偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」   作:Tommy's Workers

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第6の使徒「ラミエル」

 

 

---

 

空が、割れた。

 

──そう見えた。

 

二里ヶ浜の地平線から現れた第6の使徒は、幾何学的な青白い光の塊だった。八角形の稜線が自転し、大気を歪ませながら第3新東京市へと近づいてくる。その表面から放たれる加圧粒子砲の射程は、対象を百パーセント貫通する。一発でも直撃すれば、終わりだ。蒸髪する。溶かされる。粒子のレベルで分解される。死ですらない。消失だ。

 

それを、陽電子砲で撃つ。

 

二十キロ離れた地点から、百分の一秒の誤差も許されない一発の狙撃で、コアを貫く。

 

──それが、ヤシマ作戦。

 

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作戦前夜。ミサトのマンション。

 

シンジは、冷蔵庫の中身を確認していた。明日の朝食と、作戦後の夕食の食材を並べる。レシピを頭の中で組み立てる。和食がいいだろう。消化に良くて、温かいもの。味噌汁は赤出汁にしよう。煮物は──

 

「──シンジくん」

 

ミサトがリビングから声をかけた。ビールを片手に、ソファに座っている。ペンペンが隣でチップスターを食べていた。

 

「明日のことだけど」

 

「はい」

 

シンジは冷蔵庫から顔を出し、笑顔を向けた。

 

「何でしょうか、ミサトさん」

 

「……正直に言うわね。明日の作戦、生還率は低いの」

 

シンジの笑顔が、一瞬だけ凍った。

 

「……でも、私が必ずあなたを帰すから。絶対に」

 

ミサトの声が、少し震えていた。作戦部長としての断言ではなく、十四歳の少年を預かる大人としての懇願に近い。

 

シンジは冷蔵庫を閉め、リビングに入り、ミサトの前に立った。

 

「──ミサトさん」

 

「何?」

 

「僕を信じてください」

 

眩しいほどの笑顔だった。

 

「僕はヒーローですから。世界を守って、必ず帰ってきます。それに──」

 

シンジはエプロンのポケットを軽く叩いた。

 

「帰ったらご飯作らないといけないし。冷蔵庫、もう空っぽですから」

 

ミサトは、何も言えなかった。

 

ただ、この子は──この子は、また無理をして笑っている。それがわかっていて、止められない。自分が作戦部長だから。自分がこの作戦を立案したから。

 

「……おやすみ、シンジくん」

 

「おやすみなさい、ミサトさん。明日、頑張りましょう」

 

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その夜。自室。

 

シンジは布団の上に座り、膝を抱えていた。

 

窓の外の月が、白く光っている。静かな夜だ。遠くを走る電車の音が、低く響いている。

 

(──生還率が低い)

 

ミサトの言葉が、頭の中で反響している。

 

(──死ぬかもしれない。明日、僕は死ぬかもしれない)

 

指先が震え出した。胃の底から冷たい何かが這い上がってくる。心臓が早鐘を打ち始める。

 

(──怖い)

 

(──怖い怖い怖い怖い怖い)

 

(──死にたくない。痛いのは嫌だ。溶かされるのは嫌だ。明日、あの砲撃を浴びたら、僕は──)

 

「──っ」

 

呼吸が浅くなる。過呼吸の予兆。指先が痺れ、視界の端が白く染まる。口を手で押さえ、声を殺す。ミサトさんに聞こえたら、心配をかける。「大丈夫です」と言ったのに。僕はヒーローなのに。ヒーローは──

 

『──シンジくん』

 

マーリンが、いた。

 

窓辺に腰掛け、月を見上げている。白銀の髪が月光を吸って淡く光り、仕込み杖が膝に横たわっている。その横顔には、静かな決意と──深い躊躇が浮かんでいた。

 

『……怖いんだよね』

 

「……うん」

 

シンジの声は震えていた。ペルソナが剥がれ、ただの怯えた少年の声になる。

 

『明日は、本当に危険な戦いになる。これまでのように「痛みを麻痺させる」だけじゃ済まないかもしれない。一発でも外せば──』

 

「──わかってる」

 

シンジは膝に顔を埋めた。

 

「わかってるよ。でも──」

 

顔を上げた。涙で濡れた目が、マーリンを見た。

 

「僕がやらなきゃ、誰がやるの。レイさんも出るって聞いた。彼女を一人にできない。あの子、まだ包帯だらけなのに──」

 

『……シンジくん』

 

「僕はヒーローだよね? なら、やらなきゃ。怖くても、痛くても──」

 

マーリンは、何も言えなかった。

 

