偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」 作:Tommy's Workers
14年後
---
目を開けた時、世界は赤だった。
LCLの温度がぬるい。腐った血のような鉄錆の匂い。視界が霞み、光の輪郭が溶けて滲んでいる。何もかもが曖昧で、自分が生きているのか死んでいるのかすらわからない。
(──僕は、生きてるのかな)
(──レイさんを、救った。僕はヒーローとして──)
(──でも、その後──)
記憶が途切れている。空が割れた。光が溢れた。レイを抱きしめた腕の温もりだけが残っている。その後は──白い。何もない。
「──起動解除。彼の意識の覚醒を確認」
声が聞こえた。女の声。冷静で、硬質で、どこかで聞いたことがある。
「シンジくん」
また声。今度は──ミサトさんの声? でも、違う。ミサトさんの声より低く、硬く、冷たい。
「──あなたはもう、何もしないで」
その言葉が、意味を持って届く前に。
光が弾け、意識が引き戻された。
◆◆◆
---
目を開けると、そこは医務室だった。
天井が高い。白い壁。消毒液の匂い。だが──どこか違う。第3新東京市のネルフ本部ではない。空気が違う。金属の質感が違う。どこかでエンジンの低い唸りが聞こえる。船の中だ。
シンジはベッドの上に上半身を起こした。身体が重い。関節が錆びついたように動かない。まるで長い間眠っていたような──
「──気づいた?」
声がした。ベッドの脇に、誰かが立っていた。
赤いジャケット。眼帯。長い赤い髪。だが──顔つきが違う。以前会った時より、鋭くなっている。目が、違う。少女の目ではなく、戦士の目だ。
「──アスカ、ちゃん?」
「アスカでいいわ。もうちゃん付けなんて似合わないもの」
アスカは腕を組み、ベッドを見下ろしていた。その表情に、以前のような刺々しい感情的な怒りはなかった。代わりにあるのは──冷たい、無機質な拒絶。
「あれから14年、たったのよ」
「──14年」
数字が、頭の中で反響した。14年。14年。僕は14年間──眠っていた? それとも──
「待って。14年って──僕、ずっと──」
「あんたが勝手に起こしたサードインパクトのせいで、世界はこうなったわ」
アスカは窓を指した。自動シャッターが開き、外の光が流れ込む。
──赤い。
空が、赤い。大地が、赤い。海が、赤い。何もかもが、血のような色に染まっている。第3新東京市の跡形もない。ビルも、道路も、学校も、何もかもが──消えていた。
「──これが、あんたがやったことよ」
アスカの声には、怒りも悲しみもなかった。ただ事実を述べるだけの、平坦な声。
「──僕が」
シンジの手が震えた。
「──僕が、やったの」
「レイを救うんだったか何だったか知らないけど、あんたが初号機で暴走したせいで、世界は一度終わったの。私たちが必死に止めたけど──大部分は失われた」
アスカはシンジの顔を見なかった。見るのが嫌なのか、見る価値がないと思っているのか──どちらかだろう。
「──で、アンタは14年寝てたわけ。のんきなもんよね」
「──アスカちゃん、僕──」
「呼ばないで」
声が、氷のように冷たかった。
「アンタの声を聞くと、むかつくの。あんたが「ヒーロー」ぶって暴れた結果がこれよ。お笑い草ね」
──ヒーロー。
その言葉が、胸に突き刺さった。
(──ヒーロー。僕は、ヒーローとしてレイさんを救った。でも──)
(──世界が終わった? 僕のせいで?)
(──僕がヒーローだから? それとも──ヒーローじゃなかったから?)
思考が循環する。答えが出ない。答えが出ないのに、身体は震えている。
「──アスカ。彼を連れてきて」
廊下の向こうから、ミサトの声がした。
だが──ミサトではなかった。短い髪。軍服。隻眼。口元に紅を塗った、冷徹な指揮官の顔。葛城ミサトは──別人のように変わっていた。
「──ミサトさん?」
「言い訳は聞かない。説明もしない」
ミサトはシンジを見た。だがその目には、かつての保護者の温もりはなかった。あるのは──作戦部長としての冷徹な判断と、微かな──本当に微かな──痛み。
「あなたにはこれをつけておくわ」
ミサトが取り出したのは、首輪だった。金属と機械の混じった、黒い首輪。
「──DSSチョーカー。エヴァに乗ったら爆発する仕組みよ」
「──え?」
「あなたがもう一度エヴァに乗って暴走したら、これが起動して──首が吹き飛ぶの。私たちが止めるための、最後の安全装置よ」
シンジは首輪を見た。冷たい金属の光沢。爆弾を内蔵した首輪。自分の首にかけられる、死の約束。
(──殺される? 僕が? ミサトさんに?)
