村井編になります。
翌朝。
三年四組の教室は、菊地の一件が一段落したせいか、昨日よりは静かだった。
しかし、その静けさの中に、鬼塚だけが妙に落ち着かない空気を漂わせていた。
教壇に立った鬼塚が、窓際の席からこちらを見ていた麗美と目が合う。
昨夜のプレハブでの会話が、まだ頭の片隅に残っている。
雪の中で抱き寄せた感触。
掌に押し付けられた柔らかさ。
鬼塚は思わず視線を逸らしかけた。喉が乾く。
黒板にチョークを置こうとした指が、わずかに震えていた。
「……ッ」
その小さな動揺を、村井がじっと見ていた。
村井は机に肘をつき、低い声で言った。
「……先生。昨日から妙に挙動不審だな。コラ画像の件が終わったからって、安心してる場合じゃねえぞ」
「は? 何がだよ」
「母さんのことだ。工事現場で働いてる母さんが、最近『学校の先生が家に来るかもしれない』って言ってた。家庭訪問とかでな。てめえが来るんじゃねえかって、俺は心配してんだよ」
教室の空気が、わずかに張り詰めた。
誰かが小さく息を呑む音がした。
みやびが振り返る。
「村井。何を言ってんの。鬼塚先生が、あんたのお母さんに手を出すわけないでしょ」
「そんなの分かんねえだろうがよ。 母さんはまだ若い。工事現場で働いてるし、男の視線なんていくらでも浴びてる。こいつみたいなのが近づいたら、どうなるか分かったもんじゃねえ」
朋子が小さく首を傾げ、吉川が真剣な顔で続ける。
「村井くん。鬼塚先生は、そんなことしないと思うよ。画像の件だって、やっぱり間違いだったし……」
菊地が、静かに口を開いた。
「……村井。お前、昨日の一件でまだ何も分かってないのか? 先生が、そんな軽い気持ちで女の人に手を出すような男じゃないってことくらい、俺でも分かるぞ?」
村井は、菊地を一瞥した。
「……てめえ、昨日までこいつを敵視してた側だろ。急に何言ってんだよ」
「敵視してたのは、お前みたいに勝手に『守らなきゃいけないもの』を決めつけるヤツだと思っていたからだ。先生は違う」
村井は舌打ちをした。
麗美が、静かに口を開いた。
「……村井くん。鬼塚先生は、まだあなたのお母さんとまともに会ってすらいない。なのに、そんな心配をするってことは、これから『会う』ことになる可能性が高いってこと。家庭訪問か、何かのトラブルか……どちらにせよ、村井くんが過剰に反応すれば、かえって話が大きくなる」
村井は、もう一度舌打ちをした。
「……神崎。てめえは、最初からこいつの味方みたいな顔してるけど、本当に何も知らないわけじゃねえだろ」
「知らないわよ。ただ、事実を言ってるだけ。鬼塚先生は、あんたの母親に手を出すような男じゃない。少なくとも、あたしが知ってる限りではね」
最後の一言は、明らかに村井に向けたものではなかった。
鬼塚の肩が、またビクリと跳ねる。
麗美の視線が、一瞬だけ自分に向けられたのを、鬼塚ははっきりと感じ取っていた。
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放課後。
鬼塚は、麗美に「面倒なことになる前に、先に顔を合わせておいた方がいい」と説得され、村井の自宅を訪れた。
古いアパートの二階。
廊下の蛍光灯が、一つだけ点滅している。
インターホンを押すと、作業着のままの村井の母親……村井樹里亜がドアを開けた。
髪は後ろで簡単に束ねられ、額に汗の跡が残っている。
「……? あの…どちらさまでしょう?」
「突然すみません。あたしは村井くんのクラスメイトの神崎麗美です。こちらは担任の鬼塚です」
「お、鬼塚っス!」
麗美が先に頭を下げた。鬼塚も慌てて続く。
樹里亜は一瞬驚いたが、すぐに二人を招き入れた。
室内は狭かったが、丁寧に片付けられている。
テーブルの上には、工事現場で使うヘルメットと、まだ若い女性のものとは思えない厚い作業手袋が置かれていた。
「國男が何かしたんですか?」
「いえ。むしろ逆です。村井くんが、先生のことを心配してるみたいで」
麗美が説明すると、樹里亜はため息をついた。
「あの子また……先生に、変なこと言ってませんでしたか?」
「言ってましたよ。でも、俺、そんなことする気ねえっスから」
樹里亜は少し笑った。
その笑みは、疲れていたが、どこか柔らかい。
