GTO〜もし過去に戻れたら〜   作:死徒

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かなり巻きで進む形になります。


第七話〜煩悩〜

 

食後の賑やかな時間がひと段落し、校舎の屋上にある扉が開け放たれたプレハブ小屋に、外の水飲み場からパシャパシャと小気味よい水音が響く。

 

麗美は制服の袖をまくり、エプロン姿のまま手際よく水飲み場で食器を洗い、あっという間に洗い終えると、食器や調理器具などをカゴにまとめ、それを両手で持ちながら再びプレハブ小屋の中に入ってくる。

 

カゴを置き、プレハブ小屋の扉を閉めると、エプロンを脱ぎ、簡易式ソファに腰掛ける。

 

そして、同じくソファに腰掛け、食後未だに緊張の抜けない吉川のぼるへと視線を向けた。

 

万年床にドカッと寝転がって、すでに満腹感から漫画を読み耽っている鬼塚の耳には届かないような、絶妙な小声。

 

天才少女は鈴を転がすような静かな声で、冷徹に切り出す。

 

「さて、吉川くん。お腹もいっぱいになったところで、明日からの作戦会議をしよっか?」

 

「え……? さ、作戦会議って、なんの……?」

 

麗美の突然の切り出しに吉川が小首を傾げると、麗美は底の知れない冷徹だが、それでいて不思議と安心するような笑みを浮かべた。

 

その瞳は、先ほどまで鬼塚に見せていた甘い彼女のそれではなく、すべてを見透かしているかのような圧倒的な知性の光を宿している。

 

「みやびたちが、今日の件だけで大人しく引き下がると思う? ――いいえ、絶対にあり得ないわ。あの子たちのプライドは今頃、英吉の教卓ブン投げで粉々にへし折られているはずよ。だから明日、彼女たちはさらに狡猾で、悪質な手段であんたと英吉を社会的に抹殺しにかかるわよ」

 

吉川が二人の秘密を絶対に漏らさないと確信し、かつこの屋上のプレハブ小屋というクローズドな空間になったことで、麗美はのぼるの前であっても何一つ隠すことなく、鬼塚を「英吉」と親密に呼び捨てにした。

 

「ひっ……! じ、じゃあ僕、また明日から何をされるか……!」

 

怯えて肩を震わせる吉川の頭を、麗美はポンポンと優しく、けれどどこか拒否権を許さない手つきで撫でた。

 

「安心しなさい。そのためにあたしがいるの。あの子たちの浅薄な脳みそが思いつく嫌がらせなんて、あたしの前ではただの児戯に等しいわ。いい? 明日の朝、みやびはまず内山田教頭の元へ行って『鬼塚に旧校舎で暴力を振るわれ、脅迫された』と涙ながらに嘘の告発をするはずよ」

 

「えっ、そ、そんなの、教頭先生なら一発で信じちゃうよ……! 鬼塚先生、クビになっちゃう!」

 

「ええ、だから先手を打つの。吉川くん、あんたには明日の登校時間、教頭が職員室から出てくるタイミングで、わざと廊下であたしの指示した通りのメモを落としてもらうわ」

 

麗美は制服のブラウスのポケットから取り出したメモ帳から千切った紙に、サラサラと完璧な工作を書き込んでいく。

 

「そこにはね、みやびたちが事前にあんたを脅迫していた内容の『証拠』を匂わせる記述をしておくの。教頭は保身の塊だから、みやびの訴えよりも『先に女子生徒側の不正の証拠』が世間に出ることを一番恐れるわ。これで教頭の動きは完全に封じ込める。……そして、みやびたちが放課後にあんたを再び呼び出そうとした瞬間が、あの子たちのチェックメイト。 まっ、流石に後ろ盾の無くなった状態であんたを呼び出すような愚行はしないだろうけど、確実にみやび達を一気に追い詰めることが出来る筈よ」

 

あまりにも淀みのない、未来を予知しているかのような麗美の語り口に、吉川はただただ圧倒され、ゴクリと息を呑む。

 

「……おい神崎…てめえさっきから吉川とコソコソ何話してんだよ? 俺の悪口でも言ってんのか?」

 

