偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」 作:Tommy's Workers
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雨が降っていた。
第3新東京市の空を鉛色の雲が覆い、粘りつくような雨粒が街を叩いていた。山間を縫って走る電線に雨滴が弾け、鉄骨の骨組みだけの再建築区域が滝のように水を流している。
その雨の中を、EVA3号機は歩いていた。
──歩いていた、はずだった。
松代の実験場からネルフ本部へ向かって輸送中の3号機。パイロットは式波・アスカ・ラングレー。遠隔操作で自律歩行中の巨人が、山間のトンネルを抜けた瞬間──止まった。
いや、止まったのではない。
何かが、3号機の中に「入った」。
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発令所に警報が鳴り響いた。
「3号機より信号異常! パターン青──使徒です!」
「3号機が使徒に侵食された!?」
ミサトが立ち上がる。モニターに映し出された3号機の姿は異様だった。装甲の隙間から粘菌状の何かが溢れ出し、関節が不自然に捻じれ、頭部のアイカメラが不規則に明滅している。まるで巨人の死体に別の何かが入り込んで動かしているような──寄生。
「アスカ!」
ミサトが叫ぶ。通信回路を開くが応答がない。ノイズ混じりの呼吸音だけが届く。
「式波の生体反応──低下していますが維持されています」
「侵食率70%……80%……まだ増えています!」
「3号機の制御権、こちらに移せないか!」
「ダメです! 使徒がLCLを通じて直接パイロットの神経に干渉しています!」
リツコがモニターを睨みながら言った。その声は冷静だが、指先がキーボードの縁を白くなるほど握りしめている。
「パイロットの意識はまだあるわ。だが、長くはない。侵食が完了すれば──アスカは死ぬ」
ミサトは歯を食いしばった。そして──決断を下した。
「シンジくん、レイ。出撃よ。3号機を──」
言葉が途切れた。3号機を、どうする。撃破する。それしかない。アスカが乗ったまま。アスカが生きている間に。
だが──
「待て」
ゲンドウの声が、発令所を凍らせた。
ガラス越しに見下ろす冷酷な眼差し。口元に感情の影はない。
「3号機を使徒として処理せよ」
「──碇司令!」
ミサトが振り返る。
「パイロットはまだ生きています!」
「構わん。使徒に侵食されたEVAは、もはやEVAではない。排除しろ」
「しかし──」
「葛城一尉。これは命令だ」
ミサトの喉が鳴った。軍人としての服従本能と、人間としての拒絶が衝突する。だが──命令は命令だ。
「──シンジくん」
ミサトの声が震えていた。
「3号機を──撃破して。アスカを──助けられるなら助けて。でも──」
「もし無理なら」
その言葉を、ミサトは言えなかった。
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プラグ内。
シンジはモニターを見ていた。
3号機の映像。装甲の隙間から溢れる粘菌。不規則に明滅するアイカメラ。不自然に捻じれた関節。そして──通信回路越しに聞こえるアスカの呼吸。荒く、苦しげな、意識の混濁した呼吸。
「──アスカちゃん」
シンジの声が震えた。
「アスカちゃん、聞こえる? 返事をして」
応答がない。ノイズと呼吸音だけが届く。
「アスカちゃん!」
モニターの3号機が動いた。
山間の道を、ネルフ本部に向かって──いや、初号機に向かって歩き始めた。使徒に侵食された巨人が、味方を求めているのではない。使徒が、初号機を標的として認識したのだ。
「──シンジくん。3号機がこちらに向かっています」
ミサトの声が届く。
「迎撃して。ただし──可能な限りパイロットを──」
「無理よ」リツコが割って入る。「侵食が進んでいる今、3号機を止めるにはコアを破壊するしかない。コアが破壊されればパイロットも──」
「黙って!」ミサトが叫ぶ。
シンジの手が操縦桿を握りしめた。指先が震えている。
(──アスカちゃんが乗ってる。アスカちゃんが、あの中に)
(──撃てって? アスカちゃんが乗ってるのに?)
