大門編最終回です。
渋谷が改心した翌朝。
校長室の扉は閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。
主を失ったかのように静まり返った室内の照明は落とされ、デスクの上に置かれた一台のランプだけが、淡い光を投げている。
鼻を突くガソリンの匂いが、わずかに部屋の奥に残っていた。
大門は、デスクの前に、まるですべての感情を削ぎ落とされた彫刻のように立ち尽くしていた。
机の端には、彼女の愛車であるフェラーリ・テスタロッサのキーが冷たく置かれている。
そして右手には、小さなジッポーライターが握られていた。
(……これで、終わりだ。私の『最適化』も、この学苑も)
すべての工作は麗美という頭脳だけでなく、戦闘能力すら規格外の怪物のその圧倒的采配によって逆流され、手塩にかけて育てた天使部隊は壊滅。
絶対の信頼を置いていた渋谷までもが、自らの静止を振り切って独断で動き、彼の行動も三年四組の揺るぎない要塞の前に完膚なきまでに叩き潰された。
杏子のボイスレコーダーに残された脅迫の音声データは、麗美の手によって、杏子の母親を通じてメディアに晒されるという破滅のルートを敢えて避け、警察の上層部から指示を受けた冴島によって教育委員会の穏健派へと直接、極秘裏に手渡されていた。
過激派を内部から合法的に抑え込むための「絶対に表に出せない核のボタン」として、完全にクラス側に主導権を握られたのだ。
マスコミに流そうとした大門側の最後の抵抗である【鬼塚のスキャンダル】という名の彼女達がまだ確定出来ていないハッタリも、すでに菊地のハッキングによって完全に無力化され、ログすら消去されている。
盤面を見回しても、残された手駒はもう、何一つとして存在しなかった。
大門は、親指でライターのホイールを回した。
カチリ、という軽い金属音と共に小さな炎が灯り、ガソリンの匂いが漂う薄暗がりのなかで妖しく揺れる。
「桜井先生の理想も、私の理想も、結局は同じ。――人を信じすぎた者が、一番痛い目を見るのよ」
その時、校長室の重厚な扉が、立て付けを壊んばかりの凄まじい音を立てて開け放たれた。
「おい、大門――ッ!!」
地を這うような野獣の咆哮。
飛び込んできたのは、鬼塚英吉だった。
普段のヘラヘラとした締まりのないだらしない表情は完全に消え失せ、その目は血走っている。
昨夜の渋谷たちとの死闘を物語るように、左手は未だ血のあとに塗れた包帯に包まれ、右手は怒りで骨が鳴るほどに拳を握りしめたまま。
その後ろからは、連れて来られた渋谷が、麗美に腕を掴まれるようにして立っていた。
渋谷の目は赤く腫れ上がり、プライドを打ち砕かれたその肩が小さく震えている。
さらに、その背後――開け放たれた扉から、廊下の奥の闇の向こうまで、三年四組の生徒たちが溢れ返るように立ち並んでいた。
みやびが先頭で鋭い眼差しを向け、その横には眼鏡の奥の目を光らせる菊地。
杏子と吉川が互いを支え合うように並び、村井、藤吉、草野が今にも大門に掴みかからんばかりの形相で構え、朋子が心配そうに手を合わせており、繭はその横で静かに腕を組んでいる。
さらには常盤たちテコンドートリオや、敗北した天使部隊の面々までもが、朝の校長室へと集結していた。
クラス全員の「鉄の意志」が、一つの巨大な壁となって大門の視界を埋め尽くした。
「……何の真似かしら、鬼塚先生。ぞろぞろと引き連れて」
大門はライターの炎を揺らしたまま、冷徹な視線を向けた。
「放火して学苑諸共死のうってか? てめえ、マジで頭おかしくなってんのかよ!!」
鬼塚が一歩、床を踏み鳴らして前に出る。
包帯の隙間から、じわりと新しい血が刺青のように滲む。
「もう終わりだ! 天使部隊も、てめぇの腐った工作も、全部オレたちの手で叩き潰してやったよ! これ以上、これ以上誰かを巻き込んで、一人で何を守ろうとしてんだよ!!」
鬼塚の怒号に、渋谷が、小さく顔を上げた。
その瞳から、大門を見つめるかつての絶対的な狂信は消え、悲痛な光が宿っていた。
