偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」 作:Tommy's Workers
第4の使徒「サキエル」
エントリープラグに満ちるLCLの温度は、体温に近い。けれどシンジにはそれが冷たい水底の感覚に近かった。
視界いっぱいに広がるモニター。起動シークエンスの文字列が滝のように流れ、頭上からオペレーターの声が降ってくる。
「初号機、起動シークエンス開始!」
「シンクロ率……0.0……だめです!」
「まだだ。まだ時間はあるわ!」
赤木リツコの声が硬質に響く。隣に立つゲンドウは何も言わず、ただガラス越しに下界を見下ろしている。
LCLの中で、シンジは目を閉じていた。
(……怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い)
歯の根が合わない。胃の底からこみ上げる吐き気。心臓が早鐘を打ち、肋骨が内側から叩かれるように痛い。巨大な紫の巨人の身体に自分の神経を接続されるという感覚は、皮膚を剥がされて内臓を晒すような恐怖だった。
──それなのに、彼の唇は笑みの形を保っている。
『大丈夫、シンジくん。僕がついている』
脳の奥に、桃色の光が滲む。マーリンの声が、静かに、確実に、恐怖の回路を一つずつ遮断していく。
『君はヒーローだ。ヒーローは怖がらない。ヒーローは皆を守る。そうだろう?』
(……そうだ。僕は、ヒーロー、だ)
ふわり。
まるで花びらが水面に落ちるように、恐怖が溶けていく。心拍数が落ち、呼吸が整い、指先の震えが止まる。甘い霧が意識の縁を包み込み、現実の輪郭をぼやかしていく。
「──シンクロ率上昇! 41.3%!いけます!」
「起動確認!」
ミサトの声が弾む。オペレーターたちの安堵が伝わってくる。だが、誰も気づいていない。シンジの瞳の奥で、光が失われていくのを。恐怖と一緒に、何か大切なものが麻痺していくのを。
「初号機、発進!」
地響きと共にリフトが射出される。強烈なGが身体を押し潰し、LCLが耳を満たす。地上へ。夜の第3新東京市へ。
光が、弾けた。
──
第4の使徒は、街の中心部に佇んでいた。
巨大な人型のシルエット。肋骨のように開いた肩部。腐った肉のような質感の表皮。そして、顔の中央に埋め込まれた冷たい光の器官。
生物とも機械ともつかない、ただの「拒絶」の塊。
「……あれが、使徒」
シンジの呟きは、驚くほど平坦だった。
恐怖がない。不思議と何も感じない。目の前の怪物が自分を殺すかもしれないという事実が、甘い霧の向こう側へ追いやられている。
初号機が地上に立ち上がる。歩行。一歩、二歩。おぼつかない足取り。まるで生まれたての子鹿。神経接続の違和感が身体の節々に走り、LCLの中でシンジの眉が歪む。
だが、使徒は待ってくれない。
肩部の器官が展開し、高エネルギーが収束していく。
「──回避!」
ミサトの叫びと同時だった。
光の槍が初号機の頭部を貫いた。
──
痛み。
言葉を超えた痛み。
頭蓋が砕かれる感覚。脳髄が焼かれる感覚。視神経が断絶し、三半規管が破壊され、顔面の肉が剥がされる──それは「擬似的な死」の激痛だった。
「──っあ、あ、あああああああああ!!」
シンジの叫びがプラグ内に響く。目が血走り、瞳孔が散大し、LCLの中で身体が痙攣する。過呼吸。空気を吸っても吸っても肺が満たされない。手がコンソールをひっかき、爪が剥がれ、血が滲む。
「シンクロ率低下! 32%……28%……!」
「初号機、活動停止!」
パニックが発令所を包む。ミサトがマイクに向かって叫ぶ。
「シンジくん! 逃げて! 逃げるのよ!」
だが、逃げられない。
痛みが全てを支配している。指一本動かせない。視界が白く染まり、意識が引き剥がされていく。死ぬ。僕は死ぬ。このまま──