万年床の上の鬼塚が、漫画のページをめくりながら怪訝そうに片目を細めてこちらを見てくる。

 

すると、麗美はすっと目を細め、静かだが冷徹な圧力を鬼塚に突きつけた。

 

「英吉……神崎じゃなくて、麗美」

 

「はあ!? お前、吉川の前で何言って――」

 

「神崎じゃなくて、麗美。吉川くんの前でも、ちゃんと麗美って呼んでって言ったでしょ? 言い直して、英吉」

 

「う、ぐ……っ」

 

目の前で繰り広げられる、完全に主導権を握られた担任教師の姿。

 

鬼塚は吉川の手前、必死に威厳を保とうとしたが、麗美の「本気でばらすよ?」と言わんばかりの冷ややかな目が首筋に突き刺さり、完全に折れるしかなかった。

 

「……わ、分かったよ! おい、麗美! てめえさっきから吉川と何話してんだよっ!」

 

「あら英吉まさか嫉妬? やっとあたしが他の男子と話してるの見てヤキモチ妬くようになったのね?」

 

「ぶっ!?…な、なんでそうなんだよ!? ち、ちげえよ! お、俺はただ、コソコソ二人で何話してんだと…」

 

「ふふっ、心配しなくても大丈夫。 ただの作戦会議だから。先生が明日、内山田教頭先生にハゲ散らかされないための、とっても優しい予防接種の計画よ、鬼塚先生❤️」

 

麗美の発言に吹き出し、動揺する鬼塚を見て、麗美は嬉しそうに笑うと、一瞬でいつもの無邪気な優等生の笑顔(仮面)へと切り替える。

 

「……なんだよそれ……。まぁ、教頭のハゲなら毎日勝手に散らかってっけどよ……」

 

と、再び漫画に目を落とした鬼塚をよそに、吉川は「お互い呼び捨てだし、さっきの鬼塚先生の反応…やっぱり二人は本物の恋人なんだ……」と、更に勘違いし、そのラブラブ(?)っぷりにキャパシティをオーバーしてただただ呆然としていた。

 

麗美は吉川に向き直って、さらに声を潜めた。

 

「いい、吉川くん? 今まであなたは散々辛い目に遭ってきたけれど、これからはあたしがついているわ。あの子たちからつけられた粘着質の泥を、今度はあたしたちが、完璧に払い落としてあげる。……だから、ちゃんとあたしの駒として、動いてくれるわね?」

 

「は、はい……! 僕、神崎さんの言う通りにします……!」

 

麗美が信頼出来る人物だと改めて悟り、吉川は強く頷いた。

 

ー

ー

ー

 

「じゃ、じゃあ僕、そろそろ帰ります! 鬼塚先生、神崎さん、ごちそうさまでした!」

 

あまりの情報量の多さにパンク寸前の頭を押さえながら、吉川のぼるは逃げるようにプレハブ小屋を後にした。

 

パタン、と年季の入った扉が閉まり、静寂が部屋を支配する。

 

――その瞬間、部屋の空気が一変した。

 

「ふぅ……やっと邪魔者が消えたわね」

 

「っ!!?」

 

麗美はゆっくりと鬼塚に振り返った。

 

その目は完全に獲物をロックオンした肉食獣の目をしており、何処か影を引きずった、底知れない独占欲に満ちた瞳だった。

 

「お、おい…う、麗美……お前、なんか目が怖えんだけど……。吉川も帰ったんだし、お前も早く家帰んねえと親御さんが心配すんだろーがよ」

 

万年床に寝転がっていた鬼塚は、本能的な危機感を察知してジリジリと後退しようとする。

 

しかし、麗美の動きの方が一瞬早かった。

 

すっとソファを立ち上がり、流れるように鬼塚の背後に回り込んだ麗美は、躊躇なく鬼塚の万年床へと上がり込み、彼の逞しい胸元へと自らの身体を滑り込ませた。

 

「うオッ!? てめっ、麗美ッ!? 何やってんだよ!」

 

「何って……決まってるじゃない。二人きりになったんだから、当然の権利を行使しているだけよ、英吉❤️」

 