(──僕はヒーローだ。ヒーローは人を守る。人を殺すんじゃない。人を──殺す機械じゃない)
「──できません」
シンジの声が、プラグ内に響いた。平坦ではなく、震えていた。ペルソナの笑顔が剥がれかけている。
「僕は──人に乗ったエヴァなんて戦えない。アスカちゃんが中にいるんだ。撃てないよ」
「シンジくん──」
「僕はヒーローだ! 人を殺すための機械じゃない! 人を守るために──」
声が上ずった。ヒステリックに。恐怖と拒絶と自己矛盾が混ざり合った叫び。
「──人を守るために戦ってきたのに、人を撃てって言うの!?」
発令所が静まり返った。
ミサトは何も言えなかった。シンジの言う通りだった。彼は「ヒーロー」として戦ってきた。「人を守る」と信じてきた。その彼に「人を撃て」と命じることは──彼の世界の根幹を破壊することだった。
だがゲンドウは──
「──初号機のパイロットを解除する」
その一言が、発令所の空気を変えた。
「ダミーシステムを起動しろ」
「──碇!」冬月が声を上げる。「ダミーシステムはまだ実用段階ではない! パイロットの意志を完全に無視して──」
「構わん。初号機を動かせ」
「待ってください!」リツコが立ち上がる。「ダミーシステムはパイロットの精神に不可逆な──」
「起動しろ」
ゲンドウの声には、感情がなかった。ないように聞こえた。だがその奥底に──何かがあった。ユイの──妻の──遺した息子を、人間としてではなく「部品」として扱うことにすら躊躇しない男の、冷徹な決断。
「──ダミーシステム、起動します」
オペーターの声が響く。
プラグ内で、シンジの視界が──歪んだ。
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「──何? これ」
操縦桿が動かない。
シンジの手が操縦桿を握っているのに、初号機が自分の意志に従わない。まるで身体の主導権が剥奪されたような感覚。自分の手が、自分のものではなくなる。
「──やめて! 僕の初号機から出ていけ!」
叫ぶが、声が届かない。プラグ内のモニターが切り替わり、初号機の制御がダミーシステムに移行する。シンジの意識は残っているのに、身体だけが別の何かに操られる。
初号機が立ち上がった。
だが──それはシンジの初号機ではなかった。
目が光っていない。いや光っているが、その光はシンジのものではない。獣の目だ。獲物を見定める、冷たい捕食者の目。
「──やめて! やめてお父さん! 僕の初号機を──!」
初号機が3号機に向かって歩き出した。
シンジの意志とは無関係に。シンジの感情とは無関係に。シンジの「ヒーロー」とは無関係に。
──初号機が3号機の首を掴んだ。
「──っ!」
プラグ内でシンジの身体が折れた。シンクロを通じて伝達される感覚。3号機の首を掴む手応え。装甲が軋む音。フレームが悲鳴を上げる音。そして──その奥に、アスカの呼吸が聞こえる。
「やめて! 撃って! お願いやめて! アスカちゃんが──アスカちゃんが中に──!」
シンジは操縦桿を握りしめ、全身の力で引き倒そうとした。だがダミーシステムはシンジの意志を完全に無視している。初号機の手が3号機の首を──締める。
「──あああああ!」
初号機の指が3号機の装甲を剥がし始めた。胴体の装甲が引き裂かれ、内部のフレームが露出する。3号機が──いや、アスカが──悲鳴を上げているのが通信回路越しに聞こえる。
「やめてよおおお! 僕の手だ! 僕の手がアスカを──僕の手が──!」
シンジは泣いていた。プラグの中で、LCLの中で、血と涙が混ざり合う中で、泣いていた。自分の手が。自分の意志とは無関係に。自分の身体の一部が。同い年の少女を──壊そうとしている。
「──僕はヒーローだ! ヒーローは人を殺さない! ヒーローは──」
叫びが途切れた。
初号機が3号機の腕を引き千切った。
物理的に。関節から。フレームが砕け、ワイヤーが弾け、体液が噴出する。3号機の──アスカの──腕が、初号機の手の中で千切れる。
「──っお、あ、ああああああ!!」
シンジの叫びがプラグ内で反響する。シンクロ率が跳ね上がり、3号機の損傷がシンジの身体にも伝達される。腕が千切れる感覚。神経が断絶する感覚。痛い。痛い。痛い──いや、痛くない。マーリンの麻痺が効いている。だが──
