幼馴染ならどんなときでも意思疎通できるよね? 作:AirHertz
ゴールデンウィークの狂騒が過ぎ去り、初夏の爽やかな風が校庭の樹々を揺らす5月半ば。
2年B組の教室は、普段の賑やかさが嘘のように、どんよりとした重苦しい空気に包まれていた。
理由はただひとつ――本日は1学期の中間テスト、その初日だからである。
「うぐぐ……! プラス……マイナス……あれ? カッコの外に出す時はどっちだっけ……!? 待って、そもそもこの『サイン』と『コサイン』って何のために生まれてきたの……!?」
朝のホームルーム前の教室。
自分の机で頭を抱え、解き直しのノートを前に半泣きで悶絶しているのは相原結衣だ。
結衣は文系科目はそこそここなせるものの、理数系――特に『数学』が大の苦手であった。
公式を見れば見るほど頭の中がカラフルな記号のパレード状態になり、覚えたはずの解法が砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく。
「あぁ~! もうダメだ~! わたしの頭がパンクしちゃうよ~っ!」
頭を抱えてそのまま机に突っ伏す結衣。
そんな結衣のすぐ隣の席から、ふわりと穏やかな気配が漂ってきた。
「……ふわぁ……」
隣の席の生徒――水瀬悠希が、小さな口を大きく開けて、可愛らしくあくびを噛み殺したところだった。
指定の制服のブレザーは、小柄な悠希には少しだけ肩幅が広く、萌え袖状態になった袖口から小さな指先がちょこんと覗いている。トロンとした眠たげな瞳に薄く涙を浮かべながら、悠希はぽやぽやとした動作で、結衣の制服の袖口をきゅっと引っ張った。
そして、口を一切動かすことなく、脳内にダイレクトに甘い念話を送り込んでくる。
『……ゆ~ちゃん……朝から……お頭が大暴走してるよ……?』
『大暴走もするよ~! だって今日の1時間目、数学なんだよ!? 絶望だよ! 地獄のカウントダウンだよ~!』
脳内で頭を抱えてジタバタと暴れる結衣。
悠希はそんな結衣のパニックぶりを、まるで陽だまりの中で毛づくろいする子猫のような、のんびりとした瞳で見つめていた。
『……ゆ~ちゃん……昨日……ぼくが教えたところ……ぜんぶ忘れちゃったの……?』
『うぐっ……! 忘れてない! 忘れてないよ!? ただ……頭の中で公式たちが鬼ごっこをしてて、どれをどこで使うのか迷子になってるだけなのっ!』
痛いところを突かれ、結衣は心の中で小さく悲鳴を上げた。
悠希という少年は、体育の授業の準備運動だけで体力のほとんどを使い果たしてしまうほど、運動神経も基礎体力も皆無である。普段の授業中も「省エネモード」でぽやぽやと机に突っ伏していることが多く、自発的に勉強机に向かう姿など一度も見かけたことがない。
しかし、彼は一度見聞きした概念や計算の仕組みを、一瞬で本質まで理解してしまう「物覚えが異常に良い天才タイプ」だった。
特に数学に関しては、幼少期から数学嫌いの結衣に勉強を教えてあげる機会が多かったため、解き方のパターンから応用問題の解法まで、完全に脳内に叩き込まれている。
本人は「ゆ~ちゃんに教えるために見てたら、勝手に覚えちゃった」程度の認識なのだが、その実力は学年トップクラス――いや、全国でも通用するレベルの隠れたスペックであった。
『……ふふ……ゆ~ちゃんはおバカさんだねぇ……』
『おバカさんって言わないでよー! わたしは本気で焦ってるんだからねっ!』
『……大丈夫だよ……。あんなの……数字のパズルなんだから……順番に当てはめれば……ちゃんと解けるよ……』