『──シンジくん』
声が、届いた。
甘く、優しく、どこか切ない声。花の香りがする。白い指先が、壊れかけた頭をそっと包み込むような感覚。
『怖かったね。痛かったね。……でも、もう大丈夫』
マーリンの魔術が、深く、深く、シンジの精神に食い込む。
過剰な痛覚信号が、強制的に遮断される。死の恐怖が、甘い感覚障害へと置換される。砕かれた頭蓋の痛みが、桃色の霧の向こう側へと消えていく。
途端に──シンジの叫びが止まった。
「……あれ?」
プラグ内に、静寂が戻る。
痛くない。何も感じない。頭部を貫かれたはずなのに、身体は軽く、指先は動く。まるで何もなかったかのように、意識がクリアに戻っていく。
『見てごらん、シンジくん。君はまだ立っている。ヒーローは、そんなことで倒れない』
モニターが復元する。使徒が目前に迫っている。光の槍を再充填し、初号機を仕留めようとしている。
だが、シンジの瞳には恐怖がない。
あるのは、不気味なほどの──静けさだけ。
「……僕は、ヒーローだ」
自分に言い聞かせるように呟く。その声は、十四歳の少年のものとは思えないほど落ちていた。
初号機が立ち上がる。
腰のラックから、プログレッシブ・ナイフを引き抜く。振動する刃が、夜の空気を切り裂く音がした。
「──シンジくん? 何をする気!?」
ミサトの声が届かない。届いていても、止める権利がない。
初号機が地を蹴る。
使徒の光の槍が再射出される。初号機の左肩を掠め、装甲が溶かれる。だがシンジは表情一つ変えず、加速する。痛みを感じないから。恐怖を感じないから。ただ、ヒーローとしての「目的」だけが、白熱灯のように頭の中を照らしている。
ナイフを逆手に持ち、使徒の懐に飛び込む。
肋骨のような肩部器官が閉じ、初号機の右腕を挟む。金属が軋み、骨が砕けるような音が伝達される。だがシンジは止まらない。痛みがないから。腕が折れても、砕けても、麻酔が効いているから。
刃が、使徒の胸郭を裂く。
裏肉のような質感がナイフに絡みつく。化膿した血のような体液が噴き出し、初号機の手を染める。それでもシンジは引かない。奥へ。もっと奥へ。コアが見える。赤く光る、球体の器官。
ナイフがコアに触れ、振動刃が結晶質を砕き始める。亀裂が走り、光が漏れ、使徒が悲鳴のような振動を上げる。
そして──砕けた。
コアが粉々に割れ、使徒の身体が崩れ落ちる。巨大な質量が溶けるように消滅し、夜の街に静寂が戻る。
初号機が、ナイフを握りしめたまま立ち尽くす。
モニター越しに見えるその姿は、血と体液に塗られた紫の巨人が、使徒の残骸の中に佇む光景だった。
発令所は、静まり返っていた。
「……使徒、沈黙」
「初号機、活動維持。……シンクロ率、正常値に復帰」
誰もが息を呑んでいた。初陣で、操縦訓練すら受けていない十四歳の少年が、被弾した状態から自力で使徒を撃破した。暴走ではない。冷静で、正確で、躊躇がない。まるで最初からこうするために生まれてきたかのような──
「……すごい」
ミサトの呟きが、静寂を破った。
「すごいわ、シンジくん……!」
拍手が起きる。歓声が上がる。大人たちが安堵し、互いの肩を叩き合う。
だが、その熱狂の中心で──プラグ内のシンジの瞳は、何も映していなかった。
◆◆◆
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帰還後のシンジは、完璧だった。
「みなさん、お疲れ様でした! 無事に使徒を倒せて本当に良かったです……!」
プラグスーツから制服に着替え、発令所に戻ったシンジは、満面の笑みで出迎えの大人たちに頭を下げた。頬は上気し、目元は柔らかく、どこか誇らしげだ。
「初めての戦闘であの落ち着き……正直、驚きました。あなた、素質があるわよ」
リツコが眼鏡を押し上げながら言う。その視線には、科学的な興味と、わずかな警戒が混じっていた。
