幼馴染ならどんなときでも意思疎通できるよね? 作:AirHertz
ゴールデンウィークが明けて間もない5月上旬。
初夏の爽やかな風が吹き抜ける、雲ひとつない快晴のもと、全校生徒が集まる広いグラウンドには、色とりどりの体操服に身を包んだ生徒たちの熱気に包まれていた。
今日は年に一度の全校体力測定の日である。
男子も女子もそれぞれの種目エリアへと散らばり、自分の記録に喜んだり絶望したりと大騒ぎしている中、2年B組の女子グループの視線はある一か所へと集中していた。
「……ねぇ結衣。あの子、本当に大丈夫なの……?」
クラスメイトの莉子が、遠目からでもはっきりと分かるほど引きつった顔で、隣にいた相原結衣の肩を小突いた。
結衣の視線の先――そこには、男子の50メートル走のスタートラインに並ぶ、一人の男子生徒の姿があった。
水瀬悠希である。
指定の紺色の半袖体操服とハーフパンツを着用しているのだが、そもそも小柄で華奢な悠希の体に学校指定のSサイズは少し大きすぎるらしい。襟ぐりから覗く細い首筋や華奢な鎖骨、そして袖口からちょこんと出た小さな指先が、なんとも保護欲をそそる可愛らしさを醸し出していた。
だが、問題はそこではない。
悠希はスタートラインに立っているだけで、まるで今にも消えてしまいそうなほど儚い雰囲気を全身から漂わせているのだ。トロンとした眠たげな瞳は半ば閉じかけており、両膝は生まれたての小鹿のようにプルプルと震えている。
「大丈夫大丈夫! いつものことだから!」
結衣は腕を組み、うむうむと深く頷きながら明るく答えた。
「悠君はね、体育の授業の『準備運動』の時点で体力の八割を消費するタイプなの。今はおうちでいう『省エネモード(残量5%)』みたいな状態だから!」
「残量5%で50メートル走らせたら壊れるでしょ!? 体育教師止めてあげてよ!」
莉子のツッコミが響く中、「位置について――」と担当教師の笛が鳴った。
周りの男子生徒たちが低く身を構え、野性的な眼光でゴールを見据える中、悠希だけは「……ふぁ……」と小さくあくびを噛み殺しながら、ごく普通に直立不動の姿勢をとっていた。
パンッ! とスタートの合図が響き渡る。
「「「うおおおおっ!!」」」
猛烈なダッシュで芝生を蹴り飛ばしていく男子生徒たち。その中で、一瞬だけ遅れて動き出した悠希の走りは――異次元のものだった。
トテトテ、ポテポテ。
それは「走り」と呼ぶにはあまりにも緩やかで、例えるならば『うららかな春の陽気の中、近所のお散歩を楽しんでいる子猫』の歩調そのものだった。
サラサラの黒髪がふわりふわりと揺れ、ポワポワとした雰囲気を振り撒きながら、悠希は自分のペースを崩さずにトテトテと進む。
「遅っ!! 圧倒的に遅い!!」
「走ってない! あれ完全に歩いてる!!」
ギャラリーの女子たちから愛あるツッコミが飛ぶ中、悠希は周りの男子から30メートル以上離されて、ようやくゴールラインを跨いだ。
記録、11秒8。
高校2年生の男子としては、歴史に残るレベルの驚異的な省エネタイムである。
そしてゴールラインを越えたその瞬間――パタン、と綺麗な音を立てて、悠希は力尽きたように芝生の上へと膝から崩れ落ちた。
「……もう……むり……。ぼくの……ライフ……ぜろ……」
声には出さず、心の中で儚く呟く悠希。
だが、その念話(サイレント通信)は、遥か遠くのギャラリーエリアにいる結衣の頭の中に、ダイレクトかつクリアに届いていた。
『悠君! しっかりして! まだ測定始まったばかりだから! 立ち上がってー!』
結衣はすかさず脳内で激励(ツッコミ)を飛ばしながら、すっ飛んで悠希の元へと駆け寄った。
「はいはい、悠君大丈夫? ほら、お水飲みな~」
「……ゆ~ちゃん……」
地面にペタンと座り込み、今にも倒れ伏しそうだった悠希は、結衣が差し出したペットボトルを見上げると、ぽわんとした顔で体操服の裾をきゅっと掴んできた。
そして、口頭では「……ん」と小さく鼻を鳴らすだけで、脳内に甘甘な念話を送り込んでくる。