(──痛くないのが、怖い)
(──僕の手があの子を壊しているのに、痛くない。僕の意志じゃないのに、僕の手で。僕の身体で。あの子を──)
『──シンジくん!』
マーリンの声が、脳内で炸裂した。
これまでのような優しい囁きではない。鋭く、切迫した、叫びに近い声。
『──聞こえるかい! シンジくん、僕の声が聞こえる!?』
「マーリンさん! マーリンさん、止めて! 僕の初号機を止めて! 僕の手でアスカちゃんを──」
『わかってる! ダミーシステムは僕でも完全には遮断できない。だが──アスカくんを守ることはできる!』
マーリンの魔力が、全開になった。
初号機の神経回路を通じて、3号機のエントリープラグに向けて魔術を展開する。だが──物理的な距離とダミーシステムの妨害干渉が、魔術の到達を阻む。
「──くっ、距離が──! ダミーシステムのノイズが──!」
マーリンの幻影が、プラグ内に現れた。だがその姿は──揺らいでいた。半透明ですらない。蜃気楼のように歪み、輪郭が溶け、必死に形を保とうとしている。
初号機が3号機の頭部を掴んだ。
「──いやだ」
シンジの声が、小さくなった。
「いやだ、いやだ、いやだ──」
初号機の手が、3号機の頭部を──締め潰そうとする。装甲が歪み、内部のエントリープラグが露出し始める。あと数秒でプラグが砕かれる。プラグが砕かれれば──アスカは死ぬ。
『──アヴァロン』
マーリンが、叫んだ。
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その瞬間、マーリンの幻影が──消えた。
プラグ内から。シンジの視界から。マーリンの存在そのものが──消えた。
代わりに。
3号機のエントリープラグの周囲に、目に見えない「何か」が展開された。物理的な壁ではない。概念の壁。絶対遮断。理想郷の概念。アーサー王の墓所に隠された、あらゆる災厄を退ける結界。
アヴァロン。
マーリンの権能の核心。最高位の守護魔術。
初号機の手が3号機のプラグを──砕いた。
砕けた。物理的には砕けた。金属が歪み、フレームが折れ、プラグの外殻が陥没する。だが──その内側。アスカの身体と魂が収まっている核心部分だけが、次元の裂け目に隔離されていた。
プラグは砕かれたが、アスカは──死ななかった。
肉体的には重傷だ。骨折、内臓損傷、火傷。ダミーシステムの「攻撃」は物理的には完遂された。だが、死だけは──完全な破壊だけは、防がれた。
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初号機が3号機の残骸を投げ捨てた。
血と体液に塗れた紫の巨人が、雨の中に立ち尽くす。アイカメラの光が不規則に明滅し、口元から3号機の体液が垂れ落ちている。獣が獲物を仕留めた後の、無機質な佇まい。
ダミーシステムが解除された。
初号機の制御が、シンジに戻る。
「──」
シンジは、モニターを見ていた。
3号機の残骸。頭部を砕かれ、腕を引き千切られ、胴体を引き裂かれた赤い巨人。雨が残骸を洗い流し、オレンジ色の体液が地面に広がっていく。
「──僕が」
声が出た。自分のものとは思えない声だった。
「僕が──やったの」
違う。ダミーシステムだ。僕の意志じゃない。お父さんが無理やり──
「──でも僕の手でやった」
初号機の手で。僕のシンクロを通じて。僕の神経を通じて。僕の身体の一部で。
「──僕が、アスカちゃんを──」
モニターにアスカの生体反応が表示される。微弱だが──生きている。アヴァロンが、死だけは防いだ。
だがシンジにはそれが見えなかった。見えなかった。生体反応の数字の意味が、頭に入ってこなかった。見えるのは3号機の残骸だけ。自分の手で壊した赤い巨人だけ。
「──ああ」
シンジの目から涙が溢れた。
声も出なかった。ただ涙が、LCLに溶けていく。
「──あ……」
何かを言おうとして、言葉が見つからない。
「ヒーロー」が壊れた。
人を守るはずの自分が、人を壊した。自分の意志とは無関係に。自分の手で。自分の身体で。同い年の少女を──壊した。
「──僕は、ヒーローだ」
呟きが漏れた。
「──僕は、ヒーローだ」
壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返す。
