1.カフェ
カラン、カラン──
軽快な音を立て、アンティーク調の重い木製扉が開く。
店内から看板を取り出した江澄は、今日のランチメニューをマジックで書いていた。
──人生なんて、いつでもやり直しがきく。
お節介な伯母はいつも口癖のようにそう言う。
しかし生きてきた三十年間、手放したものが戻って来ることはほとんどなかった。
新しい出会いを求め、結婚相談所に登録しても思うような相手は見つからない。
姉の遺児、金凌の為にもパートナーを見つけ、平凡な家庭を築きたいと思ったのだが、今回の見合いも失敗に終わるだろう。
なのにそれを全然惜しいとも思っていない自分がいる。
晴れた空は江澄の心など気にも留めず、綺麗に澄みわたっていた。
「今日のランチメニューはポークソテーですか?」
惰性でぼんやりとメニューを書き足していると、そう声をかけられた。
「いらっしゃいませ!」
条件反射で営業スマイルを浮かべた江澄だったが、男を見た途端、ぴたりと笑顔が凍りついた。
春風のように柔らかな笑みを浮かべた洗練された男が立っていた。
あまりにも整った容姿に、硬直してしまった江澄を見て、男がクスリと笑う。
首を傾げた拍子に襟足の後れ毛がふわりと揺れた。
「美味しそうですね。ただ…、失礼ながら店主、料理名が重複していますよ」
彼の指摘でようやく江澄は自分の失態に気が付いた。
見覚えのありすぎる字で、「ポークジンジャー生姜焼き」と書かれている。
実に馬鹿馬鹿しい間違いだ。
「開店しているのならお手数ですが、ランチを一人前お願いできますか?」
男はにっこり笑いかけると、江澄にそう告げた。
「
男はカウンターに回る江澄にそう話しかけながら奥のテーブルへと腰掛ける。
スマートな身のこなしに、丁寧に磨かれた靴。
仕立ての良さそうな、糊のきいた白いシャツ。
整った顔立ちなのに嫌みがまったくなかった。
きっとこんな人の人生は順風満帆で進むのだろう。
自分の境遇に、うだうだと思い悩んでいたせいか、江澄は営業スマイルを浮かべる気にもなれず、挨拶もそこそこにキッチンへ引き下がった。
「実は最近赴任してきたばかりなんです」
言われてみれば常連の大学生を先月送り出したばかりだった。
江澄が経営するカフェは大学の近くで、常連客には学生や教授、そして付属の病院に勤めるスタッフが多い。
三月に卒業生を見送り、四月に新しい学生と出会う。
その繰り返しだ。
しかしよくある地方都市に過ぎないこの街に、彼のような都会的な男がふらりと立ち寄るのはどこか奇妙だった。
新しく赴任してきた大学教授の一人か、それとも病院のスタッフか。
どちらにしても常連客になってくれる可能性があるのなら、愛想を良くしても損はない。
江澄の現実主義的な、たくましい商魂が顔を出す。
「大学の先生ですか?」
「ええ。法医学を教えている藍曦臣と申します。よろしくお願いしますね」
「……」
法医学の教授とは──。
テレビドラマなどでよく聞く言葉だが、本業は建築技師の江澄には縁のない職種だった。
男が頼んだポークジンジャーを皿に盛り付け、配膳する途中、ふと思いついた江澄はピスタチオのムースも添えてテーブルまで運んだ。
生姜の香りが程よくきいた、湯気の立つメインの豚肉。
その横にコツンと置かれた小さな器を見て、藍曦臣が「え?」と声をあげる。
「デザートは注文していませんが……」
「赴任祝いです。お口に合えば、またの来店をお待ちしています」
にっこり営業スマイルで挨拶をすると、彼はおまけのムースの他に、
