杏子編です。
会場を出たあと、三人は学校に戻り、屋上のプレハブ小屋に移動した。
窓の外は、まだ四月の終わりの風が吹いている。
プレハブの中は、いつものように少しだけ狭く、落ち着いた空気があった。
蛍光灯の光が、わずかに黄色く傾いている。
鬼塚はソファに座り、麗美がその隣に座っている。
杏子は向かいの椅子に座り、少しだけ視線を落としていた。
「……で、相談ってのは何だ」
鬼塚が低く言うと、杏子は小さく息を吸った。
「……その前に、一つ確認したいことがあるの」
「何だ」
杏子が、二人を交互に見た。
「……この前、鬼塚先生が何か言った時に、神崎さんが『比喩よ』って恋愛関係を否定してたじゃない。でも……あの時の二人の雰囲気、明らかに違った。嘘だって、なんとなく察してた」
麗美が、静かに杏子を見た。
「……そう」
「本当に、付き合ってるの?」
杏子の声は、いつものツンとした調子ではなく、どこか慎重だった。
麗美は、鬼塚の横に座ったまま、少しだけ思考を巡らせる。
(上原さんはツンデレだけど、根はとても優しいと知っている。だから、ここで隠す必要はない…それに彼女の目…成る程、そういうこと)
「……英吉。認めても大丈夫よ」
鬼塚が、小さく息を吐く。
「……良いのかよ?」
「ええ、彼女なら信用出来るから大丈夫」
麗美が、はっきりと言った。
「分かった。……上原、お前の言う通り、俺と麗美は本当に付き合ってる」
「仮の恋人とか、茶番とか、そういうんじゃない。本気よ」
「!………」
杏子は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……やっぱりそうなんだ」
その声には、驚きよりも、どこか納得したような響きがあった。
「それで、相談っていうのは……吉川のことなんだ」
麗美の目が、【やっぱり】とわずかに細められる。
先程の杏子の目で瞬時に、杏子の相談が何なのかを見抜いていた。
「……吉川くんへの、片想い?」
杏子が、小さく頷く。
「っ!?……う、うん……」
プレハブの中に、短い沈黙が落ちた。
風が、窓を揺らす。
麗美が、静かに口を開いた。
「……詳しく、話して」
杏子は、しばらく言葉を選ぶように視線を落とした。
胸の奥が、ざわついている。
以前は、自分がいじめていた側だった。
吉川を、ただの弱い男として見ていた。
途中で自分はいじめに虚しさを覚え、加担しなくなったものの、依然として吉川はみやび達からいじめられ、報復が怖かった自分はそれを黙ってみているしかなかった…
みやびが改心し、悪事から手を引いたあと、吉川へのいじめは完全になくなった。
それでも、自分の中では「弱い存在、守ってあげる対象」以上にはなっていなかった。
なのに、この一ヶ月で、何かが変わった。
吉川の目が、強くなった。
姿勢が変わった。
声の出し方まで、少しずつ変わっていった。
ただの元いじめられっ子じゃなくなっていた。
「……この一ヶ月で、吉川が……見違えるほど、カッコよく見えるようになったの。最初はただの元いじめられっ子で、頼りなくて、守ってあげなきゃって思ってただけだった。でも……最近、なんか違う。姿勢も変わって、目つきも変わって……男として、強く意識しちゃってる」
自分の声が、少しだけ震えているのがわかった。
鬼塚が腕を組み、麗美がそんな彼に寄り添いながら聞いている。
「……で、それを誰かに相談したかったけど、クラスの連中は恋愛に詳しくないし、みやびならもしかして詳しいかもしれないけど、改心したといってもあの子もいじめの当事者だったから相談するのもお互い気まずいし……しかも相手が元いじめられっ子の吉川でしょ? 私、性格が男勝りで、プライドも高いし、素直になれないから……どうしたらいいか、わからなくなって……」
