部屋に入ってきたレミエールは、いきなり冷蔵庫を開けた。
「……?キミの性格的に、冷蔵庫は何も入ってないか腐海になってると思ったんだけど、意外と綺麗なんだね?」
「まあ、一応百年生きてるしな……」
「へぇ~?あっ!これ、人気のスイーツだよね?食べていい?」
そう聞いたときには、もうレミエールは包みを開けていた。
「お前!それ!なかなか買えないやつなんだけど!!」
レミエールが口に放り込んだのは、ロスカリファで人気の洋菓子だ。
しかも、ただの洋菓子じゃない。
俺がノルムーのせいで半日並ばされた代物だ。
ちなみに、それを食べた本人の感想は――
「……ん?なんかそーでもねーのだ。アステル、あとはやるのだ。それより違うもん買ってくるのだ」
――とかいうものだった。
あれだけ並ばせておいて、この言い草である。
ちなみにヴェリナのお茶会に持っていったらかなり絶賛されたので、たぶんノルムーの舌がおかしい。
そんなことより!
何とか残りだけでも死守しようと振り返ったときには、もう遅かった。
レミエールは頬を膨らませながら、幸せそうに笑っている。
「おいし~!これ食べてみたかったんだ~!」
「…………」
俺は真っ白になって、その場に崩れ落ちた。
「俺のスイーツ……」
そんな俺のことなど気にも留めず、レミエールは次の場所へと移動していく。
棚。
机。
キッチン。
そして洗面所を覗き込んだところで、ぴたりと動きを止めた。
「……ねえ、アステル?」
「なんだよ……」
「なんで歯ブラシとコップが二つあるのかな?」
声の調子が、ほんの少しだけ変わった。
俺はどうにか床から立ち上がり、洗面所へ向かう。
「それ、ノルムーのやつだよ……」
コップを指差す。
「ほら。『ノルムーの!』って書いてあるだろ?」
「…………」
なぜかレミエールは黙った。
しばらくコップと歯ブラシを見つめたあと、ゆっくりと俺の方へ顔を向ける。
「……なんでノルムーさんの歯ブラシとコップがあるのかな?」
なんでって?
「ノルムーが泊まりに来るからだけど?」
「ふぅ~ん?」
レミエールの目が、すっと細くなった。
「アステル君は、ノルムーさんのことが大好きなんだね~?」
「いや?全然」
何言ってんだこいつ。
「たまに押しかけてきて、好き勝手暴れて帰っていくだけだよ。台風みたいなもん」
「…………」
なぜか、また黙った。
さっきから忙しいやつだな。
「……付き合ってないの?」
「勘弁してよ……あいつはそんなんじゃないよ……」
恋人とか、そういう相手としてノルムーを見たことなんて一度もない。
そもそも普段から人のことをパシリにして、好き勝手やって、たまに家まで占領していくようなやつだ。
そんな俺の答えを聞いた瞬間――
「……!そうなんだ!」
レミエールの表情がぱっと明るくなった。
「それなら大丈夫かな?」
「……?」
何が大丈夫なんだ?
というか、こいつまた急に元気になったな。
忙しいやつだ。
レミエールはそのまま俺の寝室へ入り、今度は棚を漁り始めた。
「おい、そこまで見るのかよ」
「いいじゃんいいじゃん。減るものじゃないんだし」
「俺のプライバシーが減ってんだよ」
そんな抗議も聞き流しながら棚の中を覗いていたレミエールだったが、不意にその手が止まった。
「……これ」
さっきまでの軽い声とは違う。
レミエールが棚の奥から、一本のブラシを取り出す。
「まだ持っててくれてたんだ……!」
翼の手入れに使うためのブラシ。
百年前、レミエールから貰ったものだった。
「お前から初めてもらった贈り物だったからな」
それに後から値段を調べたら、思ったより高かった。
捨てるのもなんか勿体なかったというのもある。
「……ふふ」
「なんだよ」
レミエールは答えず、嬉しそうにブラシを胸元へ抱き寄せた。
しばらくそうしていたかと思えば、何かを思いついたように顔を上げる。
「ねえ、アステル」
「ん?」
「……昔みたいに、翼をブラッシングしてくれない?」
「ブラッシング?」
久しぶりすぎて、一瞬何のことかと思った。
けれど手に持っているブラシを見て、すぐに思い出す。
「別にいいけど?」
「ほんと!?」
ぱっと顔を輝かせたレミエールは、そのまま俺のベッドへ向かった。
「私の翼に触っていいの、今のところキミとベリくらいなんだからね?」
「へえ」
「……反応薄くない?」
「昔から触ってたし」
「そうだけどさぁ……」
何が不満なのか。
