偽マーリン「シンジくん!ヒーローになるんだ!」シンジ「はい!マーリンさん!」 作:Tommy's Workers
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梅雨の合間の晴れ間が、第3新東京市の空を縫っていた。
湿った風がネルフ本部の廊下を吹き抜け、消毒液と鉄錆の混じった空気を少しだけ動かす。地下深くのこの空間に「季節」は届かないはずなのに、綾波レイの髪が揺れた時、それは確かに夏の前触れだった。
レイは食堂のテーブルに向かっていた。
目の前に広がっているのは、調理器具の惨状だ。ボウルには卵の殻が粉々に砕けて散らばり、フライパンには何か焦げたものが黒く張り付いている。まな板の上には形の不揃いな野菜の切れ端が並び、包丁はレイの手の中で危なっかしく傾いている。
「──……」
レイは眉を寄せた。いや、正確には眉を寄せたつもりだった。鏡がないので自分の表情がわからない。だが、目の前の卵焼きが──それはもはや「卵焼き」と呼べる代物ではなかったが──自分の想いを全く反映していないことだけは確かだった。
「綾波さん、何作ってるの?」
声がした。廊下から覗き込むようにして、シンジが立っていた。ネルフの制服にエプロン──いつも携帯しているらしい折り畳み式のもの──をかけ、首を傾げている。
「──……卵焼き」
レイは平坦に答えた。フライパンの中の黒い塊を隠すように背中で遮りながら。
「へえ。僕も卵焼き好きだよ。甘いの? 塩辛いの?」
「……甘い」
「同じだね。僕も甘いのが好きなんだ」
シンジは笑った。自然な笑顔。日差しのような──いや、地下に日差しはない。人工照明の下で、それでも光を放つような笑顔。
レイはその笑顔を見て、胸の奥の「ポカポカ」が、また一つ大きくなるのを感じた。
同時に──小さな違和感も。
(──この人の腕、まだ包帯が巻かれている)
(──先週の戦闘で砕けた腕。まだ治っていないはずなのに、笑っている)
(──なぜ)
レイは、その問いを飲み込んだ。代わりに、別の言葉を口にした。
「……碇くん」
「何?」
「司令と──仲良くなれたら、ポカポカする」
シンジの笑顔が、一瞬だけ凍った。
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「ポカポカする、か。いいね、それ」
シンジはすぐに笑顔に戻った。だがその一瞬の凍りを、レイは見逃さなかった。
「僕もそうだといいんだけど。お父さんと……うまくやれるかはわからないけど」
「やってみる価値はあると思う」
レイは言った。そしてフライパンの中の黒い塊を──「卵焼き」を──皿に移した。皿の上でそれが崩れ、スクランブルエッグにも似ない無惨な形状に変形する。
シンジはそれを見て、少し困ったように笑った。
「……綾波さん、よかったら僕が教えようか?」
「……いらない」
即答だった。シンジの手が伸びかけて、引っ込められた。
「私が、自分でやる」
その声には、これまでになかった「意志」があった。小さく、か細く、それでも確かに存在する意志。綾波レイが十四年間で初めて「自分でやりたい」と思ったことだった。
シンジは一瞬驚いたように目を開き──それから、本当に嬉しそうに笑った。
「うん。応援してるよ、綾波さん」
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その光景を、廊下の角から見ていたのはアスカだった。
アスカは壁に背を預け、腕を組み、眉をひそめていた。
(──あのバカ、また無理してる)
シンジの左腕。長袖の制服の下に隠されているが、アスカの目にはわかる。包帯の厚みが、布地を通して微かに盛り上がっている。先週の戦闘で砕けた腕。まだ完治していない。それなのに、エプロンをかけて、卵焼きを教えようとして、笑っている。
(──あの夜、洗面所で──)
アスカの脳裏に、あの光景が蘇る。鏡の前で自分の腕を噛む少年。血が滲む歯型。「僕はヒーローだ」と泣きながら繰り返す声。
(──あれから何日経った? 一週間? 二週間?)
(──あの子、毎晩ああなの?)
