エルモア・ウッドで子どもたちの姉として暮らしていた彼女は、ある夜、許しなく覗いた心の中に、自分のせいで家族が命を落とす未来を見てしまう。
子どもたちの記憶から自分を消し、ひとり家を出たツムギ。
十年後、滅びた世界で彼女が生きる場所は、敵組織W.I.S.Eの内側だった。誰の記録にも残らず、末端の構成員たちの記憶の中にだけ存在する「幽霊」として。
誰にも覚えられないまま、それでも家族を守ろうとする少女の物語。
朝のエルモア・ウッドは、いつも誰かの足音から始まる。
「ツムギ姉! カイルがまた廊下走ってる!」
「走ってねえよ、急いでるだけだ!」
階段を駆け下りてくる二つの声に、ツムギは洗いかけの皿を置いて振り返った。案の定、先を行くカイルの寝癖は爆発していて、追いかけるフレデリカは腰に手を当てて怒っている。その後ろから、まだ半分眠ったままのマリーが、ツムギのエプロンの裾を小さな手でつかんだ。
「おはよう、マリー。顔、洗った?」
「……まだ」
「じゃあ一緒に行こうか。カイル、フレデリカ。朝ごはんの前に喧嘩したら、おかず減らすからね」
二人がそろって口をつぐむ。台所の隅では、シャオが黙々と箸を並べ、ヴァンがそれを手伝っていた。騒がしくて、手がかかって、それでも一日がこうして始まることが、ツムギは嫌いではなかった。
この家に集められた子どもたちは、みな同じものを抱えている。PSIと呼ばれる力のせいで、普通の暮らしを続けられなくなった過去。ツムギもそのひとりで、ここでは一番年上だった。だから自然と、姉のような役回りになった。
洗面所でマリーの顔を拭いてやり、寝癖を手ぐしで整えてやる。鏡越しに目が合うと、マリーはようやく眠たげに笑った。
「ツムギ姉、きょうの朝ごはん、なに?」
「卵焼きと、お味噌汁と、昨日の煮物の残り」
「卵焼き、甘いの?」
「マリーの分だけ、ちょっと甘くしてあげる」
マリーは嬉しそうに、ツムギの手をぎゅっと握った。
台所に戻ると、食卓の支度はあらかた整っていた。シャオが並べた箸は、定規で測ったようにまっすぐだ。ヴァンは味噌汁の鍋の前に黙って立っていて、ツムギが戻ってきたのに気づくと、ふつふつと煮立ち始めた鍋を指先でそっと示した。
「あ、ありがとう。火、止めといてくれる?」
ヴァンは小さく頷いて火を止めると、それきり何も言わずに椀を並べ始めた。何を考えているのかは相変わらず読めない。ただ、誰に言われるでもなく鍋の番をしていてくれるくらいには、ちゃんと周りを見ている子だった。その横から、カイルが首を突っ込んだ。
「オレだって手伝えるぞ。卵、割ってやる」
「この前それで殻だらけにしたでしょ」
フレデリカが容赦なく言い放ち、二人の間にまた火花が散る。ツムギはフライパンを揺すりながら、はいはいと手を振った。「じゃあカイルはお皿運んで。フレデリカはお茶。喧嘩した人から卵焼きなしね」
二人は同時に口を閉じ、同時に別々の方向へ走っていった。シャオが小さく肩を震わせて笑っている。
やがて、廊下の奥からゆっくりとした足音が近づいてきた。
「おやおや、今朝もにぎやかだねえ」
エルモアが杖をつきながら食堂に入ってくると、子どもたちは一斉に「おはよう、ババ様!」と声を揃えた。その後ろから、コペルが新聞を小脇に抱えて現れる。
「いい匂いだ。ツムギ、今日も助かるよ」
「コペル様の分、お茶は熱めにしてあります」
「さすがだな」
全員が席につき、手を合わせる。いただきます、の声が重なった。卵焼きの取り合いが始まり、フレデリカがカイルの皿から一切れを奪い返し、マリーが甘い卵焼きを頬張って目を細める。エルモアはそれを眺めながら、湯呑みを両手で包んで笑っていた。
窓から差し込む朝の光が、食卓の上に柔らかく落ちている。ツムギは味噌汁をすすりながら、その光景をぼんやりと眺めた。
特別なことは何もない。明日も、明後日も、きっと同じ朝が来る。そう信じて疑わなかった。
昼下がり、屋敷の裏の東屋で、ツムギはコペルと向かい合っていた。
卓の上には、一本の針が置かれている。ツムギが意識を向けると、針の尾から細い光の糸がするすると伸び、宙に揺れた。PSIで編まれた針と糸だ。
「いい糸だ。前より細く、しなやかになった」
