みやびがまた一つ前に進みます。
五月四日。
ゴールデンウィークの終盤。
前日の、あの胸が焦げるほどに甘く、鮮烈だったデートの余韻を微かに残したまま、世界は平然と次の朝を迎えていた。
しかし、神崎麗美のタワーマンションのリビングに流れる空気は、昨夜のそれとは一転して、重く、張り詰めたものに変わっていた。
午後の柔らかな斜陽が、遮光カーテンの隙間からフローリングへと細長い光の帯を落としている。
その静謐な光の中に、目を泣き腫らし、赤く染め、ぽつんと座り込んでいるのは、かつての三年四組の絶対的な中心であり、クラスの支配者として君臨していた少女――相沢雅だった。
鬼塚英吉はソファの端にどっかと腰を下ろし、腕を組んだまま、いつもとは違う真剣な眼差しを雅に向けている。
そのすぐ隣には、ラフなTシャツにジーンズ姿の麗美が、ぴったりと寄り添うように座っていた。
「……で、今度は何があったんだよ、みやび?」
鬼塚の低く落ち着いた声が、静かな部屋に響く。
みやびは自身の膝の上で、白くなるほど強く両手を握りしめていた。
トレードマークである強気な視線は完全に床へと落とされ、長い睫毛が微かに震えている。
彼女は小さく、押し出すように息を吐いた。
「……扇先生のこと」
「扇?……ああ、去年あたしが不登校だった時に二年四組の担任だった先生ね。 殆ど面識ないけど」
麗美が、感情を削ぎ落とした静かな声で聞き返した。
「そう……。去年、あたしたちのクラスの担任だった人。……あたしが、嘘をついて、社会的に完全に潰してしまった男よ……」
みやびの声は小さかった。
けれど、自分の犯した罪の重さから逃げないように、驚くほどはっきりとした口調だった。
「……みやび、詳しく話せ」
鬼塚の言葉にみやびは頷くと、話し出す。
「……去年の二学期……あたし、あの人に好意を持ってた。麗美が鬼塚…あんたを想うように、あたしも本気だったの。……だから、あの日、何の前触れもなしに先生のマンションの部屋に行ったわ。……好きだって直接伝える為に……そしたら先生……部屋の中にいた婚約者を…あたしに紹介したの……笑顔で、『俺のフィアンセだ』って……。あの瞬間、拒絶された、裏切られたと思って、頭の中が真っ白になった……」
みやびは、過去の醜い自分を抉り出すように言葉を続ける。
「気がついた時には、完全にタガが外れてた。学校中に『扇先生に無理矢理、性的暴行(レイプ)された』って嘘の写真付きの告発文を教室の黒板に貼り出して、嘘の噂も流して、被害者のフリをしたわ。先生は必死に否定したけど、PTAも理事長も、誰も信じなかった。……結局、学校をクビになって、懲戒解雇よ」
握りしめられたみやびの拳が、怒りと後悔でガタガタと震え出す。
「それだけじゃない。噂を信じた男子生徒たちから、先生は『クズ野郎』って罵られて、拓海……一人の男子生徒に鉄パイプで頭を殴られて大怪我までした……そのせいで婚約者からも愛想を尽かされて、婚約破棄……。あの人の人生、あたしが全部、めちゃくちゃに壊したのよ……」
「みやび……」
「後から、自分がどれだけ最低な嘘をついたか気づいたわ。でも、周囲から『虚言癖の化け物』だって責められるのが怖くて……ずっと、それが事実だって顔をして生きてきた。……でも、もう嫌なの……」
みやびの瞳から、大粒の涙がポロポロと床へこぼれ落ちる。
みやびは麗美の先回りや、自分が彼女の秘密を暴露したのに、それでも見捨てず、親友として接してくれた優しさや、鬼塚の命がけの破天荒さに触れ、すでに頑なだった心を完璧に溶かしていた。
だからこそ、過去の自分が犯した未解決の罪が、みやびの心を激しく苛んでいたのだ。
鬼塚は腕を組んだまま、じっとみやびを見つめていた。
その顔には、いつものおちゃらけた表情は一ミリもない。
「……お前、本気でそん時のことに決着(ケジメ)つけたいのか?」
「当たり前じゃない! 本気よ……! 一昨日も、あの人が今働いてるっていう塾を調べて、一人で謝りに行ったの。でも……門前払いされた。受付の人に『相沢さんはもう来ないでください』って冷たく言われて……先生本人に、会わせてもらうことすらできなかった……っ」
声を詰まらせて泣きじゃくるみやびの側へと、麗美が静かに移動した。