悠希はぽわんとほほ笑むと、萌え袖の手で結衣の指先にそっと触れた。
トロンとした瞳には「ぼくがついているから大丈夫」という、根拠のない、けれど何よりも心強い安心感が満ちている。
「うぅ……悠君がそう言ってくれると、ちょっとだけ勇気が出るかも……。でも、テスト中に悠君は助けてくれないでしょ~?」
「……ん……。がんばって……」
口頭でポツリと呟き、悠希は満足そうにコテンと自分の机の上に頭を預けた。テスト開始前から、早くも『省エネ・睡眠モード』へと移行する構えである。
その時、廊下からフフッと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「ちょっとちょっと、結衣。朝からまた二人だけの『無言の愛の通信』やってたでしょ~?」
ニヤニヤとした笑みを浮かべながら近づいてきたのは、クラスメイトの莉子だった。
「やってないよ! わたしは数学の公式と命懸けの格闘をしてたの!」
「嘘おっしゃい。外から見たら、二人で手を重ねて見つめ合いながら、無言でぽわぽわ空間作ってたじゃない。テスト前の殺伐とした教室で、そこだけピンク色のバリアが張られてるみたいだったわよ」
「だから付き合ってないって言ってるでしょ~! 悠君はわたしの弟みたいなものなんだから!」
「はいはい、毎度おなじみの『付き合ってない(大嘘)』いただきました~」
莉子は呆れたように肩をすくめると、自分の席へと戻っていった。
(もー! 莉子ったら適当なことばっかり言って……! わたしは本当に数学がヤバいんだからね!)
結衣が心の中でぷんぷんと怒っていると、ガラリと教室の前ドアが開いた。
「全員、自分の席につけー。机の上は筆記用具と消しゴム以外全部仕舞え」
数学の担当教師が、厳めしい顔で厚みのあるテスト用紙の束を抱えて入ってきた。
瞬間、教室内の温度がキュッと二度ほど下がったかのような緊張感が走る。
結衣は心臓をドキンと跳ね上げさせながら、大急ぎでノートと参考書をカバンに押し込んだ。
「じゃあ、前から順に配るぞ。配り終わるまで開くなよ」
カサカサと用紙が配られていく。
結衣の手元に届いたテスト用紙は、裏返された状態でも異様な威圧感を放っていた。
(神様、仏様、悠君様……どうか知っている問題が出ますように……!)
結衣が胸の前で手を合わせて祈りを捧げている横で、悠希は鉛筆を一本だけ小さな手で握り締め、いつでも寝落ちできる体勢でポワポワと待機していた。
「――よし、始め!」
合図とともに、教室中に一斉に用紙をめくるバサッという音が響き渡った。
◇
テスト開始から、わずか数十秒。
結衣の頭の中は、早くも真っ白に染まり上がっていた。
(あ……あ……あ……っ!? 何これ!? 1問目から見たことない形の式があるんだけどーーっ!?)
問題用紙の【問1】。
昨日、悠希と一緒にノートでおさらいしたはずの基本問題なのだが、問題文の数字と記号が少し入れ替わっているだけで、結衣の脳内では「未知の宇宙言語」に変換されていた。
(ええっと、まずはこのカッコを外して……いや、先に二乗するんだっけ!? どっち!? どっちから手をつけるのが正解なの~~っ!?)
カリカリ、カリカリと、周囲の生徒たちがスムーズにシャーペンを滑らせる音が聞こえてくる。その音が、結衣の焦りをさらに加速させた。
滝のような冷や汗が額を伝い落ちる。
(ヤバい、ヤバいよ! 【問1】で躓いてたら、後半の【問4】とか【問5】の応用問題なんて、全滅確定じゃない! どうしよう、赤点取ったら補習で夏休みが潰れちゃう――!)
