タイトルが思い浮かばなかったので、保留となっています。
上手く書けないので、麗美視点をやめることにしました。
申し訳ありません。
モチベーションアップの為にもお気に入り登録や感想をいただける有難いです。
今日、私立武蔵野聖林学苑の中等部、三年四組に担任として編入してきたばかりの鬼塚英吉。
そして、その初日に彼女…神崎麗美が引き起こした「生き埋め狂言誘拐劇」という最悪の狂言から解放されたばかりの彼は、己の泥だらけの服と、どこかまだ現実味の薄い「麗美の仮の恋人」という肩書きの重さに、人知れず頭を抱えていた。
そんな鬼塚の半歩先を歩いていた麗美が、ふと足を止める。
街灯の淡いオレンジ色の光が、彼女の濡れた髪と、どこか挑発的な双眸を妖しく照らし出した。
麗美は上目遣いに鬼塚を見つめ、その形の良い唇を小さく割り、色っぽい笑みを浮かべる。
「ねえ、英吉……。この後、うちに来ない?」
「ひゃ、――ッ!?」
鬼塚の口から普段の彼が出すことのない、情けない裏返った声が飛び出した。
顔のパーツがすべて中心に寄るような、超絶ハズレ顔である。
出会って一日の、しかも大人びた顔をしているとはいえ、中学三年の美少女からの唐突すぎるド直球な誘い。
鬼塚は両手を激しく振りながら、数歩後ろへ飛びのく。
顔面は一瞬で沸騰したように真っ赤だ。
「な、何考えてんだお前ーーーッ!! 仮の恋人になったからって、なって早々いきなりそれはよぉーーっ!? お、俺はこれでも聖職者っつーか、純情な男なんだよ! だ、だいたいお前はまだ中学生だろーがッ!! そ、そういうのはな!! い、色々と段階を踏んでだな……」
「ふふっ……あはははは!!」
鬼塚の絵に描いたような大慌てっぷりに、麗美は肩を震わすと、こらえきれずにお腹を抱えて笑い出した。
そして、わざとらしく目を丸くして鬼塚を覗き込む。
「なーに勘違いしてんのよ、英吉? あんたのその服、泥でドロドロだし濡れてるじゃない。だから『うちでシャワーでも浴ていったら?』って意味よ? あれ〜? まさか何かいかがわしいこと考えてたわけ〜?」
「ぐっ……!!」
「やだ〜〜! 英吉に食べられちゃうわ〜〜〜!」
麗美はくすくす笑いながら、自分の肩を抱きしめて身をすくめる仕草をして見せる。
…完全にからかわれている。
鬼塚の額にピキピキと青筋が浮かんだ。
「ば、バカ! ち、ちげえよタコ! つーかデカい声で言うな! 誰かに聞かれたら一発で警察(マッポ)行きだろーが!」
「じゃあ、大人しく私の言う通りにすればいいじゃない」
麗美の目が、一瞬で「捕食者」のそれに変わる。
「そ、れ、と、もー……さっきの『生き埋め』の件、明日、学校中に公表して詳しく報告しちゃおうかしら? 『新担任の鬼塚先生に拉致されて、生き埋めにされかけました』って」
「うぐぎぎぎ……ッ!!」
鬼塚は八方塞がりな状況に歯をギリギリと鳴らした。
この小悪魔、今日会ったばかりだってのに完全に俺の弱みを握って楽しんでやがる。
生徒の家に、それもこんな夜更けに女子中学生の家に行くなど、教師生命どころか人生が終わるリスクしかない。
しかし、ここで麗美の機嫌を損ねれば、明日にはロリコン誘拐犯として新聞の三面記事を飾ることになる。
テレビの報道番組でも各局で特集を組まれること間違いなしだろう。
行かなければ確実に人生終了……ならば鬼塚には麗美の家に行くしか選択肢は残されて無かった……
「……チッ、分かったよ! 行きゃいいんだろ、行きゃあよぉ!」
観念してヤケクソ気味に頭をガシガシと掻きむしる鬼塚の後ろで、麗美は勝利の笑みを浮かべ、鼻歌混じりに満足そうにステップを踏んだ。
ー
ー
ー
「はい、到ちゃーく! 此処があたしんち。 ささ、入って入って」
「お、おう…し、失礼…します……」
到着した神崎麗美の家であるマンションの一室。
