急ピッチで書いたので修正するかもです。
ガララッ、と三年四組の教室の引き戸が、どこか遠慮がちに開いた。
少し遅れて入ってきた鬼塚は、いつもなら大声を張り上げるところだが、今朝の足取りは驚くほど重い。
(……屋上の階段で、「職員会議忘れてた!」とか適当な嘘ついて逃げ出したばっかりだってのに)
教壇に教科書をドサリと置き、出席簿を開こうと視線を上げた――その瞬間だった。
窓際の席から、じっと自分を見つめていた麗美と、真っ正面から目が合った。
「ッっ……!!!!」
途端に、鬼塚の顔が耳の根元までカッと真っ赤に染まった。
朝、屋上の階段で麗美と鉢合わせた時、急に熱が上がって逃げ出した。
その場しのぎに嘘をついて背を向けたばかりだ。
だが、あれからほとんど時間が経っていない。
教室に入った瞬間に、またしても麗美と真正面から目が合ってしまうという、この最悪なタイミング。
逃げた直後にまた会うという事実が、さっきの嘘の薄さをさらに際立たせ、言い訳の余地を完全に潰していた。
それなのに、脳裏を過るのはやはりあの寝袋の中での生々しい残像。
雪の冷たさの中で、細い指に手を引かれ、制服の下……麗美の中学生らしからぬ豊満な柔らかい胸の感触を押し付けられた感覚が、指先にまで残っているような気がしてならない。
ガキだ生徒だと頭の中で必死に唱えれば唱えるほど、目の前で小首を傾げている麗美の唇や、制服越しでも分かる華奢な身体のラインが、いやに鮮烈に男の目を灼いてくる。
「あ、あー……なんだ…おめえら…席着けよ。朝の…その…ホームルームだホームルーム……」
鬼塚は激しく動揺しながら、完全に目が泳ぎまくっていた。
麗美の真っ直ぐな視線に耐えきれなくなり、あからさまに顔を背け、黒板の端やらに無理やり視線を逸らす。
誰が見ても「何かを隠して動揺している男」のそれだった。
(……職員会議とか言って逃げたくせに、こんなにすぐ会っちまった。しかも、こんなに間近で……)
そんな鬼塚の不自然極まりない態度を目の当たりにした瞬間、麗美の顔から、さきほどまでの穏やかな微笑みがすうっと消え失せた。
(……何よ、それ)
麗美の機嫌は、一瞬にして最悪のデッドラインへと急降下していった。
朝の階段ならまだしも、教室に入ってきて、せっかく目を合わせたというのに、あのあからさまな視線の逸らし方は何なのか。
まるで汚いものでも見るかのような露骨な拒絶。
自分の一途な好意を真っ向からドブに捨てられたような、強烈な苛立ちと寂しさが彼女の心を再び支配していく。
麗美は形の良い眉を不機嫌そうにつり上げると、ふいと顎を背け、冷たいトゲを孕んだ視線を窓の外へと投げた。
鉛筆を握る細い指先には、ミシミシと音が立ちそうなほどの力がこもっている。
そんな二人の冷え切った空気など露知らず、クラスのあちこちからクスクスという品性のない忍び笑いが漏れ聞こえてくる。
「いやー、大人の魅力っていうかさ、先生」
草野が、ニヤニヤしながら自分の携帯の画面を鬼塚に突きつけた。
「これ、今朝から学校中の掲示板とか、ウチのクラスの裏サイトに流れてるんだけど。先生、ずいぶんグレートなことしてんじゃん。 確かにこれはグレートティーチャーだわ」
画面に映し出されていたのは、一目見てそれと分かる、きわめて精巧な「鬼塚英吉が有名グラビアアイドルとホテルに入る合成写真(コラ画像)」だった。
「な……っ!!!???」
鬼塚の目が飛び出る。
いつもならギャグに走るところだが、今朝の鬼塚は夢のせいで脳が極限まで過敏になっていた。
