偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」 作:Tommy's Workers
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公園があった。
──いや、公園ではなかった。
マイナス宇宙。虚数空間。世界の裏側。ガフの扉の向こう側。シンジが最後の戦いの舞台として選んだ、何もない白い空間。
だが、そこに公園があった。
ブランコがあった。錆びていない。新しい。赤い支柱。木製の座面。誰かが待っているかのように、二つのブランコが並んで揺れている。
滑り台があった。青い滑り台。登り口の階段は三つ。幼い子供がやっと登れる高さ。
砂場があった。白い砂。スコップとバケツが置かれている。誰かが遊んだ後のように、砂の城が半分だけ残っている。
ベンチがあった。木製のベンチ。三人掛け。その真ん中に、一人の男が座っていた。
碇ゲンドウ。
黒いスーツ。黒い手袋。黒い眼鏡。すべてが黒い。だが──その眼鏡の奥の目は、これまでシンジが見たことのない色をしていた。
疲れていた。悲しんでいた。──懐かしんでいた。
シンジは、公園の入り口に立っていた。
十四歳の少年。プラグスーツではない。制服でもない。ただのシャツとズボン。戦うための服ではない。ただの──少年の服。
シンジは歩いた。
白い砂を踏みブランコの横を通り、滑り台の前を過ぎベンチの前に立った。
父が座っている。息子が立っている。
沈黙。
公園の木々が風に揺れている。本物の木ではない。マイナス宇宙が作り出した幻影の木。それでも──葉が擦れる音が聞こえる。鳥の声が聞こえる。遠くで子供の笑い声が聞こえる。
「──座れ」
ゲンドウが言った。
シンジは座った。ベンチの端。父から少し離れた位置。
沈黙。
風が吹いている。ブランコがきしむ音。砂が舞う音。
「──久しぶりだな、シンジ」
「──うん」
「──何年ぶりだろうか」
「──十四年と、ちょっと」
「──そうか」
また沈黙。
シンジは父の横顔を見た。横顔しか見えない。眼鏡の奥の目は前を向いている。公園の向こう側を。何もない白い空間の向こう側を。
(──お父さんは、何を見ているんだろう)
(──この公園を? それとも──)
「──ここは」
ゲンドウが言った。
「──お前が五歳の頃、ユイとよく来た公園だ」
シンジの心臓が跳ねた。
「──母さんと」
「──ああ。ユイはお前をブランコに乗せて、何時間でも押していた。お前は笑っていた。ユイも笑っていた」
ゲンドウの声は──平坦だった。だがその平坦さの中に、何かがあった。押し殺した何か。堰き止めた何か。
「──お前は覚えているか」
「──覚えてない」
「──そうか」
「──五歳の頃のこと、あんまり覚えてないんだ。母さんが死んだ後、親戚の家に預けられて──その後のことは覚えてるけど。前のことは──」
「──そうか」
沈黙。
ゲンドウは眼鏡を外した。
シンジは──初めて見た。父の目を。眼鏡の奥の目を。十四年間、一度も見たことのなかった目を。
その目は──赤かった。泣いた後のように赤いのではない。もっと深い場所が赤い。魂の奥底が赤い。ユイを失った日から、ずっと赤いままの場所が。
「──シンジ」
「──うん」
「──お前を、愛していなかったわけではない」
シンジの呼吸が──止まった。
「──ユイが死んで、私はお前を育てる自信がなかった。ユイのいない世界で、お前を愛する自信がなかった。お前を見るたびに、ユイを思い出す。お前の中にユイがいる。ユイの面影がいる。それが──辛かった」
ゲンドウの声が、震えた。ほんの少し。本当にほんの少し。
「──だから逃げた。ネルフに逃げた。ユイを取り戻す計画に逃げた。お前から──逃げた」
「──お父さん」
「──私は、お前を捨てた。エヴァに乗れるから呼び戻した。利用するために呼び戻した。──お前を、道具として扱った」
シンジは──何も言えなかった。
父が喋っている。父が謝っている。父が──人間の言葉を喋っている。九年間、いや十四年間一度も聞いたことのなかった言葉を。
「──ユイに会いたかった」
ゲンドウが言った。
「──ユイに会いたくて、ユイを取り戻したくて私は全てを犠牲にした。ネルフも、世界もお前も──すべてを」