年頃の女子中学生の家……それも真夜中に自分も麗美もこんな泥だらけの姿で来ていることを、時間帯的に居るであろう麗美の両親にどう説明したものか……
鬼塚は悩みながらも意を決すると、ゆっくりと中へと入っていく。
しかし、その中は、息が詰まるほど広く、そして静まり返っていた。
「はい、タオル。とりあえず先にシャワー浴びてきちゃいなよ、英吉」
麗美から差し出されたバスタオルを受け取りつつ、鬼塚はキョロキョロと広いリビングを見回す。あまりにも人の気配がない。
「おい、神崎。お前の親御さんはどうしたんだよ? こんな夜中にガキ一人残して留守か?」
「ん? ママなら今日、仕事が長引いて現地のホテルに泊まるから帰ってこないわよ。 学校から帰ってきた時に連絡あったし。 早くても明日の朝じゃない?」
「な、何ィーッ!?」
鬼塚の目が飛び出さんばかりに見開かれた。
「お、おい! マ、ママがいねえってことは、今この部屋はお前と俺の二人きりってことかよ! ヤベえだろ! 泥棒に追い銭っつーか、狼の前に羊っつーか、とにかく倫理的に大ピンチだろーがッ!!」
「何言ってるの。風邪ひいちゃうでしょ? 英吉が先に入ってよ。……それとも……一緒に入る?」
「入んねえよバカ野郎ーーーッッ!!」
制服を脱ぐ素振りを見せる麗美に、鬼塚は脱兎のごとく洗面所へと駆け込み、勢いよくドアを閉めた。
背後から「あはは!」と小気味いい笑い声が聞こえる。
「……ったく、心臓に悪ぃガキだぜ、まったくよぉ」
ぶつぶつ文句を言いながら服を脱ぎ、シャワーの温水を浴びる。
泥と汗が流れ落ちていく感覚に、ようやく一息つくことができた。
鏡に映る自分の顔を見て、「仮の恋人、ねぇ……」と独りごちる。
今日初めて会い、まともに話したあいつの本心がどこにあるのか、鬼塚の野生の勘をもってしても、まだ測りかねていた。
シャワーを終えて脱衣所に出ると、カゴの上に真新しい男物のジャージが綺麗に畳まれて置かれていた。
「ん? なんだこれ」
袖を通してみると、驚くほどしっくりくる。
丈も肩幅も、まるで誂えたかのようにぴったりだった。
洗面所から出ると、リビングでテレビを見ていた麗美が振り返る。
「あ、着替えた? それじゃ、次はあたしも入ってくるわね。……覗いても良いからね〜?」
「の、覗くかボケェッ!! 風邪引くからさっさと行ってこい!」
「はーい」
間伸びした返事を残して、麗美は浴室へと消えていった。
一人リビングに取り残された鬼塚は、ソファに深く腰掛け、自分の着ているジャージの袖を引っ張った。
母親のいない、静まり返った高級マンション。
自分の身体に驚くほどサイズがぴったりなジャージに違和感を覚えつつも、「底が知れねえなぁ、アイツも……」と独りごちる。
しばらくして、浴室のドアが開く音がした。
湯上がりの白い湯気をまとってリビングに戻ってきた麗美の姿に、鬼塚は息を呑んだ。
少し大きめのTシャツにショートパンツというラフな格好。
濡れた髪から滴る水滴が、彼女の白い首筋を伝っていく。
柔らかな熱を帯びた肌がほんのりと桜色に火照っており、普段の天才少女の面影をかき消すような、圧倒的な少女の艶めかしさがそこにはあった。
「…………っ」
鬼塚は言葉を失い、生唾を飲み込んだまま、無意識にその姿に見惚れて完全に固まってしまった。
そんな鬼塚の熱い視線に気づいた麗美は、形の良い唇をニィッと小悪魔的に歪めると、冗談混じりに上目遣いで、じりじりと鬼塚に擦り寄ってくる。
「あれぇ〜。 英吉ってば、あたしをそんな熱心に見つめちゃって……やっぱこのまま……やっちゃう?」
「っ、~~~~ッッ!!」
至近距離から漂う石鹸の香りに、鬼塚の脳細胞が一気に沸騰した。
我に返った鬼塚は、ボフッと顔面を真っ赤にしながら、麗美の両肩を掴んで強引に引き剥がす!