「いやぁ、僕なんてまだまだですよ! でも、みんなが応援してくれたおかげです。ありがとうございます、赤木博士」
シンジは頭を掻き、照れたように笑う。
完璧な好青年。隙がない。可愛らしくて、礼儀正しくて、謙虚で──誰の目にも「良い子」に映る。
だが、ミサトは気づいていた。
シンジが発令所に入ってきた時、一瞬だけ──ほんの一瞬だけ──彼の視線が定まらなかった。足元が揺れた。まるで重力の方向を忘れたかのように。そしてすぐに、笑顔でカバーした。
(……気のせいか)
ミサトは自分の胸の違和感を、そう片付けた。初陣の緊張のせいだろう。十四歳の子供が、化け物を殺したのだ。無理をして元気に振る舞うのは、不自然なことではない。
「さあ、シンジくん。今日からあなたは私の家で暮らすのよ。歓迎会しましょう!」
ミサトはシンジの肩を叩き、弾むように言った。
「本当ですか? ありがとうございます、ミサトさん! 僕、家事得意なんです。料理も掃除も洗濯も、任せてください!」
「……え? いいの? そんなの悪いわよ」
「居候させてもらうんだから当然ですよ! それに──」
シンジは眩しいほどの笑顔を向けた。
「役に立てるのが、僕、すごく嬉しいんです」
──
その夜。ミサトのマンション。
「──うわぁ、すごい! これ、本当にシンジくんが作ったの?」
テーブルに並んだのは、湯気の立つ味噌汁、丁寧に焼かれた鮭、彩り豊かなサラダ。荒れ放題だったリビングは一時間で別人の家のように片付き、爽やかな香りが漂っていた。
「はい! 僕、料理は昔から得意なんです。召し上がってください!」
「いただきまーす! ……んんっ! 美味しい! すごく美味しい!」
ミサトは目を丸くし、次々に箸を運ぶ。ビールを片手に、上機嫌で頬を膨らませている。
「なんていうか……本当に、いい子ね、あなた。家事ができるし、礼儀正しいし、料理まで上手で……」
「そんな、褒めすぎですよ」
シンジは照れ笑いを浮かべ、ミサトのビールを継ぎ足す。
「それに、今日の戦闘……すごかったわ。あんなに怖かったでしょうに、よくあそこで戦えたわね」
「……ええ、まあ」
シンジの箸が一瞬止まった。だが、すぐに笑顔に戻る。
「怖かったですけど……でも、誰かがやらなきゃいけないんでしょう? それに、僕にはマーリンさんが──」
「マーリン? それ、誰?」
「──あ。いや、その、僕の、心の中の、応援してくれる人、みたいな……上手く言えないんですけど」
ミサトはきょとんとし、それから苦笑した。
「なーんだ、そういう自己暗示があるのね。ふふ、でもいいじゃない。自分を支えられるものがあるなら」
「はい。……僕は、大丈夫ですから」
シンジの笑顔は崩れない。
だが、その夜。ミサトが寝静まり、ペンペンが冷蔵庫の下で丸くなった後。
シンジの「崩れる時間」がやってきた。
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自室。六畳一間の、与えられた部屋。
薄暗い天井を見つめながら、シンジは布団の上に横たわっていた。静寂。遠くを走る車の音。冷蔵庫の唸り声。日常の音が、耳の奥で反響する。
(……痛くない。痛くない。僕はヒーローだから、痛くない)
そう自分に言い聞かせる。今日も言い聞かせた。何度も、何度も。
──指先が、震え出した。
最初は小さな震え。指先から手のひらへ、手のひらから手首へ、腕、肩、首、全身へ。まるで体温が下がっていくような感覚。いや、体温は関係ない。これは──
「──っ」
胃の底から、何かが込み上げてくる。
昼間、麻痺させられたはずの痛み。頭部を貫かれた時の激痛。骨が砕ける音。体液の匂い。使徒のコアを砕いた時の手応え。全てが、幻肢痛のように──麻酔が切れた手術後のように──一気に押し寄せてくる。
「う……っ、あ……」
