鬼塚と麗美のデート回です。
五月三日。
世間はゴールデンウィークの真っ只中で、朝から抜けるような五月の青空が広がっていた。
初夏の気配を孕んだ柔らかな陽光が、マンションの窓からリビングのフローリングへと差し込み、斜めに細長い光の帯を作っている。
まだ冷たさを残した朝の風がカーテンをわずかに揺らすたび、光と影が部屋の中で静かに踊った。
麗美は、約束の時間の十五分前にはすでに玄関先で準備を終えていた。
鏡に映る自分の姿を、一度だけ冷徹な「観察者」の目でチェックする。
だが、それも一瞬だけ、次の瞬間には年相応の恋する乙女としての表情をし、自分の服がおかしくないか確認する。
上は黒い革のライダースジャケット。
そのハードな質感とは対照的に、下のボトムスにはタイトなシルエットのキュロットスカートを選んでいた。
見た目は普段の制服をも凌ぐ超ミニスカートだが、実態は短パン。
そしてその絶対領域を際立たせるように、脚には黒のニーソックスを合わせていた。
キュロットの裾からニーソックスの履き口までのわずかな隙間、そこから覗く白く滑らかな太もものラインは、英吉の視線と理性をどう誘導するかまで完璧に計算し尽くされたものだ。
普段は下ろしている金髪は、風に遊ばれないよう低めの位置で緩く後ろに結んである。
ジャケットの襟を少しだけ立て、首元に侵入する涼しい風を遮りながら、麗美は不機嫌さを滲ませ、小さく息を吐いた。
「…こっちは準備万端だっていうのに…遅いわよ、英吉……」
そう、今日は二人の恋人になって初のデートであった。
約束の時間を三分過ぎた頃、住宅街の静寂を切り裂くように、いつもとは明らかに違う、重低音の利いた咆哮が近づいてきた。
ゼファーのそれよりも荒々しく、どこか乾いた、魂を震わせるような旧車特有のエキゾーストノート。
麗美の視線の先で停まったのは、火の玉(ファイアーボール)カラーの燃料タンクを鈍く輝かせる伝説の名車――カワサキ・ZII(750RS)だった。
ガチガチと小気味いい音を立ててニュートラルに入れられたエンジンが切られると、ヘルメットを脱いだ鬼塚英吉が、ポリポリと頭を掻きながら歩み寄ってきた。
いつものスーツや下品な柄シャツではない。
心なしか少し落ち着いた、インディゴブルーのワークシャツを着込んでいる。
無造作に捲り上げられた袖口からは、幾多の修羅場を潜り抜けてきた男らしい、引き締まった前腕の筋肉が覗いていた。
「悪ぃ悪ぃ! いや、ちょっとこの宝物の機嫌を損ねねえように、キャブとプラグを念入りに磨いてたら時間食っちまったわ。 ちょっと前にも少し乗ってたからよ、今日は特に気合い入れて手入れしちまった」
「ふーん……。普段のゼファーじゃなくて、わざわざそのZIIを出してきたのね。……あたしとの初デートに気合いを入れてくれたのはとっても嬉しいけど、初デートを普通遅刻する?……バイクの整備と、あたしを待たせること。どっちが優先順位高いか、あんたの脳細胞に叩き込んであげよっか?」
「ヒエェ!?……相変わらず目がマジなんだよお前は。ほら、特等席に乗せてやっから機嫌直せって!」
「…全く、調子良いんだから…」
鬼塚がポンポンとZIIのタンデムシートを叩く。
麗美は呆れたように肩をすくめて見せたが、その足取りは驚くほど軽かった。
シートに自然な動作で跨り、鬼塚の逞しい腰へと両腕を回す。
決して強く締め付けるような力ではない。
けれど、二度と離さないと誓うような、確かな意思がその指先には込められていた。
シャツの裾をキュッと小さく摘むと、ジャケット越しに鬼塚の背中の熱が、ドクドクと刻まれる彼の心音が、ダイレクトに伝わってくる。