「全くあの子は……申し訳ありません。 國男は昔から、私に近づく男の人をみんな警戒するんです……でもあの子、口は悪いですけど、根は真面目なんです」
そのとき、玄関のドアが勢いよく開いた。
「母さん、ただいま――って、え?」
帰ってきた村井が、室内に鬼塚と麗美がいるのを見て固まった。
制服の鞄が、床に落ちる。
「てめえら……なんで家にいんだよ! やっぱり母さんを狙って…」
「村井くん。落ち着きなさい。あたし達は、お母さんに誤解がないように説明しに来ただけよ」
麗美が静かに言う。
村井はまだ警戒した目で鬼塚を見ていたが、樹里亜が「國男、先生たちは何も悪くないの」と窘めると、渋々椅子に座った。
樹里亜がお茶を淹れながら続けた。
湯気の立つカップが、三人の前に置かれる。
「先生。國男の父親は……私が中学の頃に妊娠が分かった時点で、逃げちゃったんです。親にも見放されて、國男と二人きりでここまで来ました」
「……そうだったんスか」
鬼塚が、低い声で言った。
「村井。 てめえの母ちゃんが、一人でてめえをここまで育てたんだろ。それだけで十分すげえじゃねえか。逃げた男のことなんか、てめえが今さら気にする必要ねえよ……それに、さっきも言ったけどよ、俺はお前の母ちゃんに手を出す気はねえから安心しろ」
村井の目が、わずかに揺れた。
テーブルの下で、拳を強く握りしめているのが分かった。
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次の日。
樹里亜の働く工事現場に、鬼塚と村井、みやび、朋子、吉川、菊地、そして麗美も訪れた。
麗美は村井の前では必要以上に近づかず、少し離れていたが、やり取りがはっきり聞こえる位置で状況を見守っていた。
現場は、結婚式場の改修工事だった。
埃っぽい空気の中に、機械の音と、遠くで誰かが怒鳴る声が響いている。
樹里亜がショベルカーの操縦席から降りてくると、現場の監督が声をかけた。
「村井さん、ちょっといいか。式場の中の確認で、モデルになってくれないか。着付けはすぐ済むから」
樹里亜が「え?」と驚く。
監督が続ける。
「今日、急にモデルがキャンセルになってさ。式場の完成イメージを写真に残したいんだ。村井さん、顔立ちがいいから、ぜひ頼む」
樹里亜は少し戸惑ったが、最終的に了承した。
村井の顔が、みるみる青ざめる。
「母さん! やめろよ! そんなことする必要ねえだろ!」
「國男、ちょっとだけよ。お金も出るし……」
「金の問題じゃねえ!」
村井が監督に掴みかかろうとした瞬間、鬼塚が間に入った。
「おい、村井。落ち着け」
「てめえ、黙ってろ!」
「黙ってられるか。てめえの母ちゃんは、てめえが生まれる前から、自分で決めて生きてきたんだ。逃げた男がいたからって、今さらてめえが全部決めていいわけじゃねえ。母ちゃんが『やる』って言ったなら、それを止める権利はてめえにねえ」
村井の拳が、鬼塚の胸元を掴む。
「……てめえに、何が分かるんだよ」
「分かるよ。女手ひとつで、てめえをここまで育てた。それだけで十分すげえ。それ以上に、母ちゃんを『誰かに取られるもの』として見てるてめえの方が、よっぽど母ちゃんを侮辱してんだよ」
みやびが、静かに口を開いた。
「村井。あなたが本当にお母さんを大切に思ってるなら、お母さんが自分で選んだことを、否定しないで」
菊地が、小さく続けた。
「……村井。お前も、お母さんを『守らなきゃいけないもの』として見てるうちは、本当にお母さんのことを分かってねえよ。少なくとも、俺はそう思う」
少し離れた場所で、麗美が静かにそのやり取りを見ていた。
樹里亜が白いウェディングドレスを着て現れたとき、村井は言葉を失った。
作業着とは全く違う、柔らかな白い布が、彼女の体を包んでいる。
二十代後半の若々しさと、母親としての落ち着きが同居した姿だった。
「……母さん」
「國男。大丈夫よ。ただの仕事だから…それに…一度で良いから着てみたかったんだ」
感慨深げに樹里亜は微笑む。
鬼塚が、村井の肩を叩いた。
「……すげえな。てめえの母ちゃん、本当にすげえよ」
麗美は何も言わなかった。ただ、鬼塚の背中を静かに見ていた。