学校では「神崎」と「先生」。

 

けれど、今は正真正銘、誰の目もない二人だけの世界。

 

麗美は鬼塚の太い首に細い両腕を絡ませ、自らの柔らかな体躯をこれでもかと押し付けた。

 

カーディガン越しに伝わる麗美の確かな体温と、甘いシャンプーの香りが、プレハブ小屋のむさ苦しい空気を一瞬で塗り替えていく。

 

「ど、退けって! 中坊が男の布団にホイホイ入ってくるんじゃねえ! 俺の理性が大爆発したらどーすんだよ!」

 

「爆発すればいいじゃない。仮だってなんだって、あたしはあなたの彼女なんだから。……それにね?」

 

麗美は鬼塚の耳元へと顔を近づけ、妖しい大人の笑みを浮かべながら囁いた。

 

「実は放課後に電話があってね。一度日中、家に帰ったママが、また急な仕事の都合で家を出たの。今日も帰れないって。……ね? 今日はママも帰らないみたいだし、ずっと居られるわね?」

 

「なっ……!?」

 

鬼塚の顔が引きつる。

 

このままでは本気で自分の貞操が危ないと察した鬼塚は、必死に頭を回転させ、最もな正論を突きつけて麗美を帰らそうと試みた。

 

「ふ、風呂は……っ!? そ、それに明日の着替えとかどうすんだよ!? 毎日同じブラウス着てたら学校で怪しまれるだろーが! ほら、やっぱり無理があるから大人しく家帰れ!」

 

勝った。

 

これなら言い返せまいと内心でガッツポーズを決める鬼塚。

 

だが、麗美はそんな男の浅知恵など、とうの昔に計算し尽くし、先読んでいた。

 

麗美は自分の鞄を引き寄せると、ジッパーを滑らせて中身をこれ見よがしに広げてみせる。

 

「ふふっ。シャワーなら学校の体育館にあるし、着替えなら替えのカーディガンもブラウスも下着も靴下も、全部鞄の中に持ってきてるわ。……ふふっ、どう? 準備良いでしょ、あたし?」

 

麗美はふんっと胸を張り、完璧なドヤ顔を決めてみせた。

 

「う、嘘だろ……てか、準備良すぎだろ!? だ、誰か助け――」

 

自身の貞操に本物の身の危険を感じた鬼塚は、全力で大声を張り上げて助けを呼ぼうとした。

 

しかし、その叫びを最後まで紡ぐことは許されなかった。

 

「ふふっ、英吉」

 

麗美の細い指先が鬼塚の唇をそっと塞ぎ、そのまま強引に顔を近づけていく。

 

鬼塚が驚愕に目を見開いた瞬間、麗美の柔らかく瑞々しい唇が、彼の唇を完全に塞いだ。

 

二人の初キスの瞬間であった。

 

「――んんっ!?」

 

そっち方面の決定的な行為こそないものの、それは深く、職人技のように濃密なキスでありつつ、それでいて何処か慣れていない感じのする歪なものだった。

 

麗美の小さな舌が鬼塚の唇を割り、彼の口内を愛おしそうに、そして独占欲を誇示するようにじっくりと蹂虙していく。

 

ダイレクトに伝わる柔らかい感触に、かつて数百人の不良を率いた男の思考が悦楽から完全に真っ白に染まっていく。

 

しかし、幾度目かの唇が離れた、その瞬間だった。

 

鬼塚を見下ろす麗美の美しい瞳の奥に、不意に、底寒いほどの暗い影が差した。

 

(どうして……どうしてあの時、あたしを選んでくれなかったの? 英吉……)

 

麗美の脳裏に、あの『前の世界での未来』の、胸を引き裂かれるような光景が鮮明に蘇っていた。

 

どれだけ過激にアプローチしても、鬼塚は自分を「愛する女性」ではなく、「ただの教え子」としてしか見てくれなかった。

 

結局、最後には別の女性を選び、結婚してしまった男。

 

孤独だった自分を永遠の闇から救ってくれた、世界で唯一の大好きな男に選ばれなかった、あの夜の…死にたくなってしまう程の絶望……

 

