「怖いかポッター?」 「ああ、怖いさ!」 作:ハリーはそんなこと言わない
「見つかって減点されたら、二人で寮中のみんなに説明してくれるんでしょうね」
「戻れないんだから、しょうがないだろ」
ロンが小声で言い返した。
その晩、夜の十一時半にハリーたちは四人で暗い城の廊下を歩いていた。トロフィー室でドラコを相手に決闘するハリーと、介添人のロン。そこへ、夜中の抜け出しを止めようと出てきたものの
月明かりが細長く差し込む廊下を、靴音を立てないように進む。冷たい石壁に張り付き、鎧の横を通り過ぎ、動く階段を息を殺して渡った。
だが、四階へ続く通路の曲がり角を、曲がりきったまさにその瞬間だった。
カチリ、とカンテラの金具が鳴り、黄色い光がハリーたちを照らし出した。
「誰だ、そこにいるのは!」
フィルチだった。わずか二メートルも離れていない正面に、醜い顔を歪めた管理人のフィルチが、カンテラを掲げて立っていたのだ。足元では、骨と皮ばかりの猫、ミセス・ノリスが金色の目をギラギラと光らせて唸っている。
「待ちくたびれたぞ……! 捕まえてやる!」
「うわっ!」
「逃げろ!!」
ほとんど正面衝突しかけた四人は、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
息を潜めてやり過ごす余裕など微塵もなかった。カンテラの光から逃れるため、闇雲に暗がりへ駆け出す。
悲鳴を上げて走り出したネビルがつまずき、ロンとハーマイオニーがそれを引っ張りながら別の通路へ転がり込むのが視界の端に見えた。
ハリーも無我夢中で足を回転させ、暗い廊下をがむしゃらに走った。角を二つ曲がり、タペストリーをくぐり抜け、階段を駆け上がったところで、ハリーは立ち止まって荒い息を吐いた。
「はぁ、はぁ……ま、撒いたか……?」
ハリーが振り返った。だが、そこには誰もいなかった。暗い廊下に立っているのは、ハリー一人きりだった。
「ロン?……ハーマイオニー?」
小声で呼んでみたが、返事はなかった。パニックになって逃げる途中、ロンたちがネビルを助けた時にわかれてしまったのだ。
ハリーは一人きりで立ち尽くした。
夕食のあと、ロンはつきっきりで決闘の手順や呪文を教えてくれた。けれど、一人でマルフォイを相手にして、うまくやれるだろうか?
談話室へ戻ってしまおうか。今ならまだ引き返せるかもしれない。
だが、ここで引き返したら、マルフォイは何と言うだろう。あいつは明日、大広間中の生徒の前で、得意げにからかうに違いない。「怖気づいて泣いちゃったんだろう?」と。そんなことだけは、死んでも御免だった。
「……一人で行ってやるさ」
ハリーはスニーカーの出す音に気をつけながら、トロフィー室がある階へ向かって暗闇を走り出した。
トロフィー室の扉は、マルフォイが言った通り鍵が開いていた。ハリーが滑り込むように部屋に入ると、クリスタルの展示ケースに月光が反射し、銀色の光が部屋を満たしていた。
歴代の生徒たちが勝ち取ったカップ、盾、記念メダルが、ずらりと並んで冷たく輝いている。
その部屋の中央に、腕を組んで待ち構えるドラコ・マルフォイの姿があった。
「遅いじゃないか、ポッター」
ドラコは薄笑いを浮かべ、入ってきたハリーを頭から爪先まで値踏みするように見下ろした。
「それに……一人かい? 赤毛のみすぼらしい介添人は、怖気づいてベッドの下にでも潜り込んだのかい?」
「お前こそ一人じゃないか」
ハリーは息を整えながら、すかさず言い返した。
「あのデカブツはどうしたんだよ」
「……あいつが間抜けにも鎧にぶつかって音を立てたから、置いてきたのさ」
ドラコは忌々しそうに吐き捨てた。
「捕まるくらいなら僕一人で十分だ。それに……ふん、お前たち二人まとめてぶちのめせなくて、残念なくらいだよ」
