ゴールデンウィーク編です。
五月二日。
ゴールデンウィークに入り、世間は賑やかになっていた。
五月の陽が、マンションのカーテンを柔らかく透かす。
「上がって良いわよ」
麗美は玄関の鍵を開けると、そのままドアを開け、振り返らずに言った。
鬼塚は、少しだけ間を置いてから、スリッパに履き替えた。
「……二度目だな、お前んち来んのも」
「ええ。英吉があたしを生き埋めにしようとしたあの日以来ね」
「うっ!?……麗美、やなこと思いださせんなよ……」
その言葉を聞いた瞬間、鬼塚の表情がわずかに曇った。
麗美は、それに気づいたのか、小さく息を吐いてから、彼の胸に額を預けるように寄りかかった。
「ふふ、冗談よ……それに、あの時は仮の恋人だったけど、今は本当の恋人。大好き❤️」
声は小さかったが、はっきりとしていた。
鬼塚が何か言い返すより早く、麗美は彼の首に腕を回し、唇を重ねた。
短いキスだった。
それでも、麗美の指は彼のシャツを強く掴んだままだった。
鬼塚は、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと腕を回し、彼女を抱きしめる。
力は強くなく、ただ優しく包むように。
「……麗美…俺も愛してる」
「……うん…」
二人は、そのまましばらく抱擁を続けた。
リビングのソファに並んで腰を下ろす頃には、お互いの頬は赤く染まっていた。
「ママは、今日も夜まで帰らないって。会社の準備で、最近ずっと忙しいから」
「そうか、なら今日は二人だけでゆっくり出来るな」
「あんたの家(プレハブ小屋)、狭くてゆっくり休めないもんね」
「うるせえ。 あれはあれで良いだろうが」
「虚勢張っちゃって…」
「張ってねえし! つーかその可哀想なヤツを見る顔やめろ!」
「………」
「だからやめろっての!」
「………」
「……いや、ほんと…マジでやめてください……その視線は俺に効くから……」
ギャグのようなやり取りの後、鬼塚は、窓の外を見た。
五月の空は、まだ明るい。
麗美が、自然と彼の腕に寄りかかる。
距離はプレハブの時より明らかに近い。
指先が、彼のシャツの胸元を軽く摘む。
「……英吉」
「ん?」
「今日は、学校じゃないから。いつもより少しだけ、甘えてもいい?」
鬼塚は、小さく息を吐いた。
「……好きにしろよ」
許可が出た瞬間、麗美は彼の胸に額を預け直した。
吐息が、首筋に当たる。
二人とも、言葉を選ばなくなっていた。
その時、玄関の鍵が回る音がした。
「「!!?」」
「……ただいま」
低く、落ち着いた女性の声。
麗美の体が、一瞬で硬直した。
「……っ」
鬼塚の肩も、びくりと跳ねる。
反射的に鬼塚は腕を麗美から離そうとしたが、麗美は離さなかった。
むしろ、鬼塚の腕を自分のほうへ更に引き寄せる。
「…ママ、今日は夜までって言ってなかった?……」
「予定が変わったの。また少ししたら出るけど、それなりに時間があったから一度帰ってきたのよ」
扉越しに親子は会話をする。
靴を脱ぐ音が近づいてくる。
リビングの扉が開く直前、麗美は動揺する鬼塚の耳元で、小さく呟いた。
「う、麗美……」
「……大丈夫。隠さなくていい」
扉が開いた。
母親は、二人の姿を見て、少しだけ目を細めた。
鬼塚の腕の中にいる娘と、その横に座る男。
状況を理解するのに、数秒もかからなかった。
鬼塚は、視線を泳がせた。
頭を掻きながら、小さく咳払いをする。
「あ、あの……お邪魔してます」
声が、わずかに上ずっていた。
「……」
「……お帰り、ママ」
麗美の声は、いつもより少しだけ震えていた。
それでも、彼女は鬼塚から離れなかった。
母親は、しばらく二人を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……コーヒー、入れるわね」
それだけ言って、キッチンへと向かった。
リビングに残された二人は、しばらく動けなかった。
鬼塚が、小さく息を吐く。
「……どうすんだ?」
「……どうしよっか?」
「聞き返すなバカ野郎…」
麗美は、彼のシャツを握ったまま、可愛らしく舌を出し、小さく笑った。
そんな彼女に鬼塚は頭を抱える。
数分後。
母親が、トレイを持って戻ってきた。
コーヒーが三つ。
彼女は、向かいのソファに腰を下ろした。
姿勢は綺麗で、視線は真っ直ぐだった。
「……ところであなたは?」
母親が、鬼塚を見て静かに尋ねた。