「あ……」

 

押し殺したような小さな、掠れた声が麗美の唇から漏れる。

 

さっきまで勝ち誇ったようなドヤ顔を見せていた天才少女の顔から、一瞬にしてすべての余裕が消え失せていた。

 

その表情は、まるで世界に一人きり取り残された子供のように、儚く、今にも泣き出しそうなほど悲しげに歪んでいた。

 

「……麗美?」

 

そのあまりに急激な変化に、鬼塚はふと我に返った。

 

ただ自分の弱みを握って愉悦に浸るだけの脅迫だと思っていた。

 

だが、今目の前で震えている少女の顔は、本物の絶望を宿していた。

 

そんな麗美の姿を見て平然としていられる程、鬼塚英吉という男は腐っていない。

 

「……たくよォ」

 

鬼塚は小さく、不器用なため息を吐き出すと、身体を大きく起こした。

 

商売女でもなく、冬月ちゃんでもない、ただ傷ついて泣きそうな教え子の顔。

 

そんな顔をされて、放っておける鬼塚英吉ではなかった。

 

鬼塚は逃げようとするどころか、その太く逞しい両腕で、麗美の華奢な身体を自然と、優しく抱きしめ込んだ。

 

「え――英吉……!?」

 

麗美は驚愕に目を見開いた。

 

包み込んできた鬼塚の胸は広くて、温かくて、けれど今の彼には、いつもは麗美を突き放す大人の建前が混ざっていない。

 

「なんも言うな……」

 

鬼塚は麗美をその胸に抱いたまま、自分の頭をガシグガシと掻きむしりながら、不器用なダミ声を低く響かせた。

 

「女にそんな顔(ツラ)されたらよ……気付いたら自然とこうしちまったんだからよ。……嫌なら、離れろ」

 

その言葉はひどく無骨で、ただの剥き出しの優しさだった。

 

だからこそ、前の世界の未来で絶望し、冷え切っていた麗美の心の最深部に、致命的なほどの熱を伴って突き刺さる。

 

麗美の瞳から、じわりと熱い涙が溢れ出し、鬼塚の服の胸元を濡らしていく。

 

麗美はふっと、心の底からの少女の笑み…年相応の笑顔を浮かべた。

 

「バカ……離れる訳……ないじゃん……。……ありがと、英吉…ほんと…大好き…」

 

前の未来で彼を奪われた絶望が、この温かい胸の中で、ゆっくりと溶けて消えていく。

 

麗美は鬼塚の胸に顔を埋めながら、きつく、きつく抱きしめ返した。

 

――そして、しばらくすると。

 

麗美は完全に安心しきったのか、規則正しい小さな寝息を立てて、そのまま深い熟睡(スーパースリープ)に落ちてしまった。

 

「……おい、麗美? 麗美!……マジかよ、本当に寝ちまいやがった……」

 

腕の中で無防備に丸まり、すやすやと眠る麗美。

 

さっきまでの悪魔的な小悪魔っぷりや大人びた脅迫(ペナルティ)はどこへやら、その寝顔は驚くほど可憐で、純粋で無邪気な子供そのものだった。

 

だが、残された鬼塚にとっては、ここからが本当の地獄(精神的折檻)の始まりだった。

 

密着した距離から容赦なく伝わる、中学生とは思えない柔らかい肉体の感触。

 

耳元をダイレクトに気怠く、くすぐる、温かい吐息。

 

そして何より、お互いに一日中風呂に入っていないにも関わらず、麗美からは嫌な匂いどころか、素肌から漂う女性特有の甘く狂おしいシャンプーのような香りが、プレハブ小屋の狭い万年床にドロリと充満し、鬼塚の鼻腔を徹底的に蹂躙してくる。

 

「う……っ、ヤバい。マジでヤバいだろ…これ……!」

 

ドクンドクンと胸の奥で早鐘が鳴り響き、全身の血流が沸騰したように熱くなる。

 

月明かりに照らされた麗美の寝顔があまりにも無防備で、男としての本能が限界突破を告げて脳内で警報を鳴らし始めた。

 

(お、鬼塚英吉22歳……行かせていただきます……!)