(──君は「ヒーローだからやらなきゃ」と言う。でも本当は「やらなきゃヒーローでいられない」と言いたいんだろう)

 

(──その違いを、君はもう区別できなくなっている)

 

マーリンは、シンジの隣に座り、震える肩を抱き寄せた。花の香りが、冷たい部屋に漂う。

 

『……僕が、ついている。明日、何があっても、僕が君を支える。呼吸も、痛みも、恐怖も──全部、僕が肩代わりしてあげる』

 

「……マーリンさん」

 

『だから、眠って。明日は長い一日になる』

 

シンジはマーリンの胸に顔を押し付け、目を閉じた。震えが少しずつ収まっていく。

 

「……マーリンさんは、ずっとそばにいてくれるよね」

 

『──うん。ずっと、そばにいるよ』

 

その「ずっと」がどれほど重い約束か、マーリンは知っていた。

 

花びらが舞い、月が沈み、夜が更けていく。

 

少年は眠りに落ち、魔術師は──眠れなかった。

 

---

 

翌日。二里ヶ浜。

 

陽電子砲のセットアップが完了していた。

 

山腹を削り出した陣地に、巨大な砲身が据えられ、日本中の電力を集中させるための変電設備がズラリと並んでいる。初号機が伏せた姿姿勢で陽電子砲を構え、その背後に零号機が盾を構えている。

 

──零号機。綾波レイ。

 

「──綾波さん」

 

プラグ内のモニター越しに、シンジは零号機を見た。

 

「……何」

 

レイの声が、通信回路越しに届く。平坦で、淡々とした声。

 

「あの盾、大丈夫なの? あの使徒の砲撃を防ぐんでしょう」

 

「……防ぐわ。それが私の役割だから」

 

「役割、か……」

 

シンジは、少しだけ笑った。

 

「僕たち、似てるよね。役割のために戦ってる」

 

「……」

 

レイは何も返さなかった。だが、通信の向こうで、わずかに呼吸が変わった気がした。

 

「──綾波さん」

 

「何」

 

「終わったら、またお弁当持っていくね。今度はサンドイッチにするよ」

 

「……」

 

「君が好きそうなもの、リストアップしておいて」

 

沈黙。そして──

 

「……卵焼き」

 

小さな声だった。通信ノイズに紛れそうなほど小さな声。

 

「卵焼き、好きなんだね。わかった。甘いのにする? 塩辛いのにする?」

 

「……甘い」

 

「よし。甘い卵焼きだね、任せてよ!」

 

シンジは笑った。モニター越しに届く、温かい笑顔。

 

レイは──何も言わなかった。だがその胸の奥で、あの名前のない「ポカポカ」が、また少しだけ大きくなった。

 

---

 

「──ヤシマ作戦、発動!」

 

ミサトの号令が響く。

 

「全電力、初号機へ!」

 

日本中の灯りが消えた。変電所が唸りを上げ、電力が一本の砲身に収束していく。陽電子砲のチャージングインジケーターが100%に達する。

 

「──シンジくん、いつでも撃てるわよ」

 

「──はい」

 

シンジは操縦桿を握りしめた。指先が微かに震えている。怖い。狙撃なんてしたことがない。外したらどうなる。外したら──

 

(──外せない。外したらヒーローじゃない。外したら──)

 

『──シンジくん』

 

マーリンの声が脳内に響く。

 

『深呼吸をして。僕が照準をサポートする。君の目は、君の手は、僕が支える。信じて、引き金を引きなさい』

 

桃色の光が、シンジの視神経に溶け込む。視界がクリアになる。距離感が正確になり、風の揺らぎが計算され、照準点がモニターに浮かぶ。

 

(──いける。僕はヒーローだ。マーリンさんがついている。大丈夫だ)

 

「──撃ちます!」

 

引き金を引いた。

 

陽電子砲が発射された。白い光の柱が大気を切り裂き、二十キロ先の使徒へと走る──

 

外れた。

 

光の柱は使徒の稜線を掠め、背後の山腹を蒸発させた。土砂が崩れ、煙が舞い上がる。コアに届いていない。一センチ。いや、一ミリ。それほどの誤差で、光は使徒を掠めた。

 

「──外れた!」

 

ミサトが叫ぶ。

 

そして──反撃が来た。

 

---

 

使徒の表面が展開し、加圧粒子砲が収束する。青白い光が、初号機の方向へ向かって──発射された。

 

直撃。

 

初号機の右肩が蒸発した。

 

装甲が溶け、フレームが液状化し、内部の構造材が一瞬で消滅する。熱量がコックピットにまで伝達され、LCLの温度が急上昇する。

 

「──っあああああ!!」

 