大パニックに陥り、カリカリと音を立てて消しゴムで書いては消し、書いては消しを繰り返す結衣。
そんな絶望の淵に立たされた結衣のすぐ隣で――異次元の現象が起きていた。
サラサラサラ……。
隣の席から聞こえてくるのは、あまりにも軽やかで、迷いのない鉛筆の音。
悠希である。
悠希は猫背のまま、トロンとした瞳で問題用紙を見つめると、一切の躊躇もなく鉛筆を滑らせていた。
計算用紙に途中式を書くことすらほとんどない。
問題文をひと目見た瞬間に、脳内で計算が完了しているのだ。
【問1】の計算問題を瞬殺し、【問2】の因数分解を3秒で片付け、【問3】の関数グラフの読み取りをサラッと書き上げる。
サラサラサラ……。
裏面にひっくり返し、クラスの半分以上が頭を抱えるであろう最難関の【問4】――複雑な条件が絡み合う応用の証明問題。
悠希は小さく「……ふぁ」とあくびを噛み殺しながら、綺麗な文字で模範解答そのままの証明プロセスをスラスラと書き連ねていった。
そして――テスト開始から、わずか5分。
カチャン。
静かな教室に、小さな音が響いた。
悠希が、鉛筆を机の上にそっと置いた音だ。
悠希は問題用紙の裏表、すべての解答欄を完璧な文字で埋め尽くすと、満足そうに「ふぅ……」と小さく息を吐いた。
そして、問題用紙を綺麗に二つ折りにすると、机の上に両腕を重ね、その上にぽてんと自分の頭を乗せたのである。
そう、テスト開始からわずか5分で、悠希の『数学テスト』は終了したのだ。
周囲の生徒たちが「うぐぐ……」「時間が足りない……」と頭を抱えて冷や汗を流している中で、悠希ひとりだけが、陽だまりの中ですやすやと深い眠り(省エネモード)につこうとしていた。
(……はええっ!? もう解き終わったの!? 5分だよ!? まだ5分しか経ってないんだよーーっ!?)
チラリと隣を見た結衣は、心の中で目玉が飛び出るほど驚愕した。
自分の解答欄は、いまだに【問1】の半分も埋まっていない。
それなのに、隣の幼馴染は全問解き明かしてスヤスヤと眠ろうとしているのだ。
(ずるい! 天才すぎる! 運動神経は赤ちゃんなのに、なんで数学だけ異常にできるの~~っ!?)
焦りと羨ましさと絶望が混ざり合い、結衣の心は完全に行き詰まった。
【問2】に進んだものの、途中で符号をプラスにするのかマイナスにするのか分からなくなり、ペンがぴたりと止まる。
(うぅ……ダメだ……。全然思い出せない……。悠君助けて……助けてよぉぉ……!)
半泣きになった結衣は、藁にもすがる思いで、自分の全神経を隣の悠希へと向けた。
そして、試験中の静まり返った教室で、渾身の悲鳴(サイレント通信)を悠希の脳内へ向けて叩き込んだ!
