優しさって価値の無いものですか? 転生したらファンタジー世界の貴族 順風満帆と思いきや、絶望から始まる成り上がり人生 作:siriusゆう
窓の隙間から差し込む一条の光が、まぶたの裏をオレンジ色に染めていく。ゆっくりと目を開けると、カーテンの裾から朝日がこぼれ、布団の上に細長い光の筋を描いていた。埃がその光の中をゆっくりと舞い、まるで時間そのものが踊っているかのようだった。
昨夜は遅くまで盛り上がり、少し寝不足気味だ。喉が渇いている。頭の芯がぼんやりと重い。
隣には幼馴染みのアルジェラが寝ている。規則正しい寝息が、静かな部屋の中に小さく響いていた。寝ているときだけは、こいつも随分と無防備に見える。普段のあの飄々とした態度はどこへやら、である。
「ちょっと、アルジェ。起きなさいよ!」
強めにゆすりながら声をかける。だが、身体を背け、起きようとしない。
いつもこうだ。簡単には起きやしない。まるで眠りがよほど居心地が良いとでもいうように、布団にしがみついて離れない。本当に、手のかかる幼馴染みである。
身体を起こし、立ち上がる。鈍い痛みが腰に走り、思わず顔をしかめた。
今日は休養日。帝国大学は休み。そして今日は、一応デートの予定になっている。デートといっても、恋人ではない別の男だ。複雑な気分である。罪悪感と、ほんの少しの好奇心とそして言いようのない虚しさが、胸の奥で渦を巻いていた。
服装には気を遣う。道中、なるべく私だと分からないようにしなければいけない。知り合いに合えば面倒だし、婚約者のユウリスとばったり会ってしまえば、さすがにマズいかも。いやマズいでは済まないだろう。
ユウリスは、まるで優しさが形作ったような人間だ。あの穏やかな笑顔を思い浮かべるだけで、胸が締め付けられる。だからまあ街中を男と二人で歩いてても、ちゃんと言い訳したら大丈夫だとは思う。思うのだが……でも、もしかしたら喧嘩くらいにはなるかな? いや、ユウリスは怒らないだろう。悲しむ顔をするだけだ。そのほうが、ずっと堪える。
身支度を終え、アルジェラへ声をかける。
「私、先に出るから! あんたも後から出なさいよ。それと、約束事忘れんじゃないわよ!」
そんな私の声に布団の中からくぐもった「はいはい」という返事が帰ってくる。ほんと、こいつは外面だけはいいんだから、とタメ息が出る。
部屋の外へ出ると、付き人のアンナが物言いたげにこちらを見ていた。その瞳には、心配と咎めるような色が混ざり合っている。
「何よ、その目。言いたいことあるなら言ったら?」
イライラしながら言う私に、アンナは目を伏せながら答える。
「メアリー様。やはり、浮気はお止めに……」
その言葉に、イライラが増してくる。何度も説明したのに、アンナは頑として引かない。アンナの頑固さは、幼い頃から知っている。だが今はそれが煩わしい。
「うるさいわね。さっさと馬の準備をしなさいよ!」
そうアンナを叱責し準備を促した。アンナは一瞬唇を噛んだが、すぐに恭しい一礼をして馬房の方へと歩いていった。その後ろ姿を見送りながら、私は小さく舌打ちをした。八つ当たりだと分かっている。分かっているが、止められなかった。
待ち合わせした場所へ行く前に、昼食を用意しにデリバリーのサンドイッチを購入しに行く。正直、私は料理なんて作れない。だからこそ、こういう時に役立つのが貴族子女御用達のデリバリーショップである。格式高い箱に、丁寧に詰められたサンドイッチ。味は悪くない。悪くないが、どこか冷たい。
ユウリスもアルジェラも貴族なのに料理が出来るし、ユウリスの作るご飯が美味しいから自分でなんか作らない。だから今まで料理を作る必要性を感じなかった。ユウリスの作る料理は、温かかった。あの温もりを私は当たり前のように享受してきた。
今日はアルジェラに作ってもらう予定だったが、あの感じだと作れないだろう。アルジェラが予定に間に合うかも怪しいし。まったく、頼りにならない。
待ち合わせ場所に少し早く着いた。アイツはまだいない。早く来いっての。風が冷たい。木々の葉がざわめき、遠くで鳥が鳴いている。のどかな風景だ。だが、私の心は少しも穏やかではなかった。
少し遠目にアルジェラの馬が見える。白馬だから目立つ目立つ。あの白さは、まるで雪のようだ。
「おまたせ」
そんな相手の言葉にタメ息が出た。遅刻だ。何分遅れたか、数える気にもならない。
アストレイ山脈を一望出来る第四展望エリア。綺麗な景色を見ながら昼食を二人で食べる。山の稜線が青空にくっきりと浮かび、眼下には雲海が広がっていた。息を呑むほどの絶景。だが、心はここにない。