「この桜のクリームチーズジュレもお願いします」
と追加の注文をしてくれた。
「店は一人で切り盛りを?」
「ええ。元々は姉の店だったのですが、事故で亡くなったので。姉の店を潰したくなかったので、姉が遺したレシピを参考に、見よう見まねでやってます」
「なるほど。ご苦労なさったのですね」
「いえ。余計な話をしてすみませんでした」
店内が賑わってきた為、男は会計を済ませ、「ごちそうさま」と挨拶をして帰って行く。
去り際まで惚れ惚れする佇まいだった。
江澄はその背中を見送り、自分の惨めさを振り返るように、複雑な気分で溜息を吐き出した。
本来なら今頃は父の会社を継ぎ、共に育った義兄と力を合わせ、会社を盛り立てて行くはずだった。
しかし今は、会社もなく、義兄は姿を晦ましている。
江澄のように生まれつき運のない男には、幸運などやってこないのだ。
「ただいまー!」
勢いよく金凌が扉を開けて入ってくる。
「仙子、ただいま! 寂しかったか?」
「ワン、ワン!」
大きな声で吠え立てる犬と甥の交流を聞きながら、江澄は途中まで進めていた建築パースの画面を保存し、パソコンをシャットダウンした。
父から受け継いだ会社が倒産した後、江澄はフリーランスの建築技師として働いている。
自宅兼店舗で仕事が出来るおかげで、カフェを切り盛りしながら、甥の面倒をみる一人三役が可能になった。
「
「おいおい、その前に、帰宅したら手を洗うっていう約束はどうした」
気持ちが塞いでいようとも、金凌の前で落ち込んだ姿は見せられない。
「宿題は?」
「んー、ない!」
「嘘つけ。逆さ吊りの刑だぞ」
慌ただしく手を洗い、濡れた手でキッチンへやって来る金凌の為に、清潔なタオルを用意してやる。
残しておいたクリームチーズのジュレを冷蔵庫から出してやると、金凌は大喜びで席に着いた。
食べ物のにおいを嗅ぎつけた仙子がテーブルと江澄の身体の隙間から毛むくじゃらの鼻面を突き出す。
キッチンに広がる子供の明るく楽しげな笑い声が江澄の疲れた心にひとときの安らぎをくれた。
「舅舅、これ美味しいね!」
「お前のお母さんが考案したレシピノートにあったんだ。気に入ったのなら店の固定メニューにするぞ」
「うーん、俺はこの間のイチゴの方が好きだな」
「お子様め」
ピンと指で額を弾く江澄のお仕置きを大袈裟に痛がりながら、金凌は気を取り直して、彼の大好きな「舅舅特製」のデザートを美味しそうに頬張った。
「仙子、お前は食べられないんだってば」
仙子の為に犬用のおやつを開けてやると凄まじいスピードで駆け寄って来る。
「アハハ!」
本当に。
人生はどうしてやり直しがきかないのだろう。
金凌の誕生を心待ちにしていた金子軒の姿が今の金凌に重なる。
日に日に父親似になっていく金凌の髪を江澄はそっと撫でた。
「阿凌、俺は仕事があるから」
江澄が立ち上がろうとすると、何かを思い出したかのように金凌は「あっ」と声を上げる。
「舅舅、今日さ、変なおじさんが話しかけて来た」
「なんだと? それで何を聞かれた」
「うーん。今日は学校で何を習ったんだとか、好きなテレビ番組とか」
「……」
子供を狙う変質者か。
それとも金凌を渡せと言い続けている父方の親戚か───
学校に一応連絡するべきかと江澄は考えたが、金凌の親戚だった場合、事を荒立てたくない。
「金凌、前に渡したブザーはちゃんと持ってるよな?」
「うん」
「そうか。ならいい。食ったらちゃんと宿題やれよ」
「あっ」
