捕らえられた少女の特徴が、報告の端に書き添えられていた。
長い髪。おとなしそうな顔立ち。ほとんど口をきかず、ただ怯えたように身を縮めている。
それだけで、十分だった。
マリー。
ぬいぐるみを抱いて眠っていた小さな手。ツムギ姉、とエプロンの裾をつかんできた指先。
ツムギは、報告の紙を握りしめた。
捕らわれた者がいる。そして、その者を取り戻そうと、仲間たちが動くかもしれない。無謀にも、まっすぐに飛び込んできて、そして。
あの夜に見た光景が、形を変えて目の前に迫っていた。捕らわれているのは自分ではない。けれど、あの子たちがそのために命を落とすのなら、同じことだ。
それだけは、させない。
マリーを捕らえたのはヴィーゴだという。星将だ。ツムギの針は、決して届かない。その目に触れることさえ、許されない相手だった。
けれど、星将の周りにも人はいる。見張りに立つ者、食事を運ぶ者。その末端になら、手が届く。
ツムギはその夜のうちに、何人かの記憶に、そっと自分を縫い込んだ。捕虜の世話係として。
***
ヴィーゴが部屋を空けたときを見計らって、ツムギはその部屋の扉を開けた。
窓のない薄暗い部屋だった。部屋の中央に置かれた寝台の端に、ひとりの娘が座っている。扉の音に、その肩がびくりと跳ねた。
顔を上げた娘と、目が合った。
十年という時間が、あの小さな顔を大人のものに変えていた。頬の丸みは消え、背も伸びている。けれど、怯えたときに少しだけ下がる眉の形は、何ひとつ変わっていなかった。
声が出そうになるのを、ツムギは喉の奥で押しとどめた。
「食事を持ってきた。食べられるなら、食べて」
盆を卓に置き、少し離れた場所に腰を下ろす。マリーは警戒したまま、盆とツムギを交互に見ていた。
「……あなたも、W.I.S.Eの人?」
「そう。あなたを世話するのが私の役目」
マリーの顔が強張る。ツムギは、できるだけ穏やかな声で続けた。
「乱暴をする気はない。今はそれを食べてくれればいい」
長い沈黙のあと、マリーはおそるおそる匙を手に取った。ひと口、またひと口。その様子を見ているうちに、ツムギの胸の奥がじんわりと痛んだ。
食べ終えたマリーが、ぽつりと言った。
「……前に、どこかで会ったこと、ありますか」
ツムギの指先が、膝の上で小さく震えた。
「ないわ。ここに来たのは、初めてでしょう」
「そう、ですよね」
マリーは困ったように眉を下げた。自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない、という顔だった。
彼女は、何かに引っかかりを覚えているようだった。
***
その日の夕刻、持ち場に戻ったツムギは、ひとり考え込んでいた。
前に、どこかで会ったことありますか。
マリーの声が、耳から離れない。十年前に縫った古い糸が、ほつれかけてはいないだろうか。
もし、このまま縫い目がほどけたら。
マリーはきっと、自分をツムギ姉と呼ぶ。その声がヴィーゴの耳に届けば、どうなるか。星将の前では、自分の針は何の役にも立たない。正体が露見するだけでは済まない。ヴィーゴがなぜマリーを連れてきたのか、ツムギは知らない。下手をすれば、マリーにまで咎が及ぶかもしれない。
確かめなければならなかった。古い糸が、ほつれていないかどうか。そして、もしものときは、もう一度縫い直さなければならない。
あの子から、自分をもう一度奪うことになる。そう思うと、胸の奥がきしんだ。
夜、盆を下げに部屋へ入ると、マリーは寝台の上で膝を抱え、小さく震えていた。
眠れないのだろう。襲われた病院に残された者たちや、ともに連れ去られた者たちの無事を祈っているのかもしれない。ツムギは盆を置き、寝台の端にそっと腰を下ろした。
「眠れない?」
マリーは答えず、ただ小さく頷いた。
ツムギは、震えるその手を両手で包んだ。マリーは一瞬身を固くしたが、振りほどこうとはしなかった。
冷たい手だった。ツムギは親指で、その手の甲をゆっくりとさすった。急がず、同じ速さで、何度も。
「怖かったね」
返事はない。それでも、ツムギは声を低く、やわらかく保ったまま続けた。
「ここは静かだから。大丈夫」
言いながら、ツムギは自分の呼吸を、わざとゆっくりにした。吸って、長く吐く。昔、夜中に怖い夢を見て泣きついてきた子どもたちを、こうして寝かしつけたことがある。背中をさすりながら、息を合わせてやると、小さな体からは不思議と力が抜けていった。
