優しさって価値の無いものですか? 転生したらファンタジー世界の貴族 順風満帆と思いきや、絶望から始まる成り上がり人生 作:siriusゆう
最後に覚えているのは、砂埃だった。
コンクリートの粉塵が喉の奥に張りつき、呼吸をするたびにざらりと音を立てる。崩れかけた建物の隙間から差し込む西日が、宙に舞う無数の粒子を金色に染め上げていた。遠くで誰かが叫んでいる。アラビア語だった。いや、違う。英語混じりの現地語だ。助けてくれ、と。
地面が揺れた。二度目の余震だ。瓦礫の下敷きになった少年の手が、私の指先に触れていた。あと少しで届く。あと少しで、その細い指を握れる。そう思った瞬間、世界が白く弾けた。
痛みはなかった。ただ、音が消えた。光が溢れた。そして、私の意識はそこで途切れている。
次に目を覚ましたとき最初に見たのは、見知らぬ天井だった。
白い漆喰の天井。梁には蔦模様の彫刻が施され、窓から差し込む光が柔らかな模様を描いている。嗅いだことのない香りがした。ラベンダーに似ているが、もっと甘くてどこかスパイシーな匂い。シーツの肌触りは絹のようで、決して安物ではないとわかる。
「ユウリス」
聞き慣れない名を聞き慣れない声が呼んだ。見知らぬ女性が私の枕元に座っている。三十代前半だろうか。栗色の髪を丁寧に結い上げ、深い緑色の瞳に涙を滲ませていた。その瞳の色は、まるで苔むした森のようでどこか懐かしさを覚えた。
「よかった……目が覚めたのね」
彼女は私の手を握った。温かい。生きている温度だ。
混乱する私の脳に流れ込んでくる情報があった。まるで他人の記憶が上書きされるように。ユウリス・フォン・ヴァレンシュタイン。十七歳。ヴァレンシュタイン辺境伯家の三男。三日前、庭園の池に転落し意識を失った――。
嘘だ。私は。私は、私は、僕は、日本人で。途上国で。地震で。テロに巻き込まれて。
再び女性の顔を見る。それは見知らぬ母であった。
この世界には「ギフト」と呼ばれるものがあった。
生まれたときに神から授かる特殊な才能。それは魔法であったり、剣術であったりあるいはもっと変わったものであったりする。私が授かったのは、他者を喜ばせることに長けるというものだった。
ふざけていると思った。冗談だろう、と。けれどそれは冗談ではなかった。
三歳のとき、私は初めて竪琴に触れた。誰に教わるでもなく、弦を弾いた。すると居合わせた使用人たちが涙を流して喜んだ。四歳で歌を歌えば、庭師が仕事の手を止めて聞き入った。五歳で絵を描けば、両親がそれを額縁に入れて客間に飾った。
努力はした。もちろんした。けれど、少しの努力で技術は倍々に上がっていく。まるで、見えない手が私の指を導いているかのように。まるで、私の身体が勝手に正解を知っているかのように。
気持ちが悪かった。
ずるをしている。そう思った。私はただの凡人だ。神の気まぐれで特別な力を授かっただけの、偽物だ。なのに皆が私を称賛する。天才だと。神童だと。稀代の芸術家だと。
でも。
でも、皆が笑ってくれるのなら。
母が。父が。兄が。幼馴染みのメアリーが。アルジェラが。屋敷の使用人たちが。領民たちが。やがては、来賓の貴族たちが。この国を統べる皇帝陛下までもが。
その笑顔が見たくて私は芸術を磨いた。新たな作品を作るため、インスピレーションを求めてあちこちへ旅をした。皇帝陛下に気に入られ、試験も受けずに帝都の芸術大学に通う今も、それは変わらない。
ずるいよな、と私は思う。思わずにはいられない。
帝国の国立大学に通う幼馴染みであり、美しい恋人であり婚約者でもあるメアリー。彼女と時折デートを重ね、同じく幼馴染みでメアリーと同じ大学に通う親友アルジェラと遊びに行く。場所は昔と違えど、関係は昔のまま。僕はこんな日々が永遠に続くと信じて疑わなかった。