身体が折れる。布団の上で、四つん這いになり、口を押さえる。吐き気。強烈な吐き気。胃液が食道を逆流し、喉が焼ける。でも、声を出せない。ミサトさんに聞こえたら、心配をかける。「平気です」と言ったのに。僕はヒーローなのに。ヒーローは弱音を吐かない。
片手で口を押さえ、もう片方の手で自分の腕を強く握りしめる。爪が食い込む。皮膚が裂ける。痛み。自分で作った痛みだけが、唯一「自分が生きている」ことを教えてくれる。
(怖かった。怖かったよ。痛かった。死ぬかと思った。あんなの、もう嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ──)
涙が溢れる。声を殺して、枕に顔を押し付け、全身を震わせて泣く。十四歳の少年が、たった一人で、暗い部屋で、声もなく泣いている。
その時。
部屋の空気が、変わった。
ふわりと、花の香りが漂う。窓が開いていないのに、風が吹いたような。そして、薄暗い天井に、白い花びらが舞い始めた。
『──泣かないで、シンジくん』
マーリンが、そこにいた。
幻影の体は半透明で、月光のように儚く、部屋の空気に溶け込みそうだった。だが、その手は確かに温かかった。シンジの震える肩を、そっと包み込む。
「……マ、マーリンさ……ん……」
声が震える。ヒーローのペルソナが剥がれ落ち、ただの怯えた少年の声になる。
「怖かった……痛かった……僕、僕、死ぬかと思って……あんなの、もう、嫌だよぉ……」
『うん、うん。わかってるよ。よく頑張ったね』
マーリンは優しくシンジを膝に引き寄せ、背中を撫でる。片手で温かいスープの入ったカップを取り出し、震える手に持たせる。
「……これ」
『飲める? 温かいから。少しずつでいいよ』
シンジは涙で濡れた顔を上げ、カップを両手で包み込む。一口。喉を通る温かさが、痙攣した胃を少しだけ緩める。
「……僕、ちゃんと……お父さんたちの、役に立てたのかな……?」
『ああ、立派だったよシンジくん。君は最高のヒーローだ。使徒を倒して、あの女の子を助けて、世界を守った。本当に、よく頑張った』
マーリンの声は蜂蜜のように甘く、そしてどこか──苦い。
「……僕が、ヒーローだから……?」
『そうだ。君は選ばれたヒーローなんだ。だから僕がずっとそばにいる。ずっと守ってあげるからね』
膝の上で、シンジの震えが少しずつ収まっていく。スープの温かさと、マーリンの手の温かさが、壊れかけた心を「ヒーローの形」へと繋ぎ止めていく。
「……うん。僕は、ヒーローだ。マーリンさんがついてるから、僕は……大丈夫だ」
シンジは涙を拭い、小さく笑った。その笑みは、昼間の完璧な笑顔とは違う。もっと儚くて、もっと痛々しい、本当の少年の笑みだった。
マーリンはその髪を撫で続けながら、シンジの見えない場所で──ただ一人、唇を噛みしめていた。
(……ごめんね。君をこんな風に壊しているのは、僕なんだ)
花びらが舞い、幻影が薄れ、夜が更けていく。
少年は膝の上で眠りに落ち、魔術師は後悔を抱えたまま、夜を明かした。
──
翌朝。
「おはようございます、ミサトさん! 朝ごはん、できてますよ!」
「……はぁい。おはよう……」
寝ぼけ眼のミサトに、完璧な朝食と爽やかな笑顔が並ぶ。
「昨日はよく眠れたかしら?」
「はい! バッチリです! さあ、食べてください。今日も頑張りましょう!」
眩しい。
ミサトはそう思った。この子は、眩すぎる。
まるで──光を発するために、自分を燃やしているみたいに。
だが、その違和感を言葉にする前に、味噌汁の温かさが胃に届き、ミサトは笑った。
「本当に、いい子ね。助かるわぁ」
「ふふ、任せてください!」
シンジの笑顔は、完璧だった。
──誰も気づかない。その裏で、どれだけの苦しみが彼の中に沈められているかを。
健気な美少年っていいですよね!