シンジの叫びがプラグ内に響く。熱い。熱い。熱い。肌が焼ける。LCLが沸騰し、肺が焼かれる。視界が白く染まり、コンソールの警告音が耳をつんざく。

 

「シンクロ率低下! 56%……48%……!」

 

「初号機、右肩部蒸発! 装甲完全消失!」

 

「パイロットの生体反応──火傷! 二度火傷以上!」

 

発令所が騒然となる。ミサトがマイクに向かって叫ぶ。

 

「シンジくん! 退避して! 今すぐ──」

 

「──いえ」

 

シンジの声が、血混じりに響く。

 

「もう一度、撃ちます」

 

「正気なの!? 狙撃位置がバレてるのよ! 二発目が来たら──」

 

「もう一度、撃たせてください!」

 

シンジの叫びが、ミサトの声を遮った。その声には、悲壮な決意と──何か、狂気が混じっていた。

 

(──外した。外した。僕が外した。ヒーローが外した。駄目だ。もう一度やらなきゃ。今度こそ当てなきゃ。当てなきゃ──)

 

指が震える。激しく震える。狙撃照準が定まらない。手が、腕が、全身が震えている。火傷の痛みが、マーリンの麻酔を侵食して迫ってくる。

 

(──無理だ。手が震えて。照準が。定まらない──)

 

『──シンジくん』

 

マーリンの声が、静かに響いた。

 

『──見てごらん』

 

モニターの端に、映像が映し出された。

 

零号機が、動いていた。

 

---

 

レイが、盾を構えて立っていた。

 

巨大な合金の盾。それを零号機の腕で持ち上げ、初号機の前に立ち塞がる。使徒の加圧粒子砲が、零号機の盾に向かって収束していく。

 

「──綾波さん! 何をして──」

 

「……邪魔しないで」

 

レイの声が、通信越しに届く。平坦で、淡々とした、いつもの声。だがその奥に──何かが、あった。

 

「私は、あなたの盾になる。それが私の役割」

 

「──っ、やめて! 君が死んじゃう!」

 

「……死なない。あなたが撃てば、終わる。だから──撃って」

 

使徒の砲撃が、零号機の盾を捉えた。

 

光が、炸裂する。

 

盾の表面が溶け始める。合金が液状化し、零号機の腕が焼かれる。レイのプラグ内でLCLが沸騰し、彼女の皮膚が火傷を負う。だが──レイは動かない。盾を構え続ける。背中を丸め、歯を食いしばり、光の暴力を受け止め続ける。

 

「──綾波さん!」

 

シンジの目が、見開かれた。

 

レイが、自分のために盾になっている。あの包帯だらけの身体で、あの「壊れても代わりがある」と言った少女が、自分の身を投げ出して──

 

(──ヒーローは、女の子を死なせない)

 

マーリンの声が、脳内に響く。静かに、確かに、命じるように。

 

『見ただろう? ヒーローはね、女の子を死なせない。君があの子を死なせたら、君はヒーローじゃない』

 

(──っ)

 

『僕が呼吸を止めてあげる。心臓を止めてあげる。世界を止めてあげる。だから──落ち着いて、引き金を引きなさい』

 

マーリンの魔術が、深く、深く、シンジの精神に食い込む。

 

感応麻痺の極致。

 

心拍数が強制的に落ちる。呼吸が止まる。指先の震えが──ピタリと止まる。視界が、研ぎ澄まされる。世界がスローモーションになり、音が消え、痛みが消え、恐怖が消え──ただ、照準点だけが、モニターの中心に浮かぶ。

 

シンジの瞳が、変わった。

 

血走った目が、澄み切った静寂に覆われる。感情が削ぎ落とされ、ただ「目的」だけが残る。ヒーローの仮面の下にある──人間性すら麻痺した、完璧な狙撃者の目。

 

(──僕は、ヒーローだ)

 

指が、引き金にかかる。

 

震えない。迷わない。怖くない。マーリンが呼吸を止めてくれている。世界を止めてくれている。だから──ただ、撃てばいい。

 

チャージング完了。

 

照準、固定。

 

使徒のコアが、モニターの中心に捉えられる。二十キロ先の、赤い光。

 

──引き金を引いた。

 

---

 

白い光の柱が、大気を貫いた。

 

今度は──外れない。

 

光は、二十キロの距離を一瞬で飛び越し、使徒のコアの中心を──寸分の狂いもなく──貫通した。

 

赤い光が弾け、使徒の幾何学的な形体が崩壊する。稜線がひび割れ、光が漏れ、八角形の塊が内側から崩れていく。

 

「──使徒、沈黙!」

 