「──なんで」
声が震えた。
「僕、みんなを救うヒーローとして──」
「ヒーロー?」
ミサトの声が、鋭くなった。
「あなたはもうヒーローじゃないの。あなたは──危険物よ」
その言葉が、最後の一撃だった。
ヒーローではない。
危険物。
僕はヒーローじゃない。
ヒーローじゃない僕は──要らない子だ。
要らない子は──捨てられる。
「──っ」
呼吸が浅くなった。過呼吸の予兆。だが──マーリンの声は届かない。マーリンの麻酔は来ない。花の香りも、温かい手も、膝枕も──何も来ない。
(──マーリンさん)
(──マーリンさん、いないの?)
(──マーリンさんも、いなくなったの?)
「──シンジくん」
ミサトが言った。冷たい声の中に、微かな──本当に微かな──揺れがあった。
「あなたはもう、何もしないで」
◆◆◆
---
その後のことは、断片的にしか覚えていない。
ヴィレ。ネルフ壊滅を目的とした組織。ミサトたちが作った、かつてのネルフと戦うための軍。自分たちが敵になった理由。シンジには理解できなかった。
ゼーレ。ネルフ。EVA。使徒。インパクト。言葉が飛び交い、情報が溢れるが、何一つ頭に入ってこない。14年の空白が、全てを断絶している。
やがて、警報が鳴った。
「──NERVの追手よ! Mark9が接近してくる!」
「──レイさん!?」
零号機に似た、だが異なる機体がヴンダーに襲来してくる。その機体に乗っているのは──綾波レイに似た少女。だが、レイではなかった。冷たい瞳。感情の削ぎ落とされた声。レイの「形」をしているが、中身が違う。
「──来て。碇くん」
少女が言った。レイの声で。だがレイの温度はない。
「──こっちへ来て」
シンジは──ついていった。
ついていくしかなかった。ミサトたちは冷たく、アスカは拒絶し、世界は赤く、何もかもがわからない。ただ──レイの形をした少女の後についていくしかなかった。
ヴンダーを離れる時、ミサトが一言だけ言った。
「──さよなら、シンジくん」
その声が、冷たさの中に──ほんの一粒だけ──温かさを含んでいたのを、シンジは聞き逃さなかった。だが、それだけだった。振り返ることもできなかった。
◆◆◆
---
ネルフ本部は、廃墟だった。
かつての地下都市の一部が、瓦礫の山の中に辛うじて残っている。薄暗い廊下。点滅する非常灯。誰もいない。働いている者の姿もない。ただ、機械が回っているだけ。巨大な空っぽの要塞。
ゲンドウがいた。
父は──変わっていなかった。9年前と──いや、14年前と全く同じ姿。同じ眼鏡。同じ手袋。同じ冷酷な眼差し。
「──時が来たら、そこの少年と13号機に乗れ」
それだけだった。
説明もない。理由もない。「時が来たら」の「時」がいつなのかもわからない。ただ命令だけが降りてくる。
シンジは──何も言えなかった。
(──お父さんは、僕を呼んだ。またエヴァに乗れって。また──)
(──でも、ミサトさんたちは「何もするな」って言った。エヴァに乗ったら殺すって)
(──僕は、どうすればいいの)
(──ヒーローとして戦えば世界が終わる。ヒーローじゃなきゃ捨てられる)
(──どっちにしても──)
思考が循環する。出口のない迷路。五歳の頃から続く、同じ迷路。
(──マーリンさん。マーリンさんなら、答えを知ってる。マーリンさんなら──)
だがマーリンはいない。あの夜、擬似シン化の最後に消えて以来──一度も姿を見せていない。声も届かない。花の香りも漂わない。
(──マーリンさんも、僕を捨てたのかな)
(──ヒーローじゃなくなった僕を、やっぱり──)
◆◆◆
---
シンジはネルフの居住区を彷徨っていた。