まだ何かあるのかと振り返る江澄に金凌が発した言葉は夕飯のリクエストだった。
「今日は焼きそば」
昨日も焼きそば。明日も焼きそば。
やれやれと思いながらも、江澄は金凌の額をコツンと叩く。
阿凌は孤独な江澄に遺された唯一の家族だった。
「宿題やれよ」と言う江澄の背に、渋々、「はぁい」と応える金凌の声が聞こえてきた。
自室へと戻った江澄は念のために金凌の親戚である金光瑶へ電話をしておいた。
「やあ。江澄」
相変わらず気取った喋り方をする男だ。
昼間出会った大学教授にも俗世離れした印象を受けたが、金光瑶の澄ました顔は金子軒を知る江澄からはまがい物臭くみえた。
「今日、金凌のもとに誰かよこしたのか?」
「何の話だい?」
「……」
どうやら金家とは関係ないらしい。
適当に濁して電話を切ろうとしたのだが、金光瑶に止められた。
「ちょうど良かった。今週末、金凌を連れて訪ねてこられないかい?」
「なんで、急に」
「義母があの子に会いたがってる」
「……行けたら、行く」
「うん。実を言うと父の容態が思わしくなくてね。金凌も祖父と最後の挨拶をしたいだろう。彼を連れてきてくれるよね、江澄」
「……金凌に聞いてから連絡する」
「そう」
自分から誘っておきながら、金光瑶は引き留める様子もなく電話を切った。
江家も散々だが、金家だって人のことは言えない。
やらねばならない仕事は山積みだが、疲れた江澄はベッドに寝そべり、気分転換に姉のレシピノートに目を通す。
前半のメインディッシュについては殆ど暗記した。
今はデザートの研究中だ。
和三盆を使った上品な甘味や今が旬のいちごを使ったプチケーキもある。
季節の果物を使ったミルフィーユのページで、ふと、あの大学教授の顔が浮かんだ。
ピスタチオのムースを口に運び、じっくりと味わう時の満足げな顔。
思い出して笑いそうになってしまった。
あの教授には、葡萄をあしらったミルフィーユなどはどうだろう。
江澄の思考はどんどん飛躍し、やがて疲れて眠ってしまったらしい。
「舅舅、舅舅、来て!」
切羽詰まった声で彼を呼ぶ金凌の声で跳ね起きた。
「金凌?!」
取るものも取りあえず江澄は階段を駆け降り、住宅兼店舗となっている一階部分へと向かう。
「舅舅!」
金凌の隣には見知らぬ男が立っていた。
「誰だ、お前! 金凌、知らない奴は中へ入れるなど───!」
「でも舅舅の名前を知ってたから!」
金凌の言い訳に、江澄は眉間の皺を深くして男を見る。
見覚えのない顔だ。
なのに、なぜだか妙な懐かしさを感じた。
華奢でも筋肉質でもない程よい肉付きと、そして江澄とほぼ変わらない身長。
男の右手首にあるほくろに視線が止まった時、江澄の心臓は跳ね上がり、思わず息を呑んだ。
───似ている。
江澄が誰よりも帰りを待ち、誰よりも首を絞めて殺してやりたいと憎む相手───。
「久しぶりだな、江澄」
「…………」
驚愕で声も出ない江澄の反応に男は鼻の頭を搔き、やれやれと小声で呟いた。
間違いない。
この男の声を江澄はよく知っている。
忘れるはずもなかった。
「舅舅?!」
床を蹴り、男へと飛びかかる江澄に、金凌の悲鳴が上がる。
男の胸ぐらを掴んだ江澄は、手加減のないストレートを顔面に思い切り叩き込んでいた。
相手の身体が吹っ飛び、室内の物がガタガタと音を立てて倒れる。
身体中の血液が沸騰しそうな勢いで駆け巡り、荒い息の中、江澄の耳には金凌の泣き声と、けたたましく吠える仙子の声が遠くに聞こえていた。