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夕方
プレハブ小屋に村井が初めて自分から来た。
鬼塚、麗美、みやび、朋子、吉川、そして菊地も揃っている。狭い室内に、七人の息遣いが重なる。
「……鬼塚。俺、今日……母さんのこと、ちょっと考えた」
「ああ」
「母さんは、俺が守る前に、自分で自分を守ってきた。それを……俺が全部否定してたみたいで、なんか……腹立たしい…母さんのこと分かってるつもりが、全く分かっちゃいなかったんだな……」
「腹立てよ。ただし、母ちゃんにじゃねえ。てめえの中の、勝手な思い込みに腹を立てろ」
村井は、小さく息を吐いた。
「……分かった。もう、変な騒ぎは起こさねえ。ただし……てめえは、まだ信用しきれてねえからな! 母さんを狙ってねえのが本当かまだ分からねえし」
「だから狙ってねえよ。 まっ、とりあえずはそれでいい」
みやびが、少し笑った。
「村井。あんたも、ようやく少しは大人になったわね」
「うっせーぞ、みやび!」
菊地が、静かに言った。
「……村井。お前がそう思えるようになったなら、それでいい」
村井は「お前もうるせえ!」返しながらも、否定しなかった。
そして、夜が更けた頃。
村井たちが帰り、麗美と二人きりになったプレハブで。
麗美が紅茶を淹れながら、静かに言った。
「……英吉。村井くん、少しは動いたわね。でも、まだ完全に信用したわけじゃない」
「ああ」
「現場では、あなたがあんな風に言うとは思わなかった。母さんのことを、ちゃんと『一人の人間』として見てた」
「……てめえ、見てたのか」
「見てたわよ。離れてたけど、全部聞こえてた。英吉が、村井くんに『母ちゃんを侮辱してる』って言ったとき、あたし、ちょっとだけ安心したの」
「安心した?」
「ええ。あなたが、ただの教師としてじゃなくて、ちゃんと人として向き合ってるのが分かったから。でも」
麗美はカップを鬼塚の前に置き、少し距離を詰めた。
「でも、これからお母さんの職場で何か起きるかもしれない。英吉がそこへ行くことになる前に、あたしが先に手を打っておく」
「てめえ、また勝手に動くのかよ」
「勝手じゃないわ。村井くんじゃないけど、あたしも英吉に余計な女の人に近づかないように、先に道を作っておくだけ。それに」
「それに、何だよ」
「……昨夜の話、まだ終わってないでしょ。あなた、まだあの夢のこと、気にしてる」
鬼塚は、それ以上言葉を続けなかった。
麗美は少しだけ微笑んで、ソファの端に座った。
「紅茶、冷めないうちに飲んで。あなたが変なこと考えないように、あたしがいる間に」
「……うるせえ」
「うるさいのは、あなたよ」
ー
ー
ー
その後、簡易式ソファで、鬼塚は疲れから浅い眠りに落ちていた。
夢の中は、白い病室だった。
ベッドの上に、管だらけの自分自身が横たわっている。
意識はない。
モニターの音だけが、規則正しく、しかし弱々しく響いていた。
何故か、植物状態。
一目で死にかけているとわかる。
病室には、冬月と、みやび、朋子がいた。
疲れ切った顔で、ベッドの傍に座っている。
その時、扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、私服姿の麗美だった。
普段の制服ではなく、シンプルなヘソ出しTシャツとジーンズ。
息を切らして、必死の形相で室内に飛び込んでくる。
「……先生……!?」
麗美の声が、震えていた。
彼女はベッドの上の自分を見た瞬間、その場に立ち尽くした。
オッドアイが大きく見開かれ、唇が小さく震える。
「……嘘、でしょ……? なんで……なんでこんなことに……」
冬月が、静かに声をかけた。
「神崎さん。落ち着いて」
しかし、麗美は聞いていない。
彼女はゆっくりとベッドに近づき、鬼塚が死にかけている姿に顔を青ざめ、絶望の表情をすると、おもむろに自分の左手を持ち上げた。
その掌には、カッターが握られていた……
「……ごめんね、先生。あんたがいないなら……あたしは、もう……」
涙が、頬を伝う。
麗美は左手首に刃を当て、静かに力を込めた。
ブシュと鮮血が噴き出る。
その瞬間、夢の中の鬼塚の血の気が、一気に引いた。
(……やめろ……やめろよ……!)