『悠君ーーっ!! 助けてぇぇ! 【問4】どころか、【問2】で完全に詰まっちゃったよ~~っ!!』
絶叫が、すやすやと眠りにかけていた悠希の脳内に、容赦なく響き渡った。
ピクッ。
机に突っ伏していた悠希のアホ毛が、可愛らしく跳ね上がった。
『……ふにゃ……? ゆ~ちゃん……? うるさいよぉ……。いま……いいところだったのに……』
トロンとしたまどろみの中から、悠希のぽやぽやとした念話が返ってくる。脳内で子猫が大きなあくびをしながらぐにゃりと背中を伸ばしているかのような、どこまでも緊張感のない気配だ。
『うるさいとか言ってる場合じゃないの! ピンチなの! 【問2】で完全に迷子になったの! 助けてぇぇ!』
結衣の必死すぎる魂の叫び。
悠希は机に顔を埋めたまま、トロンとした瞳を薄く開けると、チラリと横目で結衣の様子を伺った。
結衣は答案用紙の前でカチコチに固まり、涙目になりながら消しゴムを握り締めている。その頭の中からは「赤点」「居残り補習」「夏休み消滅」という暗黒のワードが、巨大な渦となって溢れ出していた。
『……はぁ……。ゆ~ちゃんは……ほんとうに……手がかかるおバカさんだねぇ……』
ぽわんと呆れたような念話を送りつつも、悠希はどこか嬉しそうだった。
彼は突っ伏した姿勢を崩さないまま、ゆっくりと深く息を吐き出した。
『……いいよ……。ゆ~ちゃん……問題用紙の【問2】……頭の中で思い浮かべて……』
『えっ!? 思い浮かべるって……どうやって!?』
『……ゆ~ちゃんが見てる景色……ぼくの頭に……送るの……。いつも……お話ししてるみたいに……』
『う、うん! 送る! 送るよーっ!』
結衣は必死の思いで、問題用紙の【問2】を穴が空くほど見つめ、その映像を脳内で悠希に向けて「えいっ!」と送り届けた。
二人の間を結ぶ念話(サイレント通信)の回線を通じて、結衣の視界と思考の波が、悠希の意識へとリアルタイムで同期していく。
『……ん……見えた……。あー……そこ……符号がちがうよ……』
『えっ!? 符号!? プラスじゃないの!?』
『……カッコの前に……マイナスがついているでしょ……? カッコを外すときは……中のプラスとマイナスが……くるっと反対になるんだよ……。昨日……ノートに赤ペンで書いたでしょ……?』
『あっ……! そ、そうだったー! マイナスになるんだったー!』
悠希のトロンとした優しいガイドを受け、結衣の手が猛烈な勢いで動き出した。カリカリと音を立てて、間違えていた符号を書き直していく。
『すごーい! 解けた! 【問2】が解けたよ悠君っ!!』
『……ふふ……よかったね……。じゃあ……ぼく……こんどこそ……おやすみ……』
『待って待って待って! 待ってお願い死んじゃう! 【問4】! 【問4】が完全に暗号なの! これだけ、これだけ教えてから寝て~~っ!!』
結衣が脳内で悠希の体操服の裾を引っ張ってブンブンと揺さぶる。
悠希は「ふにゃ……」と困ったように眉を下げると、心底眠そうに小さな溜め息をついた。
『……も~……。ゆ~ちゃんは……甘えん坊さんだなぁ……』
(甘えん坊なのはどっちだよ!)と心の中でツッコミを入れつつも、結衣は「お願いだから~!」と必死に手を合わせた。
悠希はゆっくりと、結衣の思考の波の奥深くへと意識を潜らせていく。
それは、本来であればテスト中に許されない『遠隔カンニング』……ではなく、彼の圧倒的なスペックによる『超ハイスピード遠隔家庭教師』の開講であった。
『……【問4】はね……最初に……一番うしろの公式を使うんだよ……』
『一番うしろ!? ええっ、そこから手をつけるの!?』
『……そう……。その公式を使って……xとyを……ひっくり返すの……。ゆ~ちゃん……頭の中で……式を組み立ててみて……』
悠希の指示は、決して「答えそのもの」を直接伝えるわけではなかった。