(──誰にも言わないで、一人で──)
アスカは拳を握りしめた。廊下の壁に爪が当たり、乾いた音がした。
(──言えない。あたしには言えない。「見た」ことすら、言えない)
(──言ったら、あの子は──笑って誤魔化すだろう。「大丈夫だよ、アスカちゃん」って)
(──それが一番──)
「──何やってんのよ」
アスカは自分に向けて呟いた。廊下の角に隠れて、同い年の少年を覗き見ている自分。滑稽だ。式波・アスカ・ラングレーが、こんな真似をするなんて。
だが──動けなかった。シンジの笑顔の裏に何があるかを知ってしまった今、あの笑顔を正面から見るのが──少しだけ、怖かった。
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◆◆◆
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翌日。学校の昼休み。
シンジはいつもの場所──教室の窓際で、トウジとケンスケと弁当を食べていた。
「──でさ、シンジ。次の戦闘訓練さ、オレも見学させてもらえんかな」
トウジが箸で唐揚げを挟みながら言う。
「え? なんで?」
「妹がな、エヴァのパイロットに興味持ってんねん。兄ちゃんが直接見学したら喜ぶやろ」
「あの子、退院したんだ! よかったぁ、でも見学はちょっと難しいかなぁ」
シンジは破顔した。本心からの笑顔。妹の無事を純粋に喜ぶ、優しい少年の笑顔。
「──シンジ、お前ほんまにいいやつやな」
トウジがボソリと言った。唐揚げを咀嚼しながら、少し照れたように視線を逸らす。
「オレの妹のこと、あの時からずっと気にかけてたやろ。お見舞いにも来てくれたし」
「そりゃ、僕のせいでケガさせちゃったから──」
「せやから、お前のせいやないって言うたやろ!」
トウジは箸でシンジの頭を軽く小突いた。
「お前、自分のことばっかり責めすぎんねや。ええか、使徒が悪いんや。あんたは助けに来たんや。ヒーローやないか」
ヒーロー。
その言葉に、シンジの箸が──一瞬だけ止まった。
(──ヒーロー。トウジくんが言う「ヒーロー」と、マーリンさんが言う「ヒーロー」は──同じかな)
(──トウジくんは「助けに来たから」ヒーローだって言う。マーリンさんは「選ばれたから」ヒーローだって言う)
(──僕は──どっちの「ヒーロー」なんだろう)
「──シンジ? どうしたん?」
「ううん、何でもない! ありがとトウジくん」
シンジは笑った。完璧な笑顔。トウジは「ほんまにいいやつや」と呟き、ケンスケが「お前ら仲いいな」とカメラを向けた。
だが──その笑顔の下で、シンジの指が弁当箱の縁を強く握りしめていた。
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放課後。校庭のベンチ。
アスカが、シンジの隣に座っていた。
理由はない。たまたま、帰り道が同じだっただけ。たまたま、ベンチに座って休んでいただけ。たまたま──シンジもそこにいただけ。
「──あんた、まだ腕痛いでしょ」
アスカは前を向いたまま言った。視線は校庭の向こうのフェンスを見ている。
「え? うん、まあ、ちょっとね」
「ちょっとじゃないでしょう。両腕複雑骨折だったのよ」
「でも、もうだいぶ──」
「バカシンジ」
アスカは前を向いたまま、言った。
「あんたさ、たまには自分のこと大事にしなさいよ」
シンジは黙った。ベンチの板目を見つめている。
「……僕のことは、大丈夫だよ」
「またそれ」
アスカは振り返った。青い瞳が、シンジの横顔を捉える。
「あんた、いつもそう。『大丈夫』『平気』『僕はヒーローだから』。自分のこと何も言わない。痛いって言わない。怖いって言わない。──なんで?」
シンジは──笑った。
「だって、僕が弱音吐いたら、みんな心配するでしょ?」
「心配して何が悪いのよ」
「……え?」
「心配して何が悪いのよ。あんた、十四歳の子供じゃない。怪我してたら痛いって言えばいいのよ。怖かったら怖いって言えばいいのよ。なんで──」
アスカの声が、少し震えた。自分でも予期していなかった震えに、舌打ちして視線を逸らす。