コペルは目を細めた。エルモアの夫であり、ツムギにPSIの手ほどきをしてくれた人だった。ほかの子どもたちより早くこの家に来ていたツムギは、エルモアよりもむしろコペルに師事して育った。穏やかな声の奥に、いつもどこか遠くを見ているような静けさがある。
「では、今日もやってみようか」
コペルが卓の上に手を差し出す。ツムギは一度だけ師の顔をうかがい、頷きが返ってくるのを待ってから、指先を軽く弾いた。針が宙を走り、コペルの手の甲に、ほとんど触れるか触れないかの深さでそっと留まる。尾から伸びた糸がかすかに震え、ツムギは目を閉じた。
糸をたどると、縫い目の向こうに今朝の光景が広がった。食堂の窓辺、湯気の立つ湯呑み、卵焼きを取り合うカイルとフレデリカの声。コペルの目に映っていた朝だ。
「今朝の食卓……お茶、少しぬるかったですか」
「いや、ちょうどよかったよ」
コペルは笑い、それから何でもないことのように続けた。
「ところでお前は今、もっと奥まで読めたら、と焦れていたな」
ツムギは思わず目を開けた。図星だった。二人をつないでいるのは、ツムギが伸ばした一本の糸だけだ。同じ糸を通して、自分は師の過去をたどり、師は自分の今を覗いていた。
「……やっぱり、コペル様とは読んでいるものが全然違うんですね」
「そうだな。どちらが上というものでもない。お前の力は記憶を読み、縫い直すことに向いている。わしとは畑が違うのさ」
そう言ってから、コペルは糸の揺れを眺めたまま、独り言のように付け足した。
「……もっとも、本質は同じかもしれんがな」
その言葉の意味を尋ねる前に、コペルは宙に揺れる糸を指先でつついて笑った。針で触れ、糸で心をたどる。コペルはツムギのそんなやり方を面白がって、名前までつけてくれた。
「ツムギ。力の使い方より、大事なことが二つある」
コペルは指を一本立てた。
「人の記憶を、勝手に縫い変えてはならない。記憶は、その人だけのものだ」
もう一本。
「そして、読み取ったものを、決して見誤るな。読んだものがすべて真実だと思い込んだとき、読み手は一番危うくなる」
ツムギは頷いた。一つ目は、いつも胸に刻んでいる。けれど二つ目は、正直なところ、少し遠い話に聞こえた。自分が読めるのは記憶だけだ。過去にあったことを、あったとおりに見るだけなのだから、見誤りようがない。
そう思ったことを、コペルは見抜いたのかもしれない。ただ小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。
***
ある日、コペルは誰にも何も告げずに姿を消した。
朝になっても東屋に現れず、昼を過ぎても、夜になっても戻らなかった。エルモアは方々に手を尽くしたが、行き先の手がかりはどこにもなかった。子どもたちが不安がるたびに、ツムギは大丈夫だと笑ってみせた。自分に言い聞かせるように。
数日後、コペルはふらりと帰ってきた。服は汚れ、まるで長い旅から戻ってきた人のようだった。どこへ行っていたのかと尋ねるツムギに、コペルは力なく首を振るだけだった。
その夜、コペルはエルモアと書斎で話をしていた。廊下を通りかかったツムギの耳に届いたのは、どこかで妙なテレホンカードを手に入れた、という言葉だけだった。盗み聞きはすまいと、ツムギはそっとその場を離れた。それが、ツムギの聞いた最後のコペルの声だった。
翌朝ツムギが知らされたのは、コペルがその夜のうちに亡くなったらしい、ということだけだった。
東屋で糸を編む時間は、それきり二度と戻らなかった。
葬儀の日、子どもたちは泣いた。カイルは泣くまいとして唇を噛み、結局誰よりも大きな声で泣いた。マリーはツムギの腕にしがみついたまま離れなかった。ツムギは泣かなかった。泣いてしまえば、この子たちを抱きとめる腕がなくなる気がした。
エルモアも泣かなかった。ただ、その日から書斎の扉は、ほとんど閉ざされたままになった。
夜更けに目を覚ますと、廊下の突き当たりから細い明かりが漏れている。書斎の灯りだ。ツムギが湯を淹れて扉を叩くと、少し間があって、疲れた声が返ってきた。
「……ツムギかい。お入り」
机の上には、紙の束と地図が広げられていた。エルモアはそれを、ツムギの目から隠すようにそっと伏せた。
「エルモア様、少し休んでください。もう何日も」
「ありがとうね。でも、もう少しだけやることがあるんだよ」