「だ、誰が中学生のガキを熱心に見るかよ! てかやらねえ! 俺はこの貞操を、本気(マジ)の女にしか捧げる気はねえんだよ!」
必死に叫ぶ鬼塚のその純情な剣幕に、麗美は驚く風でもなく、クスッと大人のような余裕の笑みを浮かべてみせた。
「あら、奇遇ね。あたしも英吉と同じ考えよ? 本当に好きな相手にしかあたしの初めて……あげるつもりないから」
「へっ!?」
鬼塚は点になった目で麗美を見た。
今、この小悪魔は何と言った?
あたしの初めて?……ま、まさか……
そんな鬼塚の動揺をさらに煽るように、麗美は人差し指を唇に当て、事も無げにカミングアウトした。
「だってあたし……処女だもん」
「ぶふっっーーーーーーーッッ!!???」
鬼塚の口から本日一番の奇声が上がった。
目玉が飛び出さんばかりに丸くなり、顎が外れそうなほど驚愕している。
そんな鬼塚のリアクションを見て、麗美は一瞬にして不機嫌そうに両手を腰に当て、頬をぷくーっと膨らませた。
「そんなに驚く!? あたしはこう見えて、どんな男にも着いていくような尻軽女じゃないんだから! 純粋な14歳の乙女なんだからね!」
そう言ってプイッと横を向く麗美。
そこには、普段学校の教師どもを冷酷に見下ろしているIQ200の怪物の影は微塵もなかった。
ただの、自分の操を疑われて怒っている年相応の可愛い女の子の顔だった。
「(な、な、なんだよその顔……めちゃくちゃ可愛いじゃねえかよ……は、反則だろ……畜生……っ!)」
先程までとのギャップに、鬼塚は内心めちゃくちゃドキッと胸を打たれていた。
しかし、ここでそれを認めるわけにはいかない。
鬼塚はあちこちに視線を泳がせながら、後頭部をバリバリと掻きむしり、しどろもどろになって言い訳を始めた。
「わ、悪かったって……。だ、だってよ……さっきから風呂を一緒に入ろうだの、覗いても良いだの、やっちゃうだの……なんか……その…経験豊富そうなことばっか言ってたからよぉ……」
「ふーん? あれは英吉のリアクションが面白いから、からかってただけよ」
麗美はまだ少し頬を膨らませたままでいたが、鬼塚のあまりのウブさに呆れたのか、やがていつもの不敵な笑みに戻り、彼のドロドロになった服が入ったビニール袋を指差した。
「ほら、英吉。その服どうするの? 流石にそのまま持って帰るの嫌でしょ。うちの洗濯機、こんな夜中に回したら近所迷惑だし……」
麗美はいたずらっぽく微笑み、鍵をジャラつかせた。
「ちょっとそこまで、夜のお散歩つきあってよ。近くに24時間のコインランドリーがあるから。汚れた服、まとめて洗いに行こ?」
ー
ー
ー
深夜1時過ぎの吉祥寺。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った路地裏に、ポツンと蛍光灯の白い光を放つコインランドリーがあった。
自動ドアが開くと、洗剤の安っぽいシトラスの香りと、湿った温風が二人の肌を包む。
他に客の姿はない。
「オラよっと」
鬼塚は持ってきたビニール袋から、泥と泥水の汚れで見る影もなくなった服を洗濯機に放り込み、小銭を投入する。
ガコン、と重い音を立ててドラムが回り始め、水が勢いよく噴き出した。
「ふぅ……」
鬼塚はプラスチック製の安っぽい長椅子にドカッと腰掛け、備え付けの自販機で買った缶コーヒーを一口すする。
「……」
その隣に、麗美がごく自然に、肩が触れ合うほどの距離でちょこんと座った。
規則的に回り続ける洗濯機のドラム、白く濁っていく水、そして鼻を突く洗剤の匂い。
それらを見つめているうちに、麗美の脳裏に、「前の世界(ループ前)で、鬼塚と初めて出会ったあの夜」の記憶が鮮烈に蘇っていた。
(――そういえば、あの時も……このコインランドリーだったな――)