 

無意識のうちにその豪腕が麗美をさらに強く引き寄せると、彼女のカーディガンのボタンをゆっくりと全て外し、はだけさせる。

 

すると鬼塚の目には、月明かりによって学校指定の白いブラウス越しに、白の花柄のブラジャーが透けている光景が映し出される。

 

鬼塚は、ゴクリと唾を飲むと、理性がぶっ飛んでそのまま襲いかかりそうになる。

 

「って! 待て待て待てェイ!!! 漢、鬼塚英吉22歳っ!!!」

 

が、間一髪、脳みその中で理性のブレーキが火花を散らして急停止した。鬼塚は自分の髪をギチギチと引きちぎらんばかりに掻きむしり、心中で猛烈に己を怒鳴りつける。

 

(何年端もいかねえ14歳の中坊を、寝てる状態で襲おうとしてんだバカヤロウ!! 恋人っつっても仮の! 更にゴリゴリの未成年! しかも教師と生徒だぞ!? 向こうからせがんで懐いてきて、さっきディープなキスまでブチかましてきたとはいえ、肉体関係まで行くのはマジで大犯罪(アウト)だ! その一線だけは絶対に超えちゃなんねえー!)

 

背中にドッと冷や汗が噴き出す。

 

(耐えろ、耐えるんだ鬼塚英吉22歳! 漢の意地を見せろ!)

 

何とか気合と根性で男の本能をギリギリのところで鎮め、麗美の身体に布団をサッと乱暴にかけ直す。

 

だが、尚も腕の中に残り続ける麗美の柔らかな重みと、絶え間なく鼻をくすぐる甘い匂いのせいで、煩悩の嵐は一向に収まらない。

 

「南無阿弥陀仏…… 南無阿弥陀仏……俺は誰でもない…誰でもいたくない……そうか… 俺は今……地獄にいる……」

 

鬼塚は少しでも麗美から視線を外そうと、天井の一点を血走った目で見つめ、不思議と以前も何処かで話したことがあるような気がするセリフを呟きながら、一晩中、己の野生と理性のタイマンを張り続けることとなった。

 

その後、結局、一秒たりとも眠ることすらできず、白々と明けていく屋上のプレハブ小屋。

 

朝を迎えた頃には、鬼塚は文字通り『完全寝不足』で魂の抜けた生ける屍と化していた。

 

ー

ー

ー

 

――翌朝・早朝ーー

 

差し込む朝日の眩しさに、麗美はパチリと目を覚ました。

 

身を起こした瞬間、自分のカーディガンが少し着崩れていること、そしてその他には特に身体に異常がないことを確認すると、麗美は卓越したIQ200の頭脳で、昨夜この男がどれほどの地獄を幾度も往復したかを瞬時に察した。

 

(英吉……全く。そのまま襲ってくれても良かったのに、やっぱり最後の一線は超えてくれなかったんだ…ちょっと残念)

 

そこまで考えると、麗美の唇は、いつもの冷徹な中学三年の神崎麗美の仮面ではない、穏やかで幸福に満ちた笑みに綻んでいく。

 

(でも、あたしを前にしてそこまで理性を狂わせて、それでも欲望に必死に耐えて守ってくれたってことは……少なくとも、あたしのことをただの生徒じゃなく、一人の女として見てくれるようになってきたってことよね? 無意識にあたしのことを大切に思い始めてる証拠……かな?)

 

前の世界で得られなかった確かな愛おしさと優越感が胸の奥から溢れ出し、麗美はくすくすと嬉そうに声を漏らした。

 

「ふふっ、やっぱり大好き❤️」

 

麗美は、寝不足と疲弊で完全に意識が消失(白目を剥いて硬直)している鬼塚の唇に、ちゅ、と優しく、慈しむような朝の口付けを落とした。

 

そして、着替えの詰まった鞄を肩にかけると、機嫌の良さから足取りも軽くプレハブ小屋を後にし、麗美はその足で誰もいない体育館のシャワールームへと忍び込み、一晩の汗を綺麗に洗い流した。

