難産でした……
夕闇が屋上のプレハブ小屋を、血のような赤に染め始めていた。
窓の外では、吉祥学苑の校舎が長く影を落とし、遠くの住宅街の灯りが一つ、また一つと点き始めている。
プレハブの中は、窓を開けて換気しているものの、昼間の熱がまだ残っていて、春にも関わらずどこかむせ返るような空気だった。
麗美は携帯を仕舞い、四人の顔を静かに見回した。
みやびは机を合わせて作った簡易式ソファに座り、端に視線を落としたまま、指を白くなるほど強く握りしめている。
朋子はその隣で、みやびの腕を両手で包むように握っていた。
吉川は少し離れたところで、心配そうに三人を交互に見ている。
「準備は良いわね?……それじゃこれから、みやびの家に行くわよ」
麗美の声は、いつもの優等生の柔らかさを残しながらも、どこか底の見えない静けさを帯びていた。
「でも、時間も時間だし、全員で行くのは逆効果よ。朋子と吉川くんは帰りなさい。総出で押しかけても、あの家の空気を余計に硬くするだけ。担任の英吉と、友人としてあたしが行く形の方がまだ話を聞いてもらえる可能性が高い」
朋子が、みやびの手をぎゅっと握り直した。
「麗美ちゃん……でも……みやびちゃん大丈夫? やっぱりあたしたちも、一緒に行った方が……」
「大丈夫よ」
みやびが無理に笑ってみせた。
しかし、その笑顔は教室で見せた謝罪のときの、張り詰めたものは消えても、どこか壊れかけたようなものとは違っていた。
ただ、親友の判断を信じるしかない、という諦めと、わずかな期待が混じっている。
吉川は、少し唇を噛んでから、小さく頷いた。
「……わかりました。僕たちにできることがあれば、いつでも言ってね相沢さん。先生、神崎さん。相沢さんをお願いします」
鬼塚が、おもむろにゆっくりと立ち上がった。
プレハブの床が、その体重でわずかに軋む。
「しょうがねえな。おい、相沢。てめえの家の住所、ちゃんと教えとけよ。間違えたらマジで近所中の門を蹴り飛ばして回ることになるぞ」
「……わかってるわよ。というかわたしが案内するからあんた達は着いてくれば良いだけだから」
みやびは、小さく息を吐いた。
四人は一緒にプレハブ小屋を出た。
屋上の風が、まだ少し生ぬるい。
そのまま階段を下り、学校から出ると、朋子と吉川は、みやびに小さく手を振ってから互いに帰路についた。
残った三人は、静かに住宅街へと向かった。
夕暮れの道は、ほとんど人の気配がなかった。
街灯が一つ、また一つと点き始め、白い壁と黒い鉄柵が並ぶ閑静な住宅街を、オレンジ色の光が照らしている。
空気はどこか乾いていて、遠くで犬の鳴き声が一度だけ聞こえた。
先頭を歩いていたみやびは、不意に歩みを止め、とある門の前で完全に足を止めた。
表札の「相沢」の文字は、磨き上げられたように光っている。
植木は一本一本丁寧に刈り込まれ、玄関灯はまだ点いていなかったが、二階の窓の向こうにはすでに照明が灯っていた。
生活の匂いがしない、ただ整っているだけの家だった。
「……ここか?」
鬼塚が鼻を鳴らした。
それにみやびは頷く。
「へー……見た目だけは、完璧に整えてやがる。中身がどうなってるかは、入ってみねえと分からねえがな」
みやびは何も言わなかった。
ただ、門の前で再度小さく息を吐いた。
麗美が、みやびの左肩に手を置き、静かに言う。
「みやび。あたし達が先に話す。要所要所で話してもらうことにはなるけど、本格的にあんたが口を開くのは、その後でいい」
「……わかった……」
みやびが意を決してインターホンを押すと、すぐに冷たい女性の声が返ってきた。
「はい。どちら様でしょうか」
「えー……三年四組の担任、鬼塚英吉です。相沢みやびさんのことで、少しお時間をいただけますか」
鬼塚が明らかに不慣れさが出ている敬語で対応すると、沈黙が、三秒ほどあった。
それから、わずかに硬い返事があった。
「……少々お待ちください」
門が開くまで、四十秒近くかかった。
玄関先に現れた女性は、四十代前半。
落ち着いた色のワンピースを着て、髪は綺麗にまとめられている。
顔立ちはみやびによく似ていたが、その瞳には、みやびがこの間まで教室で見せていたのと同じ、他人を寄せ付けない冷たさがあった。
「……みやび。こんな時間に、先生を連れてくるなんて。何のつもり?」