三年四組の実質的トップである相沢雅から「新しく来た担任の鬼塚って男を中々潰せないから本気で潰してほしい」と呼び出され、不登校から復学することを決めた前夜。
夜中に公園のベンチに座り、ワンカップを片手に晩酌しながら、「あ〜あ、彼女欲しいな。どっかに良い女はいねえかなぁ?」とマヌケ面で一人ごちていた金髪の独身男。
それが鬼塚英吉だった。
そんな彼の前に、麗美は現れた。
夜の公園で寂しげな美少女を演じて、まんまと鬼塚を釣り上げ、美人局まがいにこのコインランドリーへと連れ込んだのだ。
鬼塚の服を引っぺがし、洗濯を終えた自分の下着をあろうことか『変態犯罪者』のように彼へ着せ替えると、コインランドリーを飛び出し、丁度巡回をしていた警察官に「助けてーーーッ!」と悲鳴を上げて置き去りにした。
あの時警察官に追われ、必死の形相で逃げていった鬼塚のハズレ顔は、今思い出しても傑作だった。
鬼塚にとっては「最悪の極み」でしかない出会い。
しかし、今の麗美にとっては、自分の退屈で絶望した世界をぶち壊してくれたヒーローとの、愛おしくてたまらない原点の記憶だった。
「……くすっ」
「あー? なんだよ神崎、急に不気味にニヤニヤしやがって」
思い出して思わず吹き出した麗美を、鬼塚が怪訝そうに覗き込む。
今の鬼塚にとっては、今日学校で初めて会って、夜に再会し、飛び降り未遂を防ぎ、生き埋めにしかけたのが「最初の出会い」だ。
まさか前の世界で、自分がブラジャー一丁でマッポに追われる屈辱を味わっていたなど、知る由もない。
「ふふっ、なんでもないわよ。……ただ、そのジャージ、やっぱりサイズぴったりだなと思って」
麗美は誤魔化すと長椅子の上で両膝を抱え、その上に顎を乗せた。
乾燥機のオレンジ色の光が、彼女の横顔を照らす。
「それね……私が『ママへのあてつけ』で買ったのよ」
麗美は半分ほんとで半分嘘を言う。
母親のあてつけなのは事実だが、本当は前の世界で鬼塚に服をプレゼントしたことがあり、その時に彼自身から合うサイズなどを聞いていた為、こうなった時の為に事前に準備していたのだ。
「あてつけ……?」
「ええ。うち、お父さんいないし。ママは今は私を『完璧なブランド品』としてしか見てないから。そんなママが一番嫌がりそうな、最高に型破りで、最高に泥臭くて、最高にカッコいい男をいつかここに連れ込んで、ママの考えを根本からぶっ壊してやるために、クローゼットに男物の既製品を仕込んでおいてやったの」
「あ……」
『お父さんいないし』という麗美の言葉に、鬼塚はそれ以上言葉を続けられなくなった。
母親が仕事にかまけて夜中に中学生を一人きりにしている現状を思い出し、急に気まずそうに視線を泳がせる。
「わ、悪ぃ……。俺、そんなこと知らなくてよ……」
(――鬼塚は《居ない》ということを、すでに亡くなっているのだと勘違いしていた。
だが、真相は違う。
麗美に父親は存在しないのだ。
正確には、生物学的な父親は存在する。
しかし、その実態は精子バンクによって提供された『優秀な遺伝子情報』を持った精子であり、ぶっちゃけて言えば、麗美にとってはほとんど赤の他人に等しい存在だった――)
それが神崎麗美の秘密……
その秘密を、今の鬼塚はまだ知らない。
けれど鬼塚は前の世界でその秘密を知っても尚、以前と変わらず接し方を変えず、逃げずにしっかりと彼女を見てくれた。
行方不明の末に凍死しようとしていた麗美を、自身の危険を省みらずに助けた鬼塚によって彼女は身も心も魂をも救われ、全幅の信頼を寄せるようになり、異性としての好意も寄せるようになった。
あの世界での最悪の出会いから紡がれた鬼塚との絆を知っている今の麗美は、もう例え秘密が周囲に暴露されようとも、ショックは受けようが一人で絶望して死のうとすることはない。