杏子の声が、少しだけ小さくなる。
以前、自分がいじめていた相手を、今はこんな風に意識している。
それが、どうしようもなく悔しいし、どうしようもなく恥ずかしい。
「……そんな時に、鬼塚先生と神崎さんが本当に付き合ってるって察したから……相談してみようと思ったの」
麗美が、静かに頷いた。
「……なるほど」
鬼塚が、低く言った。
「……お前、吉川のこと、本気で好きなんだな」
杏子が、小さく唇を噛む。
「……うん。でも、どうしたらいいかわかんない。私、こういうの、全然得意じゃないし」
胸の奥が、熱い。
素直になれない自分が、嫌だった。
麗美が、鬼塚の腕に寄りかかりながら、静かに言った。
「……まず、吉川くんがどう思ってるか、ちゃんと見てみないとね。 上原さんが素直になれないのはわかってる。でも、吉川くんも、今はただの元いじめられっ子じゃない。 彼も一人の男として成長してきてる」
杏子が、視線を上げる。
「……神崎さんも、そう思う?」
「ええ。この一ヶ月で、吉川くんは変わった。英吉の影響もあるけど、自分で頑張ろうとしてるのが伝わってくる。上原さんが吉川くんを異性として意識してるのも、ただの勘違いじゃないと思う」
鬼塚が、小さく息を吐いた。
「……お前が素直になれねえのは、まあ仕方ねえ。 見た感じお前は元来スケバン気質そうだしな…でも、吉川に対して何も言わねえままじゃ、何も変わらねえぞ」
杏子が、小さく頷く。
「……わかってる。でも、怖いの。断られたら、今の関係すら壊れそうで」
麗美が、静かに続けた。
「……怖いのは、当たり前よ。でも、上原さんは優しい。吉川くんのことを本当に想ってるなら、その気持ちはちゃんと伝わると思う。少なくとも、あたし達は味方よ」
杏子の目が、わずかに潤んだ。
「……ありがとう」
プレハブの中は、静かだった。
窓の外の風が、わずかに揺れている。
鬼塚が、腕を組んだまま言った。
「……で、どうする。吉川に、何か言うのか」
杏子は、しばらく考えた。
「……まだ、わからない。でも……少し、考えてみる」
麗美が、小さく微笑んだ。
「……それでいいのよ。 まだまだ時間はある、焦らなくていいから」
杏子は、ゆっくりと立ち上がった。
「……ありがとう、話したらなんだかスッキリした。 また、相談してもいいかな?」
「ああ。いつでも来い」
鬼塚が言うと、杏子は微笑み、小さく頷いてプレハブを出ていった。
扉が閉まったあと、麗美が鬼塚の胸に額を預けた。
「……上原さん、変わったわね」
「……ああ。でも、素直じゃねえな」
「それが上原さんの良いところよ」
麗美が、小さく笑う。
鬼塚はそんな彼女の頭を愛おしそうに撫でた。
ー
ー
ー
数日後の夕方。
学校の近くの路地を、杏子が一人で歩いていた。
ふと前を見ると、少し遠くに吉川の姿が見えた。
どうやら放課後の買い物帰りらしい。
杏子は、少しだけ足を止めかけた。
声をかけようか、迷っている。
その時、路地の奥から、数人の不良男が現れた。
「おい、そこの女」
「……誰よ…あんた達…」
警戒し、不快な表情をする杏子。
「おっ! 気が強そうな顔してっけど、中々可愛いじゃん」
「ちょっと付き合えよ」
杏子の肩に、乱暴に手がかかる。
「ちょっとやめて……触らないでよ!」
杏子が振り払おうとするが、相手は笑って離さない。
「いいじゃねえか。少しだけだよ」
「良いことしようぜ」
「色々楽しませてやるからよ」
「やだ! 離して!!」
彼女に危機が迫っていた……
その時!