「……大門さん」
「翔……」
「僕は、あなたが正しいと信じていました。あなたの作る完璧な世界だけが、僕たちみたいなやつらを救ってくれるって……。でも、違った。あなたは、僕たちをただの道具にしていた。……ううん、本当は、僕たちを誰も傷つけない道具にするために、冷酷に切り捨てるフリをして、一人で全部背負おうとしてたのかもしれない」
渋谷の声は細く震えていた。
極限の精神状態の表れである、爪を噛む癖が無意識に出ている。
「でも、もういいんです。大門さん……もう、誰も傷つけないでください。あなた自身も、もう傷つかなくていいんだ……!」
大門は、手元のライターの火を見つめたまま、微動だにせず何も言わなかった。
その時、校長室の入り口から生徒たちを押し退けて、一人の女性が姿を現す。
「大門校長……いえ、美鈴」
現れたのは、吉祥学苑の理事長、桜井良子だった。
その絶対的な母性を体現したかのような姿を見た瞬間、大門の右手が、初めて明確にガタガタと震え始めた。
「桜井……先生……」
「放火などさせはしない。あなたがここで全てを灰にして死んでも、何も解決などしないのですよ」
桜井はゆっくりと歩を進め、静かに、しかし遮るもののない強さで言った。
「あなたが私をここまで憎んだ理由は、もうわかっています。中学の時、父親の凄惨な放火事件でお前はすべてを失い、孤独の底で私を頼った。だけど……当時の私はあまりにも無力で、あなたをその地獄から救い出してあげられなかった。私に対するその深い恨みは、当然のものです。だけど、この子たちを巻き込むのは筋違いよ。鬼塚先生も、三年四組の子たちも、この学苑の生徒たちもあなたの過去の傷とは何の関係もないのだから」
大門は、ライターを握ったまま、爆発寸前のガソリンの匂いのなかで立ち尽くしていた。
床にはまだ火は落ちていない。
だが、そのジッポーの火種は、いつ彼女の手から滑り落ちてもおかしくない、絶望的な距離にあった。
張り詰めた空気のなか、鬼塚の隣に立つ麗美が、フゥと小さく息を吐いた。
そのオッドアイの瞳は、未来の破滅を知る者としての冷徹さと、今の世界を選んだ者としての確かな強さを湛えていた。
「……大門校長。 あんたの管理という理想が正しかったかどうかは、もう歴史のゴミ箱の中。ただ、今ここでその火を落としたら、あんたがその人生のなかで一番嫌悪し、恐れていた『取り返しのつかない理不尽な破壊』を、あんた自身の手で証明することになるだけよ」
麗美の言葉に呼応するように、クラスの生徒たちが、大門を包み込むように静かに歩を進めた。
ガソリンの匂いが立ち込める死線の中にあっても、誰一人として、恐怖で逃げ出そうとする者はいなかった。
みやびが、一歩前に出る。
「大門校長、あたし達はあんたの『管理』なんか、最初からこれっぽっちも必要としてない。あたし達はみんな、そこのバカ教師のおかげで、とっくに自分たちの足で歩けるようになってるんだから。――でも、あんたをこんな暗い部屋で、一人で終わらせたくもないのよ」
菊地が、静かに眼鏡を押し上げながら続ける。
「証拠は、俺と神崎の手で完全に押さえてある。 教育委員会の穏健派も、これ以上の泥仕合を望んではいない。過激派を内部から永久に黙らせる材料として、大門校長、あなたの身柄とデータは機能する。これ以上、あなたが手を汚して、誰かを道連れにする必要性すら存在しないんです」
常盤が、そっと渋谷を気遣うように、彼の隣に寄り添うように立った。
「……渋谷、天使部隊の……いや、大門さんの負けだよ……でもさ、なんか悪くない負け方だよ」
渋谷は、涙を流しながら小さく、小さく頷いた。
鬼塚が、大門の持つライターの手元へ、怪我をしていない右手をゆっくりと伸ばした。
「……大門。もうやめろ……」
その声は、いつものふざけた爆音ではなく、湘南の修羅場をいくつもくぐり抜け、何人ものちっぽけな魂を救ってきた、男の、芯からの響きだった。
大門は、ライターの火を見つめたまま、長い、気の遠くなるような沈黙を置いた。
