偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」 作:Tommy's Workers
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アヤナミレイは、自分が消えかけていることを知っていた。
正確には──「溶ける」という言葉が一番近かった。
朝、起きると枕に髪が残っていた。本来なら髪は抜けても一本か二本だ。だが今朝は十本以上。掌に収まるほどの束が、濡れた糸のように枕に張り付いていた。
レイはそれを見た。じっと。表情を変えずに。ただ──見た。
(──ああ)
(──私も、溶けるんだ)
恐怖はなかった。綾波レイ──本物のレイがそうであったように、アヤナミレイもまた「死」に対して特別な恐怖を持たなかった。自分が何者かも、どこから来たのかも、なぜここにいるのかも──正確には知らない。ただネルフの指令によって作られ、ネルフの指令によって動かされてきた。魂の居場所がない。器の残骸に過ぎない。
だが──。
レイは枕の髪を拾い上げ、指で撫でた。細い。柔らかい。自分の髪なのに、もう自分のものではなくなりつつある髪。
(──碇くんは、笑った)
昨日のことを思い出す。川辺でおにぎりを渡した時、シンジが「美味しい」と言って、笑った。小さく不器用で、ペルソナではない笑み。
(──あの笑顔が見たかった)
(──見れた)
(──それだけで──)
胸の奥の「ポカポカ」が、また大きくなった。同時に──身体の奥で、何かが剥がれる感覚があった。魂の接着剤が、少しずつ溶けているような。
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朝の畑仕事。
第三村の畑は赤い土の上に無理やり作られていた。肥料は限られ、水は井戸から汲み、太陽は赤い空を通して濁った光を落とす。それでも──トマトは赤く実った。キュウリは曲がりながら育った。ナスは小さいながらも紫に色づいた。
レイは畑で働いていた。鈴原トウジの妹──その妹の同級生たちと一緒に。子供たちはレイを「お姉ちゃん」と呼んだ。レイは呼ばれるたびに小さく首を傾げた。「お姉ちゃん」が何を意味するのか、よくわからなかったからだ。だが──嫌ではなかった。
「──お姉ちゃん、これ取って!」
小さな手がトマトを指差す。背の低い子供の手が届かない、枝の先のトマト。
レイは手を伸ばした。
──指先から、何かが落ちた。
青い粒子。光の粒。LCLの成分が空気に触れて分解された光の残滓。自分の指先から、少しの質量が──光になって零れ落ちた。
子供は気づかなかった。トマトを受け取り「ありがとう!」と走り去った。
レイは自分の指先を見た。透明になりかけている指先。輪郭が溶けかけている。
(──もう少しだけ)
(──もう少しだけ、ここにいたい)
その思いが──自分のものなのか、本物のレイの残響なのか──レイにはわからなかった。
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昼。
シンジは、村の井戸のそばにいた。
マーリンが隣にいた。実体のある姿。やつれた顔。だが──そこにいる。幻影ではなく、実体として。
二人は並んで井戸の縁に座っていた。シンジはまだ弱々しかった。目は虚空を見つめていることが多い。だが──時折、マーリンの顔を見て、小さく頷く。それが今のシンジの精一杯の「会話」だった。
「──マーリンさん」
「──ん?」
「──あの子が来てた」
「あの子?」
「──そっくりさん。綾波さん。おにぎり持ってきてくれた」
「──食べたの?」
「──食べた。美味しかった」
マーリンは──小さく笑った。笑えた。久しぶりに、心から笑えた。
「──よかったね」
「──うん」
沈黙。風が吹いた。赤い砂が舞い、井戸の水面に波紋が立つ。
「──マーリンさん」
「何かな」
「──あの子、消えかかってるんだ」
マーリンの手が──止まった。仕込み杖を握る指が、一瞬だけ白くなる。
「──知ってた?」
「──うん。指先から光が出てた。見えた」
「──そう」
「──僕、あの子に何かしてあげられるかな」
「──何をしてあげたいの?」
シンジは考えた。久しぶりに「何かをしてあげたい」と思った。「自分が何かしたい」と思った。ヒーローとしてではなく、ただ──
「──おにぎり、返したい」
「──返す?」
「──あの子、ずっと僕におにぎり届けてくれてた。僕は何も返してない。だから──僕が作って、あげたい」
マーリンは──何も言えなかった。
(──君は、変われる)
