透き通る世界でシャーマンは愛の物語を紡げるか。   作:UMC OGASOU

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2.缶コーヒーと肩こり委員長

重苦しい沈黙が、広大な室内の空気を重く湿らせていた。

 

ゲヘナ学園風紀委員会本部、その最深部に位置する最高幹部執務室。高い天井から垂れ下がる無機質な照明が照らし出しているのは、壁一面に保管された膨大な事件ファイルと、部屋の中央を占領する巨大な執務机であった。

 

その執務机の上には、もはや「山」という言葉すら生ぬるいほどの書類の塔が聳え立っていた。ゲヘナ自治区全域から刻一刻と寄せられる不祥事の報告書、暴走した部活の始末書、万魔殿からの理不尽な要求書、そして各種予算の申請書。数千枚、数万枚に及ぶ紙の破片が、一人の少女の視界を完全に遮るかのように積み上がっている。

 

「……はぁ……」

 

書類の塔の合間から、小さく、けれど果てしなく深い息吐きが漏れた。

 

空崎ヒナ。ゲヘナ学園の治安を一身に背負う風紀委員長は、小さな手で万年筆を握り締め、絶え間なく書類へサインを走らせていた。彼女の頭上に浮かぶ紫色のヘイローは、本来であれば圧倒的な威厳を放つ光の輪であるはずだったが、今はどこか光の輪郭が掠れ、不規則に明滅を繰り返している。それは彼女の肉体と精神が、とうに限界を超えて削り取られていることを雄弁に物語っていた。

 

そして、そんな緊迫した執務室の片隅――高級感だけはある革張りの応接用ソファに、まったく不釣り合いな姿勢で身を投げ出している男がいた。

 

勝川ソウキである。

 

下半身は黒の短パン、上半身は黒の半袖シャツの上に、サイズが少し合わないゲヘナの予備制服を羽織っただけのラフな姿。先ほどアコによって地下留置場へ叩き込まれるはずだったのだが、取り調べの手続きや急ぎの書類処理のために「ここで大人しく待っていなさい」と放置されていたのだった。

 

ソウキは長い脚をソファの肘掛けに放り投げ、天井の模様を呑気に数えていた。

 

(……おい、ソウキよ)

 

脳裏に、直接重厚な声が響き渡る。ソウキの持霊である大霊、ヘクトゥーパの声だ。

 

(あくびなどしておる場合か。見よ、あの小娘の姿を)

 

「んー……? なんだよヘクトゥーパおじさん。俺は言われた通り大人しく待ってる良識ある不審者だぞ」

 

(戯言を抜かすな。我が眼で見るあの小娘の霊体……普通ではないぞ。お前もシャーマンならば、あの異状に気づいておるのだろう?)

 

ヘクトゥーパの促しを受け、ソウキはソファの上でだらりと首を傾け、書類の山に埋もれるヒナへと視線を向けた。

 

いつもの飄々とした瞳の奥で、ソウキの「霊視」のスイッチが静かに切り替わる。

 

常人には見えない世界が、ソウキの視界に色濃く広がった。

 

「……げぇ……マジかよ……」

 

ソウキの口から、心底不快そうな呟きが漏れた。

 

ヒナの華奢な背中に覆いかぶさっているのは、単なる肉体的な疲労や肩こりなどではなかった。それは、ゲヘナという巨大な狂気を抑え込むことによる「他者の怨嗟」、風紀委員長という絶対者に寄せられる「過剰な期待」、そして彼女自身が自らに課している「絶望的な責任感」が混ざり合い、ドス黒い霊的質量となって渦巻く、巨大な悪夢の塊だった。

 

黒く濁った霊的疲労の霧が、ヒナの小さな肩や首筋にへばりつき、まるで生き物のように彼女の生命力を吸い上げている。

 

(……ぬう。あの小娘の背には、大砲三基分の重圧が載っておるぞ。背骨が折れておらんのが不思議なほどの霊的過重だ。アレは遠からず崩壊するぞ、ソウキ)

 

ヘクトゥーパの言は過張ではなかった。本来ならば大人の男数人がかりでも潰れてしまうほどの負の波動を、あの華奢な少女はたった一人で、顔色ひとつ変えずに耐え続けているのだ。

 