「……しっかり掴まれよ。遠心力で吹っ飛んでも知らねえからな」
「分かってるわよ。あたしを落とすなんて、万死に値するんだから。もし落としたら、あんたを社会的に跡形もなく消去してあげる」
「うおっ!? 脅迫のスケールが陰湿すぎるわ! ……まあ、安心しろ。落ちたら三秒ルールでソッコー拾ってやるよ」
「拾うって……あたしは道端に落ちたスナック菓子か何かなの? それ、優しいの? それともただの適当?」
「どっちでもいいだろ! あー、もう、とにかく落ちんな!」
「ふふ。やっぱり適当ね」
「適当じゃねえよ……。お前が、その、ケガすんのが嫌なだけだろーが」
「……それって、あたしのこと大事に思ってくれてるってこと?」
「るせえ! 出すぞ!」
「…どうなのよ?…」
「……分かったよ。 めちゃくちゃ大事で大切な愛する彼女だ! これで良いだろ!?」
「ふふ、オッケー。 じゃあ出発ー!」
「ったく……ちゃんとヘルメット被っとけよ。 行くぜ」
キック一発、再び爆音が五月の澄んだ空気を震わせた。
鬼塚はゆっくりとアクセルを開ける。
いつもの、前輪が浮き上がるような乱暴なロケットスタートはそこにはなかった。
驚くほど滑らかに、ZIIが滑り出す。
鬼塚の運転は、丁寧そのものだった。
法定速度を厳守し、信号の手前では余裕を持って減速する。
カーブでも車体を深く寝かせるような真似はせず、麗美が恐怖を感じない角度を正確に維持していた。
ハンドルを握る彼の大きな手に、無駄な力が入っていないのが背中越しに伝わる。
麗美はヘルメットのシールド越しに、彼の広い背中へとそっと額を預けた。
名車の振動が、心地よく全身を揺らす。
「……英吉」
「ん? なんか言ったか?」
「別になんでもない。 今日は、そのくらいのゆっくりな運転でいいわよって言ったの」
「ああ」
「危ない運転はしないでね。あたし……もう、怖い思いをするのは嫌だから」
その言葉の裏にあるのは、前の世界の『課外授業』で、ゼファーの前に乗せられながら建設途中の道が途切れている橋の欄干を全速力で越え、真っ逆さまに落ちていった時の、あの心臓が止まるような死の恐怖と凄まじい記憶だ。
鬼塚自身は、麗美が那奈との結婚後に逆行してきた事実までは知らない。
けれど、彼の脳裏にたびたびフラッシュバックする「夢のノイズ」の中には、出生ビラを配られて絶望し、千葉の屋内スキー場【ザウス】の冷気の中で凍えて死のうとしていた麗美の残像だけでなく、麗美を乗せたまま、バイクごと夕暮れの橋から真っ逆さまに墜落していくあの衝撃的な光景が、鮮烈な悪夢として確かに焼き付いていた。
だからこそ、その無意識の恐怖と本能的な過保護さが彼を強く突き動かしている。
「目の前で背中にしがみついている彼女を、二度とあんな危険に晒さない、何があっても絶対に無事に家に送り届ける」という、一人の男として、そして彼氏としての優しさと責任感が、ZIIを優しく、労るように走らせていた。
鬼塚はバックミラーの中で、ほんの少しだけ真面目な、一人の男としての優しい目を覗かせた。
「お前を乗せてんだ、ハチャメチャな運転なんかできるかよ。これでも一応、お前の彼氏だからな」
「ふふ……今日は妙に素直ね。調子狂っちゃう」
「素直じゃねえよ! お前が後ろでブツブツうるせえから、安全第一にしてやってんだろ! あんま文句ばっか言ってると普段通り爆走すっからな」
「はーい」
麗美は小さく笑い、掴む手に少しだけ力を込めた。
二人は明確な目的地を決めないまま、ただ風になることを楽しんだ。