夢の中での生々しいワード、あるいは長年ガキ扱いしていた麗美を一人の女性として強烈に意識せざるを得なくなっている己の動揺が重なり、一瞬だけ思考が完全にフリーズする。
その鬼塚の、明らかに顔を赤らめて目を泳がせている様子を見て、反鬼塚側の生徒たちの間でヒソヒソという声が広がった。
「おい見ろよ……鬼塚、明らかに動揺してるぞ」
「画像見せられた瞬間にフリーズしたし……やっぱり本物なんじゃねえか?」
「いや、さすがに合成だろ……でも、あんなに顔赤くしてるってことは、何か後ろめたいことあるんじゃ……」
「ホテル云々はともかく、女関係でなんかやらかしてるんじゃねえの?」
彼ら彼女らは鬼塚の動揺の原因を、完全にコラ画像の件だと勘違いしていた。
実際は麗美と目が合った瞬間の羞恥と夢の残像によるものだったが、そんな事情など知る由もない。
「ちょっと、みんな静かにしなさいよ!!」
教壇の鬼塚が固まっているのを見て、みやびが真っ先に椅子を蹴立てて立ち上がった。教室中に響き渡る凛とした声。
「こんなの、誰かがパソコンか何かで悪質に作った嘘写真に決まってるじゃない! そもそも、先生みたいな熱血バカ教師がこんな綺麗なアイドルとホテルに行けるわけないでしょ! いい加減なデマで騒ぐのやめなさいよ!」
昨夜の家庭訪問を経て、鬼塚への信頼を深めた今のみやびは言い方は悪いが、本気で彼のために怒っていた。
「みやびちゃんの言う通りだよ! 先生はそんなことしないもん!」
朋子も身を乗り出して叫び、吉川も「僕も、先生がそんなことするはずないと思います」と強く頷いた。
鬼塚側についたメンバーが、最初から鉄壁の盾となって鬼塚を守る。
クラスメイトたちは、つい数日前まで反鬼塚派の筆頭だったみやびの豹変ぶりに毒気が抜け、ヒソヒソという噂話は一瞬で霧散していく。
だが、その騒ぎの中で、周囲の温度を急激に氷点下へと引き下げるような、凄まじい圧力を放つ者がいた。
「…………」
その正体は神崎麗美だった。
麗美はチラリと草野の携帯画面に視線を走らせると、それが一目で雑に切り貼りされた「合成写真」であることを瞬時に見抜く。
だからこそ、その事実が彼女の逆鱗に触れたのだ。
今朝から自分を避けてまともに目すら合わせようとしない最愛の男が、こんな安っぽい工作のオモチャにされ、挙句の果てに男とならまだしも、他の「女」と並んで写っているという事実そのものが、最悪に不愉快だった。
合成であることなど関係ない。
あたしの英吉が、クラスのガキどもの冷やかしの道具にされている――。
ましてや、それが「女」との2ショット写真などと……
許せる筈がなかった。
「……ふざけんなよ……」
声は、地を走るように低く、冷たかった。
麗美は持っていた鉛筆を、指が白くなるほどの力で握りしめ、遂にへし折ってしまう。
その美しいオッドアイの瞳の奥には、すべてを凍りつかせるような、静かでドス黒い怒りの炎が揺らめいている。
いつもなら余裕で鼻で笑い飛ばすはずのチート天才が、己の男を安易に汚された侮辱と鬼塚への苛立ちをすべて巻き込んで、完全に「静かにキレて」いた。
その異常なまでの殺気に最前列の空気がピキピキと凍りついていく。
あまりに異様な麗美の放つオーラに反鬼塚派の生徒達は恐怖から本能的に押し黙るしかなかった。
だが、その様子を、同じく最前列の隅で冷めた目で見つめている男がいた。
菊地善人。
クラスで麗美に次ぐIQ180を誇る秀才であり、情報処理の天才。
彼は携帯の画面から視線を上げると、眼鏡の奥の切れ長な瞳を細め、フッと嘲笑を浮かべた。