薄暗い廊下。点滅する灯り。自分の足音だけが響く。他に誰もいない。ゲンドウは執務室に戻り、アヤナミレイは自分の部屋に消えた。
シンジは一人だった。
14年の時を経て、世界は変わり、人は変わり、何もかもが変わった。ただ──自分だけが、14歳のまま取り残されている。
(──僕は、何のために生きてるんだろう)
足が止まった。
廊下の突き当たり。窓の外に、赤い空が見える。夕焼けではない。朝焼けでもない。ただ赤い。血のように、傷口のように赤い。
「──綺麗だね」
声がした。
シンジは──振り返った。
そこに、少年が立っていた。
銀色の髪。赤い瞳。白い肌。細身の体に、白いシャツ。年齢はシンジと同じくらい。だが──その瞳は、年齢を感じさせない。もっと深く、もっと古く、もっと静かな光を湛えている。
「──君は」
「初めまして、碇シンジくん。僕は渚カヲル。君と同じ、エヴァのパイロットだよ」
カヲルは微笑んだ。柔らかく、静かで、どこか悲しい微笑み。
「君のことは、ずっと見ていたんだ」
「──見てた?」
「うん。君が戦って、傷ついて、笑って、壊れていくのを──ずっと見ていた」
シンジは一歩退いた。「見てたって──何を」
「全部を」
カヲルは言った。
「君が自分を『ヒーロー』だと言い聞かせて、痛みを麻痺させて、恐怖を押し込めて、笑い続けてきたこと。君の夜ごとの過呼吸も、自傷も、吐血も──全部見ていた」
シンジの血の気が引いた。
「──何、言って──」
「そして、君に『ヒーロー』の嘘を吹き込んだ魔術師のことも知っている」
──時が、止まった。
「──魔術師?」
「白銀の髪を持った、半夢魔の男だよ。君に『ヒーローになれば愛される』という呪いをかけたんだ」
カヲルの赤い瞳が、シンジの瞳を覗き込んだ。
「君の魂に、まだその呪いの残滓が巻き付いている。薄くなっているけれど──まだ、残っている」
シンジは──震えていた。
「──マーリンさんのことを、知ってるの?」
「知っているよ」
カヲルは静かに言った。
「彼は僕と同じ種類の存在だ。この世界の理の外側から来た。君に憐れみと愛を与えた。でも──その愛は、君にとって呪いになった」
「──呪いって。マーリンさんは──マーリンさんは僕を──」
「愛していたよ。本当に。それは嘘じゃない」
カヲルの声には、嘘がなかった。
「でも、愛し方が間違っていた。君の痛みを麻痺させ、君の恐怖を消し、君に『ヒーロー』という仮面を被せた。それで君は──壊れ始めた。痛みを感じないから自分が壊れていることにすら気づかない。恐怖を感じないから、どこまで行けば止まればいいかわからない。仮面を被っているから、仮面の下の自分が誰かわからなくなる」
シンジは壁に背を預けた。足が震えている。呼吸が浅くなっている。
「──でも。マーリンさんは──僕のために──」
「うん。彼は君のためにやった。でも同時に、彼自身のためにやった。この世界が崩壊したら、彼の居場所がなくなるから。君を使って世界を救おうとした」
「──でも、君自身のことを──君が何を感じ、何に苦しみ、何を望んでいるか──彼は最後まで聞かなかった」
その言葉が、胸に突き刺さった。
(──マーリンさんは、僕の痛みを消してくれた。僕の恐怖を消してくれた。僕の夜を温めてくれた。でも──)
(──僕の痛みを、聞いてくれたことはあった?)
(──僕の恐怖を、聞いてくれたことはあった?)
(──僕が「痛い」と言った時、「痛くなくしてあげる」と言った。「怖い」と言った時、「怖くなくしてあげる」と言った。でも──「痛いね」「怖いね」と──ただ、認めてくれたことは──)
(──あった?)
