偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」 作:Tommy's Workers
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線路沿いの空地に転がっていた貨物列車の残骸が、蒸発した。
触手が振るわれ、光熱線が走る。それが触れたものは何もかも溶かされ、宵闇の空にオレンジ色の残光を残して消える。アスファルトが泡立ち、ガードレールが液状化し、変電所の鉄壁が蝋のように垂れた。
第5の使徒。
巨大な帽子を伏せたような胴体から、四本の鞭状の触手が生えた生物。胴体中央に埋め込まれた赤いコアが、街灯の明かりを吸い込んで濡れたように光っている。
初号機が電源ケーブルを引きずりながら退避した先は、第三新東京市の外縁部にある廃物流センターだった。遮蔽物として使っていたコンテナ群がすでに半分ほど蒸発している。
「──シンジくん、聞こえる? 退避して! いったん本部へ戻って補給を受けてから再出撃よ!」
ミサトの声がプラグ内に響く。緊急時のトーンだ。叱責ではなく、懇願に近い。作戦部長としての判断と、十四歳の少年を預かる大人としての恐怖が混ざった声。
「──はい。わかりました」
シンジの声は、平坦だった。
わかりました、と言った。だが、初号機は動かない。
プラグ内のシンジの手は、操縦桿を握りしめたまま、微動だにしない。モニターには、ケーブルを切断され出力が低下していく初号機のステータスが赤く点滅している。残り活動時間──二分十八秒。
「シンジくん? どうしたの?」
「……」
返答がない。
シンジの瞳はモニターに映る使徒を凝視していた。その唇が、音もなく動く。
(──逃げたら、ヒーローじゃない)
思考が、循環する。
(逃げたら、お父さんに失望される。せっかく僕を必要としてくれたのに。せっかく乗れたのに。ここで逃げたら、また「要らない子」に戻る。帰る場所がなくなる。ミサトさんの家にも、いられなくなる。マーリンさんにも──)
「シンジくん!」
ミサトの声が鋭くなる。プラグ内のLCLが振動し、シンジの鼓膜を叩く。
「何を考えてるの! ケーブルが切れた今、残り電力でまともに戦える状態じゃない! 退避命令よ!」
「……いえ」
声が漏れた。小さく、掠れて、自分でも驚くほどか細い声。
「僕は……退避しません」
「は?」
「逃げてしまったら、僕は──」
言葉が詰まる。ヒーローじゃなくなります、とは言えない。そんな子供じみた理由で人命や作戦を蔑ろにしていると知られたら、呆れられる。怒られる。捨てられる。
だから、シンジはペルソナを被り直した。
「──大丈夫です、ミサトさん。僕にはやれます。残り時間で、あいつを倒せます!」
明るく、弾むような声。操縦桿を握る手のひらが、LCLの中で皮が剥けるほど握りしめられていることには、誰も気づかない。
「ダメよ! 絶対に退──」
「──すみません、ミサトさん。でも、僕、決めたんです」
ミサトの声を遮り、シンジは初号機を立ち上がらせた。
残り一分五十二秒。
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発令所で、ミサトがヘッドセットを握りつぶしそうな力で掴んでいた。
「あの子……! 命令違反よ、これは!」
「しかし現実的に、残り時間で退避しても再出撃までに十分な補給は不可能よ。いっそ──」リツコが冷静に分析を始めるが、その瞳の奥にも苛立ちが滲んでいる。
「青葉、残り時間は?」
「一分三十八秒! 減少続行!」
「シンクロ率は?」
「維持しています。……むしろ上昇中。43%……45%……」
「……」
リツコが眉を寄せた。
(シンクロ率が上がっている? 退避命令を無視して、出力が低下している状況で? 逆にストレスで暴走してもおかしくないのに──)
その異常さに気づいたのは、発令所に佇むゲンドウただ一人だったかもしれない。
