海沿いの小さな町の、古い食堂の奥にある四畳半が、ツムギの居場所になった。
食堂を切り盛りしているのは、ひとり暮らしの年老いた女主人だった。ツムギはその記憶に、そっと自分を縫い込んだ。遠い親戚の娘で、事情があって預かっている子。女主人は何ひとつ疑うことなく、ツムギを奥の部屋に住まわせてくれた。昼は店を手伝って皿を洗い、夜は窓際で膝を抱えて過ごす。店の客に名前を聞かれれば、適当に答えた。
十三歳の子どもがひとりで生きていくには、そうするしかなかった。
寂しくはない、と思うようにしていた。
自分がどこにいるのか、あの家の誰も知らない。子どもたちは自分を覚えていない。だから、何があっても誰も助けには来ない。それさえ守れていれば、あの光景は訪れない。
夜、布団に入ると、決まって台所の匂いを思い出した。焦げかけた卵焼き。こぼれた牛乳。ツムギ姉、と呼ぶ声。思い出すたびに胸の奥が軋んだが、それでいいのだと言い聞かせた。軋むのは自分だけでいい。
そうして、季節がひとつ過ぎた。
その朝、食堂の片隅で点けっぱなしになっていたテレビが、航空機事故のニュースを流していた。
皿を洗う手が止まった。読み上げられる乗客の名前の中に、聞き違えるはずのない名前があった。
天樹院エルモア。
泡だらけの皿が、流しの底で音を立てた。
***
葬儀の日、ツムギは会場から遠く離れた木陰に立っていた。
喪服の人々に混じって、見覚えのある小さな背中がいくつも見えた。拳を握りしめて俯くカイル。その肩に手を置くシャオ。唇を噛んで涙をこらえるフレデリカ。無表情のまま、目に涙を湛えてじっと棺を見つめるヴァン。そして、誰かの袖をつかんで泣きじゃくるマリー。
本当なら、あの子たちを抱きとめてやるのは自分の役目だった。
一歩、足が前に出かけた。けれどツムギはそれ以上進まなかった。あの子たちの記憶に、自分はいない。今ここで駆け寄っても、見知らぬ女が現れるだけだ。
マリーが一瞬、こちらのほうへ顔を向けた気がした。ツムギは木の陰に身を引いた。
誰も、ツムギを見なかった。
***
W.I.S.E。
その名を初めて目にしたのは、街角に落ちていた一枚のビラだった。
――世界再生計画。地球転生の日来る!! 『転生の日』は近い……!!
道行く人々と同じように、ツムギも気にも留めなかった。
それからしばらくして、ニュース番組がある事件を報じた。
画面の中で、自らをW.I.S.Eと名乗る仮面の集団が、この世界に向けて宣戦を布告していた。直後、背後のビルが崩れ落ち、アスファルトが砕けて隆起する。自然に起こりうることではない。間違いなく、PSIだった。
映像が終わる寸前、子供の姿が画面の端に映った。見間違いでなければ、マリーだ。
ツムギは宣戦の儀と呼ばれる、その時の詳細な映像を探した。
やがて、一枚のCDを手に入れた。フリーのジャーナリストが撮った映像らしい。
そこでは砕けた地面の向こうへ、まっすぐに駆けていく子供たちの姿があった。見間違えるはずがない。エルモア・ウッドの子供たちだった。
その前に、ひとりの男が立ちはだかった。顔を仮面で覆い、崩れ落ちる瓦礫の中で微動だにしない。
カイルが真っ先に飛びかかり、フレデリカが、シャオが、ヴァンが続く。マリーの小さな背中も、その中にあった。
男が、軽く手をかざす。輝く木のようなものが現れ、皆を串刺しにした。
映像は激しく乱れ、そこで途切れた。
ツムギは画面の前から動けなかった。
自分は捕らわれてなどいない。あの子たちは、自分を救いに来たのではない。あの子たちの中に、自分はもういない。それなのに、あの子たちは死んだ。あの光景と同じように、まっすぐに飛び込んで、倒れた。
なら、自分は何のために。
何のために、あの子たちの中から消えたのだ。
声は出なかった。涙も出なかった。ただ、膝の上で握りしめた手が、いつまでも震えていた。
***
それからのことは、あまりよく覚えていない。
店の手伝いも、手につかなくなった。やがてツムギは、女主人の記憶に縫い込んだ自分をそっとほどき、荷物もろくにまとめずに町を出た。行くあてなどなかった。どこで眠り、何を食べていたのか、自分でもはっきりしない。