シンジは泣いていた。
涙が頬を伝わり、床に落ちる。音もなく。ただ、落ちる。
「──君は辛かったんだね」
カヲルが言った。
「ヒーローなんて演じなくていいんだよ、シンジくん」
その言葉が──14年間、一度も聞いたことのない言葉が──シンジの胸の奥で、何かを解かした。
「──演じなくて、いいの?」
「いいんだよ」
「──でも、演じなきゃ──捨てられる。要らない子になる。お父さんに──ミサトさんに──マーリンさんに──」
「誰にも捨てられないよ。君は君だもの」
カヲルは、シンジの隣に座った。肩が触れる距離。温かい体温。鼓動が聞こえる距離。
「僕が、君のそばにいる」
シンジは──泣いた。
声を殺して。14年の空白を埋めるように。14年間誰にも聞こえなかった夜ごとの泣き声を、初めて他人の前で──声に出して、泣いた。
カヲルは何も言わなかった。ただ、隣に座っていた。肩が触れる距離で。温かい体温を保ったまま。
◆◆◆
---
それから数日。
カヲルとシンジは、ネルフの薄暗い居住区で時間を過ごした。
ピアノがあった。誰も使っていない埃を被ったグランドピアノ。カヲルが蓋を開け、鍵盤を押した。音が、薄暗い廊下に響いた。
「──弾いてみる?」
「僕、ピアノ弾けないよ」
「教えてあげる。簡単だよ」
カヲルの手がシンジの手の上に重なった。鍵盤を押す。音が鳴る。不器用なメロディが、薄暗い廊下に響く。
「──上手だね」
「嘘つきだなぁ、カヲルくん」
「嘘じゃないよ。君は素直だ。音が素直だ」
シンジは──笑った。
小さく、不器用で、でも──ペルソナではない笑み。無理に作った完璧な笑顔ではない、ただの少年の笑み。
(──久しぶりに、笑った気がする)
(──「ヒーロー」としてではなく、ただ──笑った)
カヲルはその笑みを見て、静かに微笑んだ。
「──シンジくん。君は知りたいことがあるよね。この14年間に何が起きたのか。この世界に何が起きたのか」
「──うん。でも──怖い」
「怖くても、見ることは大事だよ。僕が一緒にいるから」
カヲルはシンジを連れて、ネルフ本部の展望デッキに出た。
赤い空が広がっていた。赤い海が広がっていた。崩壊した大地が広がっていた。かつて第3新東京市だった場所に、何もない。何も。ただ赤い荒野が広がっているだけ。
「──これが、君が起こしたサードインパクトの結果だよ」
カヲルは静かに言った。
「君が初号機で暴走して、レイくんを救った。でもその代償として、世界は一度崩壊した。ミサトさんたちが必死に止めたけれど──大部分は失われた」
「──僕が」
「うん。君がやった。でも──君だけの責任じゃない。僕も、ゼーレも、ゲンドウも、みんな関係している。ただ、君が最後の引き金を引いた」
シンジは赤い空を見た。
(──僕がやった。ヒーローとしてレイさんを救った。でも世界が──)
(──やっぱり、僕はヒーローじゃなかったんだ。ヒーローなら、世界も救えたはずなのに)
(──僕が悪い。僕が──)
「──シンジくん」
カヲルが言った。
「君は自分を責めすぎている。君は十四歳の子供だ。世界の重荷を一人で背負えるわけがない」
「──でも、マーリンさんは言った。僕は選ばれたヒーローだって。世界を救うために──」
「それは嘘だよ」
カヲルの声は静かだったが、鋭かった。
「君は選ばれたんじゃない。利用されたんだ。マーリンという男に、彼の都合のいいように」
「──でも、マーリンさんは──」
「愛していたよ。それは本当だ。でも、愛していたことと、正しいことをしたことは違う。彼は君の痛みを消した。でもそれは、君の痛みを認めたのではなく、見なかったことにしただけだ。彼は君に『強くあれ』と言った。でもそれは、君が弱くていいと言うことを拒否したんだ」
シンジは──何も言えなかった。
カヲルの言葉が、胸の奥の何かを──少しずつ、丁寧に、壊していく。ヒーローのペルソナを。マーリンが作り上げた、完璧な仮面を。
「──でも、僕は──ヒーローじゃなかったら、何なの? 僕は何のために──」
「君は君だよ、シンジくん。ヒーローでも、パイロットでも、誰かの息子でもない。ただの、碇シンジという一人の人間だ」
「──ただの、人間」
「うん。痛くて、怖くて、弱くて、でも優しい。ただの、人間」
シンジは赤い空を見上げた。
(──ただの、人間。痛くて、怖くて、弱くて、でも優しい──ただの、人間)
(──それで、いいのかな。それで──生きてて、いいのかな)
「──いいんだよ」
カヲルが言った。シンジが口に出さなかった問いに、答えた。
「君は生きていていい。君は君でいい」
シンジは──泣いた。
赤い空の下で、14年分の涙を流した。ヒーローの仮面を少し──ほんの少しだけ──緩めて、泣いた。
◆◆◆
---
だが。
翌日。冬月が来た。
「──シンジ。お前に伝えておくべきことがある」
冬月は薄暗い会議室で、淡々と言った。
「君が救った綾波レイは──あのレイは、もういない」
「──え?」
「君が救ったレイは、サードインパクトの際に消滅した。君が助けたと思っていたのは──ただの肉体だった。魂は──なかった」
「──嘘だ」
「嘘ではない。君が救ったのは、空っぽの器だ。そして、その器も──今はもうない」
「──嘘だよ! 僕が救った! 僕が初号機で──レイさんを──」
「そして、もう一つ」
冬月は眼鏡を押し上げた。
「綾波レイは──君の母、碇ユイのクローンだ」
──時が、止まった。
「──母さんの、クローン?」
「そうだ。碇ユイの遺伝情報を元に作られた、人造の人間。それが綾波レイだ。君が『救った』のは、母の複製に過ぎない」
シンジの足が崩れた。
膝が折れ、床に崩れ落ちる。手が床を叩く。爪が割れるほど、何度も、何度も。
「──嘘だ。嘘だ。嘘だ」
呪いのように繰り返す。
(──レイさんは。僕が救ったレイさんは。あの温かい手。卵焼きを食べてくれた唇。「ありがとう」と言ってくれた声。あれは全部──母さんの複製?)