混雑する都心を避け、ZIIは多摩川沿いの開けた土手道をひた走る。
流れる景色の中で、川の水面が五月の太陽を浴びて、まるで砕いたダイヤモンドのようにキラキラと輝いていた。
五月の風が、ヘルメットの隙間から麗美の髪を優しく揺らす。
信号待ちで止まるたび、鬼塚は必ずと言っていいほど、首を後ろに巡らせた。
「おい、寒くねえか? 結構風、冷てえだろ」
「大丈夫。むしろ、すごく気持ちいい。あんたの背中が、完璧な防風壁(ウインドシールド)になってるから」
「あ? なんだそれ」
「だから……その防風壁の恩恵に預かるために、もうちょっと前に詰めてもいい?」
「おいコラ、お前、これ以上密着したら俺の理性が……じゃなくて、運転に支障が出るだろ!」
「ふふ、冗談よ。……でも、あったかいのは本当」
やがて、郊外のさらに奥、緑が濃くなってきた川沿いの広い河川敷に、鬼塚はZIIを滑り込ませた。サイドスタンドを立て、エンジンを止める。
沈黙が辺りを包み、代わりに鳥のさえずりと川のせせらぎが鼓膜に届いた。
「よし、ちょっと休憩だ。ヘルメット脱いでも大丈夫だぞ」
「……もう、なんで止めちゃうの? あたし、まだ乗ってられたのに」
「嘘つけ。麗美、お前さっきから後ろでずっと考え事して、身体が固くなってただろ。喋るか、難しい顔すっかどっちかにしろよ。ほら、足、震えてんぞ。……っていうかよ!」
鬼塚はヘルメットを脱ぎ捨てるなり、顔を真っ赤にしてお化けでも見るかのような目で麗美の足元を指差した。
「お前、その格好は何なんだよ! ただでさえうちのZIIはシートが高ぇんだぞ!? 後ろにまたがった時、そのスカートの裾と黒いニーソックスの間の生足……絶対領域ってやつがダイレクトに俺の腰に当たってよぉ! ミラー見るたびに眩しすぎて俺の理性が限界突破(リミットブレイク)しそうだったんだよチクショー!」
「ふーん……」
ゼファーではなく、このデートのためにわざわざZIIを出してきた自由奔放な男が、自分の足元を気にして本気で狼狽している。
その姿が、麗美にはたまらなく可笑しかった。
麗美はヘルメットを脱ぎ、ZIIからしなやかな動作で降りると、いたずらっぽくオッドアイの瞳を細め、鬼塚のすぐ目の前まで歩み寄った。
ニーソックスに包まれた細い脚が一歩、また一歩と近づくたび、鬼塚の視線が露骨に泳ぐ。
「なによ英吉。あたしのここ……そんなに気になるの?」
「き、気になるに決まってんだろーが!こっちは健康的な二十二歳のド男子だぞオラァ!」
「ふふ……じゃあ、見せてあげよっか?」
「お、おい待て! 止めろ! ここは外だぞ! 通報されるわあああ!」
鬼塚が本気で悲鳴を上げて両手で目を覆う中、麗美は容赦なく、その黒い革ライダースの裾から伸びるミニスカートの生地を、グッと上まで捲り上げた。
しかし――そこに現れたのは、鬼塚が期待(?)したような純白のそれではなく、アクティブに足を動かせる、シックな黒の短パンだった。
「……あ?」
指の隙間から恐る恐る覗き見した鬼塚は、完全に動きを止めて凝固した。
「これ、キュロットスカートよ。見た目は超ミニスカートだけど、実態は短パン。あんたのバイクの後ろに乗るって分かってるんだから、このくらいの計算(対策)はしてくるに決まっているじゃない」
麗美は捲った裾をパタパタと戻すと、まんまと騙されて頭がフリーズしている鬼塚の顔を覗き込み、極上の小悪麻な笑みを浮かべた。
ニーソックスの履き口を少しだけ指で引っ張り、パチンと鳴らしてみせる。
「なーんだ。英吉、もしかして……期待しちゃった?」