ゲンドウはガラス越しにモニターを眺め、薄い唇の端をわずかに歪めた。笑みとも苦遊ともつかない表情。それを、隣の冬月が見咎める。
「碇、あれを止めんのか」
「……放っておけ」
「何?」
「あれがあいつの選択だ」
冬月は呆れと懸念を含んだ視線をゲンドウに向け、何も言わなかった。
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プラグ内。
シンジの心拍数は異常値に達していた。LCLの中で、呼吸が浅くなる。過呼吸の予兆。指先が痺れ、視界の端が白く染まり始める。残り一分二十一秒。使徒の触手が、初号機との距離を詰めようとしている。
怖い。
怖い怖い怖い。
死にたくない。焼かれたくない。溶かされたくない。痛いのは嫌だ。あの、頭を貫かれた時の痛みが、まだ幻肢痛のように残っている。今度は──腕を焼かれるのか。胸を焼かれるのか。
──それでも、動かないではいられない。
退避したら要らない子に戻る。退避したらヒーローじゃない。ヒーローじゃない僕には価値がない。価値のない僕を、誰も愛さない。マーリンさんも──
『──シンジくん』
その時、声が届いた。
甘く、優しく、花の香りを纏った声が、痺れかけた意識の中心に滑り込んでくる。マーリンが隣に立っていた。半透明の幻影が、震えるシンジの肩に手を置く。
『怖がらなくていい。僕が君の腕を支えてあげる』
マーリンの指先が、桃色の光を放つ。
魔術が、初号機の神経接続回路に干渉する。筋肉への信号伝達を補正し、反射速度を引き上げ、関節の可動域を限界まで広げる。同時に、恐怖で硬直していた身体に「感覚麻痺」の薄い膜を被せる。
痛みはまだ来ていない。だが来る。来るのはわかっている。それでも──
『行こう、シンジくん。君はヒーローだ。ヒーローは逃げない。退避しない。──そうだろう?』
その言葉は、肯定であり、呪いであり、逃げ場のない愛の檻だった。
シンジは──笑った。
「──うん。僕は、ヒーローだ」
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残り五十八秒。
初号機が、地を蹴った。
廃物流センターのコンクリートが砕け、初号機の脚がめり込む。加速。残り電力を振り絞った突進は、使徒の懐に飛び込むには十分だった。
使徒が反応する。四本の触手が鞭のようにしなり、光熱線が初号機の進路上を薙ぐ。
「──っ」
左腕が、焼かれた。
装甲が溶け、内側のフレームが露出する。熱が伝達される。LCLの温度が上がり、シンジの皮膚が火傷を負う──はずだった。
(──痛くない)
魔術が効いている。神経信号が遮断され、灼熱が「甘い痺れ」に置換される。腕が溶かされているのに、痛みだけが届かない。まるで他人の身体を見ているような、奇妙な乖離感。
シンジは──いや、ペルソナのシンジは、その乖離感を武器にした。
痛みがない。恐怖がない。あるのは「ヒーローとしての目的」だけ。ナイフを引き抜き、残った右腕で握り、使徒のコアに向けて突進する。
触手が二本、初号機の胴体を薙ぐ。装甲が弾け飛び、肋骨フレームが軋む。だが止まらない。痛みがないから。壊れても痛くないから。
残り十一秒。
ナイフの振動刃が、使徒の体表を裂く。腐肉のような質感が抵抗し、刃が食い込む。粘液が噴出し、初号機の手が滑る。
(──足りない。もっと、深く──)
「──くそっ!」
初号機の左腕──焼かれて装甲の剥がれた左腕が、使徒の胴体を掴む。溶けたフレームが使徒の表皮に食い込み、拘束する。相打ちだ。身動きを封じ、右手のナイフをコアに──
残り三秒。
ナイフが、コアに触れる。
振動刃が結晶質を砕き始める。亀裂が走り、光が漏れ、使徒が悲鳴のような振動を上げる。一秒。二秒。三──
砕けた。
コアが粉々に割れ、使徒の身体が崩れ落ちる。触手が力を失い、初号機から滑り落ちる。残り時間、ゼロ。
初号機が、活動停止した。