校長室を満たすガソリンの重い匂い。
それを受け止める、三年四組の若く、まっすぐな生徒たちの生きた息遣いが、静かに部屋を満たしていく。
「……桜井先生」
大門の声は、枯れ葉のように掠れていた。
「私は、あなたを激しく憎んでいた。……でも、同時に、狂おしいほどにあなたを超えようとしていた。この学苑を完璧なシステムで管理し、あらゆる無駄と感情を排除すれば……かつての私のような、大人の理不尽に焼かれる子どもは生まれないと、本気で信じていた」
「美鈴……」
「でも、結果は……ご覧の通り、このザマだわ。私の作った最高効率のシステムは、彼らの不確定な『絆』によって逆流され、無惨に崩壊した。天使部隊も、翔も……私を信じすぎた者が、一番痛い目を見る。私の言った通りでしょう?」
桜井は、悲しげに、しかし慈愛に満ちた笑みで静かに首を振る。
「いいえ、美鈴。あなたが間違っていたのは、人を信じすぎたことではありません。傷つくことを恐れるあまり、思想が歪み、人を……その子どもたちを、ただの都合のいい道具として扱ってしまったことなのです」
大門は、ライターを握ったまま、ゆっくりと視線を床へと落とした。
麗美が、静かにトドメを刺すように、しかし救い上げるように口を開く。
「……あんたは『完璧な管理』で、自分みたいな人間を二度と作らないつもりだったんでしょ? でも、結果として、そのシステムの中心で、あんた自身が世界で一番孤独になってる。それが、あんたが導き出した最悪のエラーコード、理想の答えよ」
鬼塚が、もう一歩近づき、大門の目の前にその巨体を置いた。
「大門。てめぇがここで不貞腐れて死んだところで、誰も救われねぇし、寧ろ、てめぇを慕ってるやつらを絶望の底に叩き落とすことになるんだ。 屋上にあったプレハブ小屋をぶっ壊されたことについて思うところがない訳じゃねぇ……だけどよ……てめぇっていう一人の教師を、こんなところで寂しく終わらせたくもねぇんだよ。――だから、その火を消せ……今ならまだやり直せる」
大門は、ライターの火を見つめたまま、長い沈黙を置いた。
やがて、指の力が抜け、フッと火が消える。
暗がりのなかで、大門は力無くライターを机の上へと落とした。
金属が転がる高い音が響くなか、彼女の身体が床へと崩れ落ちる。
すかさず桜井が駆け寄り、その細い肩を、かつてできなかったほどに優しく、強く抱きしめた。
大門の胸の奥で頑なに凍りついていた過去の氷が、生徒たちの熱気と、桜井の体温によって、静かに、涙となって融けていった。
「……ふっ、負けよ……私の完全な負け。 鬼塚先生、あなた達のような規格外のバグを、既存のシステムで管理しようとしたことが、そもそもの間違いだったわ。……あなた達三年四組は、私の常識なんか一切通じない破天荒な集まり。だけど……一人の教師として、心から自慢できる、本当に素晴らしいクラスだわ。完敗よ……。私は大人しく、自分の犯した罪をすべて償うことにするわ……そして、償った後、必ず戻ってきてみせる。 そして、あなた達のようなクラスをたくさん作れるよう目指していくわ」
そう語る大門の顔からは、今までの周囲を威圧していた刃のような鋭い表情は完全に消え去っていた。
憑き物が取れたような、優しく穏やかな、本来の「一人の女性」としての素顔がそこにはあった。
校長室の割れた窓の隙間から、遮るもののない眩い朝の光が差し込み、部屋中を白く照らし出した。
それはまるで、大門の心境を表しているようだった。
麗美は、その光のなかで小さく息を吐く。
(……これで、また一つ、破滅の未来がなくなった)
大門の冷酷な最適化は、ここで完全に終わった。
三年四組という最強の要塞は、大門という大きな壁を乗り越えたことで、今日もまた、さらに一つ分厚く進化したのだ。
鬼塚が、包帯の巻かれた左手を、痛そうに顔をしかめながら軽く振った。
「……ったくよぉ。追い詰められたからって部屋にガソリン撒いて放火しようとするとか、マジで勘弁してくれよな。こちとら非常勤で、ただでさえクビの皮一枚で繋がってんのに、職失っちまうっての、マジで」