『……ゆ~ちゃん……。あけて……。ちから……入らない……』
『はいはい、キャップ開けてあげるからね。ほら、ゆっくり飲むんだよ』
結衣が慣れた手つきでキャップを外し、口元へ持って行ってあげると、悠希はちびちびとペットボトルの水を飲んだ。
その手慣れたお世話ぶりに、周囲の男子生徒たちからは「お、お母さん……?」「いや、あれどう見ても飼い主とペットだろ……」という生温かい視線が注がれていた。
◇
しかし、体力測定の悪夢はこれで終わらなかった。
その後も種目は容赦なく続いていく。
体育館へ移動して行われた、敏捷性を測る『反復横とび』のエリアでは、周囲の男子がシュッ、シュッ! と鋭いサイドステップを踏む中、悠希は最初のラインを越えた瞬間に足が絡まって「……ぽてん……」とその場に倒れ込んだ。
『悠君っ!? 大丈夫!?』
『……床が……冷たくてきもちいい……。ぼく……ここで暮らす……』
『暮らさないで! ちゃんと立って横に飛んで!』
結衣が脳内で必死に励ますものの、二回目のチャレンジでもポテポテと2回ステップを踏んだところで力尽き、体育館の床に頬を押し付けたままフリーズ。計測係の生徒から苦笑混じりに「……記録、3回」とメモされてしまった。
続いての『立ち幅跳び』でも、踏み切った瞬間に膝の力が抜け、勢いが殺されてそのままその場にぽてんと座り込み、記録はまさかの「60センチ」。
種目を重ねるごとに、悠希のHP(体力)は目に見えるスピードで削られていき、顔色はどんどん蒼白(というより、ぽやぽやして今にも眠りにつきそう)になっていった。
「うぅ……悠君、大丈夫……? 本当に倒れちゃわない……?」
次の種目への移動中、結衣は完全にフラフラと千鳥足になっている悠希の脇を抱えるように支えながら、本気で心配になり始めていた。
悠希は結衣の肩に頭をぽてんと預け、力尽きたように瞼を閉じかけている。
『……ゆ~ちゃん……。ぼく……がんばったよね……? もう……おうちに帰って……お昼寝していい……?』
『ダメに決まってるでしょ! まだ最後の種目が残ってるんだから!』
その最後の種目こそが――グラウンドの中央に設置された、男子の『ハンドボール投げ』エリアだった。
◇
グラウンドの中央には、白いラインで大きな扇形の計測エリアが描かれており、クラスの男子生徒たちが順番にハンドボールを遠くへ投げ飛ばしていた。
「うおおおっ! 35メートル超えたー!」
「すげー! さすが野球部!」
男子たちの歓声が響く中、悠希は結衣に連れられるようにして、男子の列の最後尾へと並ばされた。
その手には、ずっしりと重いハンドボールがひとつ、ぽつんと握られている。
悠希はボールを持った手すら重そうにダラリと下げ、トロンとした瞳でボールを見つめていた。
『……これ……重い……。ジャガイモの……100倍くらい……重い……』
『ジャガイモ100倍は言い過ぎでしょ! 普通のボールだよ!』
結衣が脳内で突っ込んでいると、計測を担当している男性の体育教師――学園でも厳しさで有名なコワモテの佐藤先生が、腕を組んで悠希の元へと歩み寄ってきた。
佐藤先生は手元のバインダーに挟まれた記録用紙と、目の前のフラフラしている悠希を交互に見やり、むすっとした厳めしい顔で眉間にシワを寄せた。
「おい、水瀬。お前、さっきからやる気があるのか? 50メートル走も、反復横とびも、立ち幅跳びも……全部ふざけてるような記録じゃないか」
「……あ……」
悠希はぽやんとした顔で先生を見上げるが、省エネモードが極まりすぎていて、声が出ない。ただ首をコテンと傾けるだけだ。
先生はハァと重い溜め息をつくと、バインダーのメモ欄に赤ペンで何かをガリガリと勢いよく書き込み始めた。
「ハッキリ言って、これはまともな測定になっていない。後でしっかり指導が必要かもしれんな……」
低い声でボソリと呟き、厳しい視線を送る。
その様子を、数十メートル離れたギャラリーの女子エリアから見守っていた結衣は――完全に勘違いをした。
(ひ、ひいいっ!? た、大変なことになっちゃったーーっ!!)