レミエールは少しだけ頬を膨らませながら、ベッドの上にうつ伏せになる。
そのまま枕へ頬を寄せたところで、一瞬だけ動きが止まった。
「……どうした?」
「ううん。なんでもない」
そう答えたレミエールの声は、なぜか少しだけ柔らかかった。
「それより、早く早く」
「はいはい」
俺は懐かしいブラシを手に取る。
百年前は何度となくやったことだ。
とはいえ、最後にやってから百年近く経っている。
「久しぶりだから、下手くそでも文句言うなよ?」
「大丈夫だよ。キミ、昔もそう言いながら下手だったこと一度もないから」
「変なところで信用高いな……」
「ふふ。当然でしょ?」
そう言って、レミエールは俺に背中を預けた。
俺はブラシを手に取り、広げられた翼へゆっくりと通していく。
羽を傷めないように、絡まっているところは無理に引っ張らず、羽先から少しずつ。
百年ぶりでも、意外と手は覚えているらしい。
「……っ」
レミエールの肩が小さく揺れた。
「痛かったか?」
「違う違う。……ほんと、昔から上手だね?」
「そうか?お前以外にやったことないから分からないけど」
「……!」
なぜかレミエールが勢いよくこちらを振り返った。
「なんだよ」
「……ううん!なんでもない!」
そう言うなり、今度はすごく嬉しそうに枕へ顔を埋める。
……いや。
そこ俺の枕なんだけど。
人の枕に顔を埋めるのやめてほしい。
「ほら、動くな。やりづらい」
「はーい♪」
妙に機嫌のいい返事を聞き流しながら、俺は再び翼へブラシを通していく。
一度。
また一度。
最初こそ時々気持ちよさそうに翼を動かしていたレミエールも、次第に静かになっていった。
「レミエール?」
返事がない。
手を止めて顔を覗き込むと、枕に頬を埋めたまま目を閉じている。
やがて聞こえてきたのは、規則正しい小さな寝息だった。
「……寝たのかよ」
よほど気が抜けたらしい。
今は指名手配までされているんだ。まともに休めていなかったのかもしれない。
「……まあ、疲れてたんだろうな」
俺はブラシを棚へ戻し、近くにあった毛布をそっとレミエールへ掛ける。
翼を押さえつけないように軽く整えてから、もう一度その寝顔を見る。
さっきまで人の部屋を好き勝手に漁っていたとは思えないくらい、穏やかな顔だった。
「おやすみ、レミエール」
小さくそう告げて、俺はベッドから離れた。
◇
あたたかい。
翼を撫でていく、優しい感触。
絡まった羽を一本ずつ丁寧に解いていくブラシの動きも、そのたびに聞こえてくるすぐ後ろの気配も。
全部、知っている。
ずっと昔にも、同じような時間があった。
――百年前。
「……アステル」
「ん?」
名前を呼ぶと、少し離れたところに座っていた彼がこちらを向いた。
その手には、さっきまで整備していた武器が握られている。
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「嫌な予感しかしない」
「まだ何も言ってないんだけど?」
失礼な。
私は頬を膨らませながら、背中の翼を少し広げた。
今日の任務では随分無茶をしたせいで、羽がところどころ絡まってしまっている。
自分でもある程度は手入れできる。
でも、どうしても届きにくいところがあった。
「翼、ちょっとやってくれない?」
「俺が?」
「今ここにいるの、キミだけでしょ?」
「いや、知らねぇよ」
そう言いながらも、アステルは結局こちらへ歩いてくる。
本当に、なんだかんだ言って断らない人だ。
「で、どうすればいい?」
「これ使って」
私は持っていたブラシを差し出した。
アステルはそれを受け取ると、私の翼とブラシを交互に眺める。
「先に言っとくけど、こういうのやったことないぞ」
「大丈夫大丈夫。痛かったらちゃんと言うから」
「信用ねぇな……」
「信用してるから頼んでるんだよ?」
「はいはい」
……もう。
そういう意味じゃないのに。
アステルは私の後ろへ回ると、恐る恐る翼へブラシを通した。
「……っ」
思わず肩が跳ねる。
「痛かったか?」
「ううん」
全然違う。
むしろ驚いたのは、思っていたよりずっと優しかったから。
乱れた羽を無理に引っ張らず、少しずつ整えていく。
初めてだと言ったくせに、まるでずっと前から知っていたみたいに。
「……キミ、こういうの上手なんだね」
「そうか?」
「うん。もっと雑にやると思ってた」
「じゃあ自分でやれ」
「褒めてるのに!」