「……なんで、アンタはアンタ自身の痛みを認めないのよ」
シンジの手が──膝の上で握りしめられた。
(──認めたら、終わりだから)
(──「痛い」って言ったら、「怖い」って言ったら、僕はヒーローじゃなくなる。ヒーローじゃない僕は要らない子で、要らない子は──捨てられる)
(──だから認めない。認めちゃいけない。僕は──)
「──ごめんね、アスカちゃん」
シンジは笑った。太陽のような、完璧な笑顔。
「僕、本当に大丈夫だから。心配してくれてありがとう」
アスカは──何も言えなかった。
(──また、壁)
(──また、笑顔で壁を作った)
(──この子、絶対に自分からは開けない。絶対に「痛い」って言わない。誰かに──誰かに壊してもらうまで)
アスカは立ち上がった。
「……ふん。勝手にすれば」
踵を返し、歩き出す。三歩。五歩。七歩。──止まった。
「あんたに」
背中越しに言った。声が少し震えていた。
「あんたに、お弁当。明日、作ってあげるわよ。別にあんたのためじゃないけど。あんたが作ったのばっかり食べてたら飽きるから」
「……アスカちゃん」
「勘違いしないでよね!」
アスカは振り返らず、早足で去っていった。
シンジはその背中を見送りながら──小さく、本当に小さく笑った。
「……ありがとう、アスカちゃん」
その声は、アスカには届かなかった。
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その夜。ミサトの家のキッチン。
シンジは翌日の弁当の準備をしていた。卵焼き、唐揚げ、きんぴらごぼう。トウジとケンスケの分も含めて、三人分。
手際がいい。包帯を巻いた腕で包丁を握り、野菜を切り、調味料を量る。動きに迷いがない。まるで呼吸をするように自然に、料理が進んでいく。
(──明日はアスカちゃんもお弁当作ってくれるって言ってたな)
(──何作るのかな。アスカちゃん、料理得意なのかな)
(──僕が作ったのばっかりじゃ飽きるって言ってたけど──)
(──それって、僕の作ったものを食べてくれてたってことだよね)
嬉しい。嬉しい。みんなが僕の料理を食べてくれる。みんなが僕のことを──必要としてくれる。
(──僕は、ヒーローだから。みんなのためにご飯を作って、みんなのために戦って、みんなのために──笑っていれば、捨てられない)
(──マーリンさんが言ってくれたから。「ヒーローになれば、世界中の人たちが君を大好きになる」って)
(──だから僕は、ヒーローでいなきゃいけない。痛くても、怖くても、笑って──)
──卵焼きが焦げた。
「──あ」
フライパンから煙が上がり、卵が黒く変色している。シンジは慌てて火を止め、焦げた卵焼きを皿に移した。
「……焦げちゃった」
小さく呟く。焦げた卵焼きを見つめる。黒く変色した表面が、キッチンの灯りを吸い込んで濁っている。
(──……失敗した。失敗したらダメだ。ヒーローは失敗しない。完璧にやらなきゃ。完璧に──)
シンジは焦げた卵焼きを──ゴミ箱に捨てようとして──止めた。
そして、一口、食べた。
「……苦い」
焦げた卵焼きは、苦かった。
シンジはそれを全部食べた。一口ずつ、ゆっくりと。苦い味が舌に広がり、喉を通る。美味しくない。でも──
(──失敗したものを捨てたら、もったいない)
(──失敗したものを食べるのは、僕でいい)
(──だって僕は──)
「──碇くん? まだ起きてたの?」
ミサトがキッチンに現れた。寝間着姿。ビールの空き缶を片付けながら、シンジの横顔を見る。
「何食べてるの?」
「え、あ、卵焼き。ちょっと焦げちゃったけど」
ミサトはシンジの手元を見た。黒く焦げた卵焼き。それを一口ずつ食べているシンジの横顔。
「──捨てればいいのに。作り直せばいいじゃない」
「もったいないですよ。食べられますから」
「……シンジくん」
ミサトの声が、少しだけ変わった。作戦部長の声でも、保護者の声でもない。もっと──個人的な、何か。
「あんたね、失敗してもいいのよ。焦げてもいいの。完璧じゃなくていいのよ」
シンジは──一瞬だけ、箸が止まった。
(──完璧じゃなくていい?)