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プラグ内に、静寂が戻る。
暗転したモニター。LCLの温度がゆっくりと下がっていく。使徒の残骸がLCLの溶液の中に溶け出し、オレンジ色の光が消えていく。
戦闘終了の表示が浮かぶ。シンジは操縦桿から手を離し、深く息を吐いた。
──その瞬間だった。
魔術が、切れた。
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『──あ、シンジくん!』
マーリンの声が、わずかに上ずった。
シンジの喉から、空気が漏れた。嘔吐感。猛烈な嘔吐感。麻痺させられていた痛覚信号が、一斉にダムを切って押し寄せてくる。左腕の火傷。右腕の打撲。全身の筋肉疲労。肋骨フレームの軋み。それらが「後から」──まるで時間差爆弾のように──一気に襲いかかってきた。
「──っ、お、ぐ……!」
口を押さえる。間に合わない。LCLの中に胃液が混じり、次いで血が混じる。吐血。激しい吐血。胃の内容物と血が混ざった液体がプラグ内に漂い、シンジの視界を赤く染める。
呼吸ができない。空気を吸おうとしても肺が動かない。過呼吸。過呼吸。過呼吸。指先が痙攣し、目が血走り、涙がLCLに溶けていく。
「か……は……っ、い、た……い……っ」
痛い。痛い痛い痛い。腕が焼けるように痛い。胸が潰れるように痛い。頭が割れそうに痛い。麻酔が切れた手術後のような、蓄積された全てのショックが、一瞬で身体を支配する。
『──シンジくん! しっかりして!』
マーリンが慌てて二度目の麻痺魔術を行使しようとするが、シンジの手がそれを制止した。
「──だ、いじょう……ぶ……」
声が掠れる。血混じりの唾液が唇から垂れる。それでも、シンジは笑った。
「……へいき、です……から……」
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発令所。
「初号機、活動停止。使徒沈黙を確認」
「パイロットの生体反応は?」
「……バイタルに乱れがあります。血圧上昇、脈拍──」
「シンジくん!」
ミサトが叫ぶ。モニター越しに、プラグ内の様子が映し出される。LCLが赤く濁り、シンジが操縦桿に突っ伏しているのが見える。
「シンジくん、聞こえる!?」
数秒の沈黇。そして──
「──はい。聞こえます、ミサトさん」
声は震えていた。だが、次の瞬間には回復していた。
「平気です! 使徒も倒せましたし、僕は大丈夫です!」
「大丈夫じゃないでしょう! 吐血して──」
「平気です! ……本当に、平気ですから」
その声の明るさが、逆に不気味だった。血に濡れたプラグの中で、十四歳の少年が、壊れたラジオのように「平気です」と繰り返している。
ミサトは何か言いかけて──口を閉じた。
代わりに、マイクの向こうでシンジの声が響く。
「──帰ったら、ご飯作りますね。ミサトさんの好きなカレーにします」
その言葉に、発令所の空気が──凍りついた。
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回収後のドック。
プラグから救出されたシンジは、 メディカルベイに運ば込まれた。傷の処置が施され、肋骨の打撲にテーピングが巻かれた。血を拭われた顔は青白く、目の下に隈が浮かんでいる。
だが、シンジは笑っていた。
「すみません、ご心配おかけして。でも本当に大丈夫です。ちょっと吐いちゃっただけで──」
「ちょっと!?」
ミサトが声を荒らげる。だが、シンジの笑顔の前で、その怒りは行き場を失う。
「……もう。本当に、無茶するんだから」
ミサトはため息をつき、シンジの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「でも……勝ったわ。あなたのおかげね」
「はい!」
シンジは満面の笑みを返す。
その笑顔は──完璧だった。隙がない。礼儀正しくて、健気で、明るくて、誰の心にも届くような良い子の笑顔。