思わず笑う。
アステルも呆れたように息を吐きながら、それでも手を止めなかった。
翼にブラシが通るたび、少しずつ力が抜けていく。
安心する。
翼を誰かに触らせるなんて、本当なら簡単にできることじゃない。
でも、アステルなら不思議と怖くなかった。
むしろ――もう少し、このままでいたいと思ってしまう。
しばらくして、翼がすっかり整った頃。
「こんなもんか?」
「うん。ありがと」
アステルがブラシを差し出してくる。
私はそれを見て、少しだけ考えた。
「それ、キミが持っててよ」
「なんで?」
「またお願いするかもしれないから」
「お前が持ってた方が早いだろ」
「いいの」
半ば強引に、ブラシを彼の手へ押し返す。
「キミにあげる」
「ブラシを?」
「そ。私からのプレゼント」
アステルは不思議そうに手の中のブラシを見る。
……本当は。
次も、その次も。
私の翼に触れてほしいから。
翼を預けてもいいと思えるくらい、キミのことを信じているから。
できればこれから先も、こうやって近くにいてほしいから。
そんなこと、言えるわけがなかった。
「じゃあ、ありがたく貰っとくよ」
「ちゃんと大事にしてよ?」
「ブラシだぞ?」
「大事にして!」
「分かった分かった」
きっとキミは分かっていない。
この翼に触らせることが、私にとってどんな意味を持っているのかも。
このブラシを渡した意味も。
それでも――。
「ねえ、アステル」
「今度はなんだ?」
「また今度も、お願いしていい?」
「別にいいけど?」
あまりにもあっさりした返事に、私は思わず笑ってしまった。
「……そっか」
そのときの私は、本当にそう思っていた。
また次があるのだと。
名前を呼べば振り返ってくれて。
同じように翼を預けて。
くだらないことで笑って。
そんな何でもない日々が、これからもずっと続いていくのだと。
だから、あのブラシを彼に渡した。
次の約束みたいなものとして。
その約束が一度途切れてしまうなんて――。
百年も経ってから、もう一度叶うなんて。
あの頃の私は、まだ知らなかった。
◇
「……寝ちゃってた」
ゆっくりと目を開ける。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
けれど頬に触れる枕の感触と、見慣れない部屋を見て、すぐに思い出す。
ここはアステルの部屋だ。
「……!」
私は反射的に、自分の翼へ目を向けた。
綺麗に整えられた羽。
絡まっていたところもなくなっていて、さっきまでブラシを通してもらっていた感触まで、まだ翼に残っているような気がする。
夢じゃない。
百年前の思い出を見ていただけじゃない。
本当に、またアステルが私の翼をブラッシングしてくれたんだ。
「……この毛布」
身体には、いつの間にか毛布まで掛けられていた。
たぶん、アステルが掛けてくれたんだろう。
私はそれを手に取ると、思わず胸元へ抱き寄せた。
「……ふふ」
もう会えないと思っていた。
百年前。
突然いなくなってしまって、二度と名前を呼ぶことも、くだらないことで笑い合うこともできないと思っていた人。
それなのに今は、同じ部屋にいる。
また翼に触れてくれて。
眠ってしまった私に、こうして毛布まで掛けてくれている。
……本当に、変わってない。
昔からずっと。
こっちの気持ちなんて全然分かってないくせに、こういうことだけは当たり前みたいにやる。
そのせいで、百年前から何度心を乱されたことか。
「……ほんっと、ずるいんだから」
でも。
今度はもう、百年前みたいに終わらせたくない。
せっかくもう一度会えたんだから。
私は毛布から顔を上げる。
「……今度こそ、絶対逃がさないからね。アステル」
そう呟いてベッドから降りる。
リビングへ戻ると、アステルは端末を眺めていた。
「何見てるの?」
「明日の予定。シグリットと手合わせする約束してたんだよ」
「へぇ~?」
「忘れるところだった……」
そう言いながら、アステルは端末をしまう。
「それより、もう少し寝ててもよかったんじゃないか?」
「もう大丈夫。それに――」
私はアステルの隣へ腰を下ろした。
「せっかくキミと一緒にいられるんだから、寝てたらもったいないでしょ?」
「……そういうもんか?」
「そういうもんなの」
やっぱり、何も分かっていない。
でも今は、それでもいい。
百年前に途切れてしまった時間は、こうしてまた動き始めたんだから。