偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」 作:Tommy's Workers
君はヒーローなんかにならなくてよかったんだ。
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赤い砂漠の果てに、村があった。
第三村。WILLEの生存者たちが、赤く変質した大地の片隅に辛うじて築き上げた、人間の営みの最後の砦。畑があった。井戸があった。乾いた風に揺れる洗濯物があった。崩壊した世界の中で、人々はそれでも──生きていた。
シンジは、村の外れに座っていた。
川辺の土手。枯れかけた草の上。膝を抱え、顔を埋め、動かない。朝からずっとこうだ。昨日もそうだった。一昨日も。
アスカが朝食を置いていった。手をつけなかった。
アヤナミレイがおにぎりを届けてくれた。手をつけなかった。
村の子供が声をかけた。返事しなかった。
大人が話しかけた。反応しなかった。
シンジは──いなかった。
肉体はある。呼吸はしている。心臓は動いている。だが──中身がなかった。目を開けても何も映らない。耳に入っても音にならない。手を伸ばしても触れない。
廃人。喋ることも食べることもできない状態。
アスカはそれを「終わった人間」と呼んだ。声には軽蔑と──ほんの少しの哀れみが混じっていた。
アヤナミレイは毎日おにぎりを届けた。シンジが食べなくても、毎日。欠かさず。そして──毎日、一つの小さな問いを心に抱き続けた。
(──碇くんは、いつになったら笑ってくれるのだろう)
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◆◆◆
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アヤナミレイ──「そっくりさん」は、シンジの横に座ることが多かった。
何も言わなかった。ただ座っていた。川の流れを見つめながら、シンジの横で、同じように膝を抱えて。
ある日、村の畑でとれたトマトを持ってきた。赤いトマト。世界が赤く染まった後でも、トマトは赤く実る。それがレイには不思議だった。
「──碇くん。トマト、赤い」
シンジは反応しなかった。
「──畑で育てた。鈴原くんの妹が、育てていた」
反応しなかった。
「──美味しいと思う。食べてほしい」
反応しなかった。
レイはトマトをシンジの隣に置いた。そして座り続けた。日が傾き、影が伸び、風が冷たくなるまで。
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アスカは、時々来た。
来るたびに苛立っていた。
「──ちょっとバカシンジ。いつまでそうやって座ってるのよ。ご飯も食べないで。あんた子供でしょ。大人がどれだけ苦労してこの村を守ってると思って──」
言葉が途切れた。シンジの目が──死んでいるから。
アスカは舌打ちし、持ってきたパンをシンジの前に置き、去っていった。
去り際、一度だけ振り返った。シンジの背中を見た。小さくて、細くて、骨ばった背中。十四歳のままの背中。十四年間、一ミリも成長していない背中。
(──あんた、ほんとに──終わったの?)
アスカは何も言えず、去った。
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ある日、村の子供がシンジに近づいた。
小さな男の子。5、6歳。村で生まれた子供。崩壊した世界しか知らない子供。
「──ねえ、お兄ちゃん。何してるの?」
シンジは反応しなかった。
「──お腹空かないの? お母さんがパンくれたよ。半分あげる」
シンジは反応しなかった。
子供はシンジの隣に座った。アヤナミレイと同じように。何も言わず、ただ隣に座った。
しばらくして、子供が言った。
「──お兄ちゃん、泣いてるの?」
シンジの頬は乾いていた。涙は流れていない。だが──子供には見えたのかもしれない。表面に現れない涙が。心の奥底で凍りついた涙が。
「──大丈夫だよ。お母さんが言ってた。泣いてる時は、誰かがそばにいればいいって」
子供はシンジの手を握った。小さくて温かい手。
シンジの指が──微かに、動いた。
本当に微かに。子供すら気づかないほどの、ほんの少しの動き。
だが──それは確かに動いた。
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アヤナミレイは、それを見ていた。