鬼塚は、頭を掻きながら答えた。
「麗美の担任をしてる、鬼塚英吉っす」
その瞬間、母親の眉がわずかに寄せられた。
視線が、冷たく細められる。
嫌悪に近い、はっきりとした拒否の色が浮かんだ。
「……あなたが担任?」
「は、はい…」
母親は、コーヒーを一口飲んでから、静かに、しかし鋭く続けた。
「麗美が、学校の教師を家に連れてくるなんて、初めてね。しかも、こんなに近い距離で」
「……ママ」
麗美が、小さく口を挟む。
母親は、娘を一瞥した。
「怒ってはいないわ。ただ、驚いただけ。あなたが、誰かとこうして過ごしている姿を、ほとんど見たことがなかったから。特に、教師なんて」
その言葉は、責めるような響きではなかった。
むしろ、どこか遠い。
仕事の話をするような、冷静な口調だったが、最後の部分には明確な棘があった。
鬼塚は、コーヒーを一口飲んだ。
熱い。
そして、意を決して静かに口を開いた。
「……麗美は、いつも一人でした」
「英吉」
麗美が、制するように名前を呼ぶ。
鬼塚は、止めなかった。
「お母さんが仕事で忙しいってのは、麗美から聞いてるからわかってます。会社の準備で、家を空けることが多いのも。でも、こいつは……ずっと、誰かに見てほしかったんだと思います。ただの『優秀な子』じゃなくて、一人の人間として」
母親の指が、カップの縁で止まった。
リビングに、短い沈黙が落ちる。
「……鬼塚先生」
「はい」
「あなたは、麗美の担任として、彼女のことをどれだけ知っているつもりですか?」
「知ってるつもりは、ありません。ただ、見てきました。こいつが、学校でどうやって笑って、どうやって黙って、どうやって誰かを助けようとしてるかを」
鬼塚の声は、低く、しかしはっきりしていた。
「麗美は、頭が良い。誰よりも。でも、それだけじゃ足りねえんです。こいつは、誰かに『ここにいていい』って言ってほしい。ただ、それだけなんです」
麗美の指が、鬼塚のシャツを更に強く握った。
母親は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……私は、麗美に、最高のものを与えようとしたわ。知能も、環境も、将来も。それが、母親としての責任だと思って。優秀な遺伝子を選んで、この子を産んだのも、そのためよ」
「っ!?……」
その言葉に、鬼塚の眉がわずかに動いた。
母親は、続けた。
「仕事で結果を出すのも、同じ。私の責任を果たすため。麗美には、それに見合う環境を与えてきたつもりです」
「……見合う環境、か……くっだらねえな……ようはあんたは麗美のことを【最高の遺伝子を組み合わせた製品】か何かと勘違いしてんじゃねえかよ!? ふざけんな!!」
敬語が無くなり、鬼塚の声が、低くなった。
「英吉……」
麗美が、彼の腕を強く掴む。
しかし、鬼塚は彼女に優しい視線を一瞬向けながらも止めなかった。
「子供はプラモデルじゃねえ、血ぃ通ってんだバカヤロー!!」
声が、部屋に響いた。
母親の体が、大きく震えた。
カップを持っていた手が、力が抜け、テーブルに当たる。
コーヒーが、縁から零れた。
彼女の目が、見開かれたまま、鬼塚を見ている。
唇が、わずかに開いたまま、言葉が出てこない。
麗美は切ない表情で鬼塚を見つめた。
(……前の世界で、ママから聞かされた通りだ……こっちの世界でも、そう言って助けてくれるんだね、英吉)
胸の奥が、熱くなる。
目の端が、わずかに潤んだ。
鬼塚は、立ち上がりかけた体を抑えながら、続けた。
「あんたも、昔はこいつを大切に思ってたんじゃないのか!? 俺は、大切だ。俺の命に変えても守りたいって思う程、愛してる。勿論、一人の女としてだ!!」
鬼塚の心からの叫びにリビングが、静まり返った。
麗美の手が、震えている。
母親は、視線を落とした。
指先が、白くなるほど膝を握っている。
肩が、小さく上下した。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
母親の呼吸だけが、わずかに乱れているのが分かる。
やがて、掠れた声で言った。
「……何を、言ってるの……」
声は小さかった。
しかし、拒絶というより、どこか揺さぶられた響きだった。
母親は、ゆっくりと息を吐く。肩が、落ちていた。
「……鬼塚先生」
「…何だよ?」
「あなたは、本気で言っているのですか」
鬼塚は、すぐに答えなかった。