(──嘘だ。完璧じゃないとダメだ。完璧じゃないと要らない子になる。お父さんに捨てられる。マーリンさんに──)
「──ミサトさん、甘すぎますよ。僕は居候なんだから、ちゃんとやらなきゃ」
笑顔。完璧な笑顔。
ミサトは、その笑顔を見て──胸の奥の棘が、また一つ太くなったのを感じた。
「……そうね。おやすみ、シンジくん」
「おやすみなさい。明日の弁当、仕上げてから寝ますから」
ミサトはキッチンを出た。廊下を歩きながら、壁に手を付いた。
「──あの子、自分が失敗したものを食べてた」
独り言が、暗い廊下に吸い込まれた。
「失敗したものを捨てずに、自分で食べてた。──なんでだろう。あの子にとって、自分が一番──」
言葉が、途切れた。
ミサトは、それ以上考えないようにして、自室に戻った。
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◆◆◆
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翌日。学校の昼休み。
「──これ」
トウジが弁当箱を開けて、目を丸くした。
「この卵焼き、完璧やんか!」
トウジは綺麗な卵焼きを一切れ摘み、口に放り込んだ。
「──いやこれ。うまいわ」
「本当? よかった!」
シンジは破顔した。安堵の笑顔。
「──これ」
アスカが、弁当箱をシンジの前に差し出した。中には──不格好だが、一生懸命作ったらしい──サンドイッチが並んでいる。
「はい。食べてよ。別にあんたのためじゃないけど」
「すごい! アスカちゃんが作ったの? 美味しそう!」
「当然でしょ!」
アスカは鼻を高くした。だが、その耳が少しだけ赤くなっていた。
シンジはサンドイッチを一口食べた。
「──美味しい! すごく美味しいよ、アスカちゃん!」
「……ふん。当然よ」
アスカは視線を逸らした。
その時──シンジは、自分の弁当箱の隅に、小さなおにぎりが追加されているのに気づいた。
「──? これ、誰が──」
「……私」
隣から、レイの声がした。
「味見してほしいの。昨日、練習した」
シンジはおにぎりを手に取った。少し固い。形もいびつだ。だが──海苔が綺綺麗に巻かれていて、中に梅が入っている。
一口。
「──美味しいよ、綾波さん」
「……嘘」
「嘘じゃないよ。すごく美味しい」
「……本当?」
「うん。本当に」
レイの瞳が──わずかに揺れた。
「……よかった」
その声には、確かに温度があった。
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三人がそれぞれの手作りを分け合い、食べている。トウジとケンスケも混ざって、五人でじゃれ合うように弁当を囲んでいる。
騒がしくて、温かくて、当たり前の昼休み。
シンジは笑っていた。トウジの笑い声を聞きながら、ケンスケのカメラにピースサインを送りながら、アスカの罵倒に「ごめんごめん」と返しながら、レイの静かな微笑みを見ながら。
──笑っていた。
(──僕はみんなに好かれてる。ヒーローでいられてる。みんな僕の作ったものを食べてくれる。みんな──僕のそばにいてくれる)
(──僕は、ヒーローだから。みんなのために笑って、みんなのために戦って、みんなのために──)
(──だから、大丈夫。僕は大丈夫。僕は──)
だが、その「大丈夫」の裏で。
長袖のシャツの下で、腕の傷が──昨夜、自分でつけた新しい傷が──シクシクと痛んでいた。
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放課後。ネルフ本部。
レイは一人、本部の廊下を歩いていた。
目的がある。ゲンドウの執務室。食事会の提案をするため。碇くんと、司令が、仲良くなれたら──ポカポカする。
レイは自分の胸の中の「ポカポカ」を、まだ完全には理解していなかった。ただ、シンジと一緒に食事をして、笑い合っている時、胸が温かくなる。その温かさを──司令にも分けてあげたいと思った。シンジにも、司令にも、ポカポカしてほしい。
廊下の突き当たり。重厚な扉。ゲンドウの執務室。
レイは、扉の前で立ち止まった。
手を上げる。ノックしようとして──止めた。
(──司令は、碇くんのことを──どう思っているのだろう)
(──「出撃だ。乗らなければ帰れ」と言った人。碇くんを呼んだ理由が、エヴァのためだけだったなら──)
(──碇くんは──笑っていた。でも、笑顔の裏で──)
レイは、まだ言葉にできない問いを抱えたまま、ノックをしなかった。
代わりに、扉の前に、小さなメモを置いた。
『食事会をしたいです。碇くんと、司令と、私と──綾波レイ』
震える文字。不器用な筆跡。だが、そこに込められた想いだけは──本物だった。
レイは立ち去った。廊下の灯りが、小さなメモを照らしている。
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その夜。ミサトの家。
シンジは自室で、翌日の弁当の下ごしらえをしていた。人参の形を切り出し、ウィンナーにタコの切り込みを入れ、卵液を漉す。
手が動いている間は、考えなくていい。
考えたくないことを──考えなくていい。
(──レイさん、おにぎり作ってくれた。アスカちゃん、サンドイッチ作ってくれた。トウジくんは妹さんが退院したって言ってた。ケンスケはカメラ向けた。みんな笑ってた。僕も笑ってた)
(──よかった。僕は、ヒーローとして、上手くやれてる)
(──でも)
(──でも、あの卵焼き、焦げちゃった)
(──焦げた卵焼きを、僕が食べた。失敗したものを、僕が食べた。捨てないで、自分で食べた)
(──なんで捨てなかったんだろう)
(──なんで、自分が食べたんだろう)
(──もったいない、から? ──それとも──)
(──失敗したものを食べるのは、僕でいい、って思ったから?)