「……生きてりゃなんとかなる、とは言ったけどさぁ……」

 

ソウキは頭をポリポリと掻きながら、小さく息を吐いた。

 

「あんなの、生きているうちに入らねえだろ。あんな死人みたいな顔してさ……」

 

カリカリと響く万年筆の音。時折、ヒナの手が微かに震え、ペン先が紙に滲みを作る。彼女はそれを気にとめる風もなく、機械的に指先を動かし続けていた。休むことすら、彼女にとっては罪悪感と同義なのだろう。

 

ソウキはソファからぬるりと起き上がった。足音を殺し、長身を丸めるようにして執務室の壁際に置かれた自動販売機へと歩み寄る。

 

自販機の冷たい蛍光灯が、ソウキの顔を照らす。ポケットに手を突っ込み、チナツが水分補給のためにと渡してくれた小銭を適当に投入口へ放り込んだ。ガチャン、ガチャンと寂しい金属音が響き、ソウキは迷うことなく一番温度の低そうな「缶コーヒー」のボタンを押した。

 

ゴトン、と重い音を立てて落ちてきた缶コーヒー。

 

ソウキはその冷えたスチール缶を拾い上げると、右手に包み込むようにして持ち直した。ほんの少しだけ巫力を巡らせ、缶の冷たさを保ったまま、足音ひとつ立てずにヒナの執務デスクへと近づいていく。

 

ヒナは完全に自分の世界に没入していた。目の前の書類以外の存在を思考から排除し、ただひたすらに処理を重ねる作業機械。だからこそ、彼女は真横に人が立っていることにすら気づいていなかった。

 

ソウキはヘラヘラとした緩い笑みを浮かべ、手に持った缶コーヒーを、ヒナの真っ白で柔らかい頬へと――

 

『ピタッ』

 

容赦なく、一直線に押し当てた。

 

「ひゃっ!??!?」

 

完璧な風紀委員長、冷徹無比なゲヘナの守護神から、およそ似つかわしくない可愛らしい悲鳴が上がった。

 

跳ね上がるように椅子から身を引いたヒナは、反射的に万年筆を構え、自身の頬を手で押さえながら、丸く見開いた瞳で横を見上げた。驚きのあまり、頭上のヘイローが激しく明滅している。

 

「な……なに……!? 何……!?」

 

そこには、黒の半袖短パンの上にだらしなく制服を羽織った青年が、缶コーヒーを手に持ったまま、のほほんと立っていた。

 

ヒナは数瞬の間、事態が理解できずに固まっていたが、やがてその人物がアコの報告にあった「ヘイローを偽装した不審者」であることを思い出したらしく、すぐにいつもの冷静な、しかし極度に疲弊した表情へと戻した。

 

「……あなた、さっきアコが言っていた不審者ね。……なにするの」

 

小さく、低い声。だが、その声には長時間の執務による掠れと、隠しきれない倦怠感が色濃く混ざっていた。

 

ソウキは缶コーヒーを指先で弄びながら、事もなげに言い放つ。

 

「やあ委員長様。顔色ゾンビだぞ。5分でいいから休め」

 

「……は?」

 

ヒナは眉をひそめた。ソウキの言っている意味が、本気で理解できないといった様子だった。

 

「……意味が分からないんだけど。私は今、ゲヘナ全域の不祥事処理で忙しいの。……はぁ、めんどうくさい。取り調べなら、アコが戻ってくるまでそこで大人しくしていなさい」

 

ヒナは鬱陶しそうに手を振り、再び万年筆を握り直そうとした。視線を書類へ戻し、ソウキの存在を無視して作業を再開しようとする。

 

しかし、ソウキは逃がさなかった。

 

ヒナが握ろうとした万年筆の先を、ソウキはひょいと手で摘まんで引っ張ったのだ。

 

「ちょっと……何をするの」

 

ヒナの声音に、明確な不機嫌さが混じる。だが、ソウキは全く怯む様子もなく、手の中の缶コーヒーをヒナの小さな両手の中に強引に押し込んだ。

 

「書類の山なんて、逃げやしねえよ。そんな死にそうな顔で書類読んでたら、内容も頭に入らねえだろ? ほら、冷たいうちに飲めって」

 