「大きく出たな」
ハリーは杖を構えた。
「昼間みたいに泣き言を言うなよ!」
「黙れ!」
次の瞬間、ドラコはローブの袖からすっと杖を抜き、滑らかな所作でハリーへと突きつけた。杖の扱いに慣れているのが、ハリーの目にも見て取れた。
「思い知らせてやるよ、ポッター! ロコモーター・モルティス!」
杖先から、紫色の光線がハリーめがけて放たれた。
ハリーは反射的に横へ跳んだ。天性の反射神経が、頭で考えるより早く体を動かしていたのだ。
バシッと鈍い音がして、ハリーのすぐ背後にあった木製の展示台の脚がガタガタと激しく軋んだ。何の呪文かは知る由もなかったが、直撃を食らえばタダでは済まないことだけは直感できた。
床に手をついて身を起こしたハリーは、必死に杖を構え直した。ロンに教わった呪文を思い出し、杖を突き出して唱えてみたが、杖先からは火花一つ出なかった。
ハリーが杖を握りしめたまま身構えることしかできないのを見て、ドラコは気を良くしたようだった。その顔からはさっきの怒気が引き、勝ち気な笑みが戻っている。
「どうしたんだい、ポッター? 逃げ回るだけかい? 撃ち返してみろよ」
ドラコは杖先をハリーに向けたまま、小さく鼻を鳴らした。
「……うるさい!」
「まさか本当に呪文を一つも使えないのかい? ほら、僕を黙らせたいんだろ!」
ドラコはせせら笑いながら、杖を慎重に構えた。深く息を吸い込んで狙いを定める。その数瞬後――
「ロコモーター・モルティス!」
再び紫光が放たれた。相手が息を吸って構える動作を見ていたハリーは、光が走る瞬間に合わせて低く横へと跳んだ。狙いをつける予備動作がわかった分、一発目よりもずっと余裕を持って避けることができた。
床を蹴って体勢を立て直しながら、ハリーはドラコに言い返した。
「自慢の魔法も当たらなきゃ意味がないな!」
ドラコは忌々しそうに舌打ちした。もう一度杖を突き出したが、やはり先ほどと同じように動きを止めて杖を構え直し、息を吸い込んで集中しようとする。きっと、呪文を放つ前にはどうしてもあの一呼吸の間が必要なのだ。あいつは、落ち着いて構える隙を与えなければ呪文を撃てない。
ロンがつきっきりで教えてくれた言葉が頭に蘇った。
『いいかハリー、一年生に、邪魔されて呪文を使えるやつなんていないさ! いざとなったら杖なんて捨てて、鼻っ柱をぶん殴れ!』
そうだ。魔法でまともに付き合ってやる義理なんてない。相手に撃たせなければいいのだ。
「これでも食らえ!」
ハリーは近くの棚にあった、埃をかぶった重厚な銀のカップをひっつかむと、ドラコめがけて力任せに投げつけた。
「うわっ!? な、何をするんだ、野蛮なマグル育ちめ!」
ドラコが悲鳴を上げて身をかがめた。頭上を銀のカップが通り過ぎ、背後のガラスケースに派手な音を立ててぶつかる。
呪文の集中を崩されたドラコが顔を上げたときには、ハリーはすでに駆け出していた。展示ケースを盾にしながらジグザグに距離を詰め、手近にあった古い記念の盾を次々に投げつける。
「卑怯だぞ、ポッター! これは決闘だぞ!」
「どの口が言うんだ! フィルチに告げ口したくせに!」
「なっ……!?」
「来る途中で待ち伏せされてたぞ! チクったくせに何が決闘だ!」
「策略も勝負のうちだ! 物を投げつけるお前の野蛮さと一緒にするな!」
口では言い返してくるドラコだったが、次々に飛んでくるカップや盾への対処に手一杯なようだった。身をかがめて避けるのに追われ、落ち着いて呪文を唱える間など作れそうにない。
ハリーはその隙を見逃さず、一気にドラコの懐へと飛び込んだ。拳を握りしめ、あいつの生意気な鼻っ柱をぶん殴れる間合いまで詰め寄る。
そのときだった。
「どこだ! 奴らはどこで音を立てた、ノリス!」
部屋の外の廊下から、フィルチのしわがれた怒声が響き渡った。