「だ、誰が期待するかよバカヤロー!! な、何がキュロットだチクショー! 紛らわしい服発明したデザイナー連れてこい!!」
「ふふ、やっぱりあんたって可愛いわね」
「ガァー!!?」
そう言って笑う麗美だが、学校での「神崎」ではなく、付き合ってからの二人きりの空間で、彼が一貫して自分の名前を当たり前のように「麗美」と呼んでくれること――その暖かさが、前の世界の冷たい悪夢をすべて上書きしていくように、彼女の胸に心地よく染み渡っていた。
「……話戻すけどよ、何を考えてたんだよ、IQ200の天才様が」
「……あんたと一緒にいるって、どういうことなのかなって。本来の計算式なら、あり得ないはずの確率。それを、あたしが無理やり書き換えて、今ここにいる。その重さについて」
「あー、また始まった。お前はすぐそうやって、難しく物事を考える。もっとこう、バカになれよバカに」
「変なことじゃないわよ。本気で、大真面目に考えてるの」
「だから、何をだよ」
「あんたが、あたしを本当に大切にしてくれてるのが……その背中から、痛いほど伝わってきたから」
鬼塚は一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、麗美のまっすぐな視線に耐えかねたように、バッと顔を川のほうへ背けた。
夢で見た光景が鬼塚の胸を強く締め付け、その耳元がさらに熱くなる。
「……るせえよ。俺はただ、乗せた奴を守るのは当然だって言ってるだけだろ」
「ふふ, 耳の裏、真っ赤よ? ダーリン?」
「だからうるせえっつーの! ってかダーリンはやめろって! 恥ずかしいからよ」
麗美は歩み寄り、鬼塚の右腕に自分の細い腕を自然に絡ませた。
かつての世界では、彼は最後まで「教師」という立場に縛られ、自分の本当の孤独の特等席には届かなかった。
けれど、この二度目の世界では、何かが確実に変わり始めている。
本気で付き合い始め、こうして名前で呼び合う特別な日常を、自分の手で手に入れたのだ。
「……ありがとね、英吉」
「……おう。別によ」
「『別に』、じゃないでしょ。女の子がこれだけ素直にお礼を言ってるんだから、ちゃんと受け止めなさいよ」
「分かってるよ……。ああクソ、腹減ったな! 飯だ飯! どこか入るぞ!」
照れを隠すように大声を出す鬼塚に、麗美はただ愛おしそうに微笑んだ。
再びZIIに跨り、少し走った先に見つけた、川にせり出すように建てられた小さなアンティーク調のレストランに入った。
案内された窓際の席からは、穏やかに流れる川と、その向こうに広がる新緑の山々が一望できた。
「メニュー、何にする? お前、こういうお洒落な店のもん詳しいだろ」
「さっきも言ったでしょ、あんたに任せるって。あんたが選んだものなら、あたしは何だって美味しく食べるわよ。……あ、でも、あんまり下品な大盛りメニューは勘弁してね」
「おう、任せとけ。すいませーん、このハンバーグランチ二つ! ご飯大盛りで!」
「ちょっと! 言ってる側から……大盛りって言ったのはあんたの方よね?」
自由奔放な鬼塚に、麗美は呆れつつも楽しそうに笑う。
「当たり前だろ! 男のガソリンだ、ガソリン!」
運ばれてきたハンバーグからは、ジューシーな肉汁の匂いと白い湯気が静かに立ち上っていた。
二人は並んでナイフとフォークを動かす。
鬼塚が美味そうに口いっぱいに頬張る姿を見ているだけで、麗美の胸の奥は信じられないほどの満足感で満たされていく。
「……美味しい」
「だろ? 俺の嗅覚に狂いはねえんだよ」
