春休みの朝は、白い。
カーテンの隙間から入ってくる光が、埃をゆっくり浮かべている。
あたし…神崎麗美はベッドの上で仰向けのまま、その光を見ていた。
枕の感触が違う。
首の後ろに当たる布が硬くて、洗剤の匂いが古くさい。
これはママがよく使っていた、安い柔軟剤の匂いだ。
一人暮らしの部屋には、この匂いはなかった。あったのは、夜中まで開いていたパソコンの熱と、飲みかけの缶コーヒーと、誰も帰ってこない静けさだけだった。
……おかしい。
目を閉じたまま、呼吸を数える。
一つ、二つ。胸が上下するたび、肋骨のあたりが軽い。
昨日の夜、アパートの机に向かっていたときの重さがない。
肩の力の入り方も違う。 指を軽く握ると、掌が小さい。
小さい。
右手を顔の前に持ってくる。
…指が細い。爪が短い。
昨日まで伸ばしていた筈のジェルネイルが、どこにもない。
手の甲の血管が、子供みたいに青く透けている。
関節の出方も違う。
昨日の手は、講義のノートを取る手で、式の写真を拡大する手で、那奈さんの横顔を何秒も見つめた手だった。
今の手は、そのどれも知らない。
心臓が、一拍遅れて鳴った。
「……は?」
声が出た。自分の声なのに、少し高い。
喉の奥が狭い。
布団をはねのけて起き上がり、足元を見る。
パジャマの裾から出ている足首が細い。
太腿に、昨日まで確かにあった肉がない。
大学生の体で確かめていた重さと曲線が、ごっそり抜けている。
着ているものも違う。
ママが買った、少し子どもっぽい柄。
一人暮らしを始めてから、あたしはこういうのを着なくなっていた。
部屋を見渡す。
学習机。 引き出しの取っ手が少し欠けた、中学のときに使っていたやつ。
本棚には参考書と、ママが「ちゃんと置きなさい」と言っていた百科事典。
壁には、貼った覚えのない、薄いピンクのカレンダー。
勉強机の上に、進級前のプリントが、まだ手をつけていない顔で積んである。学校にほとんど行っていない頃の、あたしの部屋だ。
ベッドから降りて、カレンダーの前まで歩く。
足の裏がフローリングに当たる感触が、記憶より直接的だ。歩幅が短い。昨日まで当然だった距離が、今日は半歩ぶん足りない。
年が…違う。
月は…三月。
日付は…春休みの真ん中あたり。
あたしが中学三年に進級する、その直前。
鏡の前に立つ。
そこにいたのは神崎麗美だった。 間違いなく、あたしだ。
でも、大学に入ってからママと離れて一人暮らしを始めて、夜更かしとインスタントと、たまに飲む缶コーヒーによる不摂生の影響で少しだけ大人びた顔をしていた、あのあたしじゃない。
頬が丸い。
目が大きい。
髪が大学生のあたしよりも短く、肩の少し下で止まっている。
鏡の中の少女は、こちらを見て、同じように眉を間に寄せていた。
唇の端を上げてみても、式の日に作っていた笑顔にはならない。
あの笑顔は、この顔の筋肉がまだ知らないからだ。
優秀な頭脳は、混乱を長く許さない。
事実を並べる。
一つ、体が中学生のそれに戻っている。
二つ、部屋はママと暮らしていた当時のものだ。
三つ、カレンダーの年月日は、中学三年に進級する前の春休みを指している。
四つ、昨日まであたしは大学進学後のアパートで、パソコンの画面に向かっていた。
五つ、この体のあたしは、まだ鬼塚英吉に会っていない。
出会うのは、進級してからだ。
初めて教師になったあの男があたしの中学に赴任して、クラスに来て、あたしが家にいたまま四月が終わり、五月も終わりに差し掛かった頃にみやびに鬼塚潰しの切り札として呼び出されて、そこでやっと顔を合わせた。
あの春はまだ先にある。
頭の中だけが、その先を全部知っている。
彼に、人間不信もトラウマも何もかも全て救われることも、慕うことも、ママと和解したことも。
そして……選ばれないことも全部……
パソコンの画面には、別に重要なものがあったわけじゃない。
ただ、眠れなくて昔の写真フォルダを開いていた。
中学時代の終わり、三年四組がみんな仲良く笑い合って撮られた集合写真。
鬼塚が、那奈さんと並んで笑っている写真。
結婚式でみんなで集まって撮った写真。
そして、最後は結婚式のあと、あたしが冗談めかして撮らせてもらった一枚。
…まるで、あたしと彼が結婚したように見える写真だ…