「……勝手に触らないで。……だいたい、私にこんなものを渡してどうするつもり? 私は風紀委員長だよ。貴方みたいな素性のわからない人物から受け取ったものなんて、口にするわけがないじゃない」

 

ヒナは冷ややかな視線で缶コーヒーを見つめ、それをデスクへ戻そうとした。

 

だが、ソウキは自分のポケットに手を突っ込み、デスクの端に腰を滑り込ませるようにして腰掛けた。

 

「毒なんて入ってねえって。そこの自販機で買っただけだろ。ただの缶コーヒーだよ。それとも何かい? ゲヘナの風紀委員長様は、不審者から缶コーヒーも貰えないほど度胸がないのかねえ」

 

「……煽らないで。そんな安っぽい挑発に乗るほど、私は子供じゃないから」

 

ヒナは不満そうに口口を尖らせた。普段のアコやイオリなら、ヒナの一言で恐縮し、平伏するはずだった。万魔殿の意地悪な政治家たちだって、ヒナの冷徹な眼光の前には言葉を詰まらせる。

 

しかし、目の前の男には、そういった「権威」や「恐怖」が一切通用していなかった。

 

男の瞳にあるのは、畏怖でもなく、敵意でもなく、政治的な打算でもない。ただの、呆れと、脱力感と……どこか温かい、無遠慮な気遣いだけだった。

 

「はぁ……」

 

ヒナは本日何度目になるかわからない溜め息をついた。

 

(……面倒くさい。なんなの、この人……)

 

追い出そうにも、この男からは一切の殺気が感じられない。警戒するだけ無駄に思えてくるほど、存在自体がだらけきっていた。

 

ヒナは手に握らされた缶コーヒーに視線を落とした。缶の表面には、細かな水滴がびっしりと付き、ひんやりとした冷気が自分の掌を通じて、熱を持っていた脳の奥まで伝わってくる感覚があった。

 

そういえば、最後に水分を摂ったのはいつだっただろうか。朝一番に冷めたお茶を一口飲んで以来、何も口にしていない気がする。

 

「……開かない」

 

ぽつりと、ヒナの口から漏れた。

 

プルタブに指をかけたものの、極度の疲労と指先の力が入らないせいで、金属のフタを持ち上げることができないのだ。完璧な風紀委員長としては、あまりにも格好のつかない姿だった。

 

ソウキは苦笑し、「貸してみ」とヒナの手から缶をすっと奪い取った。

 

『チッ、シュワッ』

 

軽快な音とともにプルタブが起こされ、芳醇なコーヒーとミルクの香りが執務室の重苦しい空気に広がった。ソウキは開けた缶を、再びヒナの手元へ戻す。

 

「はいよ。飲んでみろって。美味いぞ」

 

「……別に、飲みたかったわけじゃないから」

 

強がりを言いながらも、ヒナは小さな口元を缶の縁へと寄せた。

 

ゆっくりと、傾ける。

 

喉を通り抜けていく、強烈な冷たさと、カフェインの苦味、そして人工的な甘み。

 

「……っ……」

 

熱を帯びて干からびかけていた身体の細胞が、冷たい液体を一気に吸い上げていく感覚。喉から胃へと冷気が落ちていくと同時に、強張っていた首筋の緊張が、ほんの少しだけ弛緩した。

 

「……冷たい」

 

「だろ? 疲れた時は冷たいもんと、甘いのが一番効くんだよ」

 

ソウキはデスクの上で膝を抱えるようにしながら、ヘラヘラと笑った。

 

ヒナは缶コーヒーを両手で包み込んだまま、じっとその黒い液体を見つめていた。

 

「……私は、休んでいる暇なんてないの」

 

誰に言うでもなく、ヒナの口からぽろりと溢れ出た言葉だった。

 

「ゲヘナは、毎日どこかで爆発が起きて、誰かが問題を起こす。私が一瞬でも手を止めれば、書類は溢れかえって、風紀委員会は機能しなくなって……街が崩壊するの。だから、私は休めない。休んじゃダメなの」

 

それは、彼女がずっと一人で抱え込んできた、呪いのような言葉だった。誰にも言えず、弱音を吐くことも許されず、「最強」であり続けることを強制されてきた少女の、あまりにも健気で、あまりにも痛々しい現実。

