに、金色の筋は跡形もなく消えている。肌の色も普段と変わらず、何かが残っているようには見えなかった。
「……本当だ」
「だろ?あの筋自体は痛くも痒くもないし、身体も普通に動く。ただ、修復したあとに残る妙な感覚も含めて、何が起きてるのかは分からないままでさ」
初めて金色の筋が現れた時も、アステルは驚いた。金色の筋はしばらくすると消えてしまう。それでも、修復のたびに身体の奥へ残る妙な違和感については、今も理由が分からないままだった。
レミエールは何も残っていない首筋を見つめたまま、しばらく黙っていた。何か気になることがあるのか、アステルが声をかける前に、彼女は顔を上げた。
「……ねえ、アステル。ひとつ気になることがあるんだけど」
「ん?」
「キミの傷が治った時ね、ほんの一瞬だけ、業核に似た反応を感じたんだ」
アステルは首を傾げ、続きを待った。
「本当に一瞬だけだったし、私が知ってるものとは少し違う感じもしたんだよね。今はもう何も感じないし……だから、キミの心臓が業核だって決まったわけじゃないよ。ただ、何か関係があるのかもしれないなって」
「……なるほどな」
アステルは自分の胸へ手を当てた。レミエールが何かを感じ取ったのは意外だった。自分の心臓が普通ではないことは分かっている。けれど、何が起きたのかも、そこに業核が関わっているのかも、アステルには分からなかった。
「……それでね、前にベリが結使になった話をしたでしょ?」
「ああ。覚えてるよ」
「業核の力には代償があるんだ。私も昔の実験で業核と融合しちゃって、今も結使化が進んでるの。虚狩る戎具を使うと、それがもっと速くなっちゃうんだ」
レミエールは一度言葉を切り、血の跡が残る彼の胸元へ目をやった。
「キミの場合も、業核に似た何かが身体を治しているんだとしたら、同じような負荷がかかっている可能性はあると思う。さっきの金色の筋も、もしかしたら……」
「……結使化、か?」
レミエールは小さく頷いた。
「うん。でも、まだ分からないよ。キミに起きてることは、私が知ってる業核の力とも違うみたいだから。あんなふうに身体が全部治るなんて、見たことないしね」
アステルは首筋に触れた。胸の傷は完全に治り、金色の筋も消えている。けれど、一度現れたものが身体に何を残したのかまでは、本人にも分からなかった。
「……そっか。副作用があるかもしれないってことか。傷が治るのはありがたいけど、修復したあとに残る妙な感覚も、あの金色の筋も前から気になってたんだよな」
アステルは困ったように笑った。
「でも、結使と関係があるかもしれないなんて考えもしなかった。教えてくれてありがとな」
「……お礼を言うような話じゃないよ」
レミエールの声が、少しだけ強くなった。
「もし本当に結使化が進んでるんだったら、キミだっていつか……」
そこで言葉が途切れた。アステルは、彼女が何を言おうとしているのか察した。
「……そうだな。気をつけるよ」
「……気をつけるって、どうやって?」
「……それが分かれば苦労しないんだけどな」
アステルは苦笑した。自分の意思で修復を起こせるわけではない。かといって、致命傷を負うような状況を避ければいいというだけの話でもなさそうだった。レミエールは何か言いたげに彼を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
◇
「……二人とも、こんなところで何してるの?」
少し離れた場所から、リンの声が聞こえた。振り向くと、端末を手にしたリンがこちらへ歩いてきていた。その後ろにはピュロイスもいる。周囲の確認を終えたらしく、端末の画面にはFairyがまとめた観測結果が表示されていた。
「もう安全みたいだから、そろそろ戻ろうと思ったんだけど……」
リンは二人の顔を交互に見た。
「……もしかして、さっきの話?」
「うん。アステルに聞いてたところ」
レミエールが答えると、リンはすぐにアステルへ視線を向けた。
「私も聞いていい?さっきの、どう考えても普通じゃなかったよ」
「……だよなあ」
アステルは頭を掻いた。
「ただ、俺も詳しいことは分からないんだよ。何で身体が治るのかも、百年前に何があったのかも、ちゃんとは説明できない」
「……本人なのに?」
「本人だからって何でも知ってるわけじゃないだろ」
それはそうかもしれない。リンは納得しかけたものの、すぐに首を振った。
「でも、何か手がかりくらいはないの?ずっとそのままってわけにもいかないでしょ?」
「手がかり、か……」
