偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」 作:Tommy's Workers
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その夜のことを、アスカ・ラングレーは生涯忘れないだろう。
鏡の前で少年が自分の腕を噛んでいた。血が出るまで。涙を流しながら。声を殺しながら。まるで「痛み」が「存在」の唯一の証であるかのように。
(──なによ、あれ)
(──なんで、あんなことしてるの)
(──なんであんな顔で笑ってたの、昼間)
問いが渦を巻く。答えは出ない。ただ、あの光景だけが網膜に焼き付いて離れない。
あの日から、アスカの中で「碇シンジ」という記号が──ただの「使えないバカ」から「得体の知れない何か」へと変質し始めていた。
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アスカがミサトの家に引っ越してきたのは、第7使徒戦の二日後だった。
「ちょっと! なんでアタシがこんなボロアパートみたいなとこに住まなきゃいけないのよ!」
玄関に立ったアスカはスーツケースを蹴り倒す勢いで叫んだ。ミサトはビール片手に「まあまあ」と宥め、ペンペンは「ギョ」と一声鳴いて逃げ出した。
「七光りもいるんでしょ? どうせ。あのヘラヘラ男と一緒とか最悪なんだけど!」
「シンジくんはいい子よ。料理もできるし」
「は? 料理? 男が?」
アスカは鼻で笑った。だが、その夜。
「──おかえりなさい、アスカちゃん。今日からよろしくね」
キッチンから出てきたシンジを見て、アスカの嘲笑が喉の奥に引っ込んだ。
テーブルの上には湯気を立てる料理が並んでいた。ハンバーグ。付け合わせのマッシュポテト。色鮮やかなサラダ。そして、アスカの好きなミネストローネ──なぜそれを知っているのか、理解不能だったが湯気の向こうの匂いは、確かに本物だった。
「……ふん。まあ、食べてあげなくもないけど」
アスカは腕を組み、席に着いた。
一口。
「──!」
「どう? 口に合うかな」
「……まあまあ、ね」
嘘だった。美味しかった。悔しいほどに。
だが、アスカは認めなかった。この「ヘラヘラ男」に料理の腕を褒めるなんて、負けだと思ったから。
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同居生活が始まった。
三日目にして、アスカはシンジの「異常さ」に気づき始めていた。
朝は誰よりも早く起き、朝食を作る。掃除洗濯、皿洗い、全て完璧にこなす。ミサトが「シンジくん、そんなにしなくていいのよ」と言っても、シンジは笑って「役に立てるなら嬉しいんです」と返す。
(──なんで)
アスカは思う。
(──なんで、そんなに尽くすのよ。なんでそんなに笑うのよ)
シンジは常に完璧だった。怒らない。文句を言わない。疲れた顔を見せない。誰かの失敗を責めない。まるで「怒る機能」と「弱音を吐く機能」が欠落しているかのように。
「ちょっと七光り!」
ある日の夕食時、アスカは箸を置いて詰め寄った。
「なんでアンタはそんなにヘラヘラしてられるのよ! エヴァに乗るのが怖くないわけ!?」
シンジは一瞬だけ箸を止め、それから笑った。
「怖いよ。でも、僕が乗らなきゃいけないんだ。みんなを守るために」
「守るって……アンタ、自分のことどうでもいいの?」
「僕のことは……後でいいかな」
「──は?」
アスカは本気で意味がわからなかった。自分のことを後回しにする。自分を守らない。自分を──大切にしない。
(──なんで。なんで、そんなことできるのよ)
アスカは怒鳴りつけてやりたかった。だが、その笑顔の前で怒鳴る言葉が見つからなかった。シンジの笑顔は──壁だった。どんな言葉も弾き返す、透明で硬い壁。
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決定的だったのは、同居五日目の深夜だった。
喉が渇いて目が覚めた。時刻は午前二時。ミサトはソファで潰れている。ペンペンは冷蔵庫の上で丸くなっている。アスカは水を飲もうと、廊下を歩いた。
洗面所の灯りが、ついていた。
(──誰かいる)
足音を殺し、ドアの隙間から覗く。
その瞬間、アスカは息を呑んだ。
シンジが、鏡の前に立っていた。
シャツは寝間着のままだが、右の袖がまくり上げられている。白い腕が露わになっている。その腕に──歯型があった。無数の。古いものから新しいものまで。血が滲み、皮膚が裂け赤黒く変色している。
そしてシンジは──自分の腕を、噛んでいた。
「──っ」
歯が皮膚に食い込む音。血が滲む音。シンジの喉から漏れる、声にならない嗚咽。
「……僕は……ヒーローだ……怖くない……痛くない……っ」
涙が、ぼろぼろと零れていた。
鏡に映る自分の顔を見ながら、シンジは繰り返す。
「僕は……ヒーロー……だから……みんなに……好かれる……から……」
(──なによ)
アスカは動けなかった。
(──なによ、あれ)
(──あのガキ……全然平気なんかじゃないじゃない……!)
