偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」   作:Tommy's Workers

15 / 18
おにぎり

 

 

---

 

アヤナミレイは、自分が消えかけていることを知っていた。

 

正確には──「溶ける」という言葉が一番近かった。

 

朝、起きると枕に髪が残っていた。本来なら髪は抜けても一本か二本だ。だが今朝は十本以上。掌に収まるほどの束が、濡れた糸のように枕に張り付いていた。

 

レイはそれを見た。じっと。表情を変えずに。ただ──見た。

 

(──ああ)

 

(──私も、溶けるんだ)

 

恐怖はなかった。綾波レイ──本物のレイがそうであったように、アヤナミレイもまた「死」に対して特別な恐怖を持たなかった。自分が何者かも、どこから来たのかも、なぜここにいるのかも──正確には知らない。ただネルフの指令によって作られ、ネルフの指令によって動かされてきた。魂の居場所がない。器の残骸に過ぎない。

 

だが──。

 

レイは枕の髪を拾い上げ、指で撫でた。細い。柔らかい。自分の髪なのに、もう自分のものではなくなりつつある髪。

 

(──碇くんは、笑った)

 

昨日のことを思い出す。川辺でおにぎりを渡した時、シンジが「美味しい」と言って、笑った。小さく不器用で、ペルソナではない笑み。

 

(──あの笑顔が見たかった)

 

(──見れた)

 

(──それだけで──)

 

胸の奥の「ポカポカ」が、また大きくなった。同時に──身体の奥で、何かが剥がれる感覚があった。魂の接着剤が、少しずつ溶けているような。

 

---

 

朝の畑仕事。

 

第三村の畑は赤い土の上に無理やり作られていた。肥料は限られ、水は井戸から汲み、太陽は赤い空を通して濁った光を落とす。それでも──トマトは赤く実った。キュウリは曲がりながら育った。ナスは小さいながらも紫に色づいた。

 

レイは畑で働いていた。鈴原トウジの妹──その妹の同級生たちと一緒に。子供たちはレイを「お姉ちゃん」と呼んだ。レイは呼ばれるたびに小さく首を傾げた。「お姉ちゃん」が何を意味するのか、よくわからなかったからだ。だが──嫌ではなかった。

 

「──お姉ちゃん、これ取って!」

 

小さな手がトマトを指差す。背の低い子供の手が届かない、枝の先のトマト。

 

レイは手を伸ばした。

 

──指先から、何かが落ちた。

 

青い粒子。光の粒。LCLの成分が空気に触れて分解された光の残滓。自分の指先から、少しの質量が──光になって零れ落ちた。

 

子供は気づかなかった。トマトを受け取り「ありがとう!」と走り去った。

 

レイは自分の指先を見た。透明になりかけている指先。輪郭が溶けかけている。

 

(──もう少しだけ)

 

(──もう少しだけ、ここにいたい)

 

その思いが──自分のものなのか、本物のレイの残響なのか──レイにはわからなかった。

 

---

 

昼。

 

シンジは、村の井戸のそばにいた。

 

マーリンが隣にいた。実体のある姿。やつれた顔。だが──そこにいる。幻影ではなく、実体として。

 

二人は並んで井戸の縁に座っていた。シンジはまだ弱々しかった。目は虚空を見つめていることが多い。だが──時折、マーリンの顔を見て、小さく頷く。それが今のシンジの精一杯の「会話」だった。

 

「──マーリンさん」

 

「──ん?」

 

「──あの子が来てた」

 

「あの子?」

 

「──そっくりさん。綾波さん。おにぎり持ってきてくれた」

 

「──食べたの?」

 

「──食べた。美味しかった」

 

マーリンは──小さく笑った。笑えた。久しぶりに、心から笑えた。

 

「──よかったね」

 

「──うん」

 

沈黙。風が吹いた。赤い砂が舞い、井戸の水面に波紋が立つ。

 

「──マーリンさん」

 

「何かな」

 

「──あの子、消えかかってるんだ」

 

マーリンの手が──止まった。仕込み杖を握る指が、一瞬だけ白くなる。

 

「──知ってた?」

 

「──うん。指先から光が出てた。見えた」

 

「──そう」

 

「──僕、あの子に何かしてあげられるかな」

 

「──何をしてあげたいの?」

 

シンジは考えた。久しぶりに「何かをしてあげたい」と思った。「自分が何かしたい」と思った。ヒーローとしてではなく、ただ──

 

「──おにぎり、返したい」

 

「──返す?」

 

「──あの子、ずっと僕におにぎり届けてくれてた。僕は何も返してない。だから──僕が作って、あげたい」

 

マーリンは──何も言えなかった。

 

(──君は、変われる)

 

(──「ヒーローだから助ける」じゃなくて「あの子がしてくれたことに返したい」と──自分の気持ちから動ける)