マリーの浅く速かった息づかいが、少しずつ、ツムギのそれに寄り添っていく。
握った指先に、わずかな温もりが戻り始めた。こわばっていた肩が、ほんの少しだけ落ちる。抱えていた膝から、かすかに力が抜けていくのが分かった。
ツムギは手の甲をさする指を止めずに、その変化を見守っていた。
――人の記憶を、勝手に縫い変えてはならない。
師の声が、胸の奥で鳴る。十年前、自分はその教えを破った。そして今また、同じことをしようとしている。
ごめんね、と心の中でだけつぶやいて、ツムギは指先に、針を生み出した。
その瞬間、マリーの肩がぴくりと跳ねた。
気づかれた、とツムギは思った。捕らわれの身であっても、この子はいくつもの戦いを生き抜いてきた能力者だ。PSIの気配に、体のほうが先に反応したのだろう。ツムギの手のひらの中で、マリーの指がこわばり、引き抜かれようとする。
けれど、その動きはほんのわずかに遅れた。無理もない。ついさっきまでこの手を包んでいたのは、なだめるような温もりだけだったのだから。穏やかな空気から一転して立ち上がった気配に、構えが追いついていない。
その一瞬の遅れの間に、ツムギの針は、包んだ手の甲にそっと留まっていた。
糸をたどる。身を潜めてきた日々、仲間たちの顔、逃げ惑った夜。そのさらに奥へ、ツムギは慎重に指を進めていく。
やがて、指先が覚えのある感触に触れた。
丁寧に折り込まれ、内側に縫い留められた一角。十年前、自分がこの子の中に残した縫い目だった。糸は古びていたが、切れてはいない。その奥から、焦げた卵焼きの匂いが、かすかに漏れ出していた。
念のため、少しだけ締め直しておこう。
そう思って糸に手をかけたとき、別のものが流れ込んできた。
――何をされてるの。攻撃? でも、痛くない。怖くない。……どうして、怖くないの。
縫い目に意識を向けていたツムギは、それが何なのかを考えもしないまま、つい口を開いていた。
「大丈夫。怖いことは、何もしないから」
握っていたマリーの手が、びくりと跳ねた。
ツムギははっとして、針を消した。そして、たった今自分が読んだものの正体に気づいた。
あれは、記憶ではなかった。過去の光景ではなく、今この瞬間、この子の胸の内にあった思いだ。
記憶しか読めないはずの自分が、いつの間にか。
――読み取ったものを、決して見誤るな。
聞き流していた師の言葉が、耳の奥で静かに鳴った。
そして、ツムギは思い至った。あの夜、エルモア様の心の中に見た光景。自分が捕らわれ、子どもたちが救いに来て倒れていく、あの光景。自分はあれを、エルモア様が予知した未来の記憶だと信じてきた。
けれど、もしあのときにはもう、自分が思考を読めていたのだとしたら。
あれは未来などではなく、エルモア様の頭の中にあった、ひとつの考えにすぎなかったのかもしれない。
***
その夜、ツムギは眠れなかった。
あの光景が、未来ではなかったのだとしたら。自分が十年前に家を出たことも、あの子たちの記憶を畳んだことも、すべてはひとつの思い違いから始まっていたことになる。
笑えばいいのか、泣けばいいのか、分からなかった。
けれど、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
今、あの部屋に、マリーが捕らわれている。それだけは、誰かの考えでも、読み違えた光景でもない。目の前にある、本当のことだ。
そして、あの子たちはきっと、マリーを取り戻しに来る。いつになるのかは分からない。それでも、あの子たちが黙って待っているはずがなかった。
十年前、自分はあの光景から逃れるために、あの子たちのそばを離れた。けれど、今度は違う。
守りたいから、守る。
あの子たちが飛び込んでくる前に、マリーをここから連れ出す。星将の目を盗んで、一刻も早く。無謀なのは分かっていた。それでもツムギは、暗がりの中で、指先に生まれる針の感触を何度も確かめた。
***
夜が明けた。
朝の盆を運んでいくと、マリーは寝台の端から、じっとツムギを見つめていた。
怯えではなく、何かを確かめようとする目だった。
盆を置いて立ち去ろうとしたツムギの背中に、小さな声が届いた。
「あなたは、誰なの」
ツムギは足を止めた。
振り返れば、きっと答えてしまう。ツムギ姉だと。あなたたちの姉だったのだと。
ツムギは振り返らないまま、扉に手をかけた。
「……ただの、世話係よ」
扉が閉まる音が、薄暗い廊下にやけに大きく響いた。