アステルは少し考え込んだ。自分の心臓に何が起きたのか。どうして百年前に死んだはずの自分が、今も生きているのか。知りたいと思ったことは、もちろんある。だが、いくら自分の身体を調べたところで、分からないものは分からなかった。ただ、一人だけ。あの人なら、何か知っているかもしれない。
「……そうだな。俺の
「…………」
「…………」
二人から、返事がなかった。アステルは顔を上げた。レミエールもリンも、揃ってこちらを見つめている。
「……ん?どうした?」
先に動いたのはリンだった。
「……ちょっと待って。今、何て言った?」
「何か知ってるかもって」
「そこじゃない!」
思わず大きな声が出た。リンは一度息を吸い、アステルの顔をまじまじと見つめる。
「……義母さんって、言った?」
「ああ」
「……ミス・サンブリンガー?」
「そうだけど」
リンは口を開いたまま固まった。その隣で、レミエールも同じような顔をしている。
「……アステル」
ようやく声を出したのは、レミエールだった。
「キミ、今……サンブリンガーが義母さんだって言ったの?」
「……あれ?俺、言ってなかったっけ?」
「聞いてないよ!?」
今度はレミエールとリンの声が重なった。アステルは思わず肩をすくめる。
「……そっか。言ってなかったか」
「そっか、じゃないでしょ!」
リンが思わず詰め寄った。
「サンブリンガー様だよ!?あの初代虚狩りのミス・サンブリンガーが、アステルのお母さんってこと!?」
「ああ。血は繋がってないけどな。俺、孤児だったんだよ。あの人が引き取ってくれてさ」
あまりにも普通の調子で説明され、リンは返す言葉を失った。レミエールも、アステルの顔を見つめたまま動かない。
百年前、彼がサンブリンガーの研究所へ出入りしていたことは知っている。研究が終わるのを廊下で待たされていたこともあれば、勝手に研究室へ入り込んで叱られていたこともあった。あの頃は、ずいぶん親しいのだと思っていた。だが、まさか家族だったとは。
「……待ってよ」
レミエールはようやく口を開いた。
「じゃあ、キミが子午館でよく待ってた相手って……」
「義母さんだよ。あの人、研究始めると長いんだよな。待ってろって言われても、いつ終わるか分かんねえし」
「……だから、いつも勝手に研究室に入ってたの?」
「いや、あれは単純に暇だったからだけど」
レミエールは思わず額に手を当てた。記憶の中で、サンブリンガーに叱られているアステルの姿が浮かぶ。あの人はいつも落ち着いていて、研究中に騒がれるのを嫌っていた。けれど、アステルが勝手に研究室へ入り込んでも、ひとしきり注意したあとは結局そのままにしていた。今なら、少しだけ納得できる気がした。
「……どおりで。サンブリンガーがキミにあんなに厳しかった理由、ようやく分かったよ。研究のことで私たちが注意される時とは、何だか雰囲気が違ったもんね」
アステルは少し考えたあと、苦笑した。
「……まあ、家に帰ってからも怒られることはあったな」
「ふふ。やっぱり」
レミエールは小さく笑った。研究室で叱られていたアステルと、それを見守っていたサンブリンガー。あの時はただ不思議に思っていた二人の距離が、今なら少し違って見える。
「……何で今まで教えてくれなかったの?」
レミエールが尋ねると、アステルは首を傾げた。
「別にお前らを信用してなかったわけじゃないぞ。みんなあの人のこと、ミス・サンブリンガーって呼んでただろ?俺も人前じゃそう呼んでたし」
「……それは、そうだけど。普通、一言くらいあるでしょ」
「それに、俺があの人の息子だって知られると、色々面倒なんだよ。軍にいた頃だって、義母さんのコネで入ったんじゃないかとか、特別扱いされてるんじゃないかとか、余計なことを勘ぐる奴もいるだろ?」
アステルは少し困ったように笑った。
「俺が何かするたびに義母さんの名前が出るのも嫌だったし、あの人にまで迷惑かけたくなかったんだ。だから、必要もないのに自分から言いふらすことはしなかったってわけ」
レミエールは彼の顔を見つめた。確かに、初代虚狩りの息子だと知られれば、本人の実力とは関係のない噂が立つこともあるだろう。
「……そういう事情があったんだね」
「ああ。まあ、単にわざわざ家族の話をする機会もなかったんだけどな」
そう言われてしまうと、確かにそうかもしれない。けれど、レミエールとしては納得しきれなかった。百年前から知っている相手だった。何度も一緒に食事をして、剣の稽古までして、それなりに長い時間を共に過ごしていた。それなのに、こんな大きなことを知らなかった。
「……キミって、ほんとに……」