包丁が止まった。
人参の切れ端が、まな板の上で転がる。
(──僕は、失敗したものを引き受ける役目なのかな)
(──痛いものを引き受ける役目なのかな)
(──誰もやりたがらないことを、引き受ける役目なのかな)
(──それが──ヒーロー、なのかな)
『──シンジくん』
マーリンがいた。
窓辺に腰掛け、月を見上げている。白銀の髪が月光を吸って淡く光り、仕込み杖が膝に横たわっている。その横顔には、静かな苦悩が浮かんでいた。
『……今日も頑張ったね』
「……うん」
シンジの声は小さかった。包丁を置き、まな板の上の人参を見つめている。
「マーリンさん」
『何かな』
「僕、焦げた卵焼き食べたんだ」
『……うん』
「焦げたものを、自分で食べた。捨てないで」
『……うん』
「それって──変かな」
マーリンは、何も言えなかった。
(──変じゃない。君はただ、自分が「失敗したもの」を受け取ることに慣れすぎているだけだ。五歳の頃から、誰も欲しがらないものを引き受けてきた。痛みも、恐怖も、孤独も──全部、君が引き受けてきた)
(──それを教えたのは、僕だ)
「──変じゃないよ、シンジくん」
マーリンは言った。優しく、しかし──どこか嘘を含んだ声で。
「もったいないことをするのは、良いことだ。君は優しい子だからね」
「……そっか」
シンジは小さく笑った。
「うん。僕は、優しいんだ。ヒーローだから、優しくなきゃいけないんだ」
『──うん』
「マーリンさん」
『何かな』
「綾波さんが、お父さんと食事会したいって──考えてるみたいなんだ」
『……そうなんだ』
「僕も──行った方がいいかな。お父さんと、ちゃんと話した方がいいかな」
『君がそうしたいなら、行けばいい』
「でも──お父さん、僕のこと好きじゃないかもしれない」
『──シンジくん』
「好きじゃないよね、きっと。エヴァに乗れるから呼んだだけで。乗れなかったら帰れって言ったし。僕がヒーローだから、ちょっとだけ必要としてくれてるだけで──」
「ヒーローじゃなかったら、やっぱり要らない子なんだよね」
マーリンの手が、シンジの肩に置かれた。
『──シンジくん。君は──』
言いかけて──止めた。
「君は何も被らなくても愛される存在だ」と言いたかった。だが、その言葉は──今のシンジには毒だった。「ヒーローであること」が唯一の支えである少年に、「ヒーローでなくてもいい」と言うことは、支えを引き抜くことと同じだ。
『──君は、立派なヒーローだよ。お父さんも、きっと君を誇りに思っている』
「……そっか」
シンジは目を閉じた。
「じゃあ、食事会、行こうかな。綾波さんが頑張ってくれてるし。お父さんに──ちゃんと会ってみるよ」
『うん。そうだね』
「……マーリンさん」
『何かな』
「僕、上手くやれてるよね?」
マーリンは──答えられなかった。
「上手くやってるよね」の確認。自分の価値を他者の評価に依存する声。それを導いたのは自分だ。だから──
『──上手くやってるよ。君は最高のヒーローだ』
「……よかった」
シンジは安堵のため息を吐き、マーリンの手の温もりに身を委ねた。
「よかった」
──その安堵が、十四歳の少年が吐くべきものではないことを、マーリンは知っていた。
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花びらが舞い、幻影が薄れ、夜が更けていく。
少年が眠りに落ちた後──マーリンは、窓辺に移り、月を見上げた。
「──やれやれ」
独り言が、冷たい空気に溶けた。
「食事会、か。父子の和解。素晴らしいね。──でも、もし食事会でゲンドウがシンジくんを認めなかったら──この子はどうなるんだろう」
月が、白く光っている。
マーリンは、その光の中で──自分がかけた呪いの重さを、噛みしめていた。