目の前の男が、いつだって自分を見捨てず、絶対的な味方になってくれることを、魂のレベルで知っているからだ。
麗美は、鬼塚のあからさまな「気まずそうなハズレ顔」を見て、クスッと愛おしそうに笑った。
「いいのよ、気にしてないから。……そしたらね、本当に来ちゃったの。私のクローゼットのジャージが、驚くほどぴったりな、私のヒーローがさ」
「ちょっと神崎、お前……」
さっきの処女告白といい、今のセリフといい、こんな深夜の二人きりの空間で言われたら、いくら相手が中学生でも男として理性がぶっ飛んじまうだろーが! 鬼塚は真っ赤な顔を隠すように、一気に缶コーヒーを煽った。
「な、何がヒーローだ! 俺はただの、しがない中学教師だっつーの! 買いかぶりすぎんだよ!」
「ふふ、照れてる照れてる。可愛いね、英吉は」
「照れてねえわ!!」
ガコン、と洗濯機のタイマーが切れる音が響いた。
「ほーら見ろ、洗濯終わったぞ! 次は乾燥機だ、乾燥機!」
鬼塚は照れ隠しに大声を出しながら、濡れた衣服を隣の大型乾燥機へと移し替えた。再び100円玉を数枚放り込む。ゴオオオ……と、今度は熱風とともにドラムが回り始めた。
「……ねえ、英吉」
乾燥機の窓から漏れる温かい光を見つめながら、不意に麗美が再び口を開く。
「私さ……今日あんたに会うまでは、本当にこの世界がつまらなくて、死んじゃってもいいかなって思ってたんだ。誰も私の『中身』なんて見てくれないし、ママにとっても私はただの道具だから」
麗美は自身の過去の身体が本心から訴えていた気持ちを言葉に出す。
乾燥機の回転音が、麗美の声を少しだけかき消す。
鬼塚は何も言わず、ただ静かに缶コーヒーの空き缶を握りしめて聞いていた。
「親父さんがいない」という家庭環境、聞く限り辞書にないレベルで冷淡な母親の態度、そして夜中にホテルへ泊まって家に帰ってこないという異常な孤独を自分なりに解釈し、今日出会ったばかりの、この生意気な天才少女の背負う孤独の重さを、鬼塚は彼なりに受け止めようとしていた。
「切ない顔しないでよ、英吉。……でも、英吉は違った。あたしを『神崎麗美』として、一人の面倒くさいガキとして、本気で怒って、本気でぶつかってきてくれた。だから、あたしはもう、自分の環境なんて、どうでもよくなっちゃったんだ」
麗美はそっと、鬼塚のジャージの袖を小さな手で握りしめた。
「あんたが私の隣にいてくれるなら、あたしは何があっても、もう迷わない」
そのあまりにも真っ直ぐで、重みのある言葉。
何処か卓越した麗美に、中学生とは思えない感じを鬼塚は彼女に抱く。
麗美の懐かしいものを見るような眼差しに、まるで今の彼女は自分と長い付き合いであるようだと錯覚する。
鬼塚はふと、今日1日の出来事を頭の中で振り返り、不思議そうに眉をひそめた。
「……なぁ、神崎。一つマジに聞いていいか?」
「なーに? それと二人っきりの時は名前で呼んでよ」
「ったく…麗美。 お前……出会って一日で、なんで俺をそんなに信頼してくれんだ? 俺ら、今日初めて会ったばっかだろ。お前の自殺未遂を止めたからってそれだけでそんなに信頼するか? それに俺はお前を生き埋めにしかけてんだぞ?」
鬼塚のその至極真っ当な疑問に、麗美はそっとジャージの袖から手を離すと、いつもの小悪魔的な笑みを浮かべて、人指し指をそっと唇に当てた。
「ふふっ……ナイショ! もっと詳しく色々教えて欲しかったら、仮初の恋人じゃなくて……ほんとの恋人にならなきゃ」
「ぶ、――っ!?」
出会って一日のガキから飛び出したまさかのセリフに、鬼塚は缶コーヒーを吹き出しそうになりながら点になった目を向けた。
そんな麗美のすました態度に、鬼塚はあからさまにジト目を向け、お馴染みの呆れ顔でフンと鼻を鳴らした。
刹那、麗美の額に向けて容赦なくパチンと軽いデコピンをかます!