不意に目から涙が溢れ出す…
光が来たのは、その直後だった。
理解は、あたしの頭が直ぐに出来た。
でも、体が追いつかない。
動揺からか掌が白い。
指が、カレンダーの年を掴もうとして、空を掴んでいる。
戻った、という言葉は、頭の中ではすでに完成している。
口に出す前に、証拠が足りるかをもう一度確かめた。
体、部屋、年、月日、春休み、ママの匂い、会っていない鬼塚…足りている。
夢ならここまで揃わないし、朧げでなく、あまりにもリアルに再現され過ぎている。
式の日のことが、子供の顔の後ろでくっきりしていた。
那奈さんは、白いドレスが似合っていた。
鬼塚は、普段の革ジャンやチンピラ服ではなく、無理やり着させられたらしい白いスーツの襟を何度も直していた。
式場の端で、あたしは笑顔を作っていた。
周りの卒業生や、たまに顔を出すかつてのクラスメイトの前であたしは「先生、やっと人間になったね」と冗談を言って、周囲の笑いを取った。
取れた。
あたしはそういうのが上手い。上手いから、誰も、グラスを持つあたしの指が白くなっていることに気づかなかった。
内面は、別だった。
アプローチは、散々やった。
中学三年で出会い、彼を異性の男として認識してからずっと。
ソフトなものも、過激なものも。
勉強を教えてほしいと言って近くに寄ったこともある。
わざと危うい顔をして、心配させようとしたこともある。
大人びた言葉で揺さぶったこともある。
距離を詰めて、視線を上げて、上目遣いで返事を待ったこともある。
鬼塚は、そのたびに怒るか、照れるか、頭を掻いて「お前はまだ子供だ」と言った。
子供、という言葉を、あたしは一度も信じなかった。
信じなかったのに、結果だけは動かしようがなかった。
彼は、あたしを選ばなかった。
教え子として救って、教え子として見て、その先には行かなかった。
鬼塚は那奈さんを選んだ。
結ばれて、結婚した。
表面上、あたしは祝福した。
時々、皮肉を混ぜて。
「こんな顔もスタイルも良い美人と結婚出来るなんて、先生にしては上出来じゃん」とか、「那奈さん、こんなガサツでデリカシーのカケラもないような馬鹿にこれから苦労させられるなんて可哀想」とか。
鬼塚は「うるせえ」と笑った。
あの笑い方が、一番残酷だった。
あたしを女として意識していない人間の笑い方だったから…
怒られても、照れられても、まだ可能性は残る。
だけどあの笑いは…可能性の外側にあった…
頭では、分かっていた。
那奈さんは、鬼塚の隣にいて違和感がなかった。
あたしがどれだけ言葉を重ねても埋められなかった場所に、那奈さんは恐らく最初から立っていた。
それを理解することと、認めることは違う。
理解はできる。
でも承認は…できない…
式の日、笑顔の裏側で何度も繰り返したのは、その二つが同じじゃないということだった。
あたしの優秀な頭脳は、事実を事実として処理する。
処理したあとに残る痛みは、処理の失敗じゃない。処理しきれないものの名前だ。
大学に入ってからも、忘れられなかった。
ママと離れて、一人暮らしを始めて、自由になったはずなのに、夜になると鬼塚の顔が浮かんできた。
講義が終わってアパートに帰ると、冷蔵庫の明かりだけで立っている自分がいて、ふと、あの男ならこんな静かな部屋を見て何と言うだろう、と思った。
たぶん「飯食え」だ。
たぶん、それだけだ。
それだけの言葉が、欲しくて仕方なかった時期がある。
けれど欲しいと言えば、那奈さんのいる家に電話することになる。
だから言わなかった。
言わないかわりに、フォルダを開いた。
開いて、閉じて、また開いた。
鬼塚と並ぶ那奈さんの横顔は、何度見ても、あたしの場所にはならなかった。
冗談混じりで鬼塚と撮った、あたしと彼が結婚しているような写真も改めて見返すとやっぱり違うと感じる。
鬼塚があたしを見る目が明らかに那奈さんを見る目と違うのだ…
ママには、式の話を少しだけした。
「先生、結婚したの」と、笑いながらあたしが言うと、ママは「そう」とだけ言ってそれ以上聞かなかった。
昔のあたしなら、それを興味のなさだと思ったかもしれない。
でも今のあたしはそう思わなかった。
中学三年で鬼塚に救われて、ママと和解してから、あたしはママの黙り方を知っている。