一度だけ麗美のほうを見てから、母親を真っ直ぐに見返す。
「……当たり前だろ?」
声は低かった。
母親は、二人を交互に見た。
その目に、初めて、わずかな揺らぎが走る。
「……麗美」
「……はい」
「あなたは、私を恨んでる?」
麗美は、しばらく答えなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
目が、少し赤い。
「……恨んでない。でも……ずっと、寂しかった。ママが、あたしのことを『作品』みたいに見てる気がして…」
「!?」
「あたしはただ……ママに…『麗美』として見てほしかった…」
声が、震えている。
母親は、カップを置いた。
手が、わずかに震えている。
「……私は、あなたを愛していたつもりだったわ。ただ、上手く伝えられなかった。仕事ばかりで、あなたのそばにいる時間が、少なかった。そして、あなたを『私の作品』としてしか見ていなかったかもしれない」
「ママ…」
「……ごめんね麗美…」
その一言は、小さく、しかしはっきりと聞こえた。
麗美の目が、大きく見開かれる。
母親は、続けた。
「この一カ月、あなたが学校に通うようになって、少しずつ変わっていくのを遠くから見てたわ。誰かと話している姿も、笑顔も。でも、それを素直に喜べなかった。私には、その権利がないような気がして」
鬼塚は、何も言わなかった。
ただ、二人の間に立っている。
麗美が、ゆっくりと立ち上がる。
母親の前まで歩み寄り、しゃがみ込んだ。
「……ママ。もう、いいよ。これからで、いい」
「麗美」
「あたしも、ママに『お帰り』って言ってほしい。ただ、それだけ」
母親の手が、麗美の頭に触れた。
初めて、優しく。
麗美の肩が、小さく震える。
鬼塚は、窓の外を見た。
五月の陽が、まだ柔らかく傾いている。
「……先生」
母親が、鬼塚を呼ぶ。
「?」
「ありがとうございます。麗美を、見てくれて」
「別に。ただ、こいつが笑ってる顔が、好きなだけだからよー」
麗美が、小さく笑った。
母親も、わずかに口元を緩めた。
リビングに、初めて、柔らかい空気が流れた。
三人は、しばらく、そのまま座っていた。
コーヒーが、少しずつ冷えていく。
それでも、誰も急いで飲もうとはしなかった。
ゴールデンウィークの午後は、まだ続いていた。
そして、その沈黙は、もう冷たいものではなかった。
母親が、ゆっくりと息を吐いた。
テーブルにカップを置き、鬼塚を見る。
視線は、先ほどまでの拒絶の色を少しだけ落としていた。
指先が、カップの縁を無意識に撫でている。
「……さっき、言っていたわね」
「え?」
「麗美のこと。一人の女として、愛していると」
鬼塚は、すぐに答えなかった。
一度だけ視線を落とし、それから母親を見る。
「……言った通りだよ」
少し間を置いてから、続けた。
「俺達は、付き合ってる」
隠さなかった。
麗美の指が、彼のシャツを強く握る。
母親は、ゆっくりと娘のほうを向いた。
その目に、わずかな迷いが走る。
仕事の話をするときの冷静さとは違う、どこか戸惑ったような色だった。
「……麗美」
麗美は、一度だけ目を伏せた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
目は、はっきりと前を向いていた。
「……ほんとよ、ママ。あたしと英吉は、付き合ってる」
声は震えていなかった。
むしろ、少しだけ強くなっていた。
「教師と生徒っていう建前なんて、関係なく……お互いが、愛し合ってるの」
リビングが、静まった。
母親は、二人を交互に見た。
その視線に、わずかな嫌悪が残っていた。
「……教師と生徒の恋愛なんて……何を……」
小さく、そう呟いた。
その瞬間、麗美の目が、鋭く細められる。
「ママがそんな目を英吉にする権利なんてないでしょ?」
声は低かった。
しかし、はっきりとしていた。
母親が、息を呑む。
「ママだって、あたしを精子バンクの精子を使って産んでるんだから……ママだって他人からしたら充分異常なのよ。それなのに自分のことを棚に上げて、教師と生徒って価値観であたし達を否定しないでよ!」
リビングが、再び静まり返った。
麗美の肩が、小さく震えている。
しかし、その目は、母親から逸らさなかった。
母親は、すぐに答えなかった。
視線が、麗美の顔に釘付けになったまま、ゆっくりと落ちる。
唇が、一度開いては閉じた。