「手伝います。私にできることがあれば」
言いかけたツムギを、エルモアは静かに見上げた。深い皺の刻まれたその顔に、ツムギが見たことのない表情が浮かんでいた。
「ツムギ。これはね、お前が知らなくていいことなんだよ」
優しい声だった。けれど、それ以上の問いを許さない声でもあった。
「お前は、あの子たちのそばにいておやり。それが一番の手伝いだ」
ツムギは湯呑みを置いて、頭を下げて部屋を出た。扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
コペルがいなくなって、エルモアはひとりで何かを背負っている。それが何なのか、自分には分からない。分からないまま、日に日に小さくなっていく背中を、ただ見ていることしかできなかった。
***
その夜、書斎の明かりはついたままだった。
扉をそっと押し開けると、エルモアは机に突っ伏すようにして眠っていた。肩にかかった毛布が半分ずり落ちている。ツムギはそれを掛け直し、そのまま立ち尽くした。
骨ばった手が、紙の束の上に投げ出されている。
勝手に人の心を覗くのが、褒められたことでないのは分かっている。
ツムギは両手を握りしめた。それでも、記憶を縫い変えるわけではない。ただ、見るだけだ。そう自分に言い聞かせた。
でも、このままでは、この人が壊れてしまう。何を背負っているのかさえ分かれば、きっと何か手伝える。知らなくていいと言われても、知らないままでは、何もできない。
「……ごめんなさい、ババ様」
指先に、一本の針が生まれる。ツムギは息を殺し、その針をエルモアの手の甲に、ほとんど触れるか触れないかの深さで刺した。
糸が伸びる。記憶の縫い目に指をかけ、そっとほどいていく。
最初に流れ込んできたのは、コペルがエルモアに送ったテレパスの残響だった。
遠い、荒れ果てた世界。空は重く覆われ、街は崩れ落ち、人の気配はどこにもない。瓦礫の合間に、ぽつんと立つ公衆電話が垣間見える。その向こうで、見たこともない化け物が暴れていた。
エルモアはその光景を受け取り、街の残骸や公衆電話から、これがこの先に待つ未来の姿なのだと推し量っていた。そしてそれを、誰にも言わずにひとりで抱えていたのだ。
ツムギは震えた。これが、あの扉の向こうにあったもの。
そのとき、針がもう一段深く沈んだ。
違う光景が見えた。
荒れた大地に、ツムギ自身が膝をついている。見知らぬ者たちに腕を捕らえられ、身動きが取れない。その向こうから、叫びながら駆けてくる影がある。
見たことのない、けれど見間違えようのない顔だった。背が伸び、肩幅が広くなり、すっかり大人の輪郭になった五人。それでも、ツムギには分かった。跳ねた髪のまま先頭を駆けてくるのはカイル。その横に並ぶ気の強そうな眼差しはフレデリカ。無駄のない構えで続くのはシャオ、その後ろにヴァン。そして、泣きじゃくりながら駆けてくるのは、マリーだった。止める間もなく、五人はまっすぐに飛び込んでくる。ツムギを取り戻そうとして。
そして、ひとり、またひとりと、倒れていく。
声にならない悲鳴が喉で詰まり、ツムギは弾かれるように糸を断ち切った。針が霧散する。エルモアは身じろぎもせず、静かな寝息を立てている。
膝が笑って、ツムギはその場にへたり込んだ。
あれは、何だったのか。考えるまでもなかった。自分が読めるのは、記憶だけだ。ならばあれも、エルモア様の記憶に刻まれたもの。予知の力で、エルモア様が見てしまった未来だ。
自分が捕らわれたら、あの子たちは助けに来る。そして、死ぬ。
師のもう一つの教えは、そのとき、ツムギの頭のどこにも浮かばなかった。
***
誰にも聞けなかった。
エルモアに尋ねれば、心を覗いたことを明かすことになる。許しなく踏み込んだ場所で見たものを、どの口で確かめられるだろう。それに、もし本当に未来の話なら、口にした途端に何かが壊れてしまう気がした。コペルは、未来を語ったあとにいなくなったのだから。
自分の部屋に戻っても、眠れるはずがなかった。ツムギは布団の上で膝を抱えたまま、暗がりを見つめていた。頭の中では、同じ問いが回り続けていた。
自分が捕らわれなければいい。それだけのことだ。でも、この先何が起こるか分からない世界で、自分が決して捕まらないなんて、誰に約束できる?