 

(──それが──)

 

「──作ってあげて」

 

マーリンは言った。

 

「──君のおにぎり、きっと喜んでくれるよ」

 

シンジは──立ち上がった。

 

ふらつく足で。弱々しく。だが──自分の足で。誰かに支えられてではなく、自分の意志で。

 

---

 

台所があった。村の共同調理場。

 

シンジは米を研いだ。水が濁り、濁り、澄んでいく。指先が冷たい水に触れる。感覚が──戻ってきている。少しずつ。魔術なしの生の感覚。冷たい。痛い。手が荒れている。指の皮がめくれている。だが──感じる。感じることができる。

 

(──僕は、感じてる)

 

(──マーリンの魔術なしで──自分で感じてる)

 

米を炊き始めた。釜が沸騰し、蒸気が上がり、米の匂いが漂う。白い蒸気が赤い空の下で霞のように広がっていく。

 

具材はない。梅干しはレイが使っていた。塩だけ。でも──塩むすびでもいい。シンジは塩を掌に取り、握った。

 

三角の形。海苔を巻く。──海苔がない。海苔なしの塩むすび。不格手だ。形が揃わない。大きさもバラバラだ。かつて完璧だった「ヒーロー」の弁当とは程遠い、拙いおにぎり。

 

だが──

 

(──美味しいといいな)

 

(──あの子が、美味しいと言ってくれたらいいな)

 

その願いは──「ヒーローとして完璧に作る」ことではなかった。ただ──「誰かのために何かを作りたい」という、ただの少年の願いだった。

 

---

 

夕方。川辺。

 

レイはいつもの場所にいた。土手の上。枯れかけた草の上。膝を抱えて座っている。自分の身体が──少しずつ、透明になりかけているのが見えた。腕の輪郭が、夕日の中で溶けている。青い光の粒が、風に乗って舞っている。

 

(──もう、時間があまりない)

 

(──でも──)

 

足音がした。

 

レイは顔を上げた。

 

シンジが立っていた。手に──おにぎりを持っている。不格手な、海苔のない、塩むすび。

 

「──綾波さん」

 

シンジは笑った。不器用な笑み。ペルソナではない笑み。

 

「──これ、僕が作ったんだ。食べてくれる?」

 

レイは──目を見開いた。

 

「──あなたが」

 

「──うん、僕が作った。美味しいかわからないけど」

 

シンジはレイの隣に座り、おにぎりを差し出した。

 

レイは手を伸ばした。──指先が透明になりかけている手。輪郭が溶け、光の粒が舞う手。その手で、シンジのおにぎりを受け取った。

 

一口。

 

噛む。飲み込む。

 

「──美味しい」

 

「──よかった」

 

シンジは安堵した、本心からの安堵。ヒーローとしての「役割を果たした」安堵ではなく──「あの子が美味しいと言ってくれた」安堵。

 

「──綾波さん」

 

「──何」

 

「──ずっとおにぎり届けてくれてたよね。僕が何も返せなかったのに」

 

「──返さなくてよかった。私は──あなたが笑ってくれるなら、それで──」

 

「──でも、僕が作りたかった。僕の意志で」

 

「──あなたの、意志」

 

「──うん、ヒーローだからじゃなくて──綾波さんがいつも持ってきてくれたから。嬉しかったから、だから返したかった」

 

レイの瞳が──揺れた。赤い瞳の中で、何かが──光った。本物のレイの残響なのか、アヤナミレイ自身の感情なのか──区別がつかない。だが──確かにそこに、光があった。

 

「──碇くん」

 

「──何」

 

「──私は──あなたに何か返したかったわけではない。ただ──あなたが笑ってくれることが──私の──」

 

言葉が途切れた、自分の何を望むのか、まだ言葉にできない。だが──

 

「──ポカポカする」

 

その言葉だけは──言えた。

 

シンジは──笑った。小さく、不器用で、温かい笑み。

 

「──僕も、ポカポカするよ」

 

---

 

その夜。

 

レイは川辺に一人でいた、シンジが帰った後。月が出ていた、赤い空の向こうに、白い月が懸かっている。

 

自分の身体を見た、腕が──半分くらい透明になっていた。光の粒が、絶えず舞い上がっている。LCLの成分が空気に還っていく。自分という存在が、世界に溶けていく。

 

(──消える)

 

(──私は、消える)

 

恐怖は──なかった。だが──「名前のない何か」があった。胸の奥の「ポカポカ」が、消えることに対して──少し、寂しいと──感じている。

 

(──寂しい)

 

(──これが──寂しい、なのだろうか)

 

(──わからない。でも──)

 

(──碇くんが笑った。おにぎりを食べてくれた。「ポカポカする」と言ってくれた)

 

(──それだけで──)

 