「今更……、何をしに帰って来た! 魏無羨!!」
江澄に壁へと突き飛ばされた魏無羨は無様に倒れる姿勢から蹌踉めいて立ち上がる。
そして切れた唇をそっと指で押さえた。
「相変わらず歓迎の仕方が乱暴なんだよお前は」
その頃。
市内の別の場所ではバイクに跨る男が、勤務先である警察署へと急いでいた。
バイクを停め、ヘルメットを拭うなり、先輩刑事の聶明玦に捕まり、そのまま中へと連れられる。
「遅いぞ、忘機。何分待たせる気だ」
別に藍忘機はどこにも寄り道はしていなかった。
早く着いてもこの男はいつも「遅い」と文句をいうのだ。
「緊急事態だそうですが、奴の居所が掴めたのですか?」
藍忘機の問いに聶明玦はこっちへ来いと無骨な指で手招きをした。
言うことを聞いても良かったのだが聶明玦の口臭の強さは毎日の付き合いでよくわかっている。
少し距離を取る藍忘機を、聶明玦は嫌がらせのようにわざと引き寄せた。
「お前が追っていたあの、魏無羨という男な。奴が立ち寄った整形外科医の居場所が分かった」
彼はきっと昼にまたとんこつラーメンと餃子のセットを頼んだのだろう。
にんにく臭に辟易するが、「魏無羨」の名を聞き、藍忘機は表情を変えた。
「教えてください」
先を促す後輩に聶明玦はベテラン刑事の余裕で肩を叩く。
「お前の兄貴も呼んでる。まあ、来い」
「兄も──?」
「そりゃそうだ。曦臣ほど死体に詳しい男はいないからな」
「……」
つまり、魏無羨の整形手術で執刀医となった外科医は見つかったものの、情報は得られず、死体しか手に入れられなかったというわけだ。
しかし時に死体は生者より秘密を雄弁に語る。
藍忘機は端正な顔に苦悩を浮かべたが、すぐに生真面目な警察官の顔に立ち返り、聶明玦と共に地下にある死体安置所を目指した。
[newpage]
2.静かな違和感
安置所に向かう道すがら、聶明玦が見つかった遺体の身元と状況について説明してくれた。
「名は温情。年齢三十二。職業は外科医だ。二年前に職場の同僚から行方不明届が出ている。親族は弟がいたが、あの爆破事件で死亡。これで合ってるか?」
「はい」
藍忘機は短く答えた。
どうやら彼は藍忘機に説明する体で、自分の記憶の正しさを確かめているらしい。
あの爆破事件は被害者も関係者も多い。
情報の照合に慎重になるのは当然のことだった。
エレベーターに乗り込み、藍忘機はここに来るまでに疑問に思っていたことを口にした。
「何故、鑑識課を通さずに兄を?」
「そりゃお前……」
と聶明玦は言葉を濁した。
その反応だけで藍忘機もおおよその事情を察した。
警察内部にも面子や上からの圧力はある。
その点、藍曦臣は民間人だ。
法医学専門家として実績もありつつ、内部事情とは無縁の存在だった。
「遺体は炭化がひどくてな。写真じゃ別嬪さんだったのに、遺体となった今じゃ性別すら不明だ。埠頭に乗り捨てられた車から発見され、その車両ナンバーから温情の所有物だと判明した」
そこで聶明玦は一旦、ガムを口に放る。
ヘビースモーカーの彼としては禁煙推奨の今のご時世はやりづらいだろう。
ミントの香りを漂わせながらガムをくちゃくちゃ噛み、聶明玦は「お前も俺と同じ考えだろうが」と続ける。
「これまでの経緯を一から調べ直すと、どうも釈然とせん。いや、違うな。あまりにも理路整然と状況証拠だけが揃っている。しかし肝心の魏無羨がその場にいた痕跡が見当たらない。温情は何故、弟を奴に殺されながら、外科手術を非合法に行ってまで魏無羨逃亡の手助けをした?
