その報せは、昼を過ぎた頃に飛び込んできた。
「敵襲!」
マリーの昼の食事を支度していた炊事場に、ひとりの構成員が息を切らして駆け込んできた。居合わせた世話係や見張りの者たちが、一斉に顔を上げる。
「ウラヌス様が迎撃に出られた。地上は今、極寒の世界だ。星将クラスでなければ、外へは出られん」
男は荒い息のまま、上から降りてきた命令を読み上げた。
「各自、持ち場で待機。いつでも出撃できるよう、備えておけ」
炊事場がざわめいた。誰が攻めてきたのか、どれほどの数なのか、口々に問いが飛び交う。けれど、答えられる者はいなかった。
ツムギだけが、黙ってその場に立ち尽くしていた。
敵襲。星将自らが迎え撃たねばならないほどの相手。
この荒れ果てた世界で、W.I.S.Eに正面から挑んでくる者がいるとしたら。
あの子たちだ。
マリーを取り戻しに来たのだ。
胸の奥で、何かが熱く跳ねた。助けが来た。あの子は、ひとりではなかった。そして同時に、あの夜の光景が脳裏をよぎる。捕らわれた者を取り戻そうと、まっすぐに飛び込んでくる子どもたち。
ツムギは、ざわめく炊事場をそっと抜け出した。
***
マリーが捕らえられている部屋は、建物の奥まった一角にある。
ツムギは、その扉がぎりぎり見通せる廊下の曲がり角に身を潜めた。崩れかけた壁の陰で、息を殺す。もしあの子たちがここまで辿り着くなら、きっとこの扉を目指してくる。そのとき、自分にできることがあるはずだ。
遠くから、低い振動が伝わってくる。ウラヌスと、侵入者たちがぶつかっているのだろう。
そのときだった。
廊下の空気が、急に冷えた。物理的な冷たさではない。肌の内側を撫でられるような、ぞっとする冷たさ。
ツムギは、壁の陰でいっそう身を縮めた。
廊下の向こうから、ひとりの女が歩いてくる。その足取りには、何の迷いもない。まっすぐに、マリーのいる部屋へ。
元老院ミスラ。
直接顔を合わせたことは一度もない。一方的にこちらが知っているだけだ。能力の決して届かない、上の者。
ミスラは扉の前で足を止めることもなく、そのまま部屋の中へと消えた。
ツムギは壁の陰から、閉じきらなかった扉の隙間を見つめた。薄暗い部屋の奥、寝台の端に、マリーが身をこわばらせて座っている。ミスラはその前に立ち、何ごとかを語りかけ始めた。
声は低く、穏やかでさえあった。言葉のすべては聞き取れない。ただ、マリーが震える声で何かを答え、ミスラが小さく笑うのが分かった。まるで、手に入れたものを品定めするような笑みだった。
やがて、ミスラがゆっくりとマリーへ近づいてゆく。
ツムギの肌が粟立った。危ない。何か、取り返しのつかないことが起ころうとしている。今のマリーはPSIを封じられていて、抗うすべがない。
「やめて!」
床を蹴る。脚に力を込め、全身の力を一点に注ぎ込む。PSIで肉体を押し上げるライズ。ツムギに使えるのは、その基礎だけだ。それでも、ほかに手はなかった。
扉を突き破り、ミスラの背へ飛びかかる。
届いた、と思った。
けれど、ミスラは振り返りさえしなかった。軽く払われただけで、ツムギの体は木の葉のように宙を舞い、背中から壁に叩きつけられた。肺の中の空気が、一息に押し出される。
床に崩れ落ちたツムギを、ミスラはようやく横目で見下ろした。
「……この子の仲間? 惨めだね」
虫でも払うような声だった。ミスラは再びマリーへ向き直り、改めて彼女へ手を伸ばす。
「やっぱりいい体をしているねキミは……」
立ち上がろうとして、ツムギの膝が笑った。針を放っても、この相手には届かない。分かっていた。それでも。
「ちょうど替え時だと思ってたんだ」
その瞬間、ミスラの背中にナイフが突き立てられた。
「お……俺の素材に何してる……」
ヴィーゴだった。
二人は、瞬く間に交戦へ突入した。
壁がうねってミスラに襲いかかり、ミスラはそれをばらばらに打ち砕く。
二つの巨大な気配がぶつかり合い、部屋全体が激しく震える。その余波で、部屋の中央に立っていた柱が轟音とともに砕け散った。マリーの力を封じていた、あの柱が。
ツムギは瓦礫の陰に転がり込み、激しく咳き込みながら顔を上げた。
ミスラとヴィーゴは、もうこちらを見ていない。互いだけを見据え、部屋を削り取るように戦っている。マリーは寝台のそばで膝をつき、呆然とその光景を見上げていた。
今しかない。