結衣の頭の中で、大パニックの警報が鳴り響く。
(佐藤先生、めちゃくちゃ怖い顔でメモしてる! 「やる気がない」「測定不能」って判定されたんだ! このままだと……このままだと、悠希が「不真面目生徒」として先生に目を付けられて、放課後に恐怖の居残り激走補習&地獄の再測定になっちゃうかもしれないー!!)
もちろん、実際の高校の体力測定でそんな漫画のような地獄の居残り補習など存在するはずもない。先生はただ「体の成長に問題がないか」「体調不良ではないか」を心配してメモを取っていただけなのだが、少しおバカで心配性な結衣の脳内では、悠希が鬼教師にスパルタ特訓される地獄絵図が完成してしまっていたのだ。
(どうしようどうしよう! 悠君があんな地獄の補習を受けたら、本当に命の危険にかかわるよ……! 何としても、このハンドボール投げで「ちゃんと運動できます!」ってアピールして、先生の誤解を解かなくちゃ……!)
パニックになった結衣は、ぎゅっと両拳を握り締めると、グラウンド中央に立つ悠希に向けて、全神経を集中させた。
全エネルギーを注ぎ込んで、渾身の遠距離サイレント通信(念話)を、悠希の脳内へダイレクトに叩き込んだ!
『悠君っ!! 聞こえる!? 悠君っっ!!』
ボールを持ったままトロンと佇んでいた悠希の頭の中に、結衣の切迫した大絶叫が響き渡った。
悠希はびくっと小さく肩を揺らし、ゆっくりとギャラリーの結衣の方へと視線の向きを変えた。
『……ゆ~ちゃん……? どうしたの……? お耳の中で……ゆ~ちゃんが大騒ぎしてる……』
『大騒ぎどころじゃないよ! ピンチなの! 超絶大ピンチなのっ!』
結衣は遠くから必死に手振り身振りを交えながら、猛烈な勢いで脳内トークを捲し立てる。
『佐藤先生がすごく怖い顔でノートにメモしてたの見た!? このままだと悠君、「不真面目な生徒」として目を付けられて、放課後に居残り補習になっちゃうよ! 毎日夕方までグラウンド10周走らされたりするんだよ!?』
『……えぇ……。グラウンド10周……? そんなの……死んじゃう……』
『でしょ!? だから、この最後のハンドボール投げで、ちゃんとした記録を出さなきゃダメなの! お願い、思いっきり投げて! あと20メートル……ううん、25メートルは飛ばして~!!』
結衣の必死すぎるお願いに、悠希は困ったように眉を下げ、ボールを持った腕をだらりと揺らした。
『……むりだよ……ゆ~ちゃん……。腕が……重くて……あがらない……。ぽろっと……取れちゃう……』
『取れないから! お願い、悠君が頑張らないと、わたし心配で夜も眠れなくなっちゃうよ~!』
『……う~……。でも……もう、ちから出ないもん……。おうち帰って……ゆ~ちゃんにナデナデしてもらいたい……』
完全に弱音モードの悠希。
省エネ体質にとどまらず、根本的な体力が底をついている悠希にとって、「自力で頑張る」というエンジンをかけるのは至難の業だった。
だが、結衣は知っていた。
悠希という男の子が、どんな時にだけ「異能レベルの爆発的な力」を発揮するのかを。
(……こうなったら、あれを使うしかない……っ!)