「ひゃうっ!? 何するのよ英吉!」
可愛いらしい声で驚くと、麗美は額を抑えながら鬼塚に避難の声を上げる。
「バーーカ。出会って一日のガキが、いっちょ前に恋人だの何だの気取ってんじゃねえよ!」
鬼塚はニカッと、いつもの品のない、しかし最高に頼りになる笑みを浮かべた。
「俺の目の前にいるのは、小生意気で、可愛げがなくて、ちょっとだけ放っておけねえ俺の『生徒』だ。それ以上も以下もねえよ!」
何も知らないからこそ、鬼塚の放つ言葉は、真っ直ぐに麗美の心の核心を綺麗に打ち抜く。
額を抑えながらそれを見上げた麗美は、ハッとしたように目を見張り、それから……前の世界と何一つ変わらない彼の器の大きさに、本当に嬉しそうに、クスッと笑った。
「……生徒、か。そこは『彼女』って言ってほしかったな」
麗美は少しだけ口を尖らせたが、その表情は、先ほどよりもずっと晴れやかだった。
「ま、とりあえず、一日目だし、今日のところは『仮の恋人』で手を打ってあげる。感謝してよね、英吉?」
「へいへい、ありがたき幸せ、ってか」
鬼塚が鼻を鳴らしながら缶コーヒーを飲み干すと、麗美はすっと立ち上がり、乾燥機のオレンジ色の光を背にしながら、彼を真っ直ぐに見下ろした。
その左右違う色のオッドアイの瞳の奥には、いつものからかうような小悪魔の影はなく、一人の少女としての、強固で、一切ブレない本気の覚悟が宿っている。
「――でも、覚悟しておいてね?」
「あ?」
麗美は形の良い唇を不敵な笑みに歪め、鬼塚の目の前に顔を近づける。
「仮なのは、今だけだから。……絶対に英吉を本気にさせて見せるから、覚悟してね、私のヒーロー」
「ぶ、――っ!?」
片目を瞑りながらニヤリと笑った麗美から放たれた、あまりにも重く、あまりにも純粋な宣戦布告。
そのド直球な威力に、鬼塚は今度こそ心臓を文字通りドクンと跳ね上げさせ、完全に言葉を詰まらせて赤面した。
チーン――。
絶妙すぎるタイミングで、乾燥機の終了を告げる軽い音が深夜のコインランドリーに響き渡った。
ー
ー
ー
ホカホカに乾いた服をビニール袋に詰め込み、コインランドリーを後にした二人は再び静まり返った夜道を歩いていく。
そして再び麗美のマンションの入り口まで戻ると、鬼塚は首の後ろをパキパキと鳴らす。
「よし、じゃあ俺は行くわ。明日、遅刻すんなよ麗美」
「えー、もう帰っちゃうの? 寂しいな。本当に泊まっていってもいいんだよ? ママは朝まで帰ってこないんだし」
麗美はエントランスの自動ドアに寄りかかり、名残惜しそうに手を振る。
「アホ。これ以上いたら、俺の理性のリミッターがぶっ壊れてお前と内山田のハゲの思うツボになんだろーが! 俺は新任初日からクビになんのはごめんなんだよ! じゃあな!」
「ふふっ。 理性のリミッターがぶっ壊れそうってことは、少しはあたしを異性として認識し初めてくれたってこと?」
「っ!?……じ、じゃあな!!」
笑みを浮かべ、嬉しそうに見つめてくる麗美に、鬼塚は顔を赤くすると、彼女に背を向け、大きく手を振りながら逃げるように走り去っていった。
「バイバイ、私のヒーロー」という麗美の小さな声が、夜風に乗って背中に届いた。
ー
ー
ー
一人になった鬼塚は、吉祥寺の街を、自分の「家」へと向かって歩く。私立武蔵野聖林学苑。
静まり返った校舎の裏手、宿直室の引き戸をガラガラと開けると、そこには学校の椅子を合わせそこにカバーをかけた簡易式のソファ、万年床に敷かれた布団、散らばったエロ本、そしてテレビがポツンと置かれているだけだった。
「……ふぁ〜あ。ったく、とんでもねえ一日だったぜ」
鬼塚は疲れからドカッと布団に倒れ込み、天井を見つめながら、怒涛のごとき新任初日の出来事をしみじみと振り返り始めた。
すべては、今朝の職員室から始まったのだ。
そこで出会った冬月あずさという美人の同僚に鼻の下を伸ばしたのも束の間、内山田……もとい、あのハゲの教頭とは早々から激しい口論になり、秒速でめんどくさくなって逃げるように職員室を飛び出した。