ほんと、目の前の男は私の婚約者とは全然違う。ユウリスは線が細く、穏やかで、聞き上手。こいつは体型が男らしく、にぎやかで話上手。正反対と言っていい。なんか、全然違う。そう思うと笑ってしまった。自分でも、なぜ笑ったのか分からない。ただ、笑うしかなかった。
食事も終え、立ち上がる際に顔を上げると既視感が私を襲う。この目線で見るこの場所は、何処かで見覚えがあるようなないような。胸の奥が、ちくりと痛んだ。
……そうか、ここ、来たことある。ユウリスとの思い出の場所。あの時は、無邪気でしがらみもなく、幸せだった。風の匂いも空の色も、今よりずっと鮮やかだった。けど、今は違う。今の私にはあの頃の純粋さはない。
稀代の天才芸術家ユウリス・ヴァレンシュタインの婚約者。そんな肩書きが、重く感じる。私が私である前に、誰かの隣に立つ者として見られる。息抜きしたい。辛い。シンドイ。釣り合うためには学園で良い成績を取らないと。だから不安だ。ユウリスの隣に立つ資格が、自分にあるのかどうか。
でも、好きだ。やっぱりユウリスが好きだ。この気持ちだけは、嘘じゃない。
止めにしないと、こういうの。アンナの言う通りだ。後でアンナに謝らないと。こんな自分は、最低だ。
少し涙が出た。視界が滲む。そんな私に驚いた相手が、どうしたのかと聞いてくる。恥ずかしくなって、背を向ける。
「なんでもないから」
声が震えないように、必死だった。その後こいつにちゃんと応えないと。けじめをつけなければ。やっぱり、無理だって。私はユウリスの隣にいたい。そう、伝えなければ。
そうして、少し力を抜いた瞬間だった。
私は、後ろから抱き締められた。
「ちょっと」
相手の力が強く、自分が思ったよりも声が出なかった。喉が締まる。後ろに顔を向けた私の目には、相手の顔が間近に映った。息がかかる距離。逃げられない。
キスされた。
誰に?
ユウリスじゃない相手に。
怒りが沸いてきた。沸点を超えた怒りが、全身を駆け巡る。心臓が痛いほど脈打ち、指先が冷たくなる。魔力が指先に集まっていくのが分かる。
お世話になった先輩に頼まれたから、仕方ないから少しだけ相手しようと思った。ユウリスと全然違うから、少しだけ興味があった。だから、現実逃避にちょうど良かった。だが、こんなことになるなんて。こんな裏切りになるなんて、思ってもみなかった。
怒りに身を任せ、魔力を解放しぶっ飛ばそうと実行しようとした時、ふいに唐突に、見知った声が聞こえた。
ユウリスの護衛のジークの声に、そっくりだった。
咄嗟に、声のした方に顔を向ける。
目があった。
ユウリスだ。
うそ。
うそ。
うそうそうそ!
何でユウリスがこんなところにいるの!?
見られた。キスされたところ、見られた。
違う、ちがう、チガウ!
違う!!
ザーザーと、耳の中で音がなる。世界が遠くなる。ユウリスの顔が、みるみるうちに歪んでいく。信じられないものを見た、という顔。あの顔を私は一生忘れないだろう。
ふと、視界からユウリスが消えた。そして、切羽詰まったジークの叫ぶ声が、私の脳を叩いた。
ユウリスを探した。探した。探した。
話を聞いて欲しい。言い訳を聞いて欲しい。
でも、どこにも居なかった。展望エリアのどこにも。
私の幻覚? 罪悪感が見せた夢?
ふと、光るものを見つけて拾う。
それは、私がユウリスにあげた筆ペンだった。あの日、誕生日に贈ったものだ。「これで、私を描いて」とそう言った。ユウリスは照れくさそうに笑って、受け取ってくれた。あの筆ペンが、今、冷たい地面に落ちている。
馬を走らせた。必死に。風が髪を切り裂く。涙が頬を伝う。だが、構わなかった。
ユウリスの家についた。少し安心した。門の前で馬を降り、呼び鈴を鳴らす。だが応答はない。
でも、居なかった。
なんで?
辺りを探した。庭も書斎も、アトリエも。どこにもユウリスの姿はなかった。描きかけのキャンバスが、ぽつんと部屋の隅に置かれていた。何も描かれていない、真っ白なキャンバス。
雨が降ってきた。冷たい雨。どうしたら良いか、ワカラナクなった。
アルジェラだ!
こういうときは、アルジェラだ!
アルジェラの部屋へ急いだ。扉を叩いて、アルジェラを呼んだ。何度も何度も。
アルジェラも、いなかった。
私は、アルジェラの部屋の前で崩れ落ちた。冷たい床。雨音が、遠くで響いている。自分がどんどん小さくなっていくようだった。
夜遅くに、アルジェラが帰ってきた。足音で分かった。私は、廊下の隅で蹲っていた。顔を上げることもできなかった。
部屋へ一緒に入った。タスケテ。声にならない声で、そう叫んでいた。