偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」 作:Tommy's Workers
新たなる創生
──そして、世界は作り替えられた。
エヴァンゲリオンのない世界。使徒のない世界。ネルフのない世界。インパクトのない世界。魔術のない世界。
ただ──人間がいる世界。人間が生きている世界。人間が笑って、泣いて、怒って、喧嘩して、仲直りして、ご飯を作って、食べて、歩いて、走って、転んで、起きて──生きている世界。
当たり前の世界。
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◆◆◆
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宇部新川駅。
午後三時二十七分。
上り電車が到着するアナウンスが、静かなホームに響いていた。
山口県の小さな駅。ホームドアの向こうに、緑の線路が伸びている。夕方の光が、山の稜線から斜めに差し込み、コンクリートのホームをオレンジ色に染めている。
改札口付近には小さな売店があり、缶コーヒーやおにぎりが並んでいる。ベンチに座る老人が新聞を読んでいる。学生が自転車に乗って通り過ぎる。犬を散歩させる女性が歩いている。
何もない。特別なものは何もない。ただの──日常。
その日常の中に、一人の青年が立っていた。
碇シンジ。
成人男性。黒い髪は短く整えられ、青白かった肌は日焼けして健康的な色になっている。背は伸びている。華奢だった体格は、大人の男性の骨格へと落ち着いている。白いシャツ。紺のスラックス。シンプルな、ただの服。
肩掛けカバンを斜めに掛け、駅の改札口付近に立っていた。何かを待っているのか、ただ立っているのか──区別がつかないほど自然な佇まい。
だが──その顔は、変わっていた。
目が違った。かつての虚ろな暗さも、ペルソナの眩しい完璧さもない。ただの──穏やかな目。少し疲れていて、少し笑っていて、少し考えていて──ただの、人間の目。
口元が違った。無理に作った笑顔でも、ヒーローの健気な微笑みでもない。ただの──弛んだ口元。何も意識していない、自然な表情。
シンジは──シンジだった。
ヒーローではなく、パイロットではなく、誰かの息子ではなく、誰かの道具ではなく──ただの、碇シンジという人間。
電車が来るまであと七分。ベンチに座り、カバンから文庫本を取り出し、ページをめくった。しばらく読んで──ふと顔を上げ、空を見た。
青い空。
白い雲。
赤くない。血の色ではない。ただの──青い空。
(──きれいだな)
そう思った。ただそれだけ思った。ヒーローとして世界を守るための空ではない。誰かに認められるための空ではない。ただ──きれいだと思った。
電車が来るまであと五分。文庫本に目を戻した。しばらく読んで──また顔を上げた。
改札口の向こうから、誰かが歩いてくるのが見えた。
白いシャツ。カジュアルなズボン。片手にアイスキャンデー。もう片手に──折れた仕込み杖を、無理やりテープで巻いて直したような杖。
白銀の髪。
長い、白銀の髪。花の装飾はない。だが髪そのものが、夕方の光に当たって淡く輝いている。
紫色の瞳。
やつれている。頬がこけ、目の下に隈が浮き、唇が乾いている。服はしわくちゃで、どこか泥だらけで、全体として「満身創痍」という言葉がふさわしい姿だ。
だが──笑っていた。
飄々とした笑み。片手のアイスキャンデーを舐めながら、ひらひらと手を振っている。
「──やあ、シンジくん」
その声が、改札口を越えて届いた。
シンジは──本を閉じた。
ベンチから立ち上がった。
目を見開いた。
息を呑んだ。
「──え」
マーリンがいた。
消滅したはずのマーリンが。存在を使い果たしたはずのマーリンが。全魔力と全権能と全存在を世界の再構築に捧げたはずのマーリンが。
立っていた。
アイスキャンデーを舐めながら。
にへらと笑いながら。
「──マーリン、さん?」
「久しぶりだね。いや──久しぶりでもないかな。君にとってはついさっき別れたばかりかもしれないけれど、僕にとっては結構長い旅だったよ」
マーリンは改札口を抜け、シンジの前に来た。満身創痍の足で。一歩一歩。仕込み杖──テープで補修された杖──を突きながら。
「──どうして」