聞かないのが、ママの優しさだと。
興味がないんじゃない。
聞けば、あたしが答えなければならない。
答えれば、笑顔の裏側が崩れる。
ママはそれを分かって、聞かなかった。
式のあとの電話であたしがいつもより軽く笑ってみせたことも、ママは聞いていたはずだ。
聞いて、崩さないように、そこで止めた。
一人暮らしを勧められた理由も、もう分からないふりはできない。
「麗美も、そろそろ自分の部屋で暮らしなさい」。
ママはそう言った。
表向きは、大学生になった娘への、必然的で当たり前の言葉だった。
あたしはそれに従った。
従ったあとで、ママのいない夜が、こんなに広いとは思っていなかった。
広いのは、自由のせいだけじゃなかった。
あたしは改めて部屋を見渡す。
この家にいたら、否が応でも思い出す。
中学三年の春から、今に至るまでの全部を…
鬼塚が来た日も、救われた日も、ママと向き合えた日も、近づいて、届かなくて、それでも隣にいた日も。
家具の位置が、写真の有無が、電話の相手が、全部あの男に繋がっている。
ママは、あたしがここで悲しみ続けるのを見ていた。
見て、少しでも鬼塚への想いを忘れられるようにと、家の外を勧めた。
忘れさせるためじゃない。
少しでも忘れられたら、あたしが楽になると思って。
和解したあとでなければ、ママはそこまで考えない。
考えたから、勧められた。
あたしはそれを、従うときに理解していた。
理解したうえで、やっぱり忘れられなかった。
パソコンを開いたのは、特別な夜じゃなかった。
ただ、純粋に眠れなくて、フォルダを開いて、式の写真を一枚見たのだ。
見た瞬間、胸の奥が昔と同じ場所で痛んだ。
アプローチをいくら仕掛けても、鬼塚の視線が一度も「女」にならなかった事実が、写真の中の那奈さんの横顔で、もう一度確定した。
確定は、もう何度目か分からなかった。それでも、見るたびに新しかった。
ママが外へ出してくれた夜でも、フォルダは開いた。
優しさは届いていた。
想いだけが、届いた先で残った。
そのとき、光が来た。
画面が白く弾けて、頭の芯が焼けるみたいに熱くなって、意識が落ちた。
夢にしては、痛かった。
夢にしては、今、この掌の小ささが現実すぎる。
鏡の中のあたしは、まだ中学生の顔をしていた。目のふちが、少し赤い。
泣いた記憶はない。
でも、戻りたての体は、大人の悲しみを処理しきれていなかった。
この顔は、あの結婚式を知らない。
知っているのは、目の奥…あたしの記憶だけだ。
ママと和解する前の顔でもある。
ママとの和解は、まだ先にある。
鬼塚が来て、あたしを見捨てず救い出し、ママにあたしの方を向かせてから、やっと揃うものだ。
鏡から目を逸らして、机の上を見る。
メモ帳がある。
進級前に自分で書いていた、学校と人間の観察の切れ端が、引き出しから少しはみ出している。
あの頃のあたしは、まだ鬼塚を知らなかった。
解析の対象は、学校と、クラスと、ママと、自分の周りだけだった。
学校には、ほとんど行っていない。
小学校の頃、藤森によって人間不信となっていたあたしが学校に行く理由がなかった。
鬼塚英吉という名前は、この机の上のどこにもない。
あるのは、あたしの頭の中だけだ。
今、その名前の外側に、もう一度立っている。
未来の記憶を持ったまま。
那奈さんを選んだあとの彼を知ったまま。
ママの優しさを知ったまま。
それでも、この体で、この春休みにいる。
出会う前の朝に、出会ったあとの全部を抱えて。
悲しい、という言葉は、簡単すぎた。
認められない、の方が近い。
頭では理解している。
鬼塚は那奈さんを選んだ。
それは、あたしが大学を出て一人で夜を過ごすところまで続いた事実だ。
事実は曲げられない。
筈だった…
昨日までは。
今日、カレンダーは、那奈さんに会うより前を指している。
鬼塚が教師になるより前を指している。
あたしが救われるより前を指している。
ママと和解するより前を指している。
事実は、ここにはまだ着地していない。
窓の外で、春の風が鳴った。
まだ寒い。
進級前の春休みは、いつもこうだった。
前の人生では、この寒さのあいだ、あたしは部屋にいた。
学校に行く意味を、自分で消していた。