結衣は真っ赤な顔でゴクリと唾を飲み込むと、覚悟を決めて、甘々の「悪魔の取引」を提示した。
『……悠君! 聞いて!』
『……ん……?』
『もし……もし、ハンドボールを25メートル以上遠くに飛ばせたら……っ! 今日の放課後、悠君が満足するまで、いくらでも「ぎゅーっ」って抱きしめてあげる! 頭も、気が済むまでずっとナデナデしてあげるから!!』
「抱きしめてあげる」
「頭もずっとナデナデしてあげる」
その魔法の言葉が悠希の脳内に響き渡った瞬間――
ピクッ、と悠希の短いアホ毛が跳ね上がった。
『…………え……?』
悠希のトロンとしていた瞳が、パチパチと二回瞬きをした。
そして次の瞬間――
シュピーン!
効果音が聞こえてきそうな勢いで、悠希の瞳に異能レベルの神がかった光が宿る。
『……ゆ~ちゃん、ほんとう……?』
悠希の脳内から返ってきた念話は、先ほどまでの「今にも途切れそうな省エネ通信」とはまるで別物だった。
クリアで、力強く、そしてどこまでも一直線な情熱に満ち溢れている。
『嘘じゃないよ! 嘘つかないよ! 25メートル以上投げられたら、今日の放課後、悠君が「もういい」って言うまでいくらでもギューッてして頭なでなでしてあげる!』
『……約束。ぜったい、破っちゃダメだからね……?』
『破らない! だから頑張ってー!』
結衣が心の中で必死に叫んだ次の瞬間――グラウンドに異様な緊張感が走り抜けた。
「……ん?」
計測を担当していた体育教師が、思わず手元のバインダーから目を上げた。
つい数十秒前まで、生まれたての小鹿のように足元を覚束なくさせ、ボールの重みに負けて膝をつきかけていたはずの男子生徒――水瀬悠希の纏う雰囲気が、劇的に変化していたからだ。
悠希はトロンとしていた瞼をカッと見開くと、右手の中でずっしりと重いハンドボールをキュッと握り直した。
その瞳には、普段のぽやぽやとした柔らかさは微塵もない。
あるのはただひとつ――『ゆ~ちゃんに抱きしめてもらう』という、純粋で一途な情熱のみである。
サラサラの黒髪が初夏の風にふわりと揺れる。
悠希はスッと背筋を伸ばすと、無駄の全くない綺麗なフォームで左足を一歩踏み込んだ。
「なっ……!?」
周りで見守っていた男子生徒たちから驚愕の声が漏れる。
悠希の華奢な体がしなる。
引き絞られた弓のように胸を張り、軸足をしっかりと地面に踏み込み――右腕が鞭のようにしなやかに振り抜かれた。
バシィンッ!
グラウンドに、体操服の少年が出したとは思えない鋭い風切り音が響く。
手放されたハンドボールは、初夏の青空に向かって高く舞い上がり、勢いよく放物線を描きながら飛んでいった。
ボールはぐんぐんと高度を上げ、男子の平均ラインである22メートル地点を軽々と通過。
結衣が目標として掲げた25メートルラインすらあっさりと飛び越え――
ドスッ!
グラウンドの砂煙を上げて、見事な放物線の先に着地した。
「「「………………!?」」」
グラウンド全体が、静寂に包まれた。
野球部員たちが「えっ……?」と開いた口が塞がらない様子で固まり、記録用紙を持った先生も、目を見開いたまま固まっている。
測定結果、28メートル50センチ。
男子の平均値をしっかりと上回る、文句なしの好記録であった。運動神経壊滅的で体育の準備運動でHPが尽きるはずの省エネ男子が出したとは、到底信じられない飛躍的な伸びである。
「……す、すごい……! すごいよ悠君! ちゃんと25メートル超えたよー!」
ギャラリーの女子エリアで、結衣は跳び上がらんばかりに歓喜した。
(よかった~! これで先生も「水瀬はやる気があるな」って納得してくれたはず! 地獄の居残り補習は回避できたんだー!)
結衣が一人で胸を撫で下ろし、ホッと安堵の溜め息をついた――その時である。
ボールを投げ終えたグラウンド中央の悠希が、くるりと身体を反転させた。
まるで別人のような鋭い眼光でギャラリーの結衣へと視線を定めた瞬間。
ダッ!