けれど、この渦の中を、マリーを連れて抜けられるだろうか。あの二人の一撃がかすめただけで、自分もマリーもひとたまりもない。
ツムギの脳裏に、近くの広間が浮かんだ。そこには、いつでも出撃できるよう待機を命じられたタヴーたちが控えている。
ツムギは崩れた壁の陰を伝い、部屋を抜け出した。廊下を駆け、広間へ飛び込む。
広間には、異形の群れがうずくまっていた。地上の寒さに阻まれ、命令が下るのを待っているタヴーたち。見慣れた世話係の女が飛び込んできても、ほとんどはうつろな目を向けるだけだった。
ツムギは群れの中へ踏み込み、両の指先に針を生み出した。すれ違いざまに一体、また一体と、その体に針を留めていく。
何体かが、身をよじった。自我を失いきっていない、手練れのタヴーだ。迫る針の気配に気づき、とっさに体をひねってかわそうとする。
けれど、ツムギの手は止まらなかった。
エルモア・ウッドで、ジジ様のもとで鍛えられてきた。PSIの扱いも、身のこなしも、相手の動きを読むことも。かわそうとする先を見切り、半歩踏み込んで、その首筋に針を留める。この程度の相手に、遅れを取るつもりはなかった。
針が、次々とタヴーたちの体に留まっていく。尾から伸びた無数の糸が、ツムギの指先へと集まってくる。これほどの数を一度に縫い留めたことはない。脳が千切れるようなPSIの負荷に、ツムギは奥歯を噛みしめた。
縫い込むのは、たったひとつの命令だった。あの戦いに参戦せよ。
タヴーたちの目に、一斉に光が宿った。咆哮が重なり、異形の群れがうねるように動き出す。広間を飛び出し、廊下を埋め尽くして、ミスラとヴィーゴの戦う部屋へと雪崩れ込んでいく。多数の群れが戦いをかき乱し、勢いを打ち消し合っていく。逃がす隙ができた。
その群れの陰に紛れて、ツムギも部屋へ取って返した。混乱の中を、マリーのもとへ駆け抜ける。
「来て」
腕をつかむと、マリーが驚いたように顔を上げた。
「あなた……」
「話はあと。走って」
ツムギはマリーの手を引き、瓦礫の中から引きはがすようにして部屋を飛び出した。背後で、タヴーたちの咆哮と、何かが砕け散る音が重なった。
***
廊下の先に、騒ぎを聞きつけた構成員たちが集まり始めていた。
ツムギは走りながら、針を放った。ひとり、またひとり。すれ違いざまに、その首筋へ、腕へ、次々と針を留めていく。
見えているものを、見えていないことにする。捕虜を連れて走る女を、いつもの世話係が用事で通り過ぎただけのように。構成員たちの目が、ツムギとマリーの上を素通りしていく。
角を曲がるたびに、新しい顔が現れる。そのたびに、ツムギは針を放った。
指先から伸びる糸が、増えていく。タヴーの群れに縫い込んだ命令。構成員たちの目に縫い込んだ偽りの光景。そして、十年のあいだ、この組織の末端に縫い込み続けてきた、ありもしない自分。それらすべてを、ツムギはひとりで支えていた。
息が上がる。視界の端が白くかすむ。指の感覚が、少しずつ遠のいていく。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
あと少し。あの角を抜ければ、外へ出られる。
そう思った瞬間だった。
ぷつり、と。
どこか遠くで、何かが切れる音がした。
一本ではなかった。ぷつり、ぷつりと、立て続けに。張りつめていた糸が、限界を超えて、次々と弾け飛んでいく。タヴーたちに縫い込んだ命令が。構成員たちの目を塞いでいた偽りが。十年かけて組織に縫い込んできた自分の居場所が。
そして、あの子たちの中に畳んで縫い留めていた、すべての記憶が。
糸という糸が、一斉にほどけた。
ツムギは膝から崩れ落ちそうになり、壁に手をついてかろうじて踏みとどまった。指先に針が生まれない。
握っていたマリーの手が、ぴたりと止まった。
振り返ると、マリーが立ち尽くしていた。見開いた目に、次々と何かが映り込んでいくのが分かる。焦げた卵焼き。こぼれた牛乳。洗面所の鏡越しに笑い合った朝。ぬいぐるみ。姉を呼ぶ、自分の声。
マリーの唇が、震えた。
「……ツムギ、姉……?」
十年ぶりに呼ばれたその名に、ツムギは答えることができなかった。
***
恐ろしい敵――天戯弥勒――とすれ違ったあとも、シャオとカブトは建物の中を探り続けていた。
捕らえられたルートの住人たちを、そして何より、マリーを探して。
建物の奥で、巨大なPSI同士がぶつかり合う気配がした。
マリーが戦っている?