「兄は手がかりを掴めるでしょうか」
「うーん。それなんだがな。曦臣の奴、本部から正式な委嘱状がない限り、協力は出来ないと堅苦しいことを言ってやがる。俺は死因の精査は後でもいい、まず身元だけでも絞れないかと言ってるのに」
なんとも兄らしいと藍忘機は思った。
そしてやはり魏無羨の事件に関して、聶明玦も同じ疑念を抱いていることを知り、確信を抱いた。
遺体安置所に到着すると、藍曦臣が出来る範囲で遺体の状態を確認していた。
聶明玦の説明通り、目の前の遺体は完全に炭と化している。
かろうじて原型を留めていることで、人だと判別出来る程度だった。
「どうだ、温情なのか」
とせっかちな聶明玦が藍曦臣に詰め寄る。
銀のフレーム眼鏡を少しずらした藍忘機の兄は、聶明玦を見つめはしたが、すぐに遺体へと視線を戻した。
「忘機、温情という女性の情報をくれ」
兄に促され、藍忘機は知る限りの情報を手帳を見ずに説明する。
あくまで身元確認に必要と思われる情報を抜き出して伝えた。
「生年月日は◯◯年八月十二日。身長は168センチ、痩せ型。失踪するまでは、金鱗総合病院の移植外科医として勤務していました。勤務状態は良好で、同僚とのトラブルもありません。ただ人付き合いは少なかったようです。弟の温寧が社交不安障害を患っていたため、私生活でも弟の面倒をみる時間が多かったのではと同僚が話していました」
「弟の温寧についての情報も」
重ねて問う兄の要求にも藍忘機はすらすらと答え、藍曦臣は目の前の遺体が温情である可能性は認めつつも、断定は避けた。
「生前の写真と忘機から聞いた身体的特徴を踏まえても、現時点で遺体の所見に大きな矛盾はない。明玦兄上たちが探している女性である可能性は高いが、外表所見だけで炭化した遺体の身元特定を行うのは危険だ。歯科記録やDNAなど別の資料でも裏を取る必要がある」
「そうか。夜分に悪かったな、曦臣。後ほど正式に委嘱状が出る筈だ。何か分かったら連絡してくれ」
聶明玦を残し、藍忘機は藍曦臣を送るため、共にエレベーターへと向かう。
ガクンと一度揺れ、上昇するエレベーターの中、藍曦臣が弟を気遣うような目を向けた。
「お前が追っている魏無羨という青年の消息は掴めたのか?」
藍忘機は首を振り、「いいえ」と抑揚なく伝える。
彼があの爆破事件の担当になってはや二年が経とうとしていた。
藍忘機自身は魏無羨との面識はない。
ただ事件に残された一連の物証や、幾つかの取り調べ動画を通して知っているだけだった。
普段は寡黙な藍忘機だが、兄の藍曦臣は別だ。
相談事がある時はいつもそうするようにじっと兄を見つめる弟に、それだけで察した藍曦臣は「話しなさい」と先を促す。
「魏無羨の取り調べ動画を見て感じた私の勝手な解釈です」
まずそれを念頭に、藍忘機は搔い摘まんで自身が感じたこと、疑念を抱いた点について説明する。
兄に説明しながら頭の中で整理する。
いつもの弟の姿に藍曦臣は微笑んだ。
「お前が疑問を抱いた点とはなんだ」
頷いて藍忘機は兄の問いに答える。
「はい。最初の動画は、被害者遺族として義姉の葬儀に参列している魏無羨です。彼は江家の養子でしたが、関係は良好だったようで被害者遺族の弟として義姉の死を悼む姿は演技とは感じられませんでした。それは取り調べの際も同様で、容疑を否認する際は激情に駆られ、声を張り上げる様子も動画に収められていましたが、被害者遺族である義姉の話になると嗚咽を飲み、悲嘆に暮れる様子がはっきり分かりました」