消したまま三年になっても、初日から席には戻らなかった。
依然として、不登校のままだった。
初めて教師になった鬼塚がクラスに来て、揉め事を起こして、職員室で睨まれて、それでも生徒の側に立って一人一人に向き合っている間、あたしはずっと家にいた。
名前だけは、そのうち学校のほうに届いていたはずだ。
届いても、会いはしなかった。
復学したのは、五月も終わりに差し掛かった頃だった。
突然、みやびに呼び出された。
どうやっても潰せない鬼塚を本気で潰すため、彼女が繰り出した最強の切り札として。
優秀で、学校に来ないで、大人の計算を見抜いて、それでもまだ子ども扱いされる顔。
みやびは、その顔を使いたがった。
あたしは応じた。
応じたうえで、自分の試し方も持って行った。
潰す側に立たされて、潰される側の男が、あたしを見捨てなかった。
順番は、そうだった。
初日から隣にいたわけじゃない。
約二か月、間が空いていた。
もう一度、カレンダーに目をやる。
年月日は動いていない。
夢ならここで崩れる筈…やはり崩れない。
掌を見ても、小さいままだ。
廊下の向こうで、時計が鳴る。
ママの部屋の扉は閉まったまま。
この時間、ママはまだ寝ているか、出かける準備の前だ。
記憶を辿れば、この春休み、ママは親戚の用事で午後まで帰ってこない日が何日かあった。
静けさは正しい。
正しすぎて、吐き気がした。
だが、吐き気はすぐ引いた。
引いたあとに残ったのは、緻密な計算だった。
始業式まで、あとわずか。
そこから五月の終わりまで、約二か月。
前の人生では、ただ欠席していた時間だ。
鬼塚はクラスにいて、あたしは家にいて、接点はみやびの手の中でやっとできた。
できた時点で、あたしはもうみやびの「切り札」だった。
鬼塚潰しの切り札として彼と会って、救われて、教え子として見られて、その先には行かなかった。
二か月。
約60日程。
短い。
でも、ゼロではない。
前の人生で空いていたその二か月を、今度は空にしない。
みやびに呼ばれてから顔を出すのではなく、三年の初日から席にいる。
鬼塚を潰す役を割り振られる前に、鬼塚のクラスの人間としてそこにいる。
そして、彼との接点を早くから作り上げる。
約二か月。
その二か月が、何かが変わるきっかけになるかもしれない。
きっかけは、アプローチの回数じゃなく会うタイミングだ。
前の人生では、出会う前に役割が決まっていた。
潰す側と、潰される側。
そこから教え子に変わっても、那奈さんの隣までは届かなかった。
今度は、役割が決まる前に、二か月を使う。
使うと決めた時点で、復学は、前の人生の繰り返しじゃなくなった。
電話は、ママの部屋の前まで行ってからかけた。
扉は閉まったままで、中に人の気配はない。
やっぱり、出ていったあとだ。
受話器の重さが、子供の手には少し大きい。
番号は、体が覚えていた。
頭が覚えるより先に、指が押した。
呼び出し音が、二回鳴った。
「……麗美? どうしたの」
ママの声は、記憶どおりだった。
近いようで、少し遠い。
用事の途中で出た声だ。
声色から心配は少しだけ混じっているが、雰囲気から察するにそれは《自分の最高傑作の作品》に何かがあったのか?という感じのものだ。
この時点のママは、まだ和解の前にいるという現実を改めて理解させられる。
それでも、ママの声の奥に、あとであたしへの優しさに変わるものがすでにあった。
「ママ。春休み、明けたら、学校に行く」
間が、半拍できた。
「…えっ?…」
「三年の始業式から復学する。今まで休んでいたけど、これからはちゃんと行くから」
「……急に、どうして?」
本当のことは、言えない。
言えば頭がおかしくなったと認識されて、間違いなく拒否される。
本来、五月にみやびに呼び出される形で復学することも、鬼塚にあたしが救われ、彼に恋することも…このママは知らないのだ。
知るのは、あたしだけだ。
だから、ママが受け取りやすい形にした。
「三年になったら、行くって決めた。中学最後の年を行かないまま終わるの嫌になったから。 ママが前に言ってたでしょ? 自分で決めなさい、って。だからあたしの意思で行こうって決めた」
ママは、すぐには返事をしなかった。
雑音の向こうで、誰かがママの名前を呼んでいる。