ならば、捕まっても、助けに来る理由がなければいい。
この子たちの中から、自分がいなくなればいい。
夜が更けきった頃、ツムギは子どもたちの寝室を一つずつ回った。
カイルは布団を蹴飛ばして大の字になっていた。起きているときは生意気なくせに、寝顔は小さな子どもそのものだった。ツムギは布団を掛け直し、その額に指先で触れる。針が生まれ、糸が伸びる。
――人の記憶を、勝手に縫い変えてはならない。
師の声が、耳の奥で鳴った。ツムギは唇を噛み、その声に背を向けた。
記憶を切り捨てるのではない。ツムギと過ごした日々を、布をつまむようにそっと折り込み、内側に縫い留めていく。朝ごはんの匂いも、叱られたことも、転んだときに手を引いてもらったことも。折り目の下に、見えないようにしまい込む。
フレデリカ。シャオ。ヴァン。ひとりひとりの記憶に、見えない縫い目を残していく。
最後に、マリーの部屋の扉を開けた。
マリーは、ツムギが昔あげた古いぬいぐるみを抱いて眠っていた。その小さな手に触れた瞬間、糸が震えた。マリーの記憶には、ツムギがあまりにもたくさん縫い込まれていて、畳んでも畳んでも、端がはみ出してくる。
「……ごめんね」
声が震えた。ツムギは一度だけ目を閉じ、それから丁寧に、最後の折り目を縫い留めた。
廊下に出ると、突き当たりの書斎から、今夜も細い明かりが漏れていた。
ツムギはその扉の前で立ち止まった。この人の記憶も畳んでしまえば、きっと誰も自分を探さない。そのほうが確実だ。頭では分かっていた。
けれど、指先に針は生まれなかった。
一度、許しなく踏み込んでしまった心だ。もう二度と、あの人の心に触れることはできなかった。
夜明け前、ツムギは小さな鞄ひとつを持って、屋敷の門を出た。
振り返ると、まだ眠っている屋敷の窓がいくつも並んでいた。あの窓の向こうで、子どもたちは目を覚まし、いつもどおりに一日を始めるだろう。そこに、ツムギという名前はもうない。
誰も呼ばない。誰も探さない。誰も、助けに来ない。
それでいい。それが、あの子たちを生かす唯一の方法なのだから。
ツムギは前を向き、白み始めた道を歩き出した。
***
朝のエルモア・ウッドは、いつもどおり誰かの足音から始まった。
「カイル! 廊下は走らない!」
「うるせえな、フレデリカ!」
台所から聞こえる騒がしい声に、エルモアは書斎の椅子から顔を上げた。いつの間にか、机で眠ってしまっていたらしい。肩に掛けられた毛布に、覚えのない温もりが残っていた。
台所に顔を出すと、子どもたちが自分たちで朝食の支度をしていた。パンは焦げ、牛乳はこぼれ、それでも楽しそうに笑っている。
「おはよう、ババ様!」
「おはよう。……ツムギはどうしたんだい?」
子どもたちは顔を見合わせた。
「ツムギ?」
「誰それ、新しい子?」
悪意も冗談もない、きょとんとした顔だった。マリーだけが、ぬいぐるみを抱いたまま、何かを思い出そうとするように小さく首を傾げ、けれどすぐにやめてしまった。
エルモアは、言葉を失った。
あの子の部屋は空っぽだった。子どもたちの中から、あの子だけがきれいに消えている。こんなことができるのは、あの子の力しかない。
そして自分は、あの子を覚えている。
エルモアは、ゆうべの毛布の温もりを思い出した。あの子は自分の部屋に来たのだ。そして、おそらく、記憶を覗いた。自分が隠してきた未来を、あの子は知ってしまった。
あの荒れ果てた未来を知って、あの子は、それをひとりで背負おうとしたのだ。何も告げずに姿を消した夫のように。誰にも言えず書斎に閉じこもっていた、自分のように。
だから、出ていったのだろう。子どもたちから自分を消して。
自分がいなくなっても、あの子たちが寂しがらないように。
「……馬鹿な子だよ」
エルモアは、誰もいない部屋を見つめたまま、長いあいだ動けずにいた。
今日からアニメ放映だぞ。しっかりチェックしろよ。
あと俺みたいな小説版読んだことないやつは、小説版電子書籍も今日発売だから必ず買って読めよ。俺はもう買った。
あ、今作は長い文章書く気力ないしなあ~でAIに書いてもらってます。又聞き知識みたいなのを披露するAIの調教するのが死ぬほどめんどくさかったです。
全9話毎日投稿。
この作品の感想欄は、アニメ放送の感想書きなぐりスペースくらいに思ってくれていいぞ。