「コア破壊確認!」

 

歓声が上がる。だがシンジはそれを聞いていなかった。

 

「──綾波さん!」

 

シンジは初号機を立ち上がらせた。右肩が蒸発した巨体が、バランスを崩しながら零号機に駆け寄る。零号機は──盾が溶け落ち、腕が炭化し、膝をついていた。

 

「綾波さん! 返事をして! お願い、返事をして!」

 

プラグ内で叫ぶ。通信回路がノイズにまみれ、レイの声が届かない。シンジの目に涙が溢れる。恐怖の反動が、麻酔の切れ間に、一気に押し寄せてくる。

 

(──死なせた。彼女を死なせた。僕が外したから。僕が──)

 

「──碇くん」

 

声が、届いた。

 

微かで、掠れて、でも確かにレイの声。

 

「……大丈夫。私は、生きている」

 

シンジは──泣いた。

 

プラグの中で、血と涙とLCLが混ざり合う中で、十四歳の少年が声を殺して泣いた。安堵と、恐怖と、罪悪感と、感謝と──名前のない感情が、一気に溢れ出した。

 

---

 

回収後。

 

焼けた零号機からレイが救出される。意識はあった。火傷は重度だが、命に別状はない。ストレッチャーに乗せられたレイの横に、シンジが駆け寄る。

 

「──綾波さん」

 

シンジは、泣き笑いのような表情を浮かべていた。目は赤く腫れ、頬には涙の跡が残り、口元は無理に笑みの形を作っている。痛々しくて、眩しくて、見ていられないほどの──笑顔。

 

「君が無事なら、それでいいんだ」

 

レイは、ストレッチャーの上からシンジを見た。

 

包帯の隙間から覗く紅い瞳が、少年の歪んだ笑顔を捉える。そこにあるのは──底知れない温かさと、異様さ。自分のために泣き、自分のために笑い、自分のために痛みを引き受けた少年。その「温かさ」は本物だ。だが同時に、その「異様さ」も──レイの胸の奥で、小さく警鐘を鳴らしていた。

 

(──この人は、痛いはずなのに笑っている)

 

(──この人は、怖いはずなのに、私を庇った)

 

(──なぜ)

 

レイには、わからなかった。だが──胸の奥の「ポカポカ」が、また一つ、大きくなった。

 

「……碇くん」

 

「何?」

 

「……あなたの手」

 

シンジの手を見ていた。火傷で赤く腫れ、皮がめくれ、血が滲んでいる手。

 

「……大丈夫だよ。ちょっと焼けちゃっただけ」

 

シンジは手を隠すように背中に回し、笑った。

 

「──それより、約束守るね。卵焼き、甘いのにするって」

 

レイの唇が、かすかに震えた。

 

「……ええ」

 

それだけ言えて、ストレッチャーが動き出した。

 

シンジはそれを見送りながら、隠した手を──そっと、握りしめた。

 

焼けるように痛い。マーリンの麻酔が切れかけている。だが──

 

(──君が無事なら、それでいいんだ)

 

そう自分に言い聞かせた。その言葉が、真実なのか、ペルソナの台詞なのか──もう、自分でも区別がつかなかった。

 

---

 

その夜。ミサトの家。

 

シンジはキッチンに立っていた。

 

包帯を巻いた手で、卵を割る。フライパンに油を敷き、火をつける。卵液を流し込み、箸で巻く。甘い卵焼き。レイのために。──明日、病院に届けるんだ。

 

「──シンジくん、手、大丈夫?」

 

ミサトがキッチンの入り口から覗いている。心配そうな目。

 

「大丈夫ですよ。ちょっと火傷しただけだから」

 

「ちょっとって……二度火傷でしょう。包帯の下、見せて」

 

「──ミサトさん」

 

シンジはフライパンを振りながら、笑った。

 

「僕、平気ですから。明日も学校ありますし、レイさんのお見舞いにも行かないといけないし──」

 

「……無理しないでいいのよ」

 

ミサトの声が、少し震えた。

 

「あなたは子供なのよ。無理して大人ぶらなくていいの」

 

シンジの手が──一瞬だけ止まった。

 

卵焼きが、焦げそうになる。すぐに手を動かし、巻き上げる。完璧な形の卵焼きが完成する。

 

「──ミサトさん」

 

シンジは振り返り、眩しいほどの笑顔を向けた。

 

「僕は、ヒーローですから。ヒーローは無理なんてしてません。みんなのために動くのが、僕のやり方なんです」

 

ミサトは──何も言えなかった。

 

その笑顔の前に、大人の言葉は無力だった。

 

「……そう。なら、信じるわ」

 