「誰かがトロフィー室に入り込んだぞ……生皮剥いでやる……!」
互いの鼻先十数センチの距離で、ハリーは拳を振り上げ、ドラコは杖を突き出したまま、二人はピタリと動きを止めた。
「……フィルチだ」
ドラコが蚊の鳴くような声で呟いた。その顔は、すっかり紙のように真っ白になっていた。
部屋の正面の扉の向こうから、重い足音がずんずんと近づいてきていた。ハリーが入ってきたほうの扉だ。あそこからはもう逃げられない。
ドラコは弾かれたように身を翻すと、背後の扉めがけて走り出した。
「くそ、待て!」
ハリーもすぐその背中を追った。逃げ道はあそこしかないし、何よりこの位置関係では一番後ろを走るハリーが真っ先にフィルチに捕まるのだ。分かれて逃げたところで、フィルチの目に真っ先に飛び込んでくるのは自分の方だった。
ハリーは必死に床を蹴った。スリザリンのあいつの後ろに張り付いて出口を見つけるか、隙を見て追い抜くか……いざとなったらドラコの足を引っ掛けて転ばせ、フィルチへの時間稼ぎにしてやるとすら考えていた。
「ついてくるな、ポッター!」
「うるさい、誰がお前の言うことなんか聞くか!」
二人は暗い裏廊下へと転がり出た。
息をつく暇さえなかった。薄暗い十字路へ差し掛かったとき、前方の壁からフワリと半透明の人影が抜け出てきたのだ。ここで騒がれたら、先生まで出てくるかもしれなかった。
「くそっ!」
ドラコが罵声を押し殺して右の通路へ折れた。ハリーも舌打ちしながら続く。前を走る背中を見失うまいと角をいくつか曲がるうちに、道順が分からなくなってしまった。
辿り着いた先は、埃っぽくて人気のない、ひどく冷え切った見知らぬ廊下だった。松明の火も灯っておらず、不気味な静寂が漂っている。
「……ここ、どこだよ」
ハリーが荒い息を吐きながら睨みつけると、ドラコは乱れた髪を払いながら、苛立たしげに睨み返してきた。
「僕が知るわけないだろ! お前がトロフィーを投げ飛ばしてフィルチを呼んだせいだ!」
「お前が変な呪文を撃ってきたからだろ!」
小声で言い争いながら暗い廊下を進むと、突き当たりには大きな樫の木の扉があった。ハリーが取っ手を掴んで押したが、ビクともしない。
「鍵がかかってる……!」
そのとき、走ってきた廊下の曲がり角の向こうから、ペタペタと近づく足音と、猫の鋭い鳴き声が響いた。フィルチが同じ通路を後ろから追ってきているのだ。
「もうおしまいだ!」
「どきなよ、ポッター」
ハリーが絶望しかけたそのとき、横からドラコがハリーを押しのけて前に出た。ドラコは震える手で杖を握り直すと、鍵穴へピタリと先端を突きつけた。
「……アロホモラ!」
カチリ、と小さな金属音が響いた。鍵が外れたのだ。ハリーは思わず目を見張った。
「開いた! 早く入れ!」
ドラコが扉を押し開け、二人は滑り込むように部屋の奥へと飛び込んだ。
ハリーは素早く扉を閉め、背中でピッタリと押さえつけた。
扉のすぐ外の廊下からは、フィルチの近づく足音と猫の唸り声が聞こえていた。まだ近くを探し回っているのだ。息を殺してやり過ごそうとした、まさにそのときだった。
「ひ、ひぃ――」
ふと横を見ると、ドラコが歯の根を鳴らし、真っ青な顔で息を吸い込んでいた。その目を恐怖に見開き、今にも腹の底から絶叫を上げようと大きく口を開けている。
扉のすぐ外にフィルチがいるんだぞ、このバカ!!
ハリーは考えるより早く腕を伸ばすと、ドラコの開いた口を力任せに掌で塞ぎ止めた。
「――んぐっ!?」
悲鳴がドラコの喉の奥へ押し戻された。ドラコは目を丸くし、パニックになりながらもハリーの手首を両手で引き剥がそうともがいた。その拍子に、バサリとドラコの白金色の長い髪がハリーの顔にかかり、視界を塞ぐ。
ハリーは空いた手で邪魔な髪を払いのけた。一体あいつは何にそんな怯えているんだ?