(──僕が救ったのは、何だったの?)
(──僕がヒーローとして救ったのは、何だったの?)
(──僕が世界を壊してまで救ったのは──)
「──嘘だ」
最後の「嘘だ」が、空しく響いた。
カヲルが駆け寄った。
「シンジくん!」
「──僕が。僕が救ったのに。レイさんを。ヒーローとして。僕が──」
「シンジくん、落ち着いて」
「──全部嘘だったの? 僕がヒーローだったのも、レイさんを救えたのも、全部──」
「シンジくん!」
カヲルがシンジの肩を掴んだ。赤い瞳が、シンジの瞳を真っ直ぐに見た。
「落ち着いて。深呼吸をして。いち、に、さん、し──」
マーリンがかつてやったように。カヲルはシンジの呼吸を整えようとした。だが──マーリンとは決定的に違っていた。
マーリンは「痛みを消した」。カヲルは「痛みを認めた」。
「──辛いね。苦しいね。でも、それでいいんだよ。君は今、痛いって感じている。それは──君が生きている証拠だ」
痛い。
痛い。
痛い。
マーリンの麻酔なしの痛みが、14年分の蓄積と共に、一気に押し寄せてくる。
「──痛いよカヲルくん。痛い。痛いよ」
「うん。痛いよね。でも、僕がいる。僕が、君のそばにいる」
カヲルはシンジを抱きしめた。マーリンがかつてやったように──いや、マーリンとは決定的に違うやり方で。痛みを消さず、恐怖を消さず、ただ「そこにいる」ことで。
シンジは泣いた。カヲルの腕の中で、14年間の痛みを、初めて「痛い」と認めて泣いた。
◆◆◆
---
それから数日。
シンジは自暴自棄だった。
食事を取らなくなった。水だけ飲み、部屋の隅に座り、壁を見つめている。カヲルが声をかけても、ほとんど応答がない。ピアノにも行かない。
(──僕は何のために戦ってきたんだろう)
(──ヒーローとして。マーリンさんに言われた通りに。痛みを麻痺させて、恐怖を消して、笑い続けて。でも──)
(──レイさんは消えた。世界は終わった。ミサトさんたちは僕を殺そうとした。マーリンさんは消えた。お父さんは──僕を利用している)
(──僕がヒーローだったら、こんなことになってなかったはずだ。ヒーローなら、全てを救えたはずだ。ヒーローなら──)
(──でも、ヒーローじゃなかったから、こうなった。僕が弱かったから。僕が──)
(──やっぱり、僕が悪いんだ。僕がもっと頑張れば、もっと強ければ、もっと──)
思考が循環する。出口のない迷路。五歳の迷路。14年経っても、同じ迷路。
(──マーリンさん。マーリンさん。マーリンさん──)
呼んでも答えは来ない。花の香りも、温かい手も、膝枕も──何も来ない。
(──やっぱり、僕を捨てたんだ。ヒーローじゃなくなった僕を──)
その時。
カヲルが来た。
「──シンジくん。13号機に乗る命令が下った」
「──13号機」
「うん。君と僕で、13号機に乗る。セントラルドグマに刺さっている2本の槍を抜きに行く」
「──槍?」
「そう。2本の槍と13号機を使えば──世界を、作り替えられる」
シンジの目が、微かに動いた。
「──世界を、作り替えられる?」
「うん。やり直せるんだよ、シンジくん。あの夜を」
素直な美少年っていいですよね!