子供が去った後、レイはシンジの隣に座り直した。
「──碇くん」
反応しない。
「──あの子が来た時、あなたの手が動いた。見えた」
反応しない。
「──あなたは、まだそこにいる」
反応しない。
だが──レイは確信した。シンジは「終わって」いない。ただ──戻ってこれないだけだ。暗い水底に沈んだまま、水面に向かって手を伸ばせないだけだ。
(──碇くんが笑ってくれること)
(──それが、私の──)
レイは言葉を探した。自分の何を望むのか。何をしたいのか。自分自身にもわからない。ただ──シンジが笑ってくれたら、なぜか「ぽかぽか」するような気がする。
「──おにぎり、作った。今日は梅干し入り」
レイはおにぎりをシンジの前に置いた。
「──食べてほしい。でないと──私が、悲しい」
その言葉に、シンジは──反応しなかった。
だがレイは、毎日おにぎりを届け続けた。毎日、毎日。
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◆◆◆
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マーリンは、今公園にいる。
──いや。
正確には、公園の跡地にいた。
第3新東京市があった場所から遠く離れた、赤い荒野の一角。かつて公園だった場所の名残。ブランコの枠が錆びて残っている。滑り台の骨組みが砂に埋もれている。ベンチの板が腐って、鉄の枠だけが転がっている。
マーリンは、その錆びたベンチの枠に座っていた。
半透明の幻影ではなかった。実体があった。白銀の髪が風に揺れ、仕込み杖が砂に突き刺さっている。白い肌。紫色の瞳。だが──その顔は、以前の飄々とした「花の魔術師」の顔ではなかった。
やつれていた。頬がこけ、目の下に隈が浮き、唇が乾いている。仕込み杖を握る手が微かに震えている。
魔力が戻りつつあった。長い時間をかけて、少しずつ。アヴァロンを全力行使し、擬似シン化の維持に全魔力を注ぎ込んだ代償は大きかった。だが──戻りつつあった。
戻りつつある、力。
だが──力が戻ったところで、何になるのか。
(──僕が戻ったところで、シンジくんはもう──)
マーリンは錆びたベンチの枠を見つめていた。千里眼で観る事だけは出来ていた時のことを思う。
(──僕がかけた呪いのせいで、あの子は壊れた。ヒーローになれば愛される。ヒーローでなければ捨てられる。その二つの間で揺れ続け、最後に──どちらでもなくなった)
(──カヲルくんに「ヒーローなんて演じなくていい」と言われながら、まだ「ヒーローに戻りたい」と言った。その呪いの強さを思うと──)
(──僕が、あの子の魂に刻んだ傷は──消えないのかもしれない)
風が吹いた。赤い砂が舞い、マーリンの白銀の髪を濡らすように覆う。
マーリンは立ち上がった。
仕込み杖を砂から引き抜き、歩き出した。
第三村へ。
シンジのいる場所へ。
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◆◆◆
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川辺の土手に、少年が座っていた。
膝を抱え、顔を埋め、動かない。枯れかけた草の上に、小さく丸まった背中。十四歳のままの背中。十四年間、一ミリも成長していない背中。
マーリンは──その背中を見た。
遠くから。土手の上から。
風が吹いていた。川の水が鈍い音を立てている。赤い空の下、赤い土の上、赤い水の流れ。
(──シンジくん)
胸の奥が、締めつけられた。
(──小さくなった。いや──変わっていないのか。十四歳のまま、止まっている。僕が最後に見た時と──同じ)
(──でも、違う。あの時は──泣いていた。痛いと言って、怖いと言って、僕の膝で泣いていた。今は──泣いてもいない。痛いとも言わない。怖いとも言わない。ただ──動かない)
(──それが、僕のしたことだ)
マーリンは土手を降りた。一歩、一歩。砂を踏む音が、静かな空気に響く。
十歩。二十歩。三十歩。
シンジの背中が近づいてくる。小さくて、細くて、骨ばった背中。
マーリンは──シンジの背後で、止まった。
立ち止まった。何を言えばいいのかわからなかった。何を言えば、この少年に届くのかわからなかった。
九年間、隣にいた。痛みを麻痺させ、恐怖を消し、夜な夜な膝枕をして、スープを飲ませて、髪を撫でて──「君はヒーローだ」と言い続けた。
だが──それは全部、嘘だった。