「──でも、お母さんは」
「──ああ。ユイは、私の願いを望んでなどいなかった」
ゲンドウは空を見上げた。白い空。何もない空。だが──その空の向こうに、ユイがいるのだろう。初号機の中に。エヴァのコアの中に。
「──ユイは、お前を望んでいた。お前が生きることを。お前が幸せになることを。──私ではなく」
「──お父さん」
「──私は、ユイを間違って理解していた。ユイを愛していたつもりで、ユイの望みを叶えようとした、だが──ユイの本当の望みは、私のそばではなくお前のそばにあった」
ゲンドウの手が震えていた。黒い手袋の下の指が。かつてシンジを抱きしめたことのない指が。かつてシンジの頭を撫でたことのない指が。
「──すまなかった、シンジ」
その一言が、公園に響いた。
風が止まった。ブランコのきしむ音が止まった。鳥の声が止まった。
シンジは──父を見た。
父が──父の顔が──歪んでいた。泣いていた。十四年間、一度も見せたことのない顔で。ユイを失った日から、一度も見せたことのない顔で。
(──お父さんが、泣いてる)
(──お父さんが、謝ってる)
(──僕に)
シンジの胸の奥で──何かが動いた。凍りついた何かが。五歳の公園で凍りついた何かが。
(──僕は、お父さんに捨てられた)
(──僕は、お父さんに愛されていないと思ってた)
(──僕は、お父さんに必要とされていないと思ってた)
(──でも)
(──お父さんも、壊れてたんだ)
(──母さんを失って、壊れてたんだ)
(──僕と同じくらい──いや、僕以上に)
シンジは──立ち上がった。
父の前に立った。
ゲンドウが顔を上げた。赤い目。歪んだ顔。黒い服。
シンジは──父を見た。まっすぐに。逃げずに。俯かずに。ペルソナを被らずに。
「──お父さん」
「──何だ」
「──僕は、ヒーローじゃない」
ゲンドウの目が──微かに動いた。
「──僕は、ヒーローになろうとしてた。マーリンさんに言われたから。ヒーローになれば愛されるって。ヒーローになればお父さんに認められるって。──でも、間違ってた」
「──僕は、ヒーローになれなかった。世界を二度も壊した。レイさんを救えなかった。カヲルくんを死なせた。──全部、僕のせいだ」
「──でも」
シンジの声が、震えた。
「──でも、僕は──僕は生きてる。生きてていいって、マーリンさんが言ってくれた。ヒーローじゃなくていいって。ただの僕でいいって」
「──だから、お父さん」
シンジは、父の前に、手を差し出した。
「──お父さんも、ヒーローじゃなくていいよ」
ゲンドウの目が──見開かれた。
「──お父さんも、ただのお父さんでいい。母さんを失って壊れた、ただの人間でいい。僕を愛せなかった、ただのお父さんでいい」
「──僕は、お父さんを許すよ」
「──僕を捨てたこと。僕を利用したこと。僕を道具として扱ったこと。──全部、許す」
「──だから、お父さんも──自分を許して」
その言葉が、公園に響いた。
ゲンドウは──動かなかった。
シンジの差し出した手を見ていた。十四歳の少年の、小さな手。戦いで傷つき包帯を巻かれ、それでも差し出された手。
「──シンジ」
ゲンドウの声が、震えていた。
「──私は、お前に──」
「──わかってる。お父さんは、僕を愛してなかったんじゃない。愛し方がわからなかったんだよね」
「────」
「──僕も同じだよ。愛し方がわからなかった。マーリンさんに教えられた通りにしか、愛せなかった。ヒーローになることでしか、愛そうとできなかった」
「──だから、僕たちは──」
シンジは笑った。小さく不器用で、でも温かい笑み。
「──似てるんだよ、お父さん」
ゲンドウは──手を伸ばした。
震える手で。黒い手袋の手で。シンジの手を──握った。
温かかった。ゲンドウの手は、温かかった。冷たいと思っていた。無機質だと思っていた。だが──温かかった。血が通っていた。心臓が動いていた。
「──すまなかった」
ゲンドウが、繰り返した。
「──すまなかった、シンジ」
「──うん」
「──私は、お前を──」
「──うん」
「──お前を、愛している」
その言葉が、公園に響いた。
十四年間、一度も聞いたことのない言葉。五歳の頃から、一度も聞いたことのない言葉。
シンジの目から──涙が落ちた。