「どうしてって?」
「消えたはずじゃ。マーリンさん、消滅したはずじゃないの」
「ああ、うん。したよ。したんだけどね」
マーリンはアイスキャンデーを舐めながら、けろりと言った。
「半夢魔ってのはね、なかなか死なないもんでね。存在を使い果たしても、魂の燃えカスと悪運でなんとか生き残ることが出来たんだ。──格好悪いよね」
「──格好悪くないよ」
シンジの声が震えた。
「──格好悪くないよ、マーリンさん」
「──ありがとう。でも正直、参ったよ。全魔力も権能も使い果たして、なーんにもなくなっちゃった。アヴァロンも千里眼も幻術も、全部。もう魔術は使えない。ただの──情けないやつさ」
マーリンは杖を突きながら、ベンチに腰を下ろした。シンジの隣に。肩が触れる距離。かつて毎晩やったように。
「──でも、まあ。生きてる。生きてるだけで十分だろう?」
「──うん。十分だよ」
シンジは──笑った。
ペルソナの笑顔ではない。ヒーローの笑顔でもない。完璧な好青年の笑顔でもない。
ただの──泣き笑いのような、不器用で、歪で、でも──温かい笑み。
「──お帰りなさい、マーリンさん」
その言葉が、駅のホームに響いた。
電車が来るまであと三分。老人が新聞を畳み、学生が自転車を止め、犬が尾を振っている。何もない日常の駅のホームで、青年と白銀の男がベンチに並んで座っていた。
「──ただいま、シンジくん」
マーリンはアイスキャンデーを舐めながら、笑った。
飄々とした笑み。だが──その奥に、確かに温かいものがあった。
「──で、ね。シンジくん。提案があるんだけど」
「提案?」
「僕はもう魔術も使えないし、君を助けることもできない。千里眼もない──ただの、情けないやつだ」
マーリンはアイスキャンデーの棒を振った。
「でも──ただの友人なら、なれると思うんだ」
「──ただの、友人」
「うん。ヒーローとサポーターじゃなくて。大人と子供じゃなくて。魔術師とパイロットじゃなくて。──ただの、友人」
「君が辛い時は、辛いねと言う。君が怖い時は、怖いねと言う。君が泣きたい時は──ただ、隣にいる。魔術なしで。ただの友人として」
「──そして、たまにはスイーツをご馳走してあげる。これは重要だよ。僕の存在意義に関わる」
シンジは──笑った。
声を出して笑った。
ペルソナの笑顔ではなく、ヒーローの笑顔ではなく、ただの──少年だった頃の面影が残る、人間の笑い声。
「──うん。よろしく、マーリンさん」
「──マーリンでいいよ。もう「さん」付けはいらない。友人なんだから」
「──じゃあ、よろしく。マーリン」
「──うん。よろしく、シンジくん」
二人は並んで座っていた。
ベンチの上。駅のホーム。夕方の光が斜めに差し込んでいる。電車が来るまであと一分。
「──ねえ、マーリン」
「何かな」
「スイーツ、食べに行こうか」
「──うん。行こう」
マーリンは立ち上がった。杖を突きながら。満身創痍の足で。だが──自分の足で。
シンジも立ち上がった。カバンを肩に掛け、文庫本をポケットに入れ、改札口に向かって歩き出した。
「──マーリン、何が食べたい?」
「パフェ。いや、エクレア。いや、ミルクレープ。──全部食べたい」
「食べすぎだよ」
「君に言われたくないね。昔、僕の作ったパフェを三人分食べたのは誰だい?」
「あれはマーリンが出してくれたのが美味しすぎたから──」
「はいはい。褒め言葉として受け取っておくよ」
二人の声が、駅のホームに響いていた。
電車が来るアナウンスが流れた。上り電車。宇部新川駅。午後三時三十二分。
だが──二人は電車に乗らなかった。
改札口を出て、駅前の道を歩き出した。夕方の光が二人の影を伸ばしている。長い影と短い影が並んで揺れている。
「──ねえ、シンジくん」
「何?」
「君、笑ってるね」
「──うん。笑ってる」
「──よかった」
マーリンは杖を突きながら、空を見上げた。
青い空。白い雲。赤くない。血の色ではない。
ただの──青い空。
「──きれいだね」
「──うん。きれいだね」
二人の声が、宇部新川の夕方の空気に溶けていった。
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◆◆◆
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駅前のカフェに入った。