いや、嘘ではなかった。愛は本物だった。だが──愛し方が、間違っていた。
(──僕は君の痛みを消した。でもそれは、君の痛みを認めたのではなかった。見なかったことにしただけだった)
(──僕は君に「強くあれ」と言った。でもそれは、君が弱くていいと言うことを拒否しただけだった)
(──僕は君に「ヒーローになれば愛される」と言った。でもそれは──「ヒーローでなければ愛されない」という呪いだった)
(──君はその呪いを抱えて、九年間、笑い続けた。痛みを麻痺させ、恐怖を押し込み、夜ごとに自分の腕を噛みながら──笑い続けた)
(──そして最後は、ヒーローに戻りたくて、世界を二度も壊しかけて、唯一の理解者を殺して──壊れた)
(──それをやったのは、僕だ)
マーリンは──膝をついた。
錆びた仕込み杖が砂に突き刺さる。白銀の髪が前に垂れる。マーリンは──頭を下げた。
シンジの背中に向かって。地面に向かって。九年間の罪に向かって。
「──ごめんね、シンジくん」
声が、震えていた。
飄々とした「花の魔術師」の声ではなかった。甘く優しい「お兄さん」の声でもなかった。ただの──一人の情けない大人の声だった。
「──君を『ヒーロー』に仕立て上げたのは、僕自身がこの世界を失いたくなかったからだ」
シンジの背中は動かない。
「──君という優しい子に、世界中の重荷と痛みを押し付けていたんだ」
風が吹いた。川の音が遠くなる。
「──僕は君に『ヒーローになれば愛される』と言った。でもそれは──僕自身が、君に愛されていたかったのかもしれない。君に必要とされたかった。君の『そばにいる理由』が欲しかった」
「──君の痛みを消せば、君は僕を必要とする。君の恐怖を消せば、君は僕から離れられない。僕は──それを、愛だと信じていた」
声が途切れた。喉が詰まる。
「──でもそれは愛じゃなかった。支配だ。呪いだ。君を縛り付けて、君の本来の姿を奪って、君を──壊した」
マーリンの目から、涙が落ちた。
白銀の魔術師の涙が、赤い砂に染みを作る。
「──君はヒーローなんかにならなくてよかったんだ」
その言葉が、空気に溶けた。
「──ただ、君として生きていればよかったんだ」
「──痛い時は痛いと言っていい。怖い時は怖いと言っていい。弱い時は弱いと言っていい。──泣きたい時は、僕の膝で泣いてくれてよかった。痛みを消さずに、ただ──抱きしめるだけでよかった」
「──でも僕は、君の痛みを消した。君の恐怖を消した。君の弱さを否定した。君に仮面を被せた。──君を、君じゃないものにしてしまった」
「──ごめんね」
「──ごめんね、シンジくん」
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沈黙。
風の音だけが響いている。川の水音。遠くで鳥が鳴いている。
シンジは──動かない。
動かない。
だが──
「──」
唇が、動いた。
音は出なかった。だが唇は確かに動いた。
マーリンは──それを見た。
震える手で、シンジの肩に触れた。
温かかった。冷たいのではない。温かい。生きている。シンジは生きている。中身が空っぽでも、身体は生きている。
「──シンジくん」
マーリンはシンジの隣に座った。肩が触れる距離。かつて毎晩やったように。だが──今回は、魔術を使わない。痛みを消さない。恐怖を消さない。ただ──隣に座る。
「──僕は、君に何も返せないかもしれない。君の九年間を、君の痛みを、君の涙を──僕は取り消せない」
「──でも、少なくとも──これからは、君の痛みを消さずに、隣にいる」
「──君が痛い時は、痛いねと言う。君が怖い時は、怖いねと言う。君が泣きたい時は──ただ、抱きしめる」
「──それが、君にしてあげられる、唯一の正しいことだから」
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シンジの手が──動いた。
微かに。本当に微かに。
膝を抱えていた手が、緩んだ。
顔が──少しだけ、上がった。
虚ろな目が──マーリンを見た。
何も映していない瞳。だが──その奥で、何かが──微かに──震えた。
「──ま...」
声が、漏れた。
掠れて、枯れて、蚊の鳴くような声。だが──確かに、声が出た。
「──ま...り...ん」
マーリンの目から、また涙が落ちた。
「──うん。いるよ」
「──さん」
「──うん」
シンジの目から──涙が、落ちた。
一滴。ただ一滴。
凍りついた涙が、九年間の蓄積された涙が──一滴だけ、溶けた。
「──マーリンさん」