休養日である今日はメアリーともアルジェラとも予定が合わなかった。そんな日は、幼少の頃からの付き人兼護衛であるジークと共に調査活動に出る。
「ユウリス様、よろしければ本日はアストレイ山のキャンプ地に行きませんか?」
僕の名を呼ぶジークの声と提案が、朝支度をする僕の真後ろから唐突に降ってきた。振り返れば、銀糸のように長い髪を一つに束ねたジークが、窓から差し込む朝陽を背に受けながら静かに立っている。色素の薄い瞳が光を透かして、まるで磨かれた水晶のようにきらめいた。
「ジ、ジーク!?やめてくれ!心臓が口から飛び出てしまう!」
時折、気配を消してはこうして突然僕を驚かせるジーク。僕は未だに彼の登場に慣れることができない。そんな僕の姿を見て、ジークははにかむように柔らかく笑う。線の細い、女性のようにも見える彼だがその身に宿すギフトの影響で、人の五倍の力を持つオーガを素手で解体できるほどの凄腕の護衛だ。華奢な肩つきとは裏腹に、その細腕が振るわれるとき巨人でも敵わない。
「アストレイ山のキャンプ地は、確か貴族専用の休養地だったかな?うーん、でもメアリーやアルジェから聞いたサルデラ湖も、実際に見てみたいし」
アストレイ山とサルデラ湖は、帝都を挟んで反対側に位置している。大都市である帝都を跨ぐ距離だ。両方を回ることはできない。
「アストレイ山はこの時期、紅葉が綺麗なようです。展望エリアもございますし、スケッチには最適かと。それに、キャンプの季節は過ぎており今はデートスポットとして賑わっているとか。次回の、く、コホン……メアリー様とのデートの下見なども兼ねて、いかがでしょうか」
ジークが咳き込みながら提言する。白い頬が少し赤らんでいるのは、咳のせいだけではないように見えた。それにしても、未だに咳が治まっていないようだ。
「ジーク、咳が治っていないじゃないか。最近は冷えてきているし、今日は無理をしなくても……」
言いながら、熱がないか確かめようとジークの額に手を触れる。彼の白い肌はひんやりと冷たく、指先に触れた感触は絹のように滑らかだった。
「ユウリス様。私は幼子ではないのですよ。……もう。乾燥で喉が絡んだだけです。それより紅葉は季節ものですから、早めに参った方がよろしいかと」
少し恥ずかしそうにけれどどこか嬉しそうに、ジークは僕の手をそっと握り己の額から寄せた。彼の細い指が僕の手を包み込む。その手のひらの柔らかさに、一瞬だけ不思議な感覚が胸をよぎったが、すぐに朝の光の中へ溶けていった。
「確かに紅葉は去年も見られなかったし。いいかもね。それじゃあアストレイ山に行こうか」
僕の言葉にジークは「かしこまりました」と答え、伝令機を胸元の内ポケットへ収めると馬の準備のために外へ出ていった。彼の後ろ姿を見送りながら、僕はなんだかんだ言ってジークも紅葉を楽しみにしているのだな、と唇を緩めた。
帝都を少し離れた場所にあるアストレイ山キャンプ地。山肌は、緋色のドレスを纏ったかのように鮮やかだった。赤、橙、黄、それらが幾重にも重なり合い秋の陽射しを浴びて黄金にきらめいている。風が吹くたびに木々が一斉にさざめき、葉の擦れる音が遠くから寄せては返す波のように響いた。展望場に馬を停めると、離れた場所にも見覚えのある二頭の馬が停まっているのが目に入る。
「あの馬って、メアリーとアルジェの馬なのかな?」
メアリーとアルジェラはそれぞれ別の用事があると言っていた。そんな僕の独り言にジークが二頭の馬へ視線を向ける。
「……いえ。私には、似て非なる馬に思えます」
ジークの目が鋭利なものへと変わっていく。彼の声から、先ほどまでの柔らかさが嘘のように消え失せた。少し考え込んだ後、彼は僕の意見をきっぱりと否定した。馬に詳しいジークが言うのならそうなのだろう。けれど、あの栗毛の馬の背の模様も隣の白馬も、僕にはどう見ても見覚えのあるものだった。
「それよりもユウリス様。こちらのルートから行ける第三展望台がおすすめとのことです」