鬼塚のその言葉に、リアクションの違いはあれど、その場に居た皆が笑った。
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その日の放課後。
大門が冴島たち警察に連行され、ひとまずの落ち着きを取り戻した吉祥学苑の片隅――旧校舎の一室に、三年四組の「主要メンバー」が集まっていた。
みやび、朋子、村井、藤吉、草野、吉川、杏子、菊地、繭、常盤たち。
全員が揃った状態で、今回の一件を静かに振り返っていた。
「英吉。あんた、今回も相変わらず無茶苦茶なことしたわね。その手、ママに見つかったらなんて言われるか……」
麗美が包帯だらけの左手を覗き込みながら、呆れたように笑う。
「う、麗美、てめぇがそれを言うかよ! 相手の本陣にたった一人で乗り込むとか、どれだけオレの心臓に悪い無茶しやがんだコノヤロー!」
「いいじゃない。あんたが絶対に助けに来てくれるって、あたしは最初から信じてたもの」
「信じてたからって、一人で突っ込むなっての! てめぇが無茶するからオレまで無茶すんじゃねえか!」
「あんたが無茶するから、あたしが先に動くのよ。結局同じでしょ?」
「ぐぬぬ……ああ言えばこう言いやがって……大体な! 俺はお前が戦うのを認めた訳じゃねぇんだからな!」
「あー! それって【戦いは男に任せて女は引っ込んでろ】とかいうやつー? 前時代的な差別よそれ。 いーけないんだー!」
「うるせぇ! たまには黙って言うこと聞けっての!」
「えぇ〜、嫌よ、そんなの」
「て、てめぇなぁ……」
言い合いという名の痴話喧嘩が始まった。
周囲の視線が一斉に二人に集まる。
菊地は眼鏡を押し上げ、繭はやれやれと小さくため息をつき、吉川は苦笑を浮かべ、草野は腕を組んだまま小さく首を振っていた。
みやびがパチンと自分の両手を叩き、深く長いため息をついた。
「はぁー…………はいはい、そこまでよ。あんた達二人の仲が良いのは改めてよーく分かったから……そういうのは麗美のマンションで続きをして頂戴。 ほんと、危機を乗り越えるたびにどんどん距離が縮まってくんだから。……まったく似た者同士よね、あんた達バカップルは」
その一言で、村井や藤吉が腹を抱えて笑い、杏子や朋子も温かい笑顔を見せた。
常盤たちも自然と笑いを浮かべている。
夕陽が古い窓から差し込み、旧校舎の一室を黄金色に染め上げていく。
麗美は、その光の中で小さく息を吐いた。
(……これで、また一つ、塞がった)
前の世界で、鬼塚が植物状態に陥り、病室で死ぬ寸前だった光景が、ふと、脳裏をよぎった。
あの時の絶望的な光景が、今もはっきりと残っている。
(英吉が無事で、ここに居てくれる。 あの時みたいにならなくてほんとに……良かった……)
その瞬間、麗美の目から自然と涙が溢れ出した。
「お、おい……麗美? な、なんで急に……!」
鬼塚が先程の怒りが何処へやら、慌てて麗美の顔を覗き込む。
そんな鬼塚に、麗美は涙を拭おうともせず、小さく首を振った。
そして、涙を流したまま、小悪魔な笑みを浮かべる。
「……なんでもない。ただ、あんたが無事でよかっただけ」
大門の最適化は終わった。
だが、誰も切り捨てない、誰も孤独にさせない三年四組のグレートな物語は、この強固な要塞となった仲間たちと共に、ここからさらに加速していくのだった。
無印編も終盤ですが、このまま続くか、無印編で終わるかアンケートを取りたいと思います。
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無印編後にパラダイスロスト改
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無印編後に番外のSHONAN 14DAYS
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無印編+エピローグで終了