「ええ。また来ましょここ。……絶対に、また連れてきて」
「……おう。まあ、お前がいい子にしてたらな」
麗美はテーブルの下で、そっと鬼塚の空いている左手を握りしめた。
鬼塚は一瞬ビクッとしたが、振り払うことはしなかった。
それどころか、少し戸惑いながらも、彼の大きな、肉厚で傷だらけの手が、麗美の小さな手を包み込むように握り返してきた。
力は決して強くない。
けれど、そこには確固たる「存在」があった。
「英吉」
「ん?」
「今日は、あたしにとって特別な日。あんたが、あたしを本当に『一人の女の子』として見てくれてるのが、よく分かるから」
「……っ、お前な、飯の最中にそういう恥ずかしいセリフをサラッと言うな! ほら、冷める前に食え!」
ー
ー
ー
「ふふ、ごちそうさま」
食事を終え、レストランを出る頃には、空の色は穏やかな青から、少しずつ茜色の混ざったノスタルジックなオレンジ色へと移り変わり始めていた。
ZIIの傍らでヘルメットを被ろうとした時、鬼塚が少しバツが悪そうに、首の後ろを掻きながら言った。
「……なあ、麗美。この後、まだ時間あるか?」
「ええ。ゴールデンウィークだし、あんたといる時間なら、いくらでも作り出せるわよ。……どこか行きたいところでもあるの?」
「いや、その……そこらの遊園地が、夜間営業でライトアップとかやってるらしくてな。……行くか? 混んでるかもしれねえけど」
麗美は驚きに、その大きなオッドアイの目を見開いた。
あの破天荒でガサツでデリカシーのカケラもない鬼塚がベタなデートスポットを提案してきたのだ。
「……いいの?あたしと、そんな一目のつく場所に行って」
「いいから行くんだよ! 出来るだけ人の居なそうなとこ探すからよ! ほら、後ろ乗れ!」
「…うん……」
ー
ー
ー
向かったのは、郊外にある少しレトロな総合遊園地だった。
夕暮れ時の園内は、イルミネーションが点灯し始め、幻想的な光の海へと姿を変えつつあった。
家族連れやカップルの喧騒の中、二人は並んで歩く。
最初に鬼塚が指差したのは、クラシックなコーヒーカップだった。
「よし、まずは小手調べだ!」
「ちょっと、英吉……これ、あんまり回すと――」
「オラオラオラァ! 最高速(マックススピード)を見せてやるぜええ!」
乗るやいなや、鬼塚は狂ったように中央のハンドルを回し始めた。
凄まじいG(遠心力)が麗美を襲う。
視界が高速で回転し、周囲のイルミネーションが光の帯となって流れていく。
「ち、ちょっと…止めなさい英吉! 計算上の安全基準を遥かにオーバーしてるわよ!」
「うるせええ! 楽しいだろ! これが男の、限界突破(リミットブレイク)だあああ!」
「や、やめて……っ、バカ! 頭がクラクラする……っ!」
ようやく停止し、カップから降りた麗美は、珍しく足元をふらつかせて鬼塚の胸に倒れ込んだ。
「……あんた、本気で回しすぎ。IQが三桁くらい下がったらどうしてくれるのよ」
「ははは! ざまーみろ天才児! でも、スリルあって楽しかっただろ?」
「……楽しい訳ないでしょ?…全くもって最悪よ……」
口ではそう言いながらも、麗美の顔には、学校では決して見せない子供のような笑顔が咲いていた。
次に乗ったのはメリーゴーランド。
麗美は白馬に跨り、そのすぐ隣の木馬に乗った鬼塚を見る。
身体の大きな彼が、小さな木馬に縮こまって乗っている姿は、それだけで滑稽で、どこか愛らしかった。
オルゴールの音色に包まれながら、ゆっくりと世界が回る。
「……英吉」
「あ? 今度は回らねえから退屈だな、これ」