「──ヒーローは、人を殺さない」
「──ヒーローは、人を守る」
「──だから僕は──」
「──僕は──」
「──」
「──嘘だ」
その二文字が、プラグ内に響いた。
静かで、小さくて、それまでの全ての叫びよりも──重い声だった。
「──全部、嘘だ」
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回収後。発令所。
「式波アスカ、重傷。全身骨折、内臓損傷、火傷──但し、生命維持。意識の回復は──不確定」
医療スタッフの報告が響く。ミサトは唇を噛みしめ、リツコはモニターを睨み、冬月は眼鏡を外していた。
ゲンドウは──何も言わなかった。ガラス越しに、初号機のケージを見下ろしている。その表情は、変わらなかった。何一つ変わらなかった。
「──碇」
冬月が声をかけた。
「あの子は、もう二度と同じようには動かんぞ」
ゲンドウは答えなかった。
「ダミーシステムへの移行をあの子は見ていた。自分の手で友人を──と認識しているはずだ。それを──」
「──構わん」
ゲンドウの声は変わらなかった。
「初号機は動いた。3号機は破棄された。使徒は排除された。それで十分だ」
冬月は何か言いかけて──止めた。
ゲンドウの眼鏡の奥の目が、ほんの一瞬だけ──揺れたのを見たからだ。すぐに消えた。だが確かに揺れた。父親としての──いや、人間としての何かが、一瞬だけ顔を出した。
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メディカルベイ。
アスカは搬送された。全身包帯に巻かれ、機械に繋がれた姿は、以前の傲岸不遅な少女の面影はなかった。だが──生きている。アヴァロンが、死だけは防いだ。
シンジは──メディカルベイの廊下に立っていた。
壁に背を預け、天井を見上げている。制服は血とLCLで汚れ、顔は青白く、目の下に隈が浮かんでいる。だが──笑っていた。
笑っていた。
「──平気です」
誰もいない廊下で、自分に向けて呟く。
「僕は、ヒーローだから。平気です」
笑顔は──完璧だった。だがその完璧さが、以前とは違っていた。ヒビが入っていた。ガラスの表面に走る亀裂のように、微かで、しかし確かなヒビ。
「──アスカちゃん、生きてるよね」
「──生きてる。マーリンさんが守ってくれた」
「──じゃあ、僕は──」
「──僕は、まだ──」
「──ヒーローだよね?」
誰もいない廊下に、問いが響いた。答えはなかった。
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その夜。ミサトの家。
シンジはキッチンに立っていた。
夕食を作っていた。いつものように。完璧に。味噌汁、焼き魚、サラダ。手際は良かった。包丁の動きに迷いはない。皿の並べ方も美しい。
だが──味噌汁の味がしなかった。
自分で作った味噌汁を一口飲み、味がわからない。鹹味がわからない。温度はわかる。熱い。でも「味」が──「意味」が──ない。
「──シンジくん」
ミサトが席についていた。ビールを開ける手が、震えている。
「アスカのこと──」
「元気になりますよね」
シンジは笑った。
「アスカちゃんだから、絶対元気になります。僕、お見舞いに行ったら卵焼き持っていきますね。甘いの」
「シンジくん」
「はい?」
「あなた──自分の手で、アスカを──」
「ダミーシステムです」
シンジの声が遮った。平坦だった。
「僕の意志じゃありません。お父さんが強制的に。僕は──僕は止めたかった。止めたのに」
「──」
「でも、アスカちゃんは生きてる。だから──」
シンジは味噌汁を一口飲んだ。
「──だから、大丈夫です」
ミサトは、その「大丈夫」の重さを知っていた。この子がどれだけの無理をして「大丈夫」と言っているかを。だが──踏み込めなかった。軍人としての立場。自分が作戦部長であること。自分がこの作戦を──いや、この体制を──許容していること。
「──ごちそうさま」
ミサトは箸を置いた。味噌汁を半分残して、席を立った。
「美味しかったわ。ありがとう」
「……はい」
シンジは笑った。完璧な笑顔。
ミサトは背を向け、廊下に出た。壁に手を付き、俯いた。