「……神崎さんも相沢さんも、それに他の二人も……ずいぶんとあの野蛮な男に毒されたものだね。 何があったかは知らないが、擁護に回るとは……でも、哀れだな。デジタルデータの世界においては、感情論なんて何の防壁にもならないというのに」
菊地はため息をつくと、携帯のボタンを叩く。
クラスの黒幕…裏のリーダーであったみやびが鬼塚に牙を剥くのをやめたのなら、今度は表のリーダーであるこの自分が絶対的な「頭脳」をもって、この三年四組に集る、あの金髪のハエを叩き潰すまでのこと。
麗美は、窓の外を睨みつけたまま、菊地の画面に微かに映る文字列と、クラスの裏サイトのログを脳内で一瞬にして逆探知していた。
その口元が、ピキリと三日月のように不気味な笑みの形に歪む。
(英吉のあの態度は死ぬほどムカつくけれど……それとこれとは話が別よ。あたしの男に、こんな安っぽい工作で泥を塗ろうなんていい度胸じゃない。……地獄を見せてあげるわ、菊地……)
険悪な雰囲気に包まれるクラスだったが、それは、鬼塚が冬月に呼ばれ、職員室に向かったことで終わりを告げた。
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ー
「お、鬼塚君……。こ、これは一体どういうことかね……っ」
職員室にて、内山田教頭がプリントアウトされた例のコラ画像を手に、どこかビクビクしながら鬼塚に詰め寄ってくる。
少し前に【鬼の英吉】と化した鬼塚に完全にブチギレられ、挙句の果てに失禁させられたあの恐ろしい記憶が、内山田の脳裏には未だに強烈なトラウマとして焼き付いている。
鬼塚に対する底知れない恐怖心のせいで、一時的にではあるが、今の内山田はすっかり大人しく、鬼塚に食ってかかるかつての獰猛な牙を完全に剥がされた状態だった。
「あー、教頭。それ、偽物っすよ」
自身の机で椅子に座り、耳をほじりながら、鬼塚が緊張感のない声で言う。
「ひっ……! 偽物、かね……? し、しかし、誰がどう見ても君の顔が写っているのだが……っ」
「だから、今の時代のパソコンってのはスゲエんですよ」
鬼塚がそう言うと、職員室の扉が開き、麗美が「失礼します」と言って中に入ってくる。
「……はい。 先生、これ……」
「うっ!?……さ、サンキュー……か、神崎!……ほ、ほら、見てくださいよ」
麗美は挙動不審な鬼塚を横目で睨むと、持参した自分のノートパソコンを教頭の目の前に差し出した。
画面には、そのコラ画像の解析データが表示されている。
「教頭先生。この画像のjpegデータには、特定の編集ソフトの固有デジタル署名が残ってるわ。 背景のホテルの照明のルクスと、鬼塚先生の顔の陰影の角度が3.2度ズレてる。これは100%間違いなくコラ画像よ。 これ以上根拠のないデマを鵜呑みにして騒ぐと、学校の信用を落としたとして、あなたが理事長に叱責されることになると思うけど?」
「う、ぐ……か、神崎さん……。わ、分かった、今日のところは、これで引き上げよう……っ」
鬼塚への消えない恐怖心と麗美の圧倒的な論理に怯えるように、内山田は油汗を流しながら早々に退散していった。
「……それじゃ、先生……あたしは教室に戻るから……昼にまた屋上で……」
「お、お、おう! またな!……」
「………」
ー
ー
ー
昼休み
屋上のプレハブ小屋には鬼塚と麗美、そしてみやび、朋子、吉川の5人が居た。
「みやび、朝は教室でありがとな。おめえが真っ先に怒鳴った時、正直ちょっとビビったぜ」
「ふ、ふん! アンタのためじゃないわよ! クラスの裏サイトに変な画像を流して、四組の品位を落とす奴が許せないだけだから!」