「「「はえええええっ!?」」」
周囲の男子生徒たちから悲鳴に似た叫びが上がった。
50メートル走で「トテトテ、ポテポテ」と近所のお散歩子猫のような走り(11秒8)を見せていた悠希が、まるで100メートル走の選手のような爆速のスタートダッシュを切ったのだ。
芝生を猛烈な勢いで蹴り飛ばし、疾風の如きスピードで真っ直ぐ結衣のもとへと突進してくる。
『ゆ~ちゃん! 投げたよ! 25メートル超えたよ! ごほうび! ごほうびー!』
脳内にダイレクトに響き渡る、悠希の喜びと「ごほうび」への期待に弾んだ大絶叫。
「ひぇっ!? ゆ、悠君ちょっと待っ――」
結衣が制止の声をかける間すらなかった。
猛スピードで突進してきた悠希は、ギャラリーの女子たちの人混みを軽やかにすり抜けると、勢いそのままに結衣の胸の中へと豪快にダイブした。
ドサッ!
「きゃああっ!?」
「……ゆ~……ちゃんっ……!」
激しい衝撃とともに、結衣は後ろに尻餅をつきそうになりながらも、飛び込んできた悠希の体をガシッと正面から受け止めた。
悠希は結衣の首元にギュウギュウと顔を埋め、両腕で結衣の腰をこれでもかと強固に締め上げる。まるで抱きつきコアラか、一度食いついたら離れないスッポンのような密着ぶりである。
『……んふ……ゆ~ちゃん……約束……! ぎゅーって……して……! なでなで……して……!』
脳内には、とろけきった甘々の念話が津波のように押し寄せてくる。
「も、もう~! 悠君ったら、みんな見てる前でいきなり飛びついてきたら危ないでしょ~!」
結衣は真っ赤になりながらも、約束を破るつもりは毛頭なかった。
自分の胸の中でぽやぽやと甘えてくる悠希の頭にそっと手を添えると、宣言通り、柔らかいサラサラの黒髪を「よく頑張ったね~!」と優しく撫で回した。
さらには、小さな体を自分の腕の中にすっぽりと収めるようにして、ぎゅ~っと力いっぱい抱きしめてあげる。
「すごいよ悠君! まさかあんなに遠くに飛ばせるなんて思わなかったよ! 本当にカッコよかったよー!」
「……んふふ……ゆ~ちゃんに……ほめられた……。あったかい……甘いにおいする……」
結衣の腕の中で、悠希は満足そうに「ふにゃら……」と顔を崩し、完全に溶けきった表情で結衣の肩口に頬をすりすり寄せていた。
投げ切った反動と、目標を達成した安心感からか、悠希の全身からは一瞬にして威圧感が消え去り、元の『残量0%のぽんこつ省エネモード』へと逆戻りしている。
その光景を、周囲のクラスメイトたちは開いた口が塞がらない目で見つめていた。
「……ねぇ、莉子。今の何……?」
「……見ちゃダメよ。あれは『ご褒美がかかった時の水瀬くん』っていう異次元の生命体だから……」
「運動神経が悪いんじゃなくて、モチベーションが極端すぎるだけなのでは……?」
「ていうか、投げ終わった直後のあの爆速ハグ……吸引力すごすぎない……?」
女子たちの生温かいツッコミと呆れ顔が周囲を包む中、厳格な佐藤先生だけが、ポカンとした顔で記録用紙と二重丸をつけたメモを見比べ、ボソリと呟いた。
「……あいつ、最初からあのスピードで走っていれば、50メートル走も普通にクラス上位のタイムが出せるんじゃないのか……?」
もちろん、先生のその疑問に対する答えは「ご褒美(結衣のハグ)がゴールの先に設置されている時限定」である。
◇
放課後。
全員の体力測定がすべて終了し、体育着から制服へと着替えた生徒たちが続々と下校していく時間帯。
夕陽が差し込む2年B組の教室には、ぽつんと二人の影が残されていた。
カチャリと静かな音を立てて教室のドアが閉まる。
「はい、悠君。お疲れ様でした~!」
結衣は自分のデスクの椅子に腰掛けると、パンパンと自分の太ももを叩いて見せた。