 

だが、ソウキはその重苦しい告白を、いつもの緩い拍子抜けする声で叩き割った。

 

「生きてりゃなんとかなるんだって」

 

「……え?」

 

ヒナが顔を上げる。

 

ソウキは頭の後ろで両手を組み、天井を見上げながらのほほんと言い放った。

 

「お前ひとりが5分サボったところでさ、ゲヘナが滅亡するわけねえだろ。もし滅亡するなら、最初からそんな街は遅かれ早かれ滅びてんだよ。世界なんてのはな、適当に回るようにできてんの。周りの奴らに、たまには迷惑かけとけばいいんだよ」

 

「そんな……無責任な……」

 

「無責任で結構。だいたいさあ、お前が倒れたらそれこそ元も子もないだろ? 自分の身体も守れねえ奴が、街の平和を守れるわけねえじゃん。だからさ」

 

ソウキは視線を落とし、ヒナの瞳を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、冗談めかした雰囲気の裏に、絶対の確信が宿っていた。

 

「その缶コーヒーを飲んでる5分間だけは、頭空っぽにしてサボれ。書類の山は逃げねえからさ」

 

「……」

 

ヒナは絶句した。

 

そんな雑で、大雑把で、乱暴な論理。今まで出会ってきた大人たちも、部下たちも、敵たちも、誰もそんな言葉をヒナにかけたことはなかった。誰もが「風紀委員長なら解決できる」「ヒナがいれば安心だ」と、期待という名の重荷を積み上げるだけだったのだから。

 

『一人で抱え込むな』『サボれ』と、笑って言い切ったのは、目の前の不審者だけだった。

 

「……ふっ」

 

静かな執務室に、小さな音が響いた。

 

ヒナの口元から、小さく息が漏れた。それは呆れでもあり、可笑しさでもあり……そして、張り詰めていた糸がふっと切れた瞬間でもあった。

 

「……変な人。普通、風紀委員長に向かってそんな雑なサボりを勧めないよ」

 

「そうか? 俺の中では超画期的なアドバイスなんだけどな」

 

ヒナは再び缶コーヒーを口に運んだ。先ほどよりも、ずっと心が軽くなっていた。

 

冷たい液体が身体を巡るたびに、背中に重く伸しかかっていた「何か」が、ほんの少しだけ薄らいでいくような気がした。もちろん、書類が減ったわけでも、ゲヘナの問題が解決したわけでもない。

 

けれど、目の前の男が放つ圧倒的な「脱力感」が、ヒナを縛り付けていた透明な鎖を、優しく解きほぐしていく。

 

(……不思議な人。ヘイローもないのに……なんでこんなに、一緒にいて息がしやすいんだろう……)

 

ヒナの表情から、冷徹な鎧が剥がれ落ちていく。残されたのは、ただの等身大の少女の、小さく繊細な顔立ちだった。彼女の頭上で明滅していたヘイローが、少しだけ落ち着いた光を取り戻し始める。

 

ほんの数十秒、数分間の、静かで温かい時間。

 

しかし、その穏やかな安らぎは、あまりにも唐突に打ち破られた。

 

『バババンッ!!』

 

凄まじい音を立てて、執務室の重厚な両開き扉が破らんばかりの勢いで開け放たれた。

 

「ヒナ委員長ーーーーーーーっ!! 大変です! 留置場の準備と、行政手続きの書類が整い――」

 

息を切らせて飛び込んできたのは、アコだった。手に大量の書類を抱えたアコは、部屋の中の光景を目にした瞬間、言葉を凍りつかせた。

 

そこには、執務デスクの上に馴々しく腰掛け、自慢げな顔をしている不審者・ソウキの姿。

 

そして――そのすぐ隣で、小さな缶コーヒーを両手で大事そうに持ち、口元に微かな笑みを浮かべながら佇む、私たちの誇り高きヒナ委員長の姿があった。

 

アコの思考回路が、一瞬でオーバーヒートを起こした。

 

「な……なななな何をやっているのですかその不純物はーーーーーーーーーっっっ!!!???」

 

アコの叫び声が、部屋全体を激しく揺らした。抱えていた書類がバサバサと床に散らばるのも構わず、アコは顔を真っ赤にしてソウキへと疾走してきた。

 