みやびはぷいと顔を背けたが、その頬は照れからか微かに赤い。
「でも、やったのは間違いなく菊地くんだね」
吉川が真剣な顔で言った。
「此処に来る前、パソコン室のログを見たんだ。そうしたら菊地くんの個人アカウントから、今朝の早くに大容量の画像ファイルがサーバーにアップロードされてるのが分かったんだ」
「やっぱりそっか…」
「まっ、予想はしてたけどね…吉川くん、そのまま泳がせときなさい」
「えっ!? 良いの?」
「菊地くんの頭脳は確かに優秀よ。…でもね、上には上がいる……そうでしょ麗美?」
「ええ。 井の中の蛙に思い知らせてやるから……格の違いをね」
麗美はそう言うと、優雅に紅茶をすすりながら、鬼塚の隣へと歩み寄る。
その距離が近くなった瞬間、鬼塚は「ビクッ」と身体を強張らせ、またしても露骨に一歩下がった。
現実世界で麗美を見るたび、あの夢の……寝袋の中で細い身体を抱き寄せ、柔らかい感触を掌に覚えさせられた残像が蘇り、動揺を隠せない。
「むうっ……」
そんな鬼塚の行動に、麗美は不機嫌そうに頬を膨らませる。
「ち、違うんだよ神崎さん! ちょっと俺、最近睡眠不足でよォ! 肩が凝ってんだよ肩が! おめえみたいなチート天才が近くにいると、知恵熱が出そうなんだわ!」
「肩凝りと知恵熱でそんなに飛び退くわけないでしょ! ……それに、『神崎さん』って何よ! 苗字呼びだけで飽き足らず、その上なんで『さん』なんてつけるのよ!昨日の夜は、あんなに優しく『麗美』って名前でたくさん呼んでくれたくせに!」
その麗美の言葉に、隣にいたみやびが大きくため息をつきながら、半ば呆れ果てたような顔で二人を交互に見つめた。
「はぁ……ほんと、仮の恋人とは思えない程仲がよろしいことで。朝から鬼塚が弾丸みたいに逃げ出すから何かと思えば、結局あんた達、ただの痴話喧嘩なわけ? ごちそうさま」
「み、みやびちゃん、……!」と朋子が顔を赤くしてオロオロするのを他所に、みやびはあからさまにジト目で呆れ顔を作っている。
そんな会話の最中、鬼塚は、未だ冷めやらぬ夢の衝撃を一人で反芻していた。
(クソが、ただの夢にしてはやっぱり辻褄が合いすぎなんだよ……!……。あれが、ただの夢なんかじゃねえとしたら……いや、考えるのは後だ。まずはあのクソガキの鼻をへし折りに行くのが先だぜ)
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ー
その日の夜、吉祥学苑のパソコン室。
菊地は、無人の教室内で不気味に画面を見つめていた。
「次のコラ画像は、鬼塚を完全にハメる決定的なやつを――」
菊地がキーボードを叩こうとしたその瞬間、画面が突如として激しく明滅し、すべての操作が完全にロックされた。
「な、なんだ!? ウイルス……だと!? ……バカな、俺のセキュリティを突破するなんて――そんなことが出来るヤツがいるわけ……ま、まさか……」
驚愕する菊地の画面に、優雅に紅茶を飲む女性のアイコンが表示され、続いてスピーカーから、麗美の冷徹な声が響き渡った。
『無駄よ、菊地くん。あなたの組んだ拙い暗号化なんて、あたしの前じゃ赤ん坊の落書き同然だわ。アクセスログ、IP、あなたのハードディスクの隅々まで、たった今完全に掌握させてもらったから』
「……やはり神崎麗美お前か!?……ど、どうして…っ!」
『どうして? わからないの? あなたが勝手に鬼塚先生を…英吉をオモチャにしようとするなんて、万死に値するわ。……ああ、そうそう。お仕置きとして、あなたのハードディスクの隠しフォルダ、今ここでクラス全員の携帯に一斉送信してあげてもいいのよ?』