「はい! 信じてください!」

 

シンジは卵焼きを皿に移し、ラップをかけた。

 

「──おやすみなさい、ミサトさん」

 

「おやすみ、シンジくん」

 

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自室。夜。

 

シンジは布団の上に座り、包帯を解いていた。

 

手のひらの火傷が露わになる。赤く腫れ、水膨れができ、皮がめくれている。痛い。熱い。ズキズキと脈打つように痛い。

 

「──っ」

 

歯を食いしばす。痛み止めの注射は打ってもらったが、効き目が薄い。物理的な損傷は、魔術では治せない。マーリンが麻痺させられるのは「痛覚信号」だけで、傷そのものは消えない。

 

『──シンジくん』

 

マーリンがいた。

 

いつものように、花の香りと共に。半透明の幻影が、包帯を解いたシンジの隣に座る。

 

『……痛そうだね。ごめんね、もっと早く魔術を使えていれ──』

 

「マーリンさんのせいじゃないよ」

 

シンジは火傷の手を撫でながら、小さく笑った。

 

「マーリンさんが呼吸を止めてくれなかったら、二発目、撃てなかった。綾波さんを……助けられなかった」

 

『──うん』

 

「僕、当てたよね? コアを、貫いたよね?」

 

『ああ。寸分の狂いもなく。君は、誰かを救ったよシンジくん』

 

「……そっか」

 

シンジは安堵のため息を吐いた。

 

「……よかった」

 

──その安堵が、十四歳の少年が吐くべきものではないことを、マーリンは知っていた。

 

「よかった」の対象が「使徒を倒せた」ではなく「綾波さんを救えた」でもなく──「ヒーローとしての役割を果たせた」ことにある。

 

(──君は、自分が救われたことすら気づいていない)

 

(──君が助かったことを、誰も祝っていない。君が「痛い」と言うことを、誰も許していない)

 

(──それを教えたのは、僕だ)

 

「──マーリンさん」

 

『何かな』

 

「……僕がヒーローじゃなかったら、綾波さんはどうなってたかな」

 

マーリンは、答えられなかった。

 

「──やっぱり、誰かがやらなきゃいけなかったよね。僕じゃなくても」

 

『……』

 

「でも、僕がやったんだ。僕が撃ったんだ。それって──意味があるよね?」

 

『──あるよ、シンジくん。君が撃ったから、綾波さんは助かった。君がいたから、世界が守られた。それは事実だ』

 

「……そっか」

 

シンジは目を閉じ、マーリンの手に触れた。

 

「……僕、明日、卵焼き届けに行くよ。甘いの、作ったんだ」

 

『うん。届けておいで』

 

「……マーリンさん」

 

『何かな』

 

「……ありがとう。いつも、そばにいてくれて」

 

マーリンの手が、シンジの髪を撫でた。

 

『──うん。僕がいるよ。ずっと』

 

花びらが舞い、幻影が薄れ、夜が更けていく。

 

少年が眠りに落ちた後──マーリンは、窓辺に移り、月を見上げた。

 

「──やれやれ」

 

独り言が、冷たい空気に溶けた。

 

「カッコいいよ、シンジくん。本当に、カッコいいよ」

 

その声は、誉め言葉だった。だが同時に──自分が作り上げた「ヒーロー」が、完璧に機能していることへの、苦い確認でもあった。

 

月が、白く光っている。

 

魔術師は──夜を明かした。また、夜を明かした。

 

---

 

翌朝。病院。

 

「──綾波さん、お見舞いに来たよ」

 

シンジはバスケットを掲げ、眩しいほどの笑顔を向けた。

 

「卵焼き、甘いの。約束通り」

 

レイはベッドの上からシンジを見た。包帯の隙間から覗く紅い瞳が、少年の笑顔を捉える。

 

「……ありがとう」

 

小さな声だった。だがその声には──確かに、温度があった。

 

シンジはバスケットを開き、卵焼きを一つ、レイに差し出した。

 

「はい、一口でもいいから」

 

レイは、手を伸ばした。

 

火傷の跡が残るシンジの手から、卵焼きを受け取る。

 

一口。

 

噛む。飲み込む。

 

「──……美味しい」

 

「よかった!」

 

シンジは破顔した。太陽のような笑顔。

 

レイは、その笑顔を見て──胸の奥の「ポカポカ」が、また一つ、大きくなるのを感じた。

 

同時に──小さな違和感も、一緒に。

 

(──この人の手、痛そうなのに)

 

(──なんで、笑えるの)

 

レイには、まだわからなかった。

 

だが、その違和感は──確かに、彼女の胸の中に根を下ろし始めていた。

 

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