レミエールはため息をついた。アステルは困ったように笑うばかりだった。
「……そういえば、サンブリンガー様なら何か知ってるって言ってたけど」
リンが口を開いた。
「それ、どういうこと?」
「ああ。それなんだけどさ」
アステルは胸元に手を当てた。
「俺が目を覚ました時、義母さんからの手紙が残されてたんだよ。そこに、俺の心臓をどうにかしてくれたらしいことが書いてあったんだ。詳しいことまでは書かれてなかったけどな」
レミエールの表情が変わったのを見て、アステルは続けた。
「だから、今の身体のことも、義母さんが心臓に何かしてくれたのと関係があるんじゃないかと思ってる」
アステルは少しだけ目を伏せた。あの手紙を見つけた時のことは、今でも覚えている。何が起きたのか分からないまま目を覚まし、見慣れた筆跡を見つけた。そこに書かれていたことを何度読み返しても、肝心の仕組みまでは理解できなかった。けれど、義母が自分のために何かをしてくれたことだけは分かった。
「……ただ、俺も手紙に書いてあった以上のことは知らないんだ。心臓に何が起きたのかも、どうして身体が治るのかも、結局分からないままでさ」
「……そうだったんだ」
レミエールは静かに答え、何かを考え込むようにアステルの胸元へ目を落とした。百年前のサンブリンガーが業核について研究していたことは、レミエールも知っているはずだった。だが、彼女が何を考えているのかまでは、アステルにも分からなかった。
◇
リンはまだ驚きから立ち直れずにいた。アステルとサンブリンガー。言われてみれば、思い当たることがないわけではない。ロスカリファへ来てから何度か見た、三人のサンブリンガーとアステルの距離感。初めて会ったはずなのに、妙に親しげだったこと。今まではアステルの人懐っこさのせいだと思っていた。けれど、もしかすると。
「……ねえ、アステル。じゃあ、ドラキナ様たちは?」
その質問に、アステルは少しだけ考え込んだ。
「あいつらは……どうなんだろうな。俺の義母さんだったのは、百年前のサンブリンガーだよ。今の三人とは、ちゃんと別の相手として付き合ってるつもりだ」
アステルはそう答え、遠くへ視線を向けた。彼女たちがアステルの過去をどこまで知っているのかは、リンにも分からなかった。
「……だから、あいつらが何を知ってるかは分からないんだよな」
「……そうなんだ」
リンは小さく頷いた。今まで何となく見過ごしていた三人とアステルの関係が、急に気になり始めていた。
「でも、初代サンブリンガー様なら、アステルの身体のことも知ってるかもしれないんだよね?」
「ああ。俺よりずっと詳しいのは間違いないと思う。この身体のことも、百年前に何が起きたのかも……あの人なら、何か知ってたんじゃないかな」
アステルは自分の胸元へ目を向けた。
「……じゃあ、今の三人に聞いてみる?」
リンの提案に、アステルはすぐには答えなかった。視線を落とし、しばらく考え込んでいる。リンも、その返事を急かさずに待った。
「……まあ、機会があったら聞いてみるよ」
リンが眉をひそめた。
「もっと早く聞いた方がいいんじゃない?自分の身体のことなんだよ?」
「分かってるって。ただ、あいつらにも事情があるだろ。俺の都合で無理に聞き出すわけにもいかないしさ」
そう言われると、リンもそれ以上は強く言えなかった。けれど、今日の出来事を思い返すと、簡単に引き下がる気にもなれない。胸を貫かれても身体が治る。そんなことが、本当に何の問題もなく起きているとは思えなかった。
「……それなら、せめて一人で抱え込まないでよ。レミエールだって心配してるし、私も……さっき、すごく怖かったんだから」
アステルは少し意外そうな顔をしたが、何も言わなかった。リンは視線を逸らさずに続ける。
「全部説明できなくてもいいよ。でも、分からないことがあるなら、私たちにもちゃんと教えて。何も知らないままあんなことになる方が、ずっと嫌だから」
レミエールも隣で頷いた。
「……うん。リンちゃんの言うとおりだよ」
アステルは二人を見比べ、しばらく返す言葉を探した。百年前のことも、今の身体のことも、これまではあまり話してこなかった。やがて小さく息を吐き、二人に向き直った。
「……分かった。今度からはちゃんと話すよ」
「今度から、じゃなくて今からでもいいんだけど?」
リンがすかさず言う。
「いや、まずはここから出ようぜ。レミエールの怪我だって診てもらわないと」
「あ……」
リンはそこでようやく思い出したようにレミエールを見た。本人はさっきから平気そうにしているが、脇腹にはまだ傷が残っている。