「……やめろ!」
背後から杏子の声を聞き、異変に気付いた吉川が駆け寄ってきた。
声は震えていた。
それでも、吉川は杏子の前に立ち、彼女の肩を掴む不良の手を強引に払い除けた。
「……よ、吉川……」
「上原さん、下がって」
不良の一人が、吉川の胸を押した。
「なんだテメェ。邪魔すんなよ」
「上原さんに手を出すな!」
吉川は、よろめきながらも、杏子を庇うように立ち続ける。
次の瞬間、拳が飛んだ。
吉川の頬に、鈍い音が響く。
「……っ」
それでも、吉川は倒れなかった。
「こいつ!」
また殴られる。
口の端から血が滲む。
それでも、吉川は杏子の前から動かない。
「邪魔なんだよ!」
今度は吉川の腹部に蹴りが繰り出される。
杏子の目が、大きく見開かれた。
「……よ、吉川! もうやめて!!」
「ゴホッゴホッ………大丈夫……上原さんは…僕が絶対に守るから!」
「!!?」
吉川の声は掠れていたが、目は全く死んでおらず、むしろ更に強く輝いていた。
そんな彼の姿を脅威に感じた不良が、さらに蹴りを入れようとした瞬間、路地の向こうから低い声が響いた。
「……おい」
不良達が振り返ると、背後に鬼塚が立っていた。
麗美がその隣にいる。
鬼塚の目は、冷たく細められていた。
「……何してやがんだてめえら…」
不良の一人が、舌打ちする。
「なんだテメェ。関係ねえだろ」
「関係あんだよ……そいつらは俺の生徒だ」
「あァ? センコーだァ? センコーがs」
不良の一人が、さらに何か言おうとした瞬間、鬼塚が一歩踏み出した。
次の瞬間、路地に鈍い音が連続して響いた。
不良たちは、あっという間に地面に転がされていた。
鬼塚は、息を乱すことなく、静かに言った。
「……二度と、この辺に来んな…次はただじゃ済まさねえぞ」
「や、やべぇぞこいつ!」
「早くずらかるぞ!」
不良たちは、這うようにして逃げていった。
杏子は、すぐさま吉川に駆け寄る。
吉川は、地面に伏して、杏子の方を見ていた。
「……上原さん……大丈夫?……」
その顔は、血と傷だらけだった。
しかし、吉川は自分の身よりも杏子が無事か問いかける。
そんな吉川に杏子の目から、自然と涙が溢れた。
「……バカ……なんで、こんなこと……」
声が震える。
「……君が……嫌がってたから……」
吉川の声は、小さく、しかしはっきりしていた。
杏子は、その場にしゃがみ込んで、吉川の肩に額を預けた。
「……バカ……本当に、バカ……」
涙が、止まらなかった。
胸の奥が、熱い。
以前、いじめていた相手が、こんな風に自分を守ろうとしている。
それが、どうしようもなく痛い。
どうしようもなく、嬉しい。
麗美が、静かに二人を見ている。
鬼塚は、何も言わず、ただその場に立っていた。
四月の風が、路地を静かに通り過ぎていく。
杏子は、ボロボロになった吉川の姿を見ながら、心の中で強く思っていた。
――この人を、絶対に手放したくない。
その思いが、はっきりと形を持ち始めていた。
路地の風が、まだ四月の終わりの冷たさを残していた。
杏子は、地面に伏した吉川の肩に額を預けたまま、しばらく動けなかった。
吉川の息が荒い。
血の匂いが近くにある。
「……バカ……バカ……」
声が、震える。
吉川は、ゆっくりと顔を上げた。
頬は腫れ、口の端からは血が滲んでいる。
それでも、杏子を見ている目は、はっきりしていた。
「……上原さん……泣かないで……」
「……泣いてない」
嘘だった。
涙は、止まらなかった。
杏子は、自分の手が震えていることに気づいた。
杏子は、小さく唇を噛んだ。
素直になれない自分が、嫌だった。
でも、今はそれ以上に、吉川の姿が痛かった。
麗美が、静かに二人のそばにしゃがみ込んだ。
「……吉川くん。立って。病院へ行った方がいいわ」
吉川が、小さく頷くと立ちあがろうとする。
杏子は、その手を取った。
彼女の手が、動揺からまだ震えている。
「……私……連れてく」
声が、小さかった。
吉川が、少しだけ目を見開く。
「……上原さん……」
「……いいから、私に任せなさい…」
杏子は、涙を拭うと、吉川の腕を自分の肩に回した。
重い。
それでも、離さなかった。
鬼塚が、何も言わず、その様子を見ている。
麗美が、小さく息を吐いた。
「……英吉。あんたは、先に帰ってて。あたしは、上原さん達についていく…後でまた行くから」
「……ああ」
鬼塚は、一瞬躊躇うも、頷いて、学校へと向かっていく。
残された三人は、病院へとゆっくりと歩き始めた。
杏子は、吉川の体重を支えながら、小さく言った。
「……全く、こんなになって……本当バカ……」
「……ごめん」
「……謝らないで」
杏子の声が、少しだけ震える。
「…吉川……私……」
言葉が、続かなかった。
吉川は、何も言わなかった。
ただ、杏子の肩に、わずかに力を込めた。
風が、三人の間を静かに通り過ぎていく。
杏子は、心の中で思っていた。
(こんな姿になってまで…私を守ってくれた…吉川…私やっぱりあんたが……好き……)
その思いが、はっきりと形を持ち始めていた。