結衣の思考をリアルタイムで読み取り、彼女がどこで迷い、どこで勘違いをしているかを正確に把握した上で、結衣自身が解法に辿り着けるギリギリのヒントと途中式を、直接脳内へと送り込んでいくのだ。
『あ……! ひっくり返したら……【問1】で使った公式と同じ形になった……!?』
『……正解……。あとは……そのまま計算するだけ……』
『解ける……! 解けるよ悠君! わたし、自力で【問4】が解けてるーーっ!』
外から見れば、二人とも完全に無言である。
結衣は頭を抱えて必死な顔でカリカリと鉛筆を動かしており、隣の悠希は机に突っ伏してスヤスヤと眠っているようにしか見えない。
しかし、その脳内においては——
『ゆ~ちゃん、そこケアレスミス! 3かける4は12だよ!』
『ひぇぇごめんなさい! 14って書いちゃってた!』
『……もう……しっかりして……。はい……最後は……その数字を……かっこに入れる……』
『できたぁぁ! 【問5】の最後の応用問題まで、全部解き明かしたよーーっ!』
超ハイスピードな解法講義と、脳内での大パニック&甘々イチャイチャが、凄まじい密度で繰り広げられていたのだった。
◇
「——そこまで! 筆記用具を置け! 答案用紙を後ろから前に集めろ!」
教師の厳格な声が教室に響き渡った。
「ふはぁぁ……っ!!」
結衣は背筋をピーンと伸ばし、肺の中の空気をすべて吐き出すようにして大きな息を吐いた。
解けた。奇跡が起きたのだ。
絶対に白紙で出す覚悟をしていた後半の難問たちが、すべて完璧な途中式とともに埋まっている。赤点回避どころか、奇跡の高得点すら狙えるレベルの出来栄えであった。
「奇跡だ……! わたし、数学のテストを全部埋められたよ……っ!」
結衣は感無量の面持ちで自分の手を見つめ、跳び上がらんばかりの歓喜に包まれた。
だが——その感動も束の間。
結衣はハッと息を呑み、隣の席へと視線を向けた。
「あ……悠君……!?」
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
悠希は机に突っ伏したまま、ピクリとも動かなくなっていたのである。
ブレザーの隙間から覗く細い肩が、力なくハァ……ハァ……と小さく上下している。まるで頭からシュウシュウと白い蒸気(煙)が噴き出しているかのような、圧倒的なオーバーヒート状態であった。
自分のテストをわずか5分で終わらせた後、結衣の極度にパニックを起こした脳と完全に同期し、超ハイスピードで思考を回転させて遠隔ガイドを行った反動——。
悠希はもともと基礎体力が極端に少ない。そこへテストで脳まで酷使したことで、身体も頭もすっかり限界を迎えていた。
『……ゆ……~……ちゃ……ん……』
脳内に届く念話も、今にも消え入りそうなほど途切れ途切れで、消えかかった電波のようだった。
『……ぼくの……脳みそ……溶けた……。もう……動かない……』
『悠君ーーっ!! 大丈夫!? しっかりしてーっ!!』
結衣は大慌てで自分の席を立つと、倒れ伏す悠希の肩を揺さぶった。
「ちょっと結衣、どうしたの急に?」
答案用紙を集め終わった莉子が、不思議そうな顔で寄ってきた。
「悠君が! 悠君がテストの全エネルギーを使い果たして倒れちゃったの!」
「いやいや、水瀬くんテスト開始5分でずっと寝てたじゃない。なんでテストで倒れるのよ」
「違うの! 見た目以上に頭を使ってたのーっ!」
結衣は叫びながらも、ぐったりと力なく崩れ落ちる悠希の華奢な体を、優しく抱きかかえ上げた。
「……ん……ゆ~ちゃん……あったかい……」
悠希は小さく鼻を鳴らすと、完全に意識を失いかけた状態で、結衣の制服の胸元へとコテンと頭を預けてきた。
(うぅ……悠君、わたしのためにこんなになるまで助けてくれたんだ……! ありがとね、悠君……!)