正式に担当となった三年四組の教室に入ろうとした、あの瞬間――。
野生の勘で入り口の上に黒板消しが仕掛けられていることに気づき、その直撃を防ぐため、勢いよく引き戸を蹴り破って突入。
白いチョークまみれの黒板消しを当てようとしていた下手人の生徒である村井の顔面に、教室に入る際にキャッチしていた黒板消しを逆にカウンターとして強烈に叩き込んでやったのだ。
その結果、村井は顔面が真っ白になり、まるでちょんまげの無いバカ殿様のような哀れな姿に変えてやったのは我ながら傑作だった。
だが、その後が出席をとりながらクラスをじっくり観察してみると、職員室でハゲどもに言われた通り、教室内には何とも言えない不穏な雰囲気が満ちていた。直接的に歯向かってくるのは村井たちのグループくらいなもので、他の連中は誰かに脅されているのか、一見静かではあるものの、その空気感からは明らかにこちらを小馬鹿にしている気配がアリアリと伝わってきた。
そんな冷めきったクラスの中で、ただ一人――。
こちらを馬鹿にするような気配を一切出さず、それどころか、まるで『何か何処か懐かしいものでも見つめるような視線』をこちらに向けていたのが、神崎麗美だった。
職員室で冬月先生から教えてもらった情報(それも彼女が他人から聞いた又聞きらしいが)によると、神崎はIQ200を誇る、国が指定するレベルの天才児らしい。過去には『授業テロ』なる怪しげな手段で何人もの教師を精神的に退職に追い込んできたという曰く付きの危険人物で、しばらく登校拒否を続けていたが、三年に進級した今日からちょうど復学することになったのだという。
だが、あの教室での麗美の雰囲気を思い返す限り、あいつがそんな陰湿な授業テロを起こすような生徒にはどうしても思えず、鬼塚は内心、その噂を不審に感じていた。
そこからの展開は、さらに常軌を逸していた。
夜、不意に学校前に現れた制服姿の麗美にラーメンに誘われたかと思えば、なぜか本物のヤクザに追われる羽目になり、建設中のビルへと逃げ込む大捕物に発展。
命からがら助かった後、今度は麗美がビルから飛び降りる自殺未遂を起こし、なんとかキャッチして助けたものの、一瞬呼吸が止まってしまった(実際は麗美の演技)彼女を見てパニックに。
焦るあまり、無意識に彼女を地面に埋めようとしてしまうという前代未聞の失態を犯した。
結果、その生き埋め未遂の件で麗美に弱みを握られ、彼女に脅されるがままに、仮とはいえ「教師の身分で教え子の女子中学生と付き合う」という、崖っぷちの恋人関係に収まってしまったのだ。
その後は彼女の部屋に連れ込まれて色っぽい格好で揶揄われ、シャワーを借りて、お互いさっぱりした後は深夜のコインランドリーへ汚れた服を洗いに行き、そこで彼女の家庭の孤独や、なぜか自分に向けられる深い信頼、そして「本気にさせて見せる」という宣戦布告まで食らって、再び彼女を家まで送っていった――。
「……ふぅ…新任初日からなんで俺が中学生相手にこんな大立ち回りしてんだ、まったくよぉ」
思い返しても、あまりにハードで、あまりに濃すぎる、教師生活のたった一日目。
有り得ない密の濃さに一瞬夢を疑う。
だが、麗美から借りたジャージから微かに漂うシトラスの香りが、それがすべて現実だったのだと物語っている。
あいつの親が家に帰ってこない孤独の深さを少しだけ思い知り(父親に関しては大いなる勘違いを含みつつも)、そして、自分が教師としてあいつらの前に立つことの「意味」を、改めて実感した夜だった。
さて、明日はどんな波乱が待ち受けているのか?
不敵な笑みを浮かべながら、鬼塚は電気の紐を引っ張った。
吉祥寺の夜が、静かに更けていく。
という訳で波乱の一日目が終わりました。
麗美が最初に鬼塚の味方につく形で、そこから原作の順で生徒達は鬼塚側になっていく予定です。
その過程で麗美が鬼塚と共に問題に向かって乗り込んでいくようにし、どんどん信頼関係が深まっていく形になるかと思います。
あくまで予定なので、変わるかもしれませんが…
それではまた次回もよろしくお願いします。