麗美の左手首から溢れる赤い血を見て、胸の奥が凍りつくような恐怖が走った。目の前で、彼女が自分の後を追おうとしている。
自分がこのまま死んだら、麗美も死ぬ。その可能性が、現実味を帯びて迫ってくる。
「神崎さん!! やめて!!」
冬月が真っ先に飛びつき、麗美の腕を掴む。
みやびと朋子も麗美を背後から押さえつけ、慌ててカッターを取り上げようとする。
朋子が泣きながら「麗美ちゃん、そんなことしたらダメだよ……!」と抱きつく。
冬月が冷静に、しかし必死に止血しながら、麗美を押さえつける。
「神崎。今ここであんたが死んだら、鬼塚が目を覚ましたときに、何も残らない。あんたが生きてることを、ちゃんと見せてあげなさい」
みやびが麗美を押さえながら告げる。
麗美は抵抗しながら、声を上げて泣いていた。
左手首からは、まだ血が滲んでいる。
「……先生が、いないなら……あたしは……生きてる意味が、ないの……」
鬼塚は、その姿をただ見ていることしかできなかった。
麗美を失う。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
目が覚めた。
心臓が、激しく鳴っている。
掌が汗で濡れていた。隣で紅茶を淹れていた麗美が、驚いた顔でこちらを見る。
「……英吉? どうしたの? 顔、真っ青よ」
鬼塚は、答えなかった。
ただ、目の前にいる麗美の左手首を、じっと見つめていた。
さっき夢の中で見た、血の流れているその場所を。
「……なんでもねえ」
「嘘。今、すごくうなされてた……話して」
麗美が近づいてくる。
「……夢だ。ただの夢だ」
「また夢? 今度は、どんな夢?」
鬼塚は、低く言った。
「……お前が、俺の後を追おうとしてた。病院で、意識のない俺を見て……左手首を、カッターで切ろうとしてた。冬月や、みやびたちが止めなきゃ、本当に死んでた」
麗美の動きが、止まった。
「……は?」
「嘘じゃねえ。めちゃくちゃリアルな夢だった。お前が、泣きながら『先生がいないなら』って……」
麗美の顔が、みるみる赤く染まっていく。
「……ふ、ふざけないでよ。そんなの、ただの夢に決まってるじゃない! ほら、あたしの手首に傷なんてついてないでしょ?」
「……ああ。夢だよ」
「本当に夢? あんた、今もあたしの手首見てるじゃない」
「……見てねえよ」
「見てる。さっきからずっと。英吉、あんた、あたしのこと、どう思ってるの」
鬼塚は、答えなかった。
夢の中で麗美の血を見たときの、あの凍りつくような感覚が、まだ胸に残っている。
生徒だ、ガキだ、そう自分に言い聞かせようとしても、あの恐怖がそれを許さない。
麗美を失うかもしれない、という思いが、どうしても頭から離れない。
そして、その恐怖の奥に、もう一つ別の感情が静かに湧き上がっていた。
(……てめえを、ただの生徒として見れねえ)
そう思いながら、鬼塚はまだそれを口に出さなかった。
「……もう遅いし、あたしは帰るわ。紅茶、飲み残しちゃダメよ…また明日ね」
「……おう」
「英吉。もしまた変な夢を見たら、一人で抱え込まないで。あたしに言いなさい」
麗美がプレハブを出て行く。
一人になった鬼塚は、ソファに深く座り直した。
目を閉じようとするが、夢の中の光景が、どうしても頭から離れない。
(……くそ。なんで、こんな夢ばっか見るんだよ……)
何度目を閉じても、麗美の顔が浮かぶ。
左手首から血が流れていた、あの姿が。
生徒だ、ガキだ、そう自分に言い聞かせても、掌に残った血の感触と、失うかもしれないという恐怖が消えない。
そして、その恐怖の先に、麗美を一人の女として意識してしまっている自分がいた。
鬼塚は、深く息を吐いた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
表情は、いつになく真剣だった。
携帯を取り出し、番号を順に押す。
電話先は暴走族時代からの頼れる友人。
「……龍二、遅くに悪ぃな相談がある。 いつもの居酒屋に来てくれねえか? ついでに冴島も呼べ……ああ、それじゃあな」
電話を切った後、鬼塚はプレハブの窓の外を見た。
夜の街灯が、遠くでオレンジ色に光っている。
夢の余韻は、まだ消えていなかった。
しかし、少なくとも今夜は、一人で抱え込むのはやめようと思っていた。
鬼塚の中で何かが、確実に動き始めていた。
という訳で村井編はこのような形となりました。
文才なくて申し訳ありません。
鬼塚は原作終盤の自身が植物状態になった際に、麗美が手首を切って自殺を図った時のことを夢で見て、彼女を失う恐怖を覚えました。
これにより、麗美のことを更に意識することになりましたね。
次回は鬼塚が友人達に相談する回となります。
果たしてどうなるのか?
次回もよろしくお願いします。