画面に表示されたのは、菊地が誰にも見られたくない、中学生男子相応の「非常に恥ずかしい秘密のデータ」の数々だった。
「――っ……!!?」
額から滝のような汗を流し、自分の絶対的なプライドをデジタルの領域で完膚なきまでに粉砕された菊地は、絶望のあまりキーボードの上に突っ伏し、その直後、発狂したようにパソコン室を飛び出して行った。
「あーあ、完全に心が折れちゃったみたいね。後は、英吉。あんたの出番よ」
プレハブ小屋でパソコンを閉じた麗美が、ニヤリと笑う。
麗美に格の差を見せつけられ、自暴自棄になり、吉祥学苑の裏手で一人、夜空を見上げて「俺の頭脳なんて、結局その程度か……学校なんて、もういいや……」と呟いていた菊地の前に、凄まじい爆音と共に紅蓮のZⅡが急停車した。
「おい、菊地。乗れ!」
「なぁ!?」
鬼塚は菊地の襟髪を掴むと、無理やりZⅡのリアシートへと放り込み、アクセルを全開にした。
爆音と共に、夜の街へと消えていく。
しばらくの沈黙の後、菊地が低い声で言った。
「……今更、何がしたいんですか。僕のことはもう、どうでもいいでしょう。あなたをハメようとして神崎さんにあっさりと完膚なきまでにやられた、ただの負け犬ですよ」
「てめえ、神崎に負けたからって、ウジウジ腐ってんじゃねえぞ! ネットの中でどんだけ天才気取ってようがな、目の前のダチの顔も見えなくなったら終わりだ! みやびも、吉川も、朋子もな……てめえを切り捨てるためにあん時怒ってたんじゃねえ! 心配してんだよ、バカ野郎! 神崎は化けモンの頭脳の持ち主だから勝てなくて当然だ! だけどな、俺はてめえのそのすげえ指先を、初めて見たときマジで『すげえ』と思ったんだわ! 人をハメるためじゃなく、もっと面白いこと、面白い未来をダチ(仲間)と分かち合うためにその頭を使え! てめえの人生、こんなところで千切れさせんじゃねえぞ!!」
かつて、夢の中で麗美を救った時と同じ、魂の底からの叫び。
バイクの猛烈な加速と、鬼塚の背中から伝わる圧倒的な熱量に、菊地は一度だけ強く目を閉じた。
(……馬鹿みたいだ。こんな熱量で、俺みたいな奴にまで本気で向き合うなんて)
それでも、指先は自然と鬼塚の背中を掴んでいた。
「……まったく。乱暴で、理不尽で……本当に、最低で最高の教師だ……」
菊地は小さく笑うと、鬼塚の背中を、今度はしっかりと掴んだ。
しばらく走った後、鬼塚がふと思いついたように口を開いた。
「……ところでよ菊地。さっきのコラ画像……今度改めて、作り直してくんねえか?」
「え……?」
菊地が少し間を置いてから、呆れたような声で聞き返す。
「良いですけど……誰の?」
「あ? そりゃ、お前が作ったやつみたいな……ホテルに入ってるっぽい、それっぽい奴だよ。ただ、相手は……」
鬼塚はそこで言葉を詰まらせた。
脳裏に浮かんだのは、間違いなく麗美だった。
朝からずっと避けてばかりいた、あの真っ直ぐなオッドアイ。
雪の中で凍えていた細い身体を抱き寄せた感触。
掌に押し付けられた、制服の下の柔らかさ。教室で目が合った瞬間に耳まで熱くなった、あの華奢なライン。
(……くそ、なんで今さら神崎の顔が……)
「――っ!?」
次の瞬間、鬼塚の鼻から勢いよく赤いものが吹き出した。
「お、おい!? 先生!?」
「だ、大丈夫だ! 大丈夫だって!! ちょっと、想像しすぎちまっただけだ! 勝手にブレーキ踏むなよ菊地! 俺がハンドル握ってんだから!! うおっ!?」