「ヒナ委員長から離れなさい! 今すぐ離れなさい!! 貴方、ヒナ委員長になにを飲ませているのですか!? 毒ですか!? 呪いですか!? 精神汚染ですか!?」

 

「うわっ、声デカっ!? アコちゃん落ち着けって、ただの缶コーヒーだって!」

 

ソウキは耳を押さえながらソファの方へとひょいと飛び退いた。アコはソウキとヒナの間に割って入り、まるで猛禽類のようにソウキを睨みつける。

 

「うるさいです不純物! 誰がアコちゃんですか! 貴方、万死に値しますよ!? ヒナ委員長の神聖な執務時間に割り込み、得体の知れない液体を口にさせるなんて……! イオリ! イオリはどこですぐにこの男を連行しなさい!」

 

「おいおい、俺は委員長様に休憩をプレゼントしてあげてたんだぞ? 感謝してほしいくらいなのにさあ」

 

「感謝!? 貴方に感謝!? ふざけるのも大概にしなさい! ヒナ委員長、お怪我はありませんか!? 体調に異変は!? すぐに救護処置を――」

 

アコがパニックになりながらヒナの身体を改めようとした、その時だった。

 

「……アコ」

 

静かな、けれど通る声が室内を打った。

 

アコの動きがピタリと止まる。恐る恐る振り返ると、そこには缶コーヒーを手にしたヒナが立っていた。

 

ヒナは乱れた髪を小さく整えると、アコに向けてゆっくりと首を振った。

 

「大声を出さないで。……アコの声、響くから」

 

「あ……申し訳ありません、ヒナ委員長! ですが、この不審者が――」

 

「大丈夫だよ」

 

ヒナは静かに言った。その声には、先ほどまで彼女を苦しめていた刺々しい疲労の棘が、綺麗に消え去っていた。

 

「ただの……コーヒーだから。美味しかったよ」

 

「え……?」

 

アコは絶句した。

 

ヒナの顔を見たアコは、言葉を失ってしまったのだ。

 

そこにいたのは、いつもの死人のように衰弱し、いつ倒れてもおかしくないヒナ委員長ではなかった。ほんの少しだけ頬に朱が差し、瞳に確かな温もりが戻った、心なしかすっきりとした表情のヒナだった。

 

連日の不眠不休の執務で、どんなに休むよう勧めても頑なに拒み続けていたヒナが。

 

あんな、どこからどう見ても不審者でしかない男から渡された一缶のコーヒーで、息を吹き返している。

 

「そんな……ヒナ委員長が……あんな男の差し入れで……?」

 

アコは膝から崩れ落ちそうになるほどのショックを受け、ソウキとヒナを交互に見つめた。信じられない、といった様子でメガネの位置を直すが、現実の光景は変わらない。

 

ソウキはそんなアコのショックを余所に、ヒナに向かってひらひらと手を振った。

 

「な? 生きてりゃなんとかなるだろ。……じゃあ俺は、アコちゃんに地下へ連行されてくるわ。また疲れたら奢ってやるからさ」

 

「……うん」

 

ヒナは小さく頷いた。

 

「……ごちそうさま。少しだけ、楽になったよ」

 

ヒナの口元に、本当に微かな、けれど確かな笑みが浮かんだ。

 

それは風紀委員会の誰も見たことがない、そしてソウキだけに向けられた、秘めやかな安らぎの証明だった。

 

「さ、アコちゃん。お望み通り取り調べとやらに行こうぜ〜」

 

「……っ! 貴方……! 後で絶対に後悔させてやりますからね……!!」

 

アコはキーキーと叫びながらソウキの服の袖を引っ張り、半ば引きずられるようにしてソウキは執務室を後にした。

 

バタン、と扉が閉まり、再び静寂が戻ってきた室内。

 

ヒナは手の中に残った、ほんのり温かくなり始めた缶コーヒーを最後の一口まで飲み干すと、そっとデスクの端に置いた。

 

万年筆を手に取る。

 

先ほどまであれほど重く感じられたペンの滑りが、今は驚くほど軽い。

 

ヒナの背中に張り付いていたドス黒い重圧は、男が残していった適当で温かい言葉によって、綺麗に霧散していたのだった。

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