そのとき初めて、ハリーは部屋の空気が異様な熱気と生臭い獣の臭いで満ちていることに気づいた。ドラコの視線を追って、部屋の奥へ目を向ける。そして、全身の血が凍りついた。
そこには、天井に届くほどの巨大な影があった。
ハリーが部屋だと思っていたその場所は、部屋ではなかった。迷い込んだのは、禁じられた廊下だった。なぜ禁じられているかも、今となっては一目で分かった。
三つの獰猛な犬の頭が、血走った六つの狂暴な目を爛々と光らせ、ハリーとドラコを見下ろしていたのだ。牙の間から、涎がダラリと床へ垂れ下がっていた。
二人は指一本動かせず、完全に硬直した。
グルルルルル……と、地響きのような唸り声が三つの喉から響き渡る。襲いかかってくるまで、もはや一刻の猶予もなかった。
外にフィルチがいようが知ったことか。怪物に食い殺されるくらいなら、フィルチに捕まる方がマシだ!
ハリーは背後を手で探ると、扉の取っ手を力いっぱい引き開けた。ドラコを引きずるようにして後ろへ飛び退き、二人はもつれ合いながら扉の外の廊下へ転がり出た。
「閉めろ!!」
ハリーが叫び、二人がかりで扉を力任せに叩きつけた。幸いなことに、廊下にフィルチの姿はもうなかった。別の通路を探しに行ったのだろう。扉の向こうから響く三つの唸り声を背に、二人は脇目も振らずに全力疾走した。
息が千切れそうになるまで走り続け、ようやく見覚えのある中央階段の広い踊り場へ辿り着いたとき、二人は床にへたり込みそうになりながら立ち止まった。肩を激しく上下させ、冷や汗にまみれて息を吸い込む。
そのとき、足をもつれさせたドラコが、倒れ込みそうになって咄嗟にハリーのローブの袖を掴んだ。ハリーがそちらを見たときには、ドラコ自身も自分が誰にしがみついたかに気づいたようだった。その顔が、屈辱で一気に紅潮した。
「……触るな!」
ドラコは汚いものでも掴んだかのように手を離し、ハリーから飛び退いた。
「そっちが掴んできたんだろ!」
ハリーも苛立たしげに袖を払った。
「だいたい、大声を出そうとするなよ! 口を塞いでやらなきゃ一発で捕まってたぞ!」
「だ、誰が口を塞げと言った! 無礼者め!」
「なんなんだよ、あの化け物は! 学校に置いていいやつじゃないだろ!」
「僕が知るわけないだろ! お前があんな部屋に逃げ込ませたからだ!」
「お前が鍵を開けたんだろうが!」
「開けなきゃフィルチに捕まってただろ!」
二人は荒い息を吐きながら、至近距離で鋭く睨み合った。命の危険が去った途端、さっきまでの激しい敵意が再び燃え上がっていた。
「だいたい、決闘だって僕が勝つところだったんだ! お前がマグルの野蛮人みたいに物を投げつけたりしなければ!」
「嘘つけ! あと一歩でその鼻っ柱をぶん殴ってやるところだった!」
「何だと!」
ドラコが言い返そうとした、まさにそのときだった。
カツン。
踊り場へと続く横の廊下から、石床を踏む硬い靴音が響いた。
二人は同時にビクッと肩を跳ね上げ、ピタリと言葉を飲み込んだ。二人して息を殺し、思わず顔を見合わせる。相手が心底怯えているのが分かったが、自分の心臓も耳元で早鐘を打っているせいで、それをあげつらうことはできなかった。
「……覚えてろよ、ポッター!」
ドラコは震える声を押し殺し、忌々しそうに吐き捨てた。
「そっちこそ!」
ハリーも負けじと小声で言い返した。
ドラコは背を向けると、地下牢へ続く下り階段へ向かって、影のように音もなく駆け下りていった。
ハリーも反対側の手すりを掴み、グリフィンドール塔へ続く上り階段を、一段飛ばしで駆け上がっていった。