守るものは、もう何もない。帰る場所も、待つ人もいない。自分が生きていることに、意味などないように思えた。
だから、世界が壊れ始めたときも、ツムギはどこか他人事のようにそれを眺めていた。
空が、覆われていく。
昼のはずなのに、太陽の光が重く濁った何かに遮られ、街全体が灰色に沈んでいく。遠くで何かが崩れる音がして、それが次第に近づいてくる。人々が悲鳴を上げて逃げまどう中、ツムギは瓦礫の陰にうずくまり、ただ嵐が過ぎるのを待った。死ぬなら死ぬでかまわない、と思いながら。
けれど、ツムギは死ななかった。
何日経ったのか分からない。
瓦礫の山と化した街を、ツムギはあてもなく歩いていた。人の気配はどこにもない。崩れたビルの隙間から、濁った空がのぞいている。
ふと、足が止まった。
倒れた電柱と崩れた壁の合間に、公衆電話がぽつんと立っていた。ガラスはひび割れ、受話器は垂れ下がったまま揺れている。
似た光景を見た覚えがあった。
自分の目で見たのではない。あの夜、エルモアの記憶の中で垣間見た光景。重く覆われた空。崩れた街。人の気配のない荒野に立つ、公衆電話。
ここだ、とツムギは思った。あれは、この世界のことだったのだ。
そして、ばらばらだった記憶が、ゆっくりとつながっていく。
何も告げずに姿を消し、数日後、長い旅から戻ったような姿で帰ってきたコペル。書斎の扉の向こうから漏れ聞こえた、妙なテレホンカードという言葉。そしてコペルがエルモアに送っていた、この荒れ果てた世界の光景。
ツムギは、垂れ下がった受話器を見つめた。コペルはきっと、ここに来ていたのだ。まだ壊れる前の世界から、この未来へ。そして、帰ってきた。ならば、コペルのようにこの世界を訪れる者が、ほかにもいるのかもしれない。あの子たちが生きていた頃の世界から。
自分には、もう何も変えられない。
でも、過去から来る誰かなら。
胸の奥で、とうに消えたと思っていた小さな火が、かすかに揺れた。
***
壊れた世界に、新しい秩序が根を下ろすのに、そう時間はかからなかった。
W.I.S.Eによる支配。生き残った人々は散り散りに身を潜め、各地には
ツムギは、廃墟の陰からその群れを見ていた。
過去から来る者たちが、この世界のどこかに現れるとしたら。彼らを最初に見つけるのは、きっとW.I.S.Eだ。この荒野のすべては、あの者たちの目と耳の中にある。
ならば、その内側に入ればいい。
外から探し回るより、彼らを追う側に立ったほうが、ずっと早く辿り着ける。それに、W.I.S.Eが何をしようとしているのか、この世界がどうしてこうなったのか。いつか過去から来る誰かに手渡せるものがあるとすれば、それはあの組織の中にしかない。
怖くない、と言えば嘘になる。けれど、失うものはもう何も残っていなかった。
夜の廃墟で、ツムギは異形の男の背後に忍び寄った。
指先に、一本の針が生まれる。あの家を出てから、ほとんど使っていなかった針だ。それでも、糸は驚くほど素直に伸びた。
男の首筋に、針がそっと留まる。
男の記憶をほどき、その中にひとり分の居場所を縫い込んでいく。ずっと前から一緒に見張りに立っていた仲間。名前を呼べば振り返る、見慣れた顔。どこから来たのかなど、誰も気にしたことのない女。
縫い終えて針を引くと、男は何事もなかったように振り返り、気だるげに言った。
「なんだ、お前か。交代にはまだ早いぞ」
「……ちょっと、目が冴えちゃって」
ツムギは笑ってみせた。男は肩をすくめ、また闇の向こうへ目を戻した。
ひとり。またひとり。ツムギは末端の構成員たちの記憶に、少しずつ自分を縫い込んでいった。
あの子たちの記憶からは、自分を畳んで消した。そして今、見知らぬ者たちの記憶に、ありもしない自分を縫い込んでいる。
誰の記憶の中にも、本当の自分はいない。
それでもツムギは、前からそこにいた仲間の顔をして、W.I.S.Eの闇の中へ紛れていった。
PSYRENアニメ無事始まりましたね!
いやあ舞台設定が現代になってて感心しました。
携帯電話がスマホになって、今時公衆電話だなんて作中でも煽られてて。
ちなみに私が見てて思ったのは、オカ研の生徒の顔がキモくない、でした。
あと綺麗な雨宮で感心した。うーんこれは正ヒロイン