「そうだった!レミエール、歩ける?」
「うん、大丈夫だよ。これくらいなら……」
「さっきも聞いたけど、無理するなよ」
アステルが言うと、レミエールは少しだけ目を細めた。
「……キミに言われたくないんだけどなあ」
「それはそうかもしれない」
あっさり認められ、リンは思わず笑ってしまった。緊張していた肩から、少しだけ力が抜ける。それでも、先ほどアステルの首筋に浮かんでいた金色の筋を思い出すと、まだ安心することはできなかった。
◇
帰り道、レミエールはアステルの隣を歩いていた。脇腹の傷は動くたびに少し痛んだが、歩けないほどではない。リンは先ほどからFairyと観測データについて話していて、ピュロイスもその近くを歩いている。
アステルはいつもどおりだった。レミエールが歩く速度を落とせば、それに合わせて足を緩める。段差があれば先に気づいて、さりげなく腕を支えてくれる。百年前と同じだ。けれど、今日一日で、知らなかったことがあまりにも増えてしまった。
「……ねえ、アステル」
「ん?」
「サンブリンガーのこと、もう少し聞いてもいい?」
アステルは少し意外そうに彼女を見た。
「別にいいけど。何が聞きたいんだ?」
「……どんな人だったの?」
その質問に、アステルは目を瞬いた。
「お前の方がよく知ってるんじゃないか?一緒に研究してたんだろ?」
「そうだけど……私が知ってるのは、研究者としてのサンブリンガーだもん。キミにとって、どんなお母さんだったのかなって」
アステルはすぐには答えず、しばらく考え込んだ。何から話そうか迷っているのか、口元に指を当てている。
「……そうだなあ」
アステルは小さく笑った。
「結構厳しかったよ。特に研究の邪魔するとすぐ怒られたし、危ないことには絶対近づけてくれなかった」
「……あの人らしいね」
「だろ?でも、何だかんだ面倒は見てくれたんだよ。あの人がいなかったら、俺もどうなってたか分かんないしな」
レミエールはアステルの横顔を見つめた。その表情は、どこか懐かしそうだった。百年前のサンブリンガー。レミエールにとっては、尊敬する先輩であり、共に人類の未来を夢見た仲間だった。けれど、その夢の果てに何が起きたのかも、忘れてはいない。ベリを失った日のことも、逐日計画のことも。あの人への思いは、今でも簡単には整理できなかった。それでも、アステルが語る彼女の姿は、レミエールの知っているものとは少し違っていた。
「……そっか。キミにとっては、本当にお母さんだったんだね」
「そりゃそうだろ。血が繋がってなくても、俺を育ててくれた人なんだから」
あまりにも自然な返事だった。レミエールはしばらく何も言わず、隣を歩いた。
「……じゃあさ、今度ゆっくり聞かせてよ」
「何を?」
「キミの子供の頃の話。私の知らない、キミとサンブリンガーのこと」
アステルは少しだけ驚いた顔をした。それから、いつものように笑った。
「ああ、いいよ。くだらない話ばっかりだと思うけどな」
「ふふ。それが聞きたいんだよ」
レミエールも小さく笑った。聞きたいことは、まだ山ほどある。心臓の秘密も、金色の光も、百年前に何が起きたのかも、何一つ分かっていない。けれど、それとは別に、今まで知らなかったアステルのことをもっと知りたいと思った。百年前に一緒に過ごした時間が、どれほど大切だったとしても。今の彼には、まだ自分の知らない人生がある。
「……ねえ、アステル」
「今度は何だよ?」
「キミのこと、まだまだ知らないことだらけみたいだね」
アステルは少しだけ首を傾げ、それから笑った。
「そりゃ、俺だってお前の知らないことはいっぱいあるだろ」
「……ふふ、そうだね。それならなおさら、ちゃんと聞かせてもらわないと」
レミエールは彼の腕に添えた手へ、少しだけ力を込めた。
その時、アステルがふと思い出したように口を開いた。
「ドラキナの件もあるしな。まずは歓迎会であいつを助け出さないと。落ち着いたら、色々聞いてみたいし」
「……うん。そうだね」
レミエールは頷いた。ドラキナたちの力を借りられるなら、アステルの身体のことを確かめるためにも心強い。
「でも、その前にキミがまた倒れちゃったら困るんだからね?」
「ああ。歓迎会の日まではしっかり休まないとな。お前も怪我を治すことに専念しろよ」
「ふふ。キミもね」
レミエールは笑ったが、アステルの腕から手を離そうとはしなかった。今度は、少しずつ知っていけばいい。百年前には聞けなかったことも、あの頃は話せなかったことも。今度こそ、そんな時間が続いてくれたらいい。レミエールは、隣を歩くアステルの横顔を見ながら、そう願っていた。