すると、待ちかねたとばかりに、制服姿の悠希がポテポテと歩み寄ってくる。
ブレザーの袖から手先をちょこんと覗かせた悠希は、迷うことなく結衣の膝の上にぽてんと腰を下ろすと、結衣の胸元にコテンと頭を預けてきた。
「……ゆ~ちゃん……ごほうびの……つづき……」
口頭でポツリと呟きながら、悠希は結衣の腰に回した手をきゅっと強めた。
『……ひざまくら……と……ハグと……あたまナデナデ……ぜんぶセットで……おねがいします……』
脳内に届く念話は、甘くてトロンとした極上のねだり声だ。
「ふふ、はいはい! 約束だもんね。悠君が満足するまで、いくらでもしてあげるよ~」
結衣はクスクスと笑いながら、自分の膝の上に乗った悠希の体を後ろからぎゅ~っと抱きしめた。
顎を悠希の柔らかい頭の上にちょこんと乗せ、細い髪に指を通しながら優しく撫で撫でしてあげた。
「今日ね、先生が難しい顔でメモしてたから『悠君が居残り補習になっちゃう!』ってすごく焦ったんだよ? でも、最後のハンドボール投げのおかげで、先生も『水瀬は頑張ったな』って顔をしてたから、本当に安心した~」
結衣がホッと胸を撫で下ろしながら語りかけると、悠希は結衣の胸元に顔をすり寄せながら、ぽわんとした念話を返してきた。
『……ゆ~ちゃん……おバカさんだねぇ……』
『えっ!? なんでおバカさんなの!? わたしは悠君のために必死だったんだよ!?』
『……高校の体力測定で……居残り補習なんて……あるわけないのに……』
『うぐっ……!』
痛いところを突かれ、結衣は「う……」と声を詰まらせた。
(た、確かに冷静に考えたらそうかも! でも、あの時は先生の顔が怖すぎて本当に焦ったんだもん!)
結衣が顔を赤くしてムスッと頬を膨らませていると、悠希は結衣の腕の中でクルリと身体を向き直し、結衣を見上げる体勢になった。
トロンとした大きな瞳で結衣をじっと見つめ、小さく「……ん」と鼻を鳴らす。
『……でも……ゆ~ちゃんが……おバカさんで……よかった……』
『え……? どうして……?』
悠希はふにゃりと、まるで陽だまりに溶ける子猫のような甘い笑みを浮かべた。
そして結衣の制服の裾を小さな手できゅっと握り締めながら、脳内に直接、温かい想いを届けてくる。
『……ゆ~ちゃんが焦って……ごほうび……くれるって言わなかったら……ぼく……25メートルも投げられなかったもん……。ゆ~ちゃんに……ぎゅーっとしてもらえるなら……ぼく……なんだって頑張れるよ……』
『~~っ!』
ストレートすぎる破壊力満点のおねだりと愛の言葉に、結衣の顔が一瞬で真っ赤に染まった。
(な、なになに今の!? か、可愛すぎるでしょーっ!)
心臓がドキンと跳ね上がり、結衣は語彙力を失って大パニックになる。
悠希本人は「本心をそのまま伝えただけ」という無自覚な様子で、再び結衣の胸の中に「ふにゃ……」と頭を埋め、満足そうに瞳を閉じていた。
『……ゆ~ちゃん……あったかい……。このまま……おうちに帰るまで……抱っこしてて……』
『も、もう~! 悠君は本当に甘えん坊なんだからっ!』
結衣は照れ隠しで声を荒らげつつも、胸の中に収まる愛おしい幼馴染の体を、より一層強くぎゅ~っと抱きしめ返した。
夕暮れ時の誰もいない教室。
口では何も言わなくても、抱きしめ合う温もりと、頭の中に直接届く甘い念話のやり取り。
「……じゃあ、あと10分だけこうしてたら、一緒にお家帰ろうね?」
「……ん……。ゆ~ちゃん……大好き……」
「はいはい、わたしも大好きだよ~」
二人の無自覚な甘々タイムは、オレンジ色の夕陽が沈みきるまで、静かに、そして温かく続いていくのだった。
ありがとうございました。
次話から夏編になります。
投稿が1日空いて、明後日になる予定です。