鼻血を拭おうとした手がハンドルを僅かにぶらし、ZⅡが大きく蛇行する。
対向車線に飛び出しそうになる直前で、鬼塚が必死に立て直した。
「あっぶな……というか先生。今、誰を想像して鼻血出してたんですか?」
「うるせえ!! 黙ってろ!! てめえは前見てろ!!!」
菊地は小さくため息をついた。
(……今の反応。想像した相手、神崎だな、完全に)
彼は苦笑しながら、鬼塚の背中をしっかりと掴み直した。
(成る程……あんたら二人、お似合いだよ)
ー
ー
ー
翌朝の吉祥学苑三年四組は、大爆笑に包まれていた。
【内山田教頭のハゲ頭が、満月のように夜空に輝き、それを狼男が拝んでいる】という爆笑画像が携帯画面に映り、真っ赤になって逃げ出す教頭を見送りながら、みやびも朋子も吉川も、菊地が本当の仲間となったことを確信し、嬉しそうに笑い合っていた。
そして、夜。
吉祥学苑の喧騒が完全に引き、静寂が支配する屋上のプレハブ小屋。
室内には、鬼塚と麗美の二人きりだった。
遠くの街灯がぽつぽつとオレンジ色の光を放ち、虫の音が静かに響いている。
麗美が淹れた紅茶の湯気が、室内のわずかな明かりに照らされてゆらゆらと揺れていた。
いつもなら鬼塚が漫画を読んでいるか、麗美がからかいながらイチャイチャが始まる時間だが、今夜の空気は明らかに違っていた。
鬼塚はソファの端に深く腰掛け、紅茶に手を付けることもなく、じっと己の右手のひらを見つめたまま動かない。
その顔はどこか険しく、赤みが引かないまま深刻に張り詰めていた。
麗美を「ガキ」だと頭でどれだけ唱えようとしても、昼間の教室での胸の高鳴り、そして二人きりになったことで意識してしまう密やかな女の子の匂い。
夢で強制的に触らされたあの感触が、どうしても頭から離れてくれない。
(…やっぱ夢にしちゃリアル過ぎるんだよな…)
鬼塚は深い疑問を抱えたまま、なおも己の手を凝視し続ける。
麗美は、そんな鬼塚の様子を少し離れた椅子からじっと見つめていた。
朝の遭遇、教室での視線の逸らし、放課後の動揺、そして夜になっても自分を直視できずに手を凝視して硬直している男の姿。
からかうような笑みはすでに消え、麗美は静かに立ち上がると、鬼塚の目の前へと歩み寄り、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。
下から鬼塚の顔を覗き込むようにして、真っ直ぐに彼を見つめる。
鬼塚はまたしても身体を震わす。
それを見た麗美は静かに息を吐くと鬼塚に声をかけた。
「……ねえ、英吉」
麗美の声は、優しく、けれど核心を突く静けさを帯びていた。
「あんた、朝からずーーっと変よ。……あたしの顔を、一度もちゃんと見てくれない。……さっきから、あんたの心臓、壊れそうなくらい大きな音で鳴り響いてるわよ」
麗美はそっと手を伸ばし、鬼塚が凝視していた右手の甲に、己の柔らかい指先を重ねた。ビクリ、と鬼塚の大きな身体が跳ね上がる。
「工作写真の件はもう片付いたし、菊地くんも大人しくなった。いつもなら『グレートだぜィ!』って感じに笑うはずじゃない。……なのに、どうしてそんなに怯えた目で、あたしを避けるの? 言いなさいよ、英吉。あんたのその頭の中で、一体何が起きてるっていうの?」
下から自分を真っ直ぐに見上げる麗美の距離。
重ねられた手の温もりが、あの生々しい「秘密の感触」を呼び起こす。
鬼塚はゴクリと喉を鳴らし、耐えきれなくなったように、ついに心の奥底に堰き止めていた言葉を吐き出した。
「……夢を、見たんだよ」
「え……? 夢?」