「ううん。あたし、こうしてあんたの隣で、ゆっくり流れる時間を過ごすの……すごく好きよ」
「……そうかよ。俺にはちょっと、健康的すぎるわ」
鬼塚はプイと横を向いたが、その横顔はどこか穏やかだった。
「なら、刺激的なやつ、乗ってみる?」
「へっ?」
しかし、その平穏も次の「ジェットコースター」で崩壊する。
安全バーが下り、カタカタと音を立てて車両が急斜面を登っていく最中、鬼塚の顔は見る見るうちに土気色に変わっていった。
「お、おい……麗美。これ、高くねえか? レールのボルトとか、ちゃんと締まってんだろうな……?」
「大丈夫よ。日本の遊園地の安全基準とメンテナンス頻度を考えれば、事故の確率は航空機事故よりも低いわ」
「そういう理屈じゃなくてよお! 俺、高いところはZIIの上だけで十分――うわあああああああ高ォォォォ!?」
落下の瞬間、園内に響き渡ったのは、元・鬼爆の特攻隊長とは思えないほどの、情けない悲鳴だった。
プラットホームに戻ってきた頃には、鬼塚は魂が抜けたような顔で安全バーに掴まっていた。麗美はそんな彼を見て、お腹を抱えて声を上げて笑った。
「ふふ、あははは! あんた、本当に怖がりなのね! あの鬼塚英吉が、あんな声を出すなんて!」
「怖がってねえわ! ちょっと、あの、Gのせいで三半規管がな!?」
「顔、真っ青よ? かっこ悪い」
「うるせえ!」
極めつけは、お化け屋敷だった。
入る前、麗美は完全に余裕の笑みを浮かべて、腕を組んでいた。
「お化けなんて、ただのチープな視覚トリックと、音響効果による自己暗示から来る幻視よ。心理学の初歩さえ分かっていれば、驚く要素なんて一つも――」
「うおー!? で、出たぁー!!?」
「えっ?」
中に入り、薄暗い通路から落ち武者の人形が飛び出してきた瞬間、絶叫したのはやはり鬼塚だった。
彼は反射的に、麗美の細い身体を後ろからがっしりと抱きすくめた。
ニーソックス越しにも伝わる、麗美の脚のしなやかさと細さにドギマギする余裕など、今の彼には一ミリもない。
「ぎゃーー!? 本物だろこれ絶対呪われるってえええ!」
「ちょっ……苦しいわよ、英吉! 離しなさい!」
「嫌だ! お前、IQ高いんだから何とかしろ!」
麗美の胸に顔を埋めるようにしてガタガタと震える鬼塚。
そのあまりの情けなさと、同時に抱きしめられているという事実の気恥ずかしさに、麗美の顔が一気に赤くなる。
「……もう、本当にバカね。……でも、可愛いわ」
「なんか言ったか!?」
「何でもないわよ! ほら、さっさと歩く!」
「ぬわぁー!? た、助けてぇーー!!」
お化け屋敷を命からがら脱出した頃には、辺りは完全に深い夜の帳に包まれていた。
最後に二人が向かったのは、遊園地の象徴でもある巨大な観覧車だった。
ゴンドラが静かにゲートを離れ、ゆっくりと上昇を始める。
少しずつ足元の明かりが遠ざかり、代わりに東京の夜景が、光の絨毯のように眼下に広がっていく。
その時だった。
ドン、という低いお腹に響くような音がして、夜空に大輪の花火が弾けた。
ゴールデンウィークの特別イベントの大花火が、ちょうどゴンドラと同じ高さで、夜空を鮮やかに染め上げる。
光と影が交互に照らし出す密室の中で、麗美は鬼塚のすぐ隣へと座り直し、その肩にぴったりと身体を寄せた。
「……綺麗ね、英吉」
「ああ、そうだな」
花火のきらめきを見つめながら、麗美はふと、視線を少しだけ足元へと落とした。
(……前は、ここで終わった)
かつて逢引きと称して前の世界で彼を連れ回し、二人で乗ったあの観覧車。
そしてあの時は振られ、まだ届かなかった、一人の男としての彼の隣という特等席。