ママはそちらに短く答えてから、受話器に戻った。
「分かった。行くなら、行くでいいわ。 用意は、しておいたほうがいいわね。しばらく着てなかったけど、制服、着られる?」
「着られる筈。 サイズはこれから改めて見る」
「そう。 無理そうなら言いなさい。わたし、夕方には帰るから」
「うん。ママ、ありがとう」
「っ!?…また後でね…」
ママから驚いた雰囲気を感じられた直後、電話は切れた。
ママへの先程の《ありがとう》は、少しだけ本音だった。
復学を止めなかったことへのありがとうだ。
まだ和解していないママが、娘の急な決断を、興味がないから流したわけじゃない。
聞けば崩れるものを、ここで聞かなかった。
前の人生の式の電話で聞いた「そう」と、同じ種類の黙り方だった。あたしは、それを知っている。このママは、まだ知らない。
切れたあとの受話器が、静かだった。
あたしは自分の部屋に戻って、クローゼットを開けた。制服が、かけてある。
前の人生で、五月の終わりまでほとんど着なかった布。
袖を通すと、肩がぴったり来る。
鏡に映ったのは、まだ鬼塚を知らない神崎麗美の制服姿だった。
知っているのは、袖の中のあたしだけだ。
前の人生のこの服は、みやびに呼ばれてから、学校での切り札としての衣装になった。
今度は、その前にただの女子中学生…神崎麗美としてそれを着る。
式の写真は、この世界にはない。
那奈さんの横顔もない。
ママが一人暮らしを勧める夜もない。
みやびの呼び出しもまだない。
あるのは、これから来る春と、初めて教師になる男と、約二か月と、始業式の朝に席にいると決めたあたしだけだ。
前の人生では、理解していた。
鬼塚は那奈さんを選んだ。
あたしは、それを表面上は祝福して、内側では認めなかった。
ママは、認められないあたしを見て、家の外へ出した。
その優しさは確かに届いた。
でも鬼塚のことはどうしても忘れられず、彼への想いだけが残った。
残ったまま成人し、大人になって、パソコンの写真を開いて、光に呑まれた。
以前の出会いは、五月の終わりだった。
遅かったのか、役割が先に決まっていたのか、どっちも捨てきれない。
だから、空いていた二か月を、今度は自分で埋める。
この世界の順番は、まだそこまで来ていない。
鬼塚が那奈さんに会う前に、彼を、冬月でも他の誰でもなく、あたしのものにする。
教え子として救われるだけの位置には戻らない。
冗談で祝福する側にも戻らない。
ママに忘れさせてもらう側にも戻らない。
みやびの切り札として会う順番にも戻らない。
選ばれる前の朝にいるうちに、約二か月を、選ぶ側の視線がこっちへ向く時間に変える。
ソフトでも、過激でも、前の人生で足りなかったものの名前はもう分かっている。
足りなかったのは、アプローチの回数だけじゃない。
五月の終わりまで、あたしが動かず、席が空だったことだ。
先ずはそれを根本から変え、前の世界から一歩前進する。
「……あたし、戻ってきちゃったんだ」
誰に言うでもなく、部屋に落とした。
声も外見も中学生の子供で、中身は、式の日に笑顔を作っていた女のままだった。
「二か月ある。今度は、那奈さんよりも…いや、他の女よりも先に、鬼塚を取る。 取ってみせる」
ママのいない家の静けさの中で、神崎麗美は制服の袖を直した。
過去の自分のベッドではなく、これから行く教室のほうを向いて。
鬼塚英吉は、まだあの時と違って誰も選んでいない。
この時間軸では、まだ、あたしに会ってもいない。
会うのは、切り札として呼び出されてからではない。
今度は三年の初日から。
初めて会ったとき、選ばせ、異性として振り向かせる。
その時がダメでも、絶対に後悔しないよう最善と全力を尽くす。
もうあんな思いをするのは絶対に嫌。
今度こそ…あたしがあいつの隣に立ってみせる。
というわけで麗美の逆行ものです。
最近のGTO見て久しぶりに原作マンガ見て、やっぱり鬼塚は麗美とくっ付くのが自然な感じがしたので唐突に書いてしまいました。
ドラマのような冬月派、原作のような那奈派の方は今更ながら申し訳ないですが、バックお願いします。
それでも読んで下さる方はよろしくお願いします。
他の小説が止まっていますが、スランプで書けないのでご了承下さい。