「──私、この子に何をしてるんだろう」
独り言が、暗い廊下に吸い込まれた。
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その夜。自室。
シンジは布団の上に座っていた。壁を見つめている。
壁には何もない。白い壁。何も映っていない。だがシンジの目には──3号機の残骸が映っていた。赤い巨人が、自分の手で壊されていく光景が。何度も何度も、繰り返し。
「──」
手が、動いた。
無意識に。右手が左腕を掴み、爪を立てる。皮膚が裂け、血が滲む。痛い。痛い。痛い──
(──痛い。これが痛い。本物の痛み。ダミーシステムでも麻酔でも消えない痛み)
(──僕がやった。僕の手で。僕の身体で。アスカちゃんを──)
「──僕は、ヒーローだ」
呟く。
「僕はヒーローだ。ヒーローは人を守る。人を殺さない。──僕は殺してない。ダミーシステムがやった。僕じゃない。僕じゃ──」
言葉が途切れた。
「──僕じゃ、ない」
声が震えていた。
「──僕じゃ、ないよね?」
答えはなかった。
「──マーリンさん」
呼んでも、返事がなかった。
「──マーリンさん」
プラグ内でアヴァロンを行使した負荷が、マーリン自身にも残っていた。幻影を維持する力すら残っていない。シンジの声は届かない。届いていても、答えられない。
「──マーリンさん、いないの」
シンジの声が、小さくなった。
「マーリンさんもいなくなったの」
暗い部屋に、少年の声だけが響く。
「僕一人なの」
「──お父さんに嫌われて、アスカちゃんを壊して、マーリンさんもいなくなって──」
「──僕は何のために戦ってたの」
「──ヒーローって、何」
問いが、暗闇に吸い込まれていく。答えはない。
「──嘘だ」
また、その言葉が出た。
「全部嘘だ。ヒーローも、愛も、守るも──」
「──全部、嘘だ」
涙が溢れた。声を殺して。膝を抱えて。布団に顔を埋めて。十四歳の少年が、一人で泣いた。
「──でも」
泣きながら、呟く。
「──でも、嘘でもいいから」
「──嘘でもいいから、僕をヒーローだって言って」
「──嘘でもいいから、好きだって言って」
「──嘘でもいいから──」
「──捨てないで」
その声は、五歳の少年の声だった。
公園のブランコで、膝を抱えて泣いていた、あの日の声。
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──誰もいない。
花びらは舞わない。香りは漂わない。温かい手は届かない。
少年は一人で、暗い部屋で、朝まで泣いた。
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翌朝。
「──おはようございます、ミサトさん! 今日は和食セットにしました!」
完璧な笑顔。完璧な朝食。完璧な好青年。
だが──ミサトは見た。シンジの目が、変わっていた。
光が消えていた。
いや、光はある。眩しいほどの笑顔はある。だがその奥が──空洞になっていた。笑顔の裏に何もない。何もないのに笑っている。人形が笑っている。
「──いただきます」
ミサトは味噌汁を飲んだ。美味しかった。いつも通り、完璧に美味しかった。だが──
「──シンジくん」
「はい?」
「今日は、休まない?」
「え? なんでですか? 僕、元気ですよ!」
シンジは笑った。笑った。笑った。
「──僕は、ヒーローですから」
その言葉が、以前とは響きが違っていた。
以前は──確認だった。「僕はヒーローだよね?」と誰かに求める確認。
今は──呪いだった。「僕はヒーローだ」と自分に命じる呪い。
ミサトは、その違いを言葉にできなかった。ただ、胸の奥の棘が──突き抜けるほどに太くなったのを感じた。
「──そうね。がんばりましょう」
「はい!」
シンジは弁当を包み、ランドセルを背負い、玄関に向かう。
「いってきます!」
ドアが閉まる。
ミサトは、閉まったドアを見つめながら、コーヒーカップを握りしめた。
「──あの子の目が──」
言葉が途切れた。
ペンペンが「ギョ」と鳴いた。何も答えなかった。何も答えられなかった。
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その日からシンジはミサトの前から居なくなった。