シンジの腕が震えている。歯型のついた腕が、痙攣している。その腕を反対の手で強く握りしめ、爪を立てている。
「……捨てられない……ように……」
小さな、消え入りそうな声。
「……要らない子に……ならない……ように……」
アスカは、声をかけられなかった。
ただ、物陰に隠れて、息を殺して少年が泣き終わるのを待った。五分。十分。十五分。シンジは鏡の前で、泣き続けた。
やがて、シンジが洗面所を出た。足音が遠ざかる。自室のドアが閉まる音。静寂。
アスカは、その場に座り込んだ。
(──なんで)
膝を抱え、震える自分の身体を押さえながら、アスカは考える。
(──なんで、あんなに無理して笑ってるのよ)
(──なんで、誰にも言わないのよ)
(──なんで、アタシ……こんなに……怖いの)
アスカ・ラングレーは、恐怖を知らなかった。使徒も死も、痛みも──全て「敵」として正面から受け止めてきた。だが、あの光景は──違った。正面から受け止められる種類のものではなかった。
あの少年は、自分自身を壊していた。誰にも気づかれないように。誰にも心配をかけないように。完璧な笑顔の裏で。
(──あれが……「ヒーロー」なの……?)
わからなかった。だが、一つだけわかったことがある。
あの笑顔は──本物じゃない。
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翌朝。
「おはよう、アスカちゃん! 今日はフレンチトーストにしてみたよ」
いつも通りの完璧な笑顔。いつも通りの完璧な朝食。いつも通りの──「良い子」。
アスカは、その笑顔を見た。
そして、気づいてしまった。
(──この笑顔の裏で昨日、あの子は泣いてた)
(──この手は、昨日、自分で傷つけてた)
(──この「おはよう」は、どんな痛みを隠してるの)
「……おはよう」
アスカは、いつものように怒鳴らなかった。いつものようにツンデレも言わなかった。ただ、静かに席に着きフレンチトーストを口に運んだ。
「美味しい?」
「……まあまあよ」
「よかった」
シンジは笑った。太陽のような笑顔。
アスカは、その笑顔から目を逸らした。
(──見てられない)
(──あんたの笑顔、まっすぐ見てられない)
その日から、アスカの中で何かが変わった。
シンジに対する「嫌悪」が、「得体の知れない恐怖と哀れみ」に変わり始めていた。怒鳴りつけることも減った。代わりに、時折──ほんの時折──シンジの腕をちらりと見るようになった。長袖のシャツの下に隠された、あの傷跡を。
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それから三日後。
アスカは、自分で作った朝食をシンジの前に置いた。
「ちょっとバカシンジ。アンタ、たまにはアタシの料理でも食べなさいよ」
「え? アスカちゃんが作ったの?それに名前」
「悪い?」
「ううん! すごく嬉しい! ありがとう、アスカちゃん!」
シンジは破顔した。無邪気で、眩しくて、どこか痛々しい笑顔。
アスカは、その笑顔を見ながら思った。
(──この笑顔、いつまで保つの)
(──この子、いつまで「ヒーロー」でいられるの)
(──アタシは……何もできないけど)
朝食を食べ終えたシンジが「美味しかった」と笑う。アスカは「当然でしょ」と返す。いつものやり取り。いつもの日常。
だが、その夜。アスカは、また洗面所の灯りがついているのを見た。
今度は、覗かなかった。
ただ、廊下に立って静かに耳を澄ませた。声もなく泣いている気配。歯を食いしばる気配。自分を傷つける気配。
(──助けたい、なんて思わない)
アスカは思う。
(──アタシはあんたの「ヒーロー」にはなれない。アタシはアタシだし、あんたはあんた)
(──でも……)
(──せめて、一人で泣かせたくない)
ドアをノックしようとして手を引っ込める。何を言えばいいのかわからない。どう接すればいいのかわからない。アスカは、ただ廊下に立ち尽くした。十分。二十分。洗面所の灯りが消えるまで。
そして、静かに自室へ戻った。
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その夜の夢に、シンジが出てきた。
鏡の前で泣きながら自分の腕を噛んでいる少年。アスカは夢の中で、その背中に手を伸ばした。だが、届かない。声も出ない。ただ見ていることしかできない。
(──なによ)
(──なんで、アタシ……こんなに……)
夢の中で、アスカは泣いていた。
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翌朝。
「おはよう、アスカちゃん!」
「……おはよう」
「今日は卵焼き、甘いのにしたよ。アスカちゃん、甘いの好きでしょ?」
「……なんで知ってんのよ」
「勘?」
シンジは笑う。完璧な笑顔。
アスカは、その笑顔を見て──ふと思った。
(──この子、誰かに「好き」って言われたことあるのかな)
(──この子、誰かに「生きててよかった」って言われたことあるのかな)
(──この子自分のこと、好きなのかな)
わからなかった。だが、訊く勇気もなかった。ただ弁当箱を開け、卵焼きを一口食べた。
「……まあまあね」
「よかった」
その日も、シンジは完璧な笑顔で学校へ行った。アスカは、その後ろ姿を見送りながら──小さく、呟いた。
「……バカ」
その一言に、どんな意味を込めたのか。
アスカ自身にも、まだわからなかった。
影で努力する美少年っていいですよね!