「お母さん。今日は、大事な話があるの」
みやびが小さく言うと、女性――みやびの母は、わずかに眉を寄せた。
「大事な話?学校の成績のことなら、電話で十分でしょう。わざわざ来ていただくほどのことかしら?」
「成績じゃねえよ」
敬語を捨て、素で鬼塚が話すと、彼は一歩前に出た。
その瞬間、母親の視線が完全に鬼塚を捉える。
だらしない染め上げた金髪、派手な柄のシャツ、首にはギラついたネックレスと、教師らしからぬ粗野な雰囲気。
彼女の瞳に、明らかな嫌悪が浮かんだ。
「……成る程、あなたが例の鬼塚先生ですね。他の父兄から噂は聞いていますわ。学校の廊下で、みやびのクラスメイトを『自分の女』だとか何だとか言ったとか……本当に、教師として最低の言動ですわね」
「ああ?聞いてんのかよ。だったら話が早え」
鬼塚はニヤリと笑った。
「その『最低』な教師が、てめえの娘のことで、わざわざ家まで来てやったんだよ。中に入れろ。外で話してたら、近所に聞こえちまうぞ?」
母は一瞬、躊躇した。
しかし、みやびが小さく「……お願い」と呟いたのを見て、渋々とドアを開けた。
ー
ー
ー
リビングは、広かった。
白いソファ、磨き上げられたテーブル、壁に掛かる抽象画。
どれも高そうなものばかりで、しかし、どこか生活の匂いがしなかった。
テーブルの上には、銀行の名前が入った書類が数枚、綺麗に揃えられて置かれている。
窓際の観葉植物は手入れが行き届いているのに、葉の色がどこか青白く、活気がない。
みやびの母親にとりあえず座るよう促され、三人は椅子へと座る。
テーブルの向こうに、男性が座っていた。
みやびの父親。
歳は四十代半ば。
スーツ姿のまま、書類を見ていた。
インターフォンで母親が対応し、みやびが帰宅したことに気づいているはずなのに、顔を上げるまでに数秒を要した。
「……何だ。先生が来たのか」
「鬼塚英吉だ。相沢の居る三年四組の担任をしてる」
「担任……そうか。みやびの成績が、また落ちたのか?」
敬語もしない鬼塚の発言にも、みやびの父の声は、どこまでも平坦だった。
娘が、こんな夜に担任を連れてきた。
それなのに、最初に出た言葉が「成績」だった。
みやびの指が、わずかに震えた。
麗美はそれを見逃さなかった。
「成績の話ではありません」
彼女が、静かに口を開く。
「今日、あたし達が来たのは、みやびさんの『家庭』についてです」
父が、ようやく書類から顔を上げた。
「家庭?……担任は分かるが、君は誰だね?」
「三年四組の神崎麗美です。みやびさんの……親友です」
麗美の【親友】という言葉にみやびは、震えを止め、彼女を見る。
みやびと目があった麗美は小さく微笑み、みやびもまた小さく笑う。
みやびの母が、麗美の名前を聞いた瞬間、わずかに眉を寄せた。
視線が、麗美の顔をじっくりと見る。
最初は、ただの優等生然とした少女に見えた。
だが、その瞳の奥の冷静さと、口元のわずかな笑みに、彼女の記憶が引っかかる。
「……あなた、もしかして……小学校の頃、みやびが何度か家に連れてきて、一緒に遊んでいた…神崎麗美ちゃん?」
麗美は、みやびの母が自分を覚えていたことに、わずかに目を細めた。
「……覚えていらっしゃったんですか」
「最初は、わからなかったわ。ずいぶん大きくなってたから。でも……そうね。あの頃も、妙に大人びた目をしていた。みやびが、よく『麗美が来ると楽しい』って言っていたわ」
母の声は、わずかに柔らかくなった。
しかし、すぐにまた冷たい調子に戻る。
「……けれど、今は違うのでしょう?みやびが、あなたを『親友』と呼ぶなんて、学校では聞いていないわ」
麗美は、静かに息を吐いた。
「…小学校の頃にとある出来事があって、それを機にお互い疎遠となっていました。あたしが不登校気味になって、ほとんど学校に通わない状態も続いていましたし…」
麗美は、みやびの方を一瞥してから、再び両親を見据えた。
「でも……あたしは中学三年に進級した初日から復学して……昨日やっとみやびと和解して、親友同士に戻りました。この子の為ならあたしはなんだってしますから」
「う、麗美……」
みやびは目元に涙を溜め始める。
だが、その言葉を聞いた瞬間、麗美を見る父の視線が、明確に冷えた。
書類から完全に顔を上げ、麗美を真正面から見据える。
その目は、評価を下すような、乾いた光を帯びていた。