(──「ヒーローだから助ける」じゃなくて「あの子がしてくれたことに返したい」と──自分の気持ちから動ける)
(──それが──)
「──作ってあげて」
マーリンは言った。
「──君のおにぎり、きっと喜んでくれるよ」
シンジは──立ち上がった。
ふらつく足で。弱々しく。だが──自分の足で。誰かに支えられてではなく、自分の意志で。
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台所があった。村の共同調理場。
シンジは米を研いだ。水が濁り、濁り、澄んでいく。指先が冷たい水に触れる。感覚が──戻ってきている。少しずつ。魔術なしの生の感覚。冷たい。痛い。手が荒れている。指の皮がめくれている。だが──感じる。感じることができる。
(──僕は、感じてる)
(──マーリンの魔術なしで──自分で感じてる)
米を炊き始めた。釜が沸騰し、蒸気が上がり、米の匂いが漂う。白い蒸気が赤い空の下で霞のように広がっていく。
具材はない。梅干しはレイが使っていた。塩だけ。でも──塩むすびでもいい。シンジは塩を掌に取り、握った。
三角の形。海苔を巻く。──海苔がない。海苔なしの塩むすび。不格手だ。形が揃わない。大きさもバラバラだ。かつて完璧だった「ヒーロー」の弁当とは程遠い、拙いおにぎり。
だが──
(──美味しいといいな)
(──あの子が、美味しいと言ってくれたらいいな)
その願いは──「ヒーローとして完璧に作る」ことではなかった。ただ──「誰かのために何かを作りたい」という、ただの少年の願いだった。
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夕方。川辺。
レイはいつもの場所にいた。土手の上。枯れかけた草の上。膝を抱えて座っている。自分の身体が──少しずつ、透明になりかけているのが見えた。腕の輪郭が、夕日の中で溶けている。青い光の粒が、風に乗って舞っている。
(──もう、時間があまりない)
(──でも──)
足音がした。
レイは顔を上げた。
シンジが立っていた。手に──おにぎりを持っている。不格手な、海苔のない、塩むすび。
「──綾波さん」
シンジは笑った。不器用な笑み。ペルソナではない笑み。
「──これ、僕が作ったんだ。食べてくれる?」
レイは──目を見開いた。
「──あなたが」
「──うん、僕が作った。美味しいかわからないけど」
シンジはレイの隣に座り、おにぎりを差し出した。
レイは手を伸ばした。──指先が透明になりかけている手。輪郭が溶け、光の粒が舞う手。その手で、シンジのおにぎりを受け取った。
一口。
噛む。飲み込む。
「──美味しい」
「──よかった」
シンジは安堵した、本心からの安堵。ヒーローとしての「役割を果たした」安堵ではなく──「あの子が美味しいと言ってくれた」安堵。
「──綾波さん」
「──何」
「──ずっとおにぎり届けてくれてたよね。僕が何も返せなかったのに」
「──返さなくてよかった。私は──あなたが笑ってくれるなら、それで──」
「──でも、僕が作りたかった。僕の意志で」
「──あなたの、意志」
「──うん、ヒーローだからじゃなくて──綾波さんがいつも持ってきてくれたから。嬉しかったから、だから返したかった」
レイの瞳が──揺れた。赤い瞳の中で、何かが──光った。本物のレイの残響なのか、アヤナミレイ自身の感情なのか──区別がつかない。だが──確かにそこに、光があった。
「──碇くん」
「──何」
「──私は──あなたに何か返したかったわけではない。ただ──あなたが笑ってくれることが──私の──」
言葉が途切れた、自分の何を望むのか、まだ言葉にできない。だが──
「──ポカポカする」
その言葉だけは──言えた。
シンジは──笑った。小さく、不器用で、温かい笑み。
「──僕も、ポカポカするよ」
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その夜。
レイは川辺に一人でいた、シンジが帰った後。月が出ていた、赤い空の向こうに、白い月が懸かっている。
自分の身体を見た、腕が──半分くらい透明になっていた。光の粒が、絶えず舞い上がっている。LCLの成分が空気に還っていく。自分という存在が、世界に溶けていく。
(──消える)
(──私は、消える)
恐怖は──なかった。だが──「名前のない何か」があった。胸の奥の「ポカポカ」が、消えることに対して──少し、寂しいと──感じている。
(──寂しい)
(──これが──寂しい、なのだろうか)
(──わからない。でも──)