けれど、あの切なく狂おしい「二度目の吉祥学苑」への逆行を経て、今、こうして彼と本当の恋人として並んでいる。
麗美は顔を上げた。
その瞳には、もう過去の影は微塵もなかった。
きらきらと輝く満面の笑み。
世界中のどんな数式でも証明できない、絶対的な幸福がそこにあった。
「……英吉。 あたし、今最高に幸せ」
麗美は、迷うことなく鬼塚の胸へと飛び込んだ。
その背中に腕を回し、彼のシャツに顔を埋める。
「……大好きよ、英吉。世界中の誰よりも、何よりも」
鬼塚は一瞬、息を呑んだようだった。
いつもなら「うるせえ」と茶化すはずの彼が、今度は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと、大きな手が麗美の華奢な背中に添えられる。
その手のひらの温かさが、麗美の不安をすべて溶かしていくようだった。
「麗美……。お前、時々、すごく遠いところを見てるような顔するな。まるで、世界の終わりでも見てきたみてえな目してよ」
「……え?」
「けどな、もうそんな顔すんな。お前がどこで何を見ようが、俺がその手を離さねえ。俺を信じて新学期初日にビルから飛び降りた時のこと、忘れたわけじゃねえだろ?……お前がどこに行こうが、俺のZIIで地の果てまで追いかけて連れ戻してやるよ。俺は……俺はお前の男なんだからな……麗美、俺もお前を愛してる」
彼女を決して死なせないという、彼の魂からの強い誓い。
それが、タイムリープしたこの世界で、さらに深い因果の絆となって麗美の胸に突き刺さる。
学校では「担任の先生」としての建前を背負う彼が、この閉ざされた空間、二人きりのプライベートだからこそ、自分の人生そのものである「ZII」に乗せて、一人の男としての覚悟を口にしてくれた。
鬼塚は麗美の顎を、その大きな指先で優しく持ち上げた。
花火の鮮やかな光が、二人の顔を交互に照らし出す。
ゆっくりと、互いの距離がゼロになった。
二人の唇が、静かに重なる。
観覧車のゴンドラは、世界の中心で、ただゆっくりと回り続けていた。
弾ける花火の光が、二人の口づけを、祝福するように優しく照らし出していた。
観覧車を降りたあと、帰り道のZIIの後ろで、麗美は鬼塚の背中にぴったりと張り付いたまま、幸せそうにずっと小さくクスクスと笑っていた。
吉祥寺の麗美のマンションの前に着く頃には、夜はすっかり深くなっていた。
バイクを止め、ヘルメットを脱いだ鬼塚は、どこかまだ気恥ずかしそうに視線を泳がせている。
「……じゃあな。ちゃんと鍵閉めて寝ろよ」
「ええ、分かっているわ。……英吉、今日はありがとね。 すっごく楽しかった」
「楽しかったなら、それでいいわ。 俺も楽しかったしな」
「ふふ、大好き、英吉❤️」
「……っ/// あーもう、分かったから! 俺も愛してるから! そんじゃあな!!」
鬼塚は慌ててZIIに跨ると、今度こそキック一発で爆音を響かせて走り去っていった。
その耳が、ヘッドライトの光の中で真っ赤に染まっているのを、麗美は見逃さなかった。
麗美は満面の笑みを浮かべると、部屋に入っていく。
五月の夜風が、二人のいなくなった空間を、静かに通り過ぎていく。
二人きりの、特別なデートは静かに幕を閉じた。
けれど、麗美の唇に残る確かな熱と、胸を支配する圧倒的な余韻は、これから始まる「新しい未来」への、確かなプロローグだった。
(待っててね、英吉。あたしが、あんたの運命を、全部変えてあげるから――その為にもあたしは強くならなきゃ……あんたの隣に立ち続ける為に)