だがミサトは、その笑顔を見て、胸の奥に小さな棘のような違和感を感じた。
(──平気なわけないのに)
火傷を負い、血を吐き、命令違反を犯した十四歳の子供が、なぜこうまで完璧に「平気」を演じられるのか。
「……シンジくん」
「はい?」
「無理しなくていいのよ。怖かったら怖かったって言っていいんだから」
シンジは一瞬──ほんの一瞬だけ──瞳の奥が揺れた。
だが、すぐに笑顔に戻る。
「ミサトさん。僕は──ヒーローですから」
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その夜。
ベッドで、シンジは一人で天井を見つめていた。
傷が、シクシクと痛む。マーリンの魔術が切れた後も、物理的な損傷は残っている。痛み止めの注射が打たれているが、鈍い痛みは消えない。
(──でも、これくらいなら、大丈夫)
シンジは傷そっと撫でた。
(痛い。でも、僕はヒーローだから、痛くても笑っていなきゃいけない。ミサトさんに心配かけちゃいけない。お父さんに失望されちゃいけない。マーリンさんに──)
『──シンジくん』
マーリンがいた。
ベッドサイドに、半透明の幻影として座っている。白銀の髪が月光のように淡く光り、仕込み杖を膝に置いている。その瞳には、安堵と──深い、深い罪悪感が揺れていた。
『……痛かったね。ごめんね、もっと早く魔術をかけ直せばよかった。』
「ううん。マーリンさんのせいじゃないよ」
シンジは小さく笑った。その笑みは、昼間の完璧な笑顔とは違う。もっと小さくて、もっと痛々しい、少年の素の表情だ。
「僕が勝手に突っ込んだだけだし。マーリンさんが腕を支えてくれなかったら、ナイフも届かなかった」
『……でも』
「それに──」
シンジは左腕を撫でながら、ぽつりと言った。
「痛いって感じるのは、僕がまだ生きてるってことだよね。だから、いいんだ」
マーリンは、何も言えなかった。
その言葉が、十四歳の少年が口にしていい言葉ではないことを知っている。同時に、その言葉を導いたのが自分の「呪い」であることも知っていた。
『君はね、シンジくん……本当に、強い子だ』
「……うん」
『だから──僕がずっとそばにいる。君がヒーローでいられる限り、ずっと』
シンジは目を閉じ、マーリンの手が髪を撫でる感覚に身を委ねた。
「……うん。おやすみ、マーリンさん」
『おやすみ、シンジくん。良い夢を』
花びらが舞い、幻影が薄れ、夜が更けていく。
少年が眠りに落ちた後、マーリンは一人、冷たい空気の中に座っていた。
仕込み杖を握りしめる手が、微かに震えていた。
(──君が「痛い」ことを「生きている証拠」だと言うのなら、それは僕が君に教えたことだ)
(君の痛みを麻痺させ、恐怖を消し、ただ「ヒーローであれ」と言い続けた結果、君は痛みすら「愛」の形に変えてしまった)
(それは──僕の罪だ)
マーリンは目を閉じた。
花の香りが、冷たい空気に溶けていく。
──翌朝。
シンジは、いつも通りの完璧な笑顔で、ミサトの家のキッチンに立っていた。
「おはようございます、ミサトさん! 今日はカレーにしましたよ。昨日言ったでしょ?」
「……朝からカレー?」
「美味しいですよ! ほら、食べてみて!」
ミサトは、シンジの左腕に巻かれた包帯を見た。包帯の下から滲む鎮痛剤の匂い。それを、シンジは笑顔で覆い隠している。
「……いただきます」
一口、食べる。
「──美味しい。すごく美味しいわ、シンジくん」
「よかった!」
シンジは破顔した。太陽のような笑顔。明るく、健気で、決して屈しない完璧なヒーローの笑み。
──その裏で、傷が、シクシクと痛んでいることを、ミサトは知っていた。
知っていて、聞けなかった。
この子が「平気です」と言ったら、それ以上踏み込んではいけない気がした。十四歳の少年の完璧すぎる笑顔の前では、大人の言葉は全て無力になる。
ミサトはカレーを食べ、何も言わなかった。
──誰も気づかない。
その笑顔が、夜ごと血を吐いて紡がれていることを