そう言って、僕の手を引きこちらへ笑顔を向けるジーク。その仕草に、僕は昔を思い出す。
幼少期、僕の腕を引いて遊ぼうと誘うジーク。その横を、明るい金髪をなびかせて元気に走り、僕を覗き込むメアリー。僕の後ろに立ち、背中から抱きついているアルジェラ。そんなジークに対して、従者が主人の手を引くなと怒る、アルジェラの付き人であるケイとジーン。おろおろしながらも、嬉しそうに笑うメアリーの付き人であるアンナ。懐かしい情景が、水面に浮かぶように胸の内へ広がっていく。
忘れていた。
アストレイ山には昔、皆で遊びに来たことがあった。十年前、メアリーの家であるドーセット伯爵家に、アルジェラの家であるシュペー家と、我がヴァレンシュタイン家を加えた三家合同のキャンプ。
そこでそうだ、メアリーは僕に言ったのだ。
「わたし、ユウリスと結婚する!」
あの展望台で、二人きりで。
子供の言うことだ。それに僕らは貴族だ。自由恋愛で結婚など、ほとんどできない。だから僕は、その言葉を半分だけ聞き流していた。ありがとう、と言ってメアリーの額に口づけを落とした。完全に、子供扱いしていた。そう思い出して、苦笑いが漏れる。
それなのに今では美しい女性へと成長したメアリーと婚約し、こうして恋人として時を重ねている。運命とは、なんと皮肉でそして慈愛に満ちているのだろう。
「ユウリス様!見てください!綺麗です!」
ジークの手が離れ彼はこちらを振り向きながら明るく笑う。少しずらした彼の身体の向こうには、想像よりもずっと綺麗な景色が広がっていた。紅葉とアストレイ湖のコントラスト。燃えるような赤と、冷えた硝子のような青。湖面が鏡のように空を映し、紅葉の赤がその上に落ちてまるで世界が二つ重なっているかのようだった。
僕はスケッチと筆を取り駆け出す。画家としての本能が、この一瞬を逃すまいと僕の足を急がせた。
展望台の手すりに寄り左手に持ったスケッチを広げようと、左へ視線をずらしたとき。ふと、見慣れた金色が視界に入った。隣の展望エリアである第四展望エリアは、第三展望エリアよりも少し低い位置にある。だから、隣の展望エリアが一望できた。できてしまった。
芸術で磨き上げた目が耳が、見知った形と声を捉える。
仲睦まじげに寄り添う男女。後ろから抱き締める男へ顔を向ける女。そして後ろから彼女へ口づけする男。よく顔は見えない。けれど、その金の髪もその華奢な肩の線も、その笑い声も。
見たい。見たくない。見たい。見たくない。
「どうされました?」
そんなジークの声が聞こえたのか、女性が少し驚いたようにこちらへ振り向く。不機嫌な表情でこちらを見た彼女は、僕を認識した途端目を見開いて固まった。
その顔は、メアリーだった。
紅葉の赤が、彼女の金髪に燃え移ったように映る。風が一房を攫い、白い頬に貼りつかせる。彼女の瞳は驚愕に見開かれ、唇は何かを言いかけて音にならないまま凍りついていた。背後から回された男の腕は、まだ彼女の腰を離さない。指の一本一本が絹のドレスに沈み、その布の皺までがやけに克明に見える。世界の時間だけが、蜂蜜のように粘ついて僕の視界の中でゆっくりと流れていた。十年前この山の展望台で「わたし、ユウリスと結婚する」と言った唇。その唇が今、別の男の口づけを受けていた。
唐突に、激しい頭痛が僕を襲う。こめかみを鑿で打たれたような痛み。世界がぐにゃりと歪み、景色が水に落ちた絵具のように溶けていく。天地が回り、視界は墨を流したように暗く潰れた。
遠ざかる意識の底でただ僕の名を呼ぶジークの声だけが、細い糸のように響いていた。
「——ユウリス様!ユウリス様!しっかりなさってください!」
彼の必死の声が深い闇の中へと吸い込まれていく。最後に感じたのは、細い腕が僕の身体を支えてくれたこと。そして、その腕の柔らかさと鼻先をかすめた微かな白檀の香りだった。