一粒。二粒。三粒。白い砂の上に落ちて染みを作る。
「──お父さん」
「──何だ」
「──僕も、愛してる」
ゲンドウの目からも──涙が落ちた。
父と子が、公園で手を握り合っていた。
ブランコが揺れている。滑り台が光っている。砂場の城が崩れかかっている。木々が風に揺れている。
マイナス宇宙の幻影の公園。だが──そこに、確かに、父と子がいた。
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しばらくして。
ゲンドウが口を開いた。
「──シンジ。私は、これからどうなるのだろうか」
「──お父さんは、母さんに会いに行くんだよ」
「──ユイに」
「──うん。母さんは、初号機の中にいる。お父さんは、そこに行くんだ」
「──だが、私は──」
「──お父さんは、もう十分頑張ったよ。母さんを取り戻そうとして。世界を敵に回して。全部、母さんのためだった」
シンジは父の手を握り直した。
「──だから、もういいんだよ。お父さんは母さんに会いに行って。僕は──」
「──お前は、どうする」
「──僕は、行くよ。エヴァンゲリオンのない世界へ」
ゲンドウは──シンジを見た。十四歳の少年。かつてブランコに乗っていた幼子。かつて自分が捨てた息子。かつて自分が利用したパイロット。
そして──今自分の前に立つ、一人の人間。
「──お前は、強くなったな」
「──ううん。弱くなったんだよ」
シンジは笑った。
「──強くなろうとして、ヒーローになろうとして壊れた。でも──弱くなっていいって、わかった。痛くても怖くても、弱くても──生きてていいって、わかった」
「──だから、僕は──」
「──ああ」
ゲンドウは頷いた。
「──お前は、お前でいい」
その言葉が──ゲンドウがシンジにかけた、最初で最後の父の言葉だった。
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公園の風景が、ゆっくりと変わっていく。
白い空に、光が差し始めた。暖かい光。朝の光。夜明けの光。
ゲンドウが立ち上がった。
「──シンジ。私は、行く」
「──うん」
「──ユイのところへ」
「──うん」
「──お前は──」
「──僕は、これからだよ。エヴァを消して、新しい世界を作る」
「──そうか」
ゲンドウは背を向けた。
黒いスーツの背中。黒い手袋の手。黒い眼鏡。すべてが黒い。だが──その背中は、以前とは違っていた。荷物を下ろした人の背中だった。罪を告白した人の背中だった。
「──シンジ」
「──何?」
「──幸せに、なってくれ」
その言葉だけを残して、ゲンドウは歩き出した。
白い空間の向こうへ。ユイの待つ場所へ。愛した人の待つ場所へ。
シンジは──父の背中を見送った。
小さくなる背中。遠ざかる背中。やがて──光の中に溶けていく背中。
「──お父さん」
シンジは呟いた。
「──ありがとう」
その言葉が、公園に響いた。
風が吹いた。ブランコが揺れた。木々が囁いた。鳥が鳴いた。
マイナス宇宙の公園に、一人の少年が立っていた。
父を見送った少年。ヒーローになることをやめた少年。ただの人間になった少年。
「──さあ」
シンジは空を見上げた。
白い空。だが──その向こうに、青い空が見え始めていた。新しい世界の空。エヴァのない世界の空。ネオンジェネシスの空。
「──行こう」
シンジは歩き出した。
父が消えていった方向とは──逆の方向へ。
新しい世界へ。新しい自分へ。新しい──ネオンジェネシスへ。
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その時。
「──待ちなよ、シンジくん」
声がした。
シンジは──振り返った。
そこに、マーリンが立っていた。
満身創痍の姿。白銀の髪は乱れ、仕込み杖は半分折れている。白い肌は血に染まり、紫色の瞳は──だが確かにシンジを見ていた。
「──マーリンさん」
「──やあ。間に合ったようだね」
マーリンは笑った。飄々とした笑み。だがその笑みは──以前とは違っていた。罪悪感と、決意と、そして──愛情が混ざった笑み。
「──君が、ゲンドウと話しているのを見ていたよ」
「──マーリンさん」
「──君は、強くなった。いや──弱くなったんだね。正しく」
「──うん」
「──よかった」