小さな店。木のテーブル。窓際の席に二人並んで座った。マーリンがパフェを注文し、シンジがコーヒーを注文した。
「──コーヒー? 君、子供の頃は甘いものばかり飲んでたのに」
「大人になったからね」
「──そうか。君が大人になったのか。やれやれ」
マーリンはパフェが来るのを待ちながら、窓の外を見た。駅前の通り。信号が変わって、車が止まり、歩行者が渡る。当たり前の風景。
「──シンジくん」
「何?」
「──ごめんね」
シンジは──コーヒーのカップを置いた。
「──また、謝ってる」
「謝りたいんだよ。何度でも。君に謝りたいことが山ほどある」
「──もう十分だよ。マーリンは──マーリンは、十分謝った」
「──十分じゃない。でも──」
マーリンは──笑った。飄々とした笑み。だがその奥には、確かに──安堵があった。
「──君が笑ってるのを見ると、そうだね──十分なのかなって気がするよ」
パフェが来た。苺とバニラと生クリームの、山盛りのパフェ。マーリンはスプーンを手に取り、一口食べた。
「──美味しい」
「──よかったね」
「──うん。美味しいよ。──でも、君も食べなよ」
「僕はコーヒーでいいよ」
「ダメだよ。友人としての特権を行使して、君に一口あげる」
マーリンはスプーンでパフェをすくい、シンジの口元に差し出した。
「──はい、あーん」
「──マーリン、子供扱いしてる?」
「しているよ。だって──君は僕の自慢の──いや」
マーリンは言いかけた言葉を止めた。「ヒーロー」という言葉を飲み込んだ。そして──言い直した。
「──君は僕の自慢のお友達だよ」
シンジは──パフェを一口食べた。
「──美味しい」
「──だろう? ね?」
二人は笑った。
小さなカフェの窓際で。夕方の光が差し込んでいる。パフェとコーヒー。白銀の髪と黒い髪。杖とカバン。
何もない。特別なものは何もない。ただの──二人の友人が、カフェでスイーツを食べている風景。
当たり前の風景。
だが──その当たり前が、どれほどの痛みと、どれほどの涙と、どれほどの犠牲の上に──ようやく辿り着いたものかを、二人は知っている。
そして──知っているからこそ、この当たり前が──かけがえのないものだと、わかっていた。
「──マーリン」
「何かな」
「──ありがとう。僕をヒーローにしてくれて。──でも、ヒーローじゃなくてもよかったって言ってくれて」
「──うん」
「──僕は、これからも──ただの僕として生きていくよ。痛くても、怖くても、弱くても──自分の足で歩いていくよ」
「──うん」
「──でも、たまには──隣にいてくれる?」
「──うん。ずっと、隣にいるよ。ただの友人として」
シンジは──笑った。
太陽のような笑顔でも、ヒーローの健気な微笑みでもない。ただの──人間の笑顔。
晴れやかで、穏やかで、少しだけ疲れていて、でも──確かに温かい、人間の笑顔。
「──うん。よろしく、マーリン」
「──よろしく、シンジくん」
窓の外では、宇部新川の夕日が沈んでいく。
オレンジ色の光が、駅のホームを、通りの信号を、カフェの窓を、二人の顔を──等しく染めている。
影が伸びる。光が薄れる。夜が来る。
だが──夜が来ても、明くる日は来る。
明くる日が来れば、また太陽が昇る。
太陽が昇れば、また歩き出せる。
自分の足で。ただの人間として。
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──誰も、演じていない。
その笑顔が、夜ごと血を吐いて紡がれていたことは、もう過去のこと。
その笑顔の裏で、何もなくなっていることは、もう過去のこと。
その笑顔が、誰かの犠牲の上に成り立っていることは、もう──ない。
その笑顔は、ただ──そこにある。
何も被っていない。何も隠していない。
ただの──笑顔。
花びらは、もう舞わない。
魔術は、もうない。
ただ──二人の友人が、カフェでパフェを食べている。
それで──十分だ。
「……で、なんで代金が僕の財布から落ちてるのかな、マーリン?」
「やだなぁシンジくん、無職の元・魔術師に何を期待しているんだい? ほら見て、このイチゴパフェ、花弁の形したチョコが載っててとっても美味しいよ!」
「……はぁ。まあいいか。お代わり、頼んであげるよ」
「ふふ、さすがは僕の自慢の『お友達』だね!」