そして、その震える手を、自分の両手でそっと包み込むように握りしめる。
「……みやび」
「麗美……あたし、扇先生にちゃんと謝りたいの。あの人に頭を下げて、全てあたしのついた最低な嘘でしたって言いたい。でも、あたし一人じゃ、また怯んで追い返されるかもしれない……っ」
鬼塚は天井を仰ぎ、ふぅ、と深く長い息を吐き出した。
大あくびを噛み殺すように頭を掻くと、鋭い眼光をみやびに向けた。
「……分かった。行くか」
「え……?」
「扇先生ってヤツのところに、今から行くんだよ。お前が本気でケジメつけるってんなら、俺がそのツラ、最後まで見届けてやる」
みやびは涙に濡れた目を大きく見開いた。
「……いいの? だって、あたしは……あんたと麗美にこの間も家庭問題を改善してもらったし……クラスのいじめ問題とかだって、元々はあたしが裏でみんなを煽ってたから大事になって……この上、更にあんた達に迷惑かける訳には……」
「迷惑とかバカ言ってんな! てめえは今、俺のクラスの生徒だろーが。 前のことは関係ねえ! 今、てめえが助けを求めてんのなら手を差し伸べてやる! ただし、勘違いすんなよ? 頭を下げるのも、言葉を伝えるのも、全部てめえの役目だ。俺はただ、そばに突っ立ってるだけだからな」
「英吉……」
麗美が、そんな不器用で熱い我が恋人の顔を見て、愛おしそうに小さく頷いた。
「あたしも行くわ、みやび。あんたが本気なら、あたしも一緒にその背中を押してあげる。 親友としてね」
「……ありがとう。二人とも……本当に、ありがとう……っ」
三人はすぐに出かける準備をした。
みやびが涙を拭い、扇先生が現在臨時の講師として勤務しているという、場末の塾の場所を告げる。
「よし、場所は分かった。……おい、麗美。表でタクシー拾うぞ。さすがに俺のバイクに3人乗りするわけにゃいかねえからな」
「へぇ〜…あんたがそんな常識的な判断ができるなんて、ちょっと見直しちゃったわ」
「うるせえ、お前らを危険な目に遭わせられるかってんだよ」
鬼塚の言葉に、麗美はそっと胸の奥を温める。
鬼塚はマンションの前に出ると、すぐに通りがかった個人タクシーを呼び止めた。
みやびを真ん中にはさむ形で、鬼塚と麗美が後部座席に乗り込む。
目的地を告げると、タクシーは静かに滑り出した。
車内は、流れる街の景色とは対照的に、ひどく静まり返っていた。
みやびは自身の膝の上で、白くなるほど強く両手を握りしめ、ガタガタと震えている。
かつて三年四組の裏の女王として大人を見下し、小馬鹿にしていた面影はどこにもなかった。
麗美は、その冷え切ったみやびの手を、静かに、しかし力強く握りしめる。
「……大丈夫よ、みやび。あたしも、英吉もここにいるわ」
「……うん……麗美……っ」
隣に座る鬼塚は、腕を組んで窓の外をじっと見つめていた。
その横顔にはふざけた表情など全くなく、一人の大人として、教師として、これから始まる決戦の空気を静かに纏っていた。
目的地である塾は、駅から少し離れた、寂れた雑居ビルの二階にあった。
大手進学塾とは程遠い、どこか薄暗く、狭苦しい空間だ。
自動ドアをくぐると、受付には若い女性事務員が座っていた。
みやびが恐る恐る近づくと、女性は一瞬だけ顔を上げ、みやびの顔を認識した瞬間に、露骨に嫌悪感を孕んだ目で視線を逸らした。
「……相沢さん、ですね。前にも申し上げたはずです。扇先生は、あなたとお会いになる意思はありません。お引き取りください」
「お願いします……! 少しだけでいいんです、一言だけでも……!」
「ダメです。扇先生から、相沢という生徒が来たら何があっても敷地内に入れるなと、強く言われていますので」
冷たく突き放され、みやびは言葉を詰まらせて立ち尽くす。
その時、みやびの前に、壁のような巨大な背中が割り込んできた。
鬼塚英吉だ。
「おい、てめぇ。人がせっかく神妙な面持ちで頭下げにきてやってんだ。上への次(とりつぎ)くらい、すんのが受付の仕事だろーがよ」
凄まじい威圧感を放つ金髪の男に、受付の女性は息を呑んで一歩退いた。
「……あ、あなたは?」
「吉祥学苑・3年4組担任の、鬼塚英吉だ。こいつの今の担任だよ。こいつはな、扇先生に自分の犯したクソみてえな罪を、真っ正面から謝りにきたんだ。御託はいいから、さっさとあの男に伝えてきな」