「ほう……なんでもすると君は言ったな?ならばもう娘には近づかないで欲しい。登校拒否をするような人間と娘には付き合ってほしくないからな」
声は低く、抑揚がほとんどなかった。
リビングの空気が、さらに冷え込む。
みやびの身体が、びくりと小さく震えた。
「……お父さん、何言ってるの!?」
みやびが、初めてはっきりと声を上げた。
涙を浮かべた目で父親を睨みつける。
「麗美は……麗美は、あたしの大事な友達なの!そんな言い方、しないでよ!」
父は、娘の声に意にも介さず、淡々と続けた。
「なんだみやび、当然のことだろう?何か事情があるにせよ、学校に行かずに登校拒否するなど言語道断だ。そんなクズと友人でいるなどお前の為にならない」
その言葉を聞いた瞬間、みやびの中で何かが、音を立てて弾けた。
「……っ、ふざけないでよ!!」
みやびが、涙を零しながら立ち上がった。
声が、震えながらも鋭く響く。
「お父さんも……それにお母さんも……互いに不倫してる癖に……!麗美がクズ?……ふざけんな!!麗美は酷いことしたこんなわたしをそれでも許して…また親友に戻ろうとまで言ってくれたわたしの本当に大切な親友なのよ!!それなのに……麗美のこと何も知らない癖して勝手こと言いやがって……あんた達の方がクズじゃないのよ!!」
麗美を侮辱されたみやびの涙ながらの怒りに、リビングが一瞬で凍りついた。
父の手が、書類の上で止まった。
母の顔から、血の気が引く。
お互いに相手の不倫を知りながら、知らないふりを続けてきた二人は、実の娘の口からその事実を直接突きつけられ、言葉を失った。
長年、みやびに向き合ってこなかった二人だ……みやびが何故、自分達の不倫を知っているのかなど知る由もない……
当たり前だ、三人の中で一番向き合おうと努力してきたのは、みやびだったのだ……
自分を見て欲しいと両親と向き合おうと努力して……そして、そうする内に両親の互いの不倫という現実を知り、更に絶望して……更なる深い闇へと沈んでいったのだから……
長い、重い沈黙が落ちる。
母が、掠れた声で呟く。
「……み、みやび……何を……」
父は、目を見開いたまま、みやびを見ている。
その瞳に、初めて動揺の色が浮かんだ。
みやびの涙が、床に落ちる。
「……あたし、ずっと知ってたよ……!お父さんもお母さんも、お互いのこと知ってるくせに、知らないふりして……あたしのことなんて、どうでもいいくせに……!麗美をクズだなんて言う資格、あんた達にあるわけないでしょう!!」
その瞬間、それまでソファに腰を下ろしていた鬼塚が、ゆっくりと立ち上がった。
「……おい」
低い声だった。
それまで部分的に無理矢理取り繕っていた敬語どころか若干の遠慮が、完全に剥がれ落ちている。
「てめえ、今、てめえの娘の目の前で、親友のことを『クズ』とか言ったな……クソが……あん時の内山田のハゲ以来だぜ……このイラつきわよォー……」
鬼塚は、椅子から立ち上がるとテーブルを挟んで父に近づく。
その巨体が、リビングの冷たい空気を押しのけるようにして前に出た。
「登校拒否がどうとか、てめえが勝手に決めつけた『言語道断』がどうとか、てめえら二人が不倫してようが、俺は知らねえ。だがな、てめえの娘は今、目の前で親友を侮辱されて本気で怒ってんだよ。親友を守ろうとしてんだよ!……それが分かんねえのか?」
父は、わずかに眉を寄せた。
「……教師のあなたに、家庭のあり方や私の考え方を説教される筋合いはない」
「説教じゃねえよ!」
鬼塚の声が、さらに低く、しかし確実に響く。
「こいつが昔、学校に行けなくなった理由くらい、親なら多少は知ってんだろ。少なくとも、簡単な話じゃなかったことくらいはな。それを知らねえ癖に分かったような口聞いてんじゃねえよ!」
リビングが、さらに凍りついた。
父の表情が、わずかに揺らぐ。母が、息を呑む。
鬼塚は、なおも続けた。
「てめえ、今、自分の娘が本気で怒ってんの見てねえのかよ。親友を守ろうとしてんの。それを勝手にその親友が『クズ』だなんて決めつけて、相沢の気持ちを無視してるって言ってんだよ! 親のくせに、自分の子供の気持ちも、友達のことも、何一つ見てねえじゃねえか」
みやびの肩が、小さく震えた。
鬼塚が言い終わった後、麗美が静かに、しかしはっきりとした声で口を開いた。