マーリンは歩み寄った。満身創痍の足で。一歩、一歩。シンジの前に立った。
「──シンジくん。君は、これからエヴァを消すつもりだね」
「──うん」
「──ガイウスの槍を使うつもりだね」
「──うん」
「──自分の胸に、突き立てるつもりだね」
「──うん」
マーリンは──シンジを見た。まっすぐに。十四年間、ずっと見てきた少年を。五歳の公園で出会った幼子を。九年間、隣にいた少年を。
「──ダメだよ」
「──マーリンさん」
「──君が犠牲になる必要はない」
「──でも、エヴァを消すには──」
「──僕がやる」
シンジの目が──見開かれた。
「──マーリンさん、何を──」
「──僕が、君の代わりに槍を受ける。僕の魔力と、存在そのものを世界の再構築の燃料にする」
「──ダメだよ! マーリンさんが消えちゃう!」
「──消えるさ。でも──それでいいんだ」
マーリンは笑った。本当に心から、安堵したように。
「──僕は、君に『ヒーローになれ』という身勝手な大嘘を吹き込んだ。痛みを麻痺させて、恐怖を消して君を傷つけた。その最低なやつのツケを、君に払わせるわけにいかないだろう?」
「──でも、マーリンさんは──」
「──僕は、君を愛していたよ。本当に。でも、愛し方が間違っていた。君を縛り付けて、君の本来の姿を奪って君を壊した」
「──でも、マーリンさんがいたから僕は──」
「──うん。僕がいたから、僕がいたせいで、君は生きてこれた。でも──僕がいなければ、君はもっと早く正しく生きられたかもしれない」
マーリンは、シンジの頭に手を置いた。
温かい手。かつて毎晩、シンジの髪を撫でた手。
「──シンジくん。ただの人間ってのははね──誰かを幸せにして、自分もちゃんと幸せになって笑うものなんだよ」
「──マーリンさん」
「──君は、これから幸せになるんだ。エヴァのない世界で。痛くても、怖くても弱くても──ただの君として、幸せになるんだ」
「──でも、マーリンさんがいないと──」
「──僕がいなくても、君は大丈夫だよ。君はもう自分で歩けるから」
マーリンは──手を離した。
ガイウスの槍が、世界を貫いた。
ユイの魂が、ゲンドウの魂が、そしてマーリンの存在が──槍を受け、すべてのEVAと魔術の残り香を世界の理ごと巻き込んで、消滅させていく。
初号機が、砕けた。
弐号機が、零号機が、Mark9が、13号機が──全てのエヴァンゲリオンが、光の中に溶けていく。巨大な紫の巨人も赤の巨人も青の巨人も、何もかもが──光の粒となって、世界に還っていく。
アスカの魂が、送り出された。
「──あんた、バカね。でも──好きよ。あんたのことが」
アスカの声が最後に届いた。照れ隠しでもなんでもない。ただの、真っ直ぐな言葉。そして──彼女の魂は、自分が望む場所へ去っていった。
レイの魂が、送り出された。
「……ありがとう、碇くん」
レイの声が最後に届いた。小さくて、確かな声。そして──彼女の魂も、自分が望む場所へ去っていった。
カヲルの魂が、送り出された。
「──また会えるよ、シンジくん。君が君でいる限り──」
カヲルの声が最後に届いた。静かで、優しい声。そして──彼の魂も、去っていった。
マーリンの最後の光が、世界を包んだ。
花の王冠が砕け散り、アヴァロンの残光が夜明けのように世界を照らす。白銀の髪が、白い肌が、紫色の瞳が──光の中に溶けていく。
「──あはは、参ったな。格好つけちゃった」
最後の笑み。飄々としていて、でも──本当に嬉しそうな笑み。
「──バイバイ、僕の自慢の──」
光が弾け、花びらが舞い、白銀の魔術師の姿が──完全に消えた。
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シンジは、一人だった。
マイナス宇宙に、一人。槍を手に持って。誰もいない空間に立って。
だが──泣かなかった。
涙は出た。目の端から一筋だけ。だが──泣かなかった。声を殺して、身体を丸めて、布団に顔を埋めて──泣かなかった。
ただ──立っていた。自分の足で。
「──さあ」
シンジは槍を手に、歩き出した。
新しい世界へ。エヴァのない世界へ。ネオンジェネシスへ。
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