結衣の胸の中に、愛おしさと感謝の気持ちが溢れ出してくるのだった。
◇
放課後。
中間テスト初日の全日程を終えた生徒たちが、解放感に包まれながら次々と校門を出ていく。
その流れに混ざるようにして、結衣と悠希もゆっくりと学校を後にしていた。
「はぁ~~……終わったぁ~~……!」
校門を出たところで、結衣が大きく伸びをする。
「今日のテスト、ほんっとに疲れた~!」
『……うん……』
隣を歩く悠希から返ってきたのは、いつも以上に弱々しい念話だった。
「……悠君?」
ちらりと横を見る。
悠希は、指先まですっぽりと袖に隠した『萌え袖モード』のまま、ぽてぽてと歩いている。
その歩みは遅い。
ものすごく遅い。
今にも電池が切れそうな小動物のようだ。
「大丈夫?」
『……だいじょうぶ……』
「ほんとに?」
『……だいじょうぶ……。たぶん……』
「たぶん!?」
結衣が思わず吹き出す。
すると悠希は、しばらく無言で歩いたあと、突然ぴたりと足を止めた。
「……?」
結衣も立ち止まる。
悠希は俯いたまま、もぞもぞと袖の中から手を出すと――
ぎゅっ。
結衣の制服の袖を、小さな手で掴んだ。
「……ゆ~ちゃん……」
「うん?」
『……ごほうび……』
甘く、とろんとした念話が、結衣の頭の中へ直接届く。
「……ふふっ」
結衣はその意味をすぐに理解した。
「今日はいっぱい頑張ったもんね~」
『……うん……』
「数学も教えてくれたしね」
『……うん……』
「じゃあ、ちょっとだけ休憩しよっか」
そう言って結衣が近くのベンチを指差す。
二人で並んで腰を下ろすと、悠希は待っていましたとばかりに、結衣の肩へぽてんと頭を預けた。
「わっ……」
『……ゆ~ちゃん……』
「なぁに?」
『……あたま……撫でて……』
「はいはい」
結衣は笑いながら、悠希の頭にそっと手を乗せる。
サラサラとした柔らかな黒髪を、指先で優しく撫でていく。
「よしよし。悠君、ほんっとにえらかったぞ~! すごかったぞ~!」
「……んふ……」
悠希の口元が、ふにゃりと緩む。
『……きもちいい……』
「ふふっ、よかったね~」
『……今日……ぼくの頭……すっごく……がんばったから……』
「うんうん。いっぱい頑張ったね」
『……だから……もうちょっと……』
「はいはい。もうちょっとだけね」
結衣は笑いながら、今度は少しだけ力を込めて、ワシワシと頭を撫でる。
「よ~しよしよし!」
「……んふふ……」
すっかり力の抜けた悠希は、結衣の肩に身体を預けたまま、幸せそうに目を閉じていた。
しばらくそうしていると、悠希がぽわぽわとした念話を送ってくる。
『……ゆ~ちゃん……』
『なに?』
『……次のテストも……ぼくが全部おしえてあげるからね……?』
『えっ!? 本当!? 助かるけど……悠君の脳みそ、また溶けちゃわない……?』
『……溶けてもいいよ……』
『えっ』
『……ゆ~ちゃんが……こうして……撫でなでしてくれるなら……』
『……』
『……ぼく……何度でも脳みそ溶かす……』
『~~っ!?』
あまりにもストレートな甘え方に、結衣の顔が一瞬で真っ赤になる。
(な、なにそのぽわぽわした甘いセリフ!? 可愛すぎるでしょーっ!)
結衣はドキンと跳ね上がった心臓を誤魔化すように、悠希の髪をさらにワシワシと撫で回した。
「も、もう~! 悠君は本当に甘えん坊さんなんだからっ!」
「……んふふ……」
「でも、脳みそは溶かしちゃダメでしょ!」
『……じゃあ……ほどほどにする……』
「そこじゃないよ~!」
結衣が笑う。
その笑い声につられるように、悠希も小さく笑った。
「……んふふ……ゆ~ちゃん……大好き……」
「はいはい、わたしも大好きだよ~」
やがて、少しだけ休んだ二人は、再び帰り道を歩き始めた。
夕暮れの街を並んで歩きながら、悠希は相変わらず結衣の袖を小さな手でぎゅっと握っている。
その手を振りほどくことなく、結衣もまた、隣を歩く幼馴染の歩幅に合わせてゆっくりと歩いていく。
テストで疲れた一日の帰り道。
二人の間には、いつものように――温かくて、穏やかな時間が流れていた。