(──十分だった)

 

レイは空を見上げた。赤い空。白い月。崩壊した世界の夜。

 

「──碇くん」

 

誰もいない川辺に、声が響いた。

 

「──笑っていてね」

 

小さな声だった。風に溶けそうな声。だが──確かに、そこにあった。

 

---

 

翌朝。

 

シンジは川辺に来た。

 

おにぎりを持って。今日は梅干しを入れた。村の老人が分けてくれた梅干しを、大事に使った。

 

「──綾波さん」

 

返事がなかった。

 

土手の上に──誰もいなかった。枯れかけた草の上に、何もなかった。いや──一つだけ。

 

おにぎりが一つ、置いてあった。昨日、レイが持ってきたおにぎり。一口も食べられていない。包みが開かれていない。そしてその横に──青い光の粒が、弱く、弱く、明滅していた。

 

消えかけの蛍のように。

 

シンジは──立ち止まった。

 

おにぎりを拾った。包みを開いた。中身は──塩むすび。レイが作った、不格手な塩むすび。昨日シンジが作ったものと──同じだった。

 

(──あの子も、塩むすびを)

 

(──具材がなくて、塩だけ──)

 

(──僕と同じ──)

 

シンジはおにぎりを一口食べた。

 

「──美味しい」

 

涙が、落ちた。

 

一粒。二粒。三粒。

 

枯れかけた草の上に落ち、赤い土に染みを作る。

 

「──綾波さん」

 

声が震えた。

 

「──ありがとう。ずっと、ありがとう」

 

返事はなかった。青い光の粒が──最後に一度だけ、明滅して──消えた。

 

完全に消えた。

 

川の水音だけが響いている。風が吹いている。赤い空の下、赤い土の上、誰もいなくなった土手に、少年は一人座っていた。おにぎりを握りしめて。涙を流して。

 

---

 

マーリンが来た。

 

シンジの後ろに立った。何も言わなかった。ただ──隣に座った。肩が触れる距離。

 

沈黙。

 

川の音。風の音。遠くで鳥が鳴いている。

 

「──消えたんだね」

 

「──うん」

 

「──ごめんね」

 

「──マーリンさんのせいじゃないよ」

 

「──でも」

 

「──マーリンさん。僕──」

 

シンジは涙を拭いた。袖で乱暴に拭って、それから──顔を上げた。

 

「──僕、あの子におにぎり返せてよかった」

 

「──うん」

 

「──あの子が笑ってくれたかどうかわからないけど。美味しいって言ってくれたから──それでよかった」

 

「──うん」

 

「──僕、ヒーローじゃなくてよかったって──マーリンさんが言ってくれたよね」

 

「──言ったよ」

 

「──でもね、マーリンさん。僕──まだわからないんだ。僕が何なのか、何のために生きてるのか。ヒーローじゃない僕に価値があるのか──全部わからない」

 

マーリンは──頷いた。

 

「──わからなくていいよ。僕もわからないことだらけだ」

 

「──マーリンさんも?」

 

「──うん。僕は魔術師で、半夢魔で──でも、何者なのか、何のために生きているのか──ずっとわからなかった。君のそばにいた時も、君を利用している自分と、君を愛している自分がいて──どっちが本当の僕なのか、わからなかった」

 

「──でも、今は?」

 

「──今は──わかったことが一つだけある」

 

「──何?」

 

「──君のそばにいたい。それが──僕の──」

 

マーリンは言葉を探した。正しい言葉を。嘘ではない言葉を。

 

「──僕の、本当の気持ちかもしれない」

 

シンジは──笑った。

 

泣き笑いのような、不器用で、でも──温かい笑み。

 

「──マーリンさん。僕──もう一つだけ、やらなきゃいけないことがあるんだよね」

 

「──うん」

 

「──ミサトさんたちが待ってる。初号機が──待ってる」

 

「──行くの?」

 

「──うん」

 

シンジは立ち上がった。自分の足で。ふらつかずに。しっかりと。

 

「──でも、行く前に──もう一つだけ」

 

「何かな」

 

「──マーリンさん。僕に魔術はいらないよ。痛くても、怖くても──自分で歩けるから」

 

マーリンの目から──涙が落ちた。

 

二度目の涙。白銀の魔術師の涙が、赤い土に染みを作る。

 

「──うん。そうだね」

 

「──痛くても、怖くても──自分で歩けるから」

 

マーリンは繰り返した。シンジの言葉を。そして──その言葉が、自分の罪からの解放の鍵であることを知った。

 

「──そうか」

 

マーリンは立ち上がった。仕込み杖を砂から引き抜き、シンジの隣に立った。

 

白銀の魔術師と、十四歳の少年。

 

赤い空の下、赤い土の上。

 

二人の影が、並んで伸びていた。

 

---

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。