鬼塚の眼力に気圧された女性は、しばらく何も言えずに硬直していたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……分かりました。ただ、長くは話せません。扇先生に、会うかどうか確認だけはしてきます」
三人は、パイプ椅子が並ぶ狭い待合スペースで待たされることになった。
その間、震えるみやびを麗美が優しく宥め、鬼塚は奥にあるドアを静かに見つめる。
数分後。
奥のドアが開き、ゆっくりと一人の男が現れた。
酷く痩せ細った、疲弊したオーラを纏った男性――扇だった。
かつて吉祥学苑にいた頃の快活な印象は完全に消え失せ、白髪が混じった髪に、酷く疲弊したオーラを纏っている。
扇はみやびの姿を視界に捉えた瞬間、その表情を恐怖と警戒でピキッと硬直させた。
「……相沢さん」
「扇先生……! あの、あたし――」
「もう、結構です。帰ってください。あなたと話すことなど、何一つない……顔を見るのも不愉快だ……」
拒絶の言葉に、みやびは胸を突かれたように言葉を失う。
そこへ、再び鬼塚がのっそりと一歩前に出た。
「おい。扇先生よぉ。てめぇ、せっかく生徒が勇気振り絞ってここまで来たんだ。能書き垂れる前に、一瞬くらい話を聞いてやったってバチは当たらねえだろ」
「……あなたは? 塾の関係者じゃありませんね」
「さっきも受付の女に言った通りだ。今のこいつの担任、鬼塚だ。こいつが、てめぇに本気で謝りてぇって言ってる。聞くだけ聞いてやりな」
扇は鬼塚の真っ直ぐな瞳をしばらく見つめていたが、やがて重ため息とともに、小さく首を振った。
「……分かりました。ただ、長くは話せません。他の生徒の目もあります、奥へ」
三人は、塾の最奥にある、教材が乱雑に積まれた狭い面談室へと通された。
重苦しい沈黙の中、みやびは扇の前に座ると、椅子から崩れ落ちるようにして、机に額がすれるほど深く、深く頭を下げた。
「……先生。あたし、去年……自分の我が儘で、嘘をついて先生を学校から追い出しました。先生の人生をめちゃくちゃに潰しました。許されることじゃないのは百も承知ですけど、言わせてください!……本当に……本当に、ごめんなさい……っ!!」
みやびの声は、涙で激しく震えていた。
「あたしの汚い嘘のせいで、先生は教師を辞めさせられて……今も、こんなところで臨時の仕事をしてる。婚約者の方とも、あたしのせいで……っ。全部、あたしが悪いんです。どんなに責められても足りないくらい、あたしが最低だったんです……っ!」
床に涙のシミを作りながら、泣き叫ぶみやび。
しかし、扇は何も言わなかった。
ただ、冷徹な、そしてひどく怯えた目で、頭を下げる元生徒を見つめている。彼の目にあるのは、許しではなく、未だに消えない「人生を壊された恐怖」だった。
ここで、鬼塚が口を開くより先に、じっと二人のやり取りを見つめていた麗美が静かに身を乗り出した。
オッドアイの瞳に怜悧な光を宿しながらも、その声はみやびを、そして扇を静かに包み込むような落ち着きを払っていた。
「あたしも当時、二年四組に在籍はしてたけど、その頃は不登校だったから、扇先生のことは良く知らないし、その時の詳しい状況は良く分からないんだけどさ」
扇が、不意に口を開いたIQ200の天才少女へ、驚いたように視線を移す。
麗美は扇の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「でも、これだけは分かるわ。目の前でこれほどプライドを捨てて、自分の醜い部分を曝け出して泣いているみやびは、もうあの頃の、人を傷つけて喜んでいた傲慢な彼女じゃない。……彼女はね、自分の罪を本当に理解して、変わろうとしているのよ」
麗美は一度言葉を切り、みやびの震える肩にそっと手を置いた。
「この間なんて、自分の今までのすべての行いをクラス全員の前に立って頭を下げて謝罪したわ。それだけじゃない。朋子のオーディションの時は、大親友の朋子を少しでも注目させるために、自分を完全に捨て駒にして泥を被った。吉川くんと上原さんのトラブルの時だって、周囲が茶化すのを誰よりも必死に止めていたのは、このみやびよ」
麗美の淀みのない、けれど情熱を秘めた言葉に、鬼塚は小さく笑みを浮かべ、腕を組み直して低く言葉を繋いだ。