(──碇くんが笑った。おにぎりを食べてくれた。「ポカポカする」と言ってくれた)
(──それだけで──)
(──十分だった)
レイは空を見上げた。赤い空。白い月。崩壊した世界の夜。
「──碇くん」
誰もいない川辺に、声が響いた。
「──笑っていてね」
小さな声だった。風に溶けそうな声。だが──確かに、そこにあった。
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翌朝。
シンジは川辺に来た。
おにぎりを持って。今日は梅干しを入れた。村の老人が分けてくれた梅干しを、大事に使った。
「──綾波さん」
返事がなかった。
土手の上に──誰もいなかった。枯れかけた草の上に、何もなかった。いや──一つだけ。
おにぎりが一つ、置いてあった。昨日、レイが持ってきたおにぎり。一口も食べられていない。包みが開かれていない。そしてその横に──青い光の粒が、弱く、弱く、明滅していた。
消えかけの蛍のように。
シンジは──立ち止まった。
おにぎりを拾った。包みを開いた。中身は──塩むすび。レイが作った、不格手な塩むすび。昨日シンジが作ったものと──同じだった。
(──あの子も、塩むすびを)
(──具材がなくて、塩だけ──)
(──僕と同じ──)
シンジはおにぎりを一口食べた。
「──美味しい」
涙が、落ちた。
一粒。二粒。三粒。
枯れかけた草の上に落ち、赤い土に染みを作る。
「──綾波さん」
声が震えた。
「──ありがとう。ずっと、ありがとう」
返事はなかった。青い光の粒が──最後に一度だけ、明滅して──消えた。
完全に消えた。
川の水音だけが響いている。風が吹いている。赤い空の下、赤い土の上、誰もいなくなった土手に、少年は一人座っていた。おにぎりを握りしめて。涙を流して。
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マーリンが来た。
シンジの後ろに立った。何も言わなかった。ただ──隣に座った。肩が触れる距離。
沈黙。
川の音。風の音。遠くで鳥が鳴いている。
「──消えたんだね」
「──うん」
「──ごめんね」
「──マーリンさんのせいじゃないよ」
「──でも」
「──マーリンさん。僕──」
シンジは涙を拭いた。袖で乱暴に拭って、それから──顔を上げた。
「──僕、あの子におにぎり返せてよかった」
「──うん」
「──あの子が笑ってくれたかどうかわからないけど。美味しいって言ってくれたから──それでよかった」
「──うん」
「──僕、ヒーローじゃなくてよかったって──マーリンさんが言ってくれたよね」
「──言ったよ」
「──でもね、マーリンさん。僕──まだわからないんだ。僕が何なのか、何のために生きてるのか。ヒーローじゃない僕に価値があるのか──全部わからない」
マーリンは──頷いた。
「──わからなくていいよ。僕もわからないことだらけだ」
「──マーリンさんも?」
「──うん。僕は魔術師で、半夢魔で──でも、何者なのか、何のために生きているのか──ずっとわからなかった。君のそばにいた時も、君を利用している自分と、君を愛している自分がいて──どっちが本当の僕なのか、わからなかった」
「──でも、今は?」
「──今は──わかったことが一つだけある」
「──何?」
「──君のそばにいたい。それが──僕の──」
マーリンは言葉を探した。正しい言葉を。嘘ではない言葉を。
「──僕の、本当の気持ちかもしれない」
シンジは──笑った。
泣き笑いのような、不器用で、でも──温かい笑み。
「──マーリンさん。僕──もう一つだけ、やらなきゃいけないことがあるんだよね」
「──うん」
「──ミサトさんたちが待ってる。初号機が──待ってる」
「──行くの?」
「──うん」
シンジは立ち上がった。自分の足で。ふらつかずに。しっかりと。
「──でも、行く前に──もう一つだけ」
「何かな」
「──マーリンさん。僕に魔術はいらないよ。痛くても、怖くても──自分で歩けるから」
マーリンの目から──涙が落ちた。
二度目の涙。白銀の魔術師の涙が、赤い土に染みを作る。
「──うん。そうだね」
「──痛くても、怖くても──自分で歩けるから」
マーリンは繰り返した。シンジの言葉を。そして──その言葉が、自分の罪からの解放の鍵であることを知った。
「──そうか」
マーリンは立ち上がった。仕込み杖を砂から引き抜き、シンジの隣に立った。
白銀の魔術師と、十四歳の少年。
赤い空の下、赤い土の上。
二人の影が、並んで伸びていた。
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