「お二人の事情は知りません。あたしがどう思われようと構いません。でも実の娘に涙ながらにこんなこと言わせないで下さい。みやびはずっと寂しい思いをしてきた。自分の居場所を見失ってしまう程に…あなた達はそんなみやびに真剣に向き合いましたか?」
両親の視線が、麗美に向く。
麗美は、静かに息を吐いた。
「……小学校の頃、あたしはみやびに何度かこの家に連れてきてもらいました。あの頃は、まだ……少しだけ、温かさがあったように思います。お母さんが、みやびとあたしにジュースを出してくれて、『ゆっくり遊んでいきなさい』って言ってくれたこと。お父さんが、帰って来てからリビングで新聞を読みながらもみやびの話を少しだけ聞いていたこと。みやびが、嬉しそうに笑っていたこと」
みやびの目が、大きく見開かれる。
麗美は、そのまま続けた。
「あの頃のみやびは、家に帰ってくるのが、嫌ではなかった。少なくとも、あたしの目にはそう見えました。でも、今はどうですか?みやびは、この家に自分の居場所がないと言っています。あなた達は、いつから、みやびの顔を、ちゃんと見なくなったんですか?」
長い沈黙が落ちた。
父が、ゆっくりと目を閉じ、深く息を吐いた。
すぐに言葉は出ない。
母も、視線を床に落としたまま、唇を噛んでいる。
しばらくして、父が低い声で言った。
「……言いたいことは、分かっている」
「分かっているなら、どうして」
みやびが、震える声で返す。
父は、すぐには答えなかった。
「……私達は互いに、知っていた。知った上で、見て見ぬふりをしてきた。それが一番、面倒が少なかったからだ」
母が、小さく息を吐き、父を見る。
「……私も、あなたが外で何をしているか、わかっていた。わかっていながら、何も言わなかった。みやびの前では、普通の夫婦を演じていた……それがみやびの為だと思っていたから……」
長い沈黙が再び落ちる。
父は、みやびの方を向いたまま、声を落とした。
「……だが、今更何を言っても遅すぎる。お前がもう、この家に居場所がないと思っているなら、それでいい。無理に取り繕うことはしない」
母も、小さく頷くようにして言った。
「……本当に、ごめんね、みやび。あなたを、ちゃんと見ていなかった。でも、もう……どうにもならないかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、みやびの中で何かが、再び音を立てて弾けた。
「……っ、ふざけないでよ!! 諦めないで!!」
みやびが、涙を零しながら立ち上がる。声が、震えながらも鋭く、はっきりと響いた。
「まだ…間に合うよ……!!」
リビングの空気が、ぴたりと止まる。
みやびは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも父と母を真正面から見据えた。
「あたしだって……ずっと、この家が嫌だった。居場所がないって思ってた。でも、相談したら……こうして麗美が来てくれて、鬼塚先生が来てくれて……まだ諦められないって思ったの!あんた達が本当に反省して、ちゃんとあたしのことを見てくれるなら……まだ、やり直せるって!だから……だから、まだ間に合うって言ってるのよ!!」
父の目が、わずかに見開かれる。
母は、口を押さえたまま、みやびを見ていた。
みやびの肩が、激しく上下する。
「……もう、綺麗事なんてどうでもいい。でも、少なくとも……今ここで、あたしのこと、ちゃんと見てよ……それだけでいいから」
沈黙が、また落ちた。
父は、ゆっくりと息を吐く。
「……みやび」
母が、掠れた声で続けた。
「……あなたが、そこまで言うなら」
父は、みやびの方を向いたまま、小さく頭を下げた。
「……すまなかった。本当に、遅すぎると思っていた。だが、お前がまだ諦めていないなら……俺たちも、もう一度だけ、向き合ってみる」
母も、涙を拭いながら頷く。
「……ごめんね、みやび。これからちゃんとあなたを見るようにする」
みやびは、何も言えなかった。ただ、涙を零し続けている。
父は、さらに声を落として続けた。
「……お前の友人にも、心無い暴言を吐いてしまった。お前の言う通りだ。クズなのは、私達の方だった……神崎さんだったな、申し訳なかった」
父は、麗美に向かって小さく頭を下げた。