「──うん」
「──僕は──」
声が途切れた。だが──マーリンは待った。急かさなかった。麻酔をかけなかった。ただ待った。
「──僕は、ヒーローじゃ、なくて、いいの」
その言葉が、風に溶けた。
問いだった。確認だった。あの夜何度も繰り返した「僕は上手くやってるよね?」と同じ構造の──だが、決定的に違う問い。
「上手くやってるか」ではなく「良くてもいいのか」という問い。
マーリンは──答えた。
「──いいんだよ」
「──君はヒーローじゃなくていい。君は君でいい」
「──痛くて、怖くて、弱くて、でも優しい──ただの、碇シンジでいい」
シンジは──泣いた。
声を出して泣いた。十四年分の涙を、一気に流した。壊れた水門のように。止まらなくなるまで。
マーリンは──シンジを抱きしめた。
痛みを消さずに。恐怖を消さずに。魔術なしで。ただ──抱きしめた。
「──痛いね」
「──うん」
「──怖いね」
「──うん」
「──辛いね」
「──うん」
「──でも、君は君だよ。痛くても、怖くても、辛くても──君は、君でいい」
シンジはマーリンの胸で泣き続けた。長い時間。太陽が傾き、影が伸び、風が冷たくなるまで。
だが──泣きながら、何かが変わった。
凍りついた心の中で、何かが──溶け始めた。
雪解けのように。ゆっくりと。確かに。
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◆◆◆
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翌朝。
アヤナミレイがおにぎりを持って川辺に来た。
シンジが──立っていた。
土手の上に立っていた。膝を抱えて座っていない。顔を上げている。虚ろだった目に──微かに、だが確かに、光が戻っている。
「──綾波さん」
シンジが言った。
声は掠れていた。弱々しかった。だが──声が出た。
「──おにぎり、ありがとう。いつも持ってきてくれてたよね」
レイは──目を見開いた。
「──碇くん」
「──食べていい?」
「──ええ」
シンジはおにぎりを手に取り、一口食べた。
梅干しの酸味が舌に広がる。塩けが喉を通る。温かい。美味しい。──美味しいと、感じた。
「──美味しい」
シンジは言った。
そして──笑った。
小さく、不器用で、ペルソナではない笑み。完璧な「ヒーロー」の笑顔ではなく、ただの少年の笑み。
レイの胸の奥で──「ポカポカ」が、また一つ、大きくなった。
「──碇くんが、笑った」
「──うん。久しぶりに、笑った気がする」
シンジは空を見上げた。
赤い空。血のような空。だが──その中に、一筋の光が見えた。雲の隙間から漏れる、白い光。
「──綾波さん。僕、まだ──よくわからないんだ。何が起きたのか、何をすればいいのか、自分が何なのか──全部」
「──うん」
「──でも──もう、ヒーローじゃなくていいって言われたから」
「──誰に?」
「──マーリンさんに」
レイは──シンジの隣に立った。同じように空を見上げた。
赤い空の下、二人の影が並んで伸びる。
「──碇くん」
「──何?」
「──ポカポカする」
シンジは──少しだけ笑った。
「──僕も、ポカポカするよ」
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遠くから、マーリンが見ていた。
錆びたベンチの枠に座り、仕込み杖を杖にして、川辺の二人を見ている。
白銀の髪が風に揺れている。その瞳には──安堵と、まだ残る罪悪感と、そして──微かな希望が揺れていた。
(──君は、ヒーローじゃなくていい)
(──君は、君でいい)
(──それを君に伝えるまでに──九年かかった。いや、十四年か)
(──やれやれ)
マーリンは空を見上げた。
赤い空。だが──その赤さが、少しだけ薄れているように見えた。雲の隙間から漏れる光が、少しだけ広がっているように見えた。
(──まだ、終わりじゃない。君にはもう一つ──しなきゃいけないことがある)
(──でも、それは──君自身が決めることだ。僕が決めることじゃない)
(──僕は──ただ、見守るだけだ。魔術なしで。ただ──隣にいるだけだ)
マーリンは立ち上がった。仕込み杖を砂から引き抜き、歩き出した。
川辺の二人に向かって。
ゆっくりと。一歩ずつ。
花びらは舞わなかった。魔術は使わなかった。ただ──一人の大人が、二人の少年少女に向かって歩いていく。
風が吹いた。
赤い砂が舞い、川の音が響き、空の光が──少しだけ、広がった。