「神崎の言う通りだ、扇先生よー。こいつはあんたにしちまったことの言い訳のしようもねえ大罪を、毎日、必死に悔い改めようと足掻いてんだ。一昨日だって、あんたに拒絶されるの分かってて、一人で謝りに来たんだろ? ……なぁ。例え今すぐ許すことはできなくてもよ、こいつが命がけで持ってきた『謝罪』くらいは、受け取ってやっても良いんじゃねえか?」
扇は押し黙った。
視線を机の木目に落とし、苦渋に満ちた表情で唇を噛み締めている。
鬼塚は、少しだけ間を置いてから、トーンを少し落として、続けた。
「……それにさ。擁護するわけじゃねえけどよ……あんたも、みやびの家庭環境や、色んな事情、担任だったんならちょっとは気づいてたはずだろ? こいつがどんだけ孤独だったか、寂しかったか……。それなのに、自分に好意を向けてたこいつの気持ちをこれっぽっちも考えずに、いきなり婚約者がいるって、何の前触れもなく目の前で紹介するのはよ……大人として、教師として、そして一人の男としても、どう考えてもデリカシーがなさすぎるだろ」
扇の肩が、びくっとわずかに震えた。
「こいつのやった嘘は100%悪ぃ。それは間違いねぇ。だけどよ……あんたがもうちょっと大人の男として、別の手段で、穏便にこいつの気持ちを整理させてやれてたら……結果も、少しは違ったんじゃねえか? あぁ?」
鬼塚の表情は、どこか辛そうだった。
生徒の罪を認めつつも、その原因を作った大人の不器用さを、彼自身もまた憎んでいたからだ。
面談室を、長い、長い沈黙が支配する。
やがて、扇は床に視線を落としたまま、深く、小さく息を吐き出した。
「……分かりました」
その声は、ひどく掠れていて、小さかった。
「相沢さん。あなたの謝罪は、確かに受け取ります。……ただ、勘違いしないでください。私は、あなたを『許す』とは、まだ言っていません。私の失った時間も、去っていった婚約者も、戻ってはこないのですから」
みやびは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は真っ赤に腫れ上がっていたが、拒絶の奥にある、確かな「謝罪の受理」を感じ取り、微かに唇を震わせた。
「……ありがとうございます。……本当に、ありがとうございました……っ」
声は完全に掠れていた。
けれど、彼女の胸をずっと縛り付けていた、どす黒い呪縛の鎖が、パキリと音を立てて微かに綻んだ瞬間だった。
鬼塚は何も言わなかった。
ただ、椅子から立ち上がると、みやびの細い背中を、ガシッと力強く、けれど優しく叩いた。
「よし、ケジメはついたな。帰るぞ」
麗美は、みやびの手をもう一度静かに、暖かく握りしめた。
三人は部屋を出た。
扇は、その三人の背中を、窓から差し込む五月の夕陽の中で、ただじっと見送ったまま、しばらく動かなかった。
塾の入った雑居ビルを出ると、外はすっかり美しい茜色の夕焼けに染まっていた。
街を行き交う人々の雑音の中で、みやびは鬼塚と麗美のほうを振り返り、涙に濡れた顔で、けれど今までに見たこともないような、本当に純粋で小さな笑顔を浮かべた。
「……ありがとう。二人とも。あたし……少しだけ、前を向ける気がする」
「……礼を言われることはしてねえよ。俺はただ、暇つぶしに付き合っただけだからな」
鬼塚は照れ隠しに、そっぽを向いてぶっきらぼうに返す。
相変わらずそういうところは子供のようだ。
麗美は、愛おしそうにみやびの頭を優しく、何度も軽く撫でた。
「……本当によかったわね、みやび」
「ええ……っ」
帰り道、再び拾ったタクシーの後部座席。
みやびは麗美の肩に頭を預け、流れる夕景を見つめながら、声を殺して、小さく、小さく泣き続けていた。
けれど、その頬を伝う涙は、もう自分を呪うための冷たい涙ではなかった。
五月の風が、半開きにしたタクシーの窓から吹き込み、新しく生まれ変わろうとする三人の間を、静かに、そしてどこまでも優しく通り過ぎていった。
という訳で、みやびの扇先生への謝罪の回でした。
ことがことの為、許されはしませんでしたが、みやびの心からの謝罪はしっかりと扇先生の根底には届きました。
これで、お互いはゆっくりですが、少しずつ前に進み出す形です。
ゴールデンウィーク編も終盤になりました。
次回もよろしくお願いします。