「なるほど。しかし彼が計画していたことに、義姉の死は含まれていなかったとも考えられないか?」
「ええ」
だからこそ藍忘機は迷っていた。
魏無羨と義兄に当たる金子軒の関係は悪かった。
それについては証言が幾つも上がり、義弟の江澄も認めている。
ただそれだけでレジャー施設一つを丸々爆破する要因になるだろうか。
エレベーターを降り、警察署の出口へと着いた彼らだったが、まだ藍忘機は思案中だった。
一度考え始めると彼はいつもこうなのだ。
藍曦臣は再び笑う。
「解決への問題は山積みだな。せいぜい頑張りなさい」
完全に他人事で藍忘機の肩を叩く兄に、彼は少し恨めしげな目を向けたが、勿論文句は言わなかった。
「そうだ。今日、良い店を見つけたんだ。あの遺体はうちの大学に運ぶのだろう。だったら明日、昼食を一緒に取らないか?」
「私は菜食主義と決めています」
「そう言うな。カフェの名前は「
「
「ん?」
その名は藍忘機も覚えがあった。
頭の中の捜査手帳を一気に捲り、魏無羨との繋がりを導き出す。
しばらく置き、藍忘機は
「──分かりました」
と了承する。
急に積極的になった弟に藍曦臣はいささか訝しげな表情を浮かべたが、彼と藍忘機の間には確かな信頼関係が築かれている。
余計なことは詮索せず、相手を尊重するのが彼ら兄弟のやり方だった。
「ではな。明玦兄上に付き合って今晩は徹夜になるのだろうが、休める時に休むのだぞ」
「はい。兄上も。今晩は帰れませんが、朝食に卵を食べるなら電子レンジにかけるのは止めてください」
わかってるとは返さず、藍曦臣は弟の皮肉に苦笑をし、車へと乗り込んだ。
走り去る藍曦臣のセダンを見送りながら、藍忘機は動画での魏無羨の叫びを思い返していた。
「俺じゃない! 俺が師姉を殺すものか! 金子軒だって、師姉の大切な存在なんだ! 絶対に殺さない!」
血走った赤い目で、顔中を涙でぐしゃぐしゃにしていた。
あれが演技なら魏無羨は名優の素質がある。
しかし、あの爆破されたレジャー施設のシステム操作ログには、魏無羨が開発中だった制御アプリのシグネチャが記録されていた。
聶明玦があまりにも理路整然と状況証拠だけが揃っているといったのはそういう事情があってのことだ。
証拠はあっても、肝心の魏無羨犯人説を裏付ける決定的な動機が見つからない。
藍忘機は思考を止め、腕時計で時刻を確かめる。
藍曦臣のいうとおり、今夜は徹夜になるだろう。
警察官である以上、深夜残業などごくごく当たり前のことだ。
藍忘機は疲れをみせることなく、聶明玦が待つ警察署内へ戻っていった。
そして一方───
魏無羨を殴りつけ、荒い息を吐いていた江澄は、低く、絞り出すような声で、金凌に
「二階へ上がってろ」
と命じた。
好奇心旺盛な金凌は渋ってなかなか動く気配を見せなかったが、もう一度江澄に
「聞こえないのか!」
と怒鳴られ、渋々、仙子を連れ、二階へと上がって行った。
金凌の軽い足音が遠ざかり、扉が閉まると二階は静かになった。
魏無羨は立ち上がり、ダイニングの椅子を引き寄せる。
江澄は魏無羨を睨んだまま、きりっと唇を噛み締めた。
「今まで、どこに行っていた」
江澄の声は震えていた。
「……ごめん」
返ってきたのはその一言のみ。
こんな時、魏無羨ならいつも笑ってごまかしていた。
謝罪の言葉を聞いた途端、江澄の顔が崩れる。
溜めていた感情が怒濤のように溢れ、もはや彼にもどうすることも出来なかった。
続く
20261003