麗美は、静かに微笑んだ。
「気にしないでください」
父は、みやびの方を再び向いた。
「優しい子だ…みやび、こんなにもお前を大切に思う友人を貶してすまなかった」
みやびは、小さく頷いた。
そのとき、父が、ゆっくりと鬼塚の方を向いた。
「……鬼塚先生」
母も、それに続くように顔を上げる。
「先ほどは、失礼なことを言ってしまった。あなたを、見た目や噂だけで判断してしまいました。申し訳ありません」
父の声は、低く、しかしはっきりとしていた。
「あなたは……みやびのことを、ちゃんと見ていてくれた。今日、こうして家まで来て、娘の話を聞いてくれた。偏見で教師としてのあなたを見下していた自分が、恥ずかしい」
母が、小さく頷く。
「……本当に、すみませんでした。鬼塚先生は、素晴らしい教師です。みやびを導けるのは、あなたしかいないと思っています」
父は、深く頭を下げた。
「今後とも、娘をよろしくお願いします。今日の話は、まだ始まりに過ぎないと思っています。すぐにどうにかなるものではないが……少なくとも、向き合いはします」
母も、静かにそれに続いた。
鬼塚は、少し面食らったように頭を掻く。
「……まあ、いいんじゃねえか。今日のところは、それで十分だ」
それから、みやびの方を向いた。
「……相沢。お前の両親は、少なくともこうやって謝って、反省出来るやつらだ。まだ遅くねえ。すぐは無理だろうが、必ずもう一度やり直せる筈だ」
みやびが、小さく息を呑む。
「俺も、こいつも、野村や吉川も、みんなお前の味方だ。辛かったら、また力を貸す。一人で抱え込むなよ。頑張れよ」
みやびは、涙を拭いながら、小さく頷いた。
「……ありがとう、鬼塚先生。麗美も」
鬼塚が、ニヤリと笑う。
「……まあ、今日のところはこんなもんか。第一歩だ」
麗美が、静かに微笑む。
「……みやび。これから、何度も来るわよ。この家が、本当に『あんたの居場所』になるまで。今度はまた、昔みたいに遊びにね」
「っ!? う、うん!……」
みやびの目から、一筋の涙が零れた。
それは、教室で見せた謝罪の涙とは、少しだけ違っていた。
ただ、泣きたいから泣いている、そんな、子供のような涙だった。
鬼塚と麗美は、静かに相沢家を後にした。
ー
ー
ー
帰り道。
夜の住宅街を、麗美と鬼塚の二人だけが並んで歩いていた。
街灯の光が、二人の影を長く伸ばしている。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
鬼塚が、頭を掻きながら言う。
「……まあ、今日のところはこんなもんか。完全に直ったわけじゃねえが、少なくとも、相沢の親は自分たちのクズさを認めた。相沢も、まだ諦めてねえって言ったしな」
麗美は、静かに微笑んだ。
「ええ。第一歩よ。これから三人は少しずつ歩み寄っていくでしょう。 その為にも力を貸してよね英吉?」
「しょうがねえな。まっ、付き合うしかねえか」
少し間を置いて、鬼塚がぼそりと呟く。
「……とりあえず、飯でも食って気分紛らわせようぜ。なんか、妙に腹減ってきた」
麗美が、ふっと口を開いた。
「なら、いつものように、あたしがご飯作ってあげるからね」
鬼塚の顔が、わずかに引きつる。
「た、たまには…ジャンクフード食いてえんだけど…」
麗美の視線が、絶対零度に冷えた。
「…あたしのご飯食べたくないってこと?」
「う、嘘!嘘だから!あー今日の神崎の作る飯はなんだろうなー楽しみだなー」
鬼塚が冷や汗をかきながら、無理やり笑顔を作る。
麗美は、一文字ずつ区切るように言った。
「え、い、き、ち」
「な、なんでしょう?」
鬼塚が吃りながら答える。
「また間違えてる…神崎じゃなくて麗美」
麗美に訂正を要求され、鬼塚は渋々と口を開いた。
「……麗美」
麗美は、満足げに微笑んだ。
「ふふ、よろしい。 でも間違えたから…やっぱ今日もご飯の後…お、し、お、き、し、て、あ、げ、る❤️」
「う、嘘だろー!?勘弁してくれー!!」
寝不足確定した鬼塚の絶叫が、夜の住宅街に響いた。
夜風が、二人の間を吹き抜けていく。
吉祥学苑の、冷え切ったはずの夜は、少しだけ、温かくなっていた。
という訳でみやびの家庭環境でした。
完全には難しいですが、今回の件で相沢家は歩み寄るきっかけが出来た形になります。
次回もよろしくお願いします。