いや、W.I.S.E同士か?
理由は分からないが、その余波で辺り一帯が騒然としていた。
闇雲に探し回っている時間はない。シャオは目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。テレパスで、マリーに呼びかける。
――マリー!!!
返事はない。もう一度。
――マリー!!!
――シャオ君!!!
マリーの声が、頭の奥に届いた。
――今、逃げてるの。ツムギ姉が、一緒に……!
ツムギ姉。
その名が頭の奥に響いた瞬間、シャオの視界がぐらりと揺れた。
知らないはずの光景が、一気に流れ込んでくる。朝の台所。定規で測ったようにまっすぐ並べた箸。それを見て、よくできたね、と笑った誰かの顔。エプロン姿の、年上の少女。
いや、知らないはずではない。ずっと、どこかに畳まれていたものだ。
「……ツムギ、姉」
口からこぼれた名前に、シャオ自身が息を呑んだ。なぜ今まで、忘れていたのか。いや、忘れさせられていたのだ。
その声の方角を、シャオはとらえた。騒ぎのすぐ近くから、遠ざかるように動いている。
「行くぞ」
駆け出そうとした、そのときだった。
崩れた壁の向こうから、タヴーの群れが雪崩れ込んできた。異形たちは糸の切れた人形のように統率を失い、手当たり次第に暴れ回っている。その後ろからは、構成員たちまでもが次々と姿を現した。まるで、今の今まで見えていなかったものに、突然気づいたかのように。
「ちっ、どこから湧いてきやがった!」
カブトが舌打ちし、身構える。シャオも拳を握り、飛びかかってきた一体を打ち払った。
マリーの声がした方角は、この群れの向こうにある。すぐそこなのに、届かない。
打ち払い、踏み込み、また打ち払う。
「カブトさん、道を開けます。この先に、マリーと――姉さんがいる」
***
「……行って、マリー。私は、もう」
言い終える前に、ツムギの腕をマリーがつかんだ。
「置いていけるわけ、ないよ……!」
マリーはツムギの腕を自分の肩に回し、引きずるようにして歩き出した。
脳の奥が焼けつくように痛む。溢れ出したPSIの反動で、手足にはもう力が入らない。話したいことは、いくらでもあった。けれど、今はそのときではない。糸がすべて切れた今、ツムギの姿は、もう誰の目にも隠されていない。構成員たちの記憶からも、自分は消えた。ここにいるのは、見知らぬ女と、逃げ出した捕虜だけだ。
マリーに支えられ、ほとんど引きずられるようにして、角を曲がる。外の光が、廊下の先に見えた。
その光が、不意に翳った。
背筋を、凍りつくような気配が撫でた。振り返るまでもなかった。さっきまで遠くで荒れ狂っていたあの圧が、今、すぐ背後にある。
ツムギは、ゆっくりと振り返った。
崩れた廊下の向こうに、ひとりの女が立っていた。争いの名残をまとったまま、その目は冷ややかに、まっすぐツムギだけを見据えている。
ミスラ。
逃げた捕虜を追ってきただけのはずだった。けれど、その視線はマリーを素通りし、ツムギの指先に留まっていた。もう針の一本も生まれない、その指先に。
「なるほど。タヴーたちをけしかけたのは、キミだったんだ」
静かな声だった。ミスラの唇の端が、わずかに吊り上がる。
整いすぎた報告。どこからともなく綻びを縫い合わせていた、見えない手。
W.I.S.Eの中枢にいる者でさえ知らない、ずっと組織の内側に潜んでいた構成員。
ずっと手の届かなかったその正体が、今、目の前にいる。ミスラの目は、そう語っていた。
「どうりで、違和感があったわけだ。ようやく尻尾をつかんだよ」
悲報。ヴィーゴさん、原作の安らか安眠キャンセル。