「ああ。……今朝、お前に会う直前まで見てた夢だ。ただの悪夢だと思って片付けようとしたが、どうしても頭から離れねえくらい、クソリアルな夢だったんだわ」
鬼塚は視線を泳がせながら、低く掠れた声で語り始めた。
「夢の中のお前はよ……ビルから飛び降りたり、学校を爆破したりする、とんでもねえ問題児だった。それだけじゃねえ。お前が隠してた出生の秘密、遺伝子操作がどうとかいうビラが学校中にばら撒かれて、お前はスプリンクラーの雨の中で泣いてやがった。……それから、俺がバイクの後ろに吉川乗せて千葉のスキー場まで追いかけて、雪に埋もれて凍りつきそうになってるお前を見つけてよ……」
鬼塚はそこで一度言葉を詰まらせ、己の右手を軽く握った。
「……雪の中で、凍えてるお前を抱き寄せたんだ。細い身体が、びっくりするくらい冷たくて……それで、お前が俺の手を掴んで、自分の胸に……」
「――っ!!!???」
その瞬間、今度は麗美の身体が、電流を流されたかのように大きく跳ね上がった。
美しい瞳がこれ以上ないほど見開かれる。脳裏に凄まじい衝撃が走っていた。
(どうして……!? どうして英吉が、あたしのあの夜の秘密をそんなに鮮明に『夢』で見てるの……!? あたしたちが衣服を脱いで命を繋いだあの寝袋の出来事を、どうしてこの人が知ってるわけ……!? 手を引いて胸に押し付けた、あの感触まで……!)
さしもの天才少女も、鬼塚の口から飛び出した正確すぎる「前の世界の光景」に、内心で凄まじい大パニックと動揺を起こしていた。
もし彼がそこまで正確に夢に見たのだとしたら、あの寝袋の暗闇で、自分が彼の大きな手を引いて胸に押し付けたあの感触まで完全に見てしまっているということになる。
だから朝から自分を直視できず、一人の女性として意識しすぎて、バカみたいにドギマギしていたのだと、すべての合点がいった。
麗美は耳の裏まで一気に真っ赤に染まりそうになるのを、超天才的な自制心で必死に抑え込んだ。
ここで取り乱しては、これまでの優位性がすべて崩壊してしまう。
彼女は繋いだ手をすっと離すと、ふいと立ち上がり、いつもの不敵な笑みを無理に作り出そうとした。
しかし、声はわずかに硬く、言葉が少し詰まる。
「……ふふ………何言ってるのよ、英吉。そんなの、ただの夢に決まってるじゃない。……あんた、あたしのことをそんな風に、雪の中で抱き寄せたり、一緒の寝袋に入ったりする……その、破廉恥な妄想を、日頃から頭の中で膨らませてたんじゃないかしら? ……ほら、そんな下らないこと考えてないで、紅茶を飲みなさいよ」
「なっ、ち、ちがっ……! 妄想なんかじゃねえよバカ野郎! マジであまりにもリアルすぎて、本当に俺たちがどこかで体験してきたみたいに――」
「……それ以上言ったら」
麗美は一度言葉を切り、鬼塚を真正面から見た。いつもの余裕のあるからかいではなく、どこか必死さを滲ませた声で、静かに言い放つ。
「……明日からのお弁当のオカズ、全部激辛ハバネロにしてあげるからね。本気で」
「ひぎぃっ!?」
麗美に完全に「ただの夢」と強い調子ではぐらかされ、鬼塚はそれ以上追及することができず、顔を真っ赤にしたまま大慌てで口を噤んだ。
しかし、麗美のその、どこか余裕を装いながらも微かに震える声と、ほんの少し赤くなった耳たぶを、鬼塚は見逃さなかった。
彼の胸の中の違和感は消えない。
何より、目の前で強がる麗美の華奢な身体のラインを見るたびに、手のひらがジンジンと熱くなるような錯覚に襲われ、無意識に彼女を一人の女性として強烈に捉えてしまう自分に、ただただ翻弄されるばかりだった。