カップを置こうとした手が、わずかに震えている。
長い沈黙が、リビングを満たした。
母親の呼吸が、わずかに乱れている。
指が、膝の上で一度強く握られ、すぐには離れなかった。
「……麗美」
声は、掠れていた。
母親は、しばらく何も言わなかった。
ただ、娘の目を見ている。
その目には、怒りというより、戸惑いと、どこか突き放されたような色が浮かんでいた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
その息は、長く、重いものだった。
視線が、床に落ちたまま、動かない。
「……そうね」
小さく、そう呟いた。
声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
母親は、ゆっくりと顔を上げる。
その目は、わずかに赤かった。
視線が、再び鬼塚へと移る。
先ほどまでの拒絶の色は、もう残っていなかった。
代わりに、どこか疲れ切ったような、静かな光が浮かんでいる。
母親の口元が、わずかに緩む。
幼い頃、麗美に向けていたような、どこか優しく、少しだけ寂しげな笑みが浮かんだ。
麗美は、その顔を見た。
(……これ、幼い頃のママと同じ顔……)
前の世界で、和解したあとに母親が自分に向けていた、あの柔らかい表情だった。
ただの「優秀な子」ではなく、一人の娘として見ている顔。
胸の奥が、少し熱くなる。
「価値観は人それぞれ。麗美が自分で決めたのなら、私が口を出すことじゃないわ」
声は静かで、しかしはっきりとしていた。
母親は、鬼塚のほうを向く。
視線はもう冷たくなかった。
「……鬼塚先生。娘を、今後ともよろしくお願いします」
その言葉は、短かった。
しかし、その中には、これまで言葉にできなかったものが込められていた。
母親は、少し間を置いてから、続けた。
「……あなたが、麗美を製品や作品ではなく、一人の人間として見てくれているのが良く分かりました。この子があなたを好きになったことも、今なら理解出来ます」
声は、わずかに柔らかくなっていた。
鬼塚は、少しだけ目を見開いた。
「……別に、大したことじゃねえよ」
「いいえ。麗美が、あなたといるときに心の底から笑っているのを、見ていて思います。あなたがいてくれて、良かった」
母親は、小さく息を吐いた。
それから、わずかに微笑む。
「……もしよかったら、今度、三人で食事でもどうですか?」
麗美が、小さく目を見開いた。
鬼塚も、少しだけ驚いた顔をする。
「……マジかよ?」
「ええ。麗美の、大切な人ですから」
母親の声は、静かだった。
しかし、そこには拒否の色はもうなかった。
麗美が、小さく笑った。
鬼塚も、わずかに口元を緩めた。
「まっ、今のあんたとなら悪くねえかもな」
五月の陽が、リビングを優しく照らしている。
三人の間に流れる沈黙は、もう冷たいものではなかった。
母親が、ゆっくりと立ち上がった。
コーヒーカップをトレイに戻し、キッチンのほうへ運んでいく。
その背中は、先ほどまでの硬さが少しだけ緩んでいた。
「……それじゃ、私はもう一度出てくるわ。用事があるから……麗美、大好きな先生と二人っきりで改めて楽しくゆっくり過ごしなさい」
「……うん。ありがとママ」
麗美が、小さく返事をする。
母親は、玄関のほうへ歩きながら、一度だけ振り返った。
その目が、二人に向く。
「……鬼塚先生。また、お願いします」
「……ああ」
鬼塚が、短く答える。
母親は、わずかに口元を緩めてから、玄関を出ていった。
鍵が閉まる音が、リビングに静かに響く。
二人きりになったリビングで、麗美が小さく息を吐いた。
鬼塚の腕の中で、彼女はゆっくりと顔を上げる。
「……英吉」
「ん?」
「ママ……笑ってた」
「……ああ」
麗美は、彼の胸に額を預けた。
指先が、シャツを軽く摘む。
「……あたしが小さい頃と同じ顔、してた」
声は、小さかった。
鬼塚は、何も言わず、ただ彼女の背中に手を添えた。
五月の陽が、まだリビングを照らしている。
母親が去ったあとの部屋は、静かだった。
ただ、二人の間に残る空気は、もう冷たくはなかった。
という訳で、麗美の母親との和解の話でした。
一気に進んでしまった感はありますが、原作でも母親は割と直ぐに改心してたので、損失が無くてもこんな感じになると思い、突っ切りました。
次回はデート編になると思いますのでよろしくお願いします。