 

持参したタオルで身体を拭き、新しい下着にシワ一つない真っ白なブラウスの上に替えのカーディガン、胸元のリボン、消臭スプレーをかけた制服のブレザーとスカート、最後に靴下を履き、綺麗な服に着替えた麗美は、一度静かに校門を出ると、何事もなかったかのように一般の生徒たちと同じ登校ルートを辿り、再び吉祥学苑の校門をくぐり直した。

 

完璧なアリバイ工作である。

 

ー

ー

ー

 

吉祥学苑の校舎には、いつもと変わらない登校風景と生徒たちの賑やかな喧騒が戻っていた。

 

しかし、校門の影からその様子を伺う吉川のぼるの心臓は、破裂しそうなほどの早鐘を打っていた。

 

制服のポケットの中、そこで彼がぐっと握りしめているのは、昨夜地下の用務員室で麗美から手渡された、あたかもみやびの手書きに見えるよう完璧に偽装された「恐喝のメモ用紙」だ。

 

(大丈夫だ……神崎さんの言う通りにやれば、絶対に上手くいく。 僕の為に怒ってくれた鬼塚先生を辞めさせない! 絶対に守るんだ……!)

 

吉川は何度も深呼吸を繰り返し、職員室の前の廊下へと移動した。

 

 

麗美の計算によれば、みやびたちから「旧校舎で鬼塚に暴力を振るわれた」という嘘の告発を受けた内山田教頭は、今朝一番のタイミングで、鼻息を荒くして理事長室か、あるいは鬼塚の元へと動き出すはず。

 

――その読みは、完璧に的中した。

 

「ヒッヒッヒ、ついにあの害虫・鬼塚を学苑から叩き出す絶好のチャンスが来ましたよぉ……!」

 

ネチネチとした下品な笑みを浮かべ、職員室の重い扉を開けて廊下へ大股で飛び出してきたハゲ……もとい、内山田教頭。

 

その顔は、大人のルールという「絶対に逆らえない盾」を握りしめた全能感に満ち溢れている。

 

(――来た!)

 

吉川はゴクリと喉を鳴らすと、内山田の進行方向の斜め前から、自然を装ってすれ違うように歩き出した。

 

すれ違う、まさにその瞬間。

 

吉川は麗美に指示された通り、ポケットからあのメモ用紙を「ハラリ」と内山田の足元へ向けて床に落とした。

 

「あ、お、おっと……!」

 

吉川はわざとらしく声を上げ、慌てたフリをして床のメモに手を伸ばそうとする。

 

だが、内山田が気づくよりも一瞬早く、だが確実に内山田の目に留まるような絶妙な焦り方を見せ、そのままメモを拾わずに、逃げるような早足で廊下の角へと立ち去ってみせた。

 

「ん? これは何だ?……? あれは確か三年四組の吉川のぼる…妙に慌てて何か落としていったな?……どれどれ……!!?」

 

落ちているものには何でも首を突っ込みたくなる、内山田の姑息な性分。

 

吉川の不審な態度にまんまと引っかかった内山田は、落ちていたメモを拾い上げ、眼鏡を指で押し上げてその内容に目を走らせた。

 

――しかし、そこに書かれていた文字を目にした瞬間、内山田の全能感に満ちた顔から、一気に血の気が引いた。

 

【要求リスト:本日放課後までに10万円用意しろ。さもないと、あんたを女子更衣室の覗き魔として学校にチクる。女子の証言があれば教頭だって一発で動く、大人はみんな私たちの味方だから。 相沢雅】

 

「な、なんだこれは……!? 相沢たちが、吉川を脅迫……!? しかも、大人はみんな味方、教頭だって一発で動く……だと……!?」

 

内山田の脳内に、冷や汗とともに最悪のシミュレーションが駆け巡る。

 

もし、このメモが事実で、自分がみやびたちの言いなりになって鬼塚を処分したとしたら? そしてその後、この「女子生徒による恐喝と冤罪の証拠」が世間に漏洩したら?

 

(吉祥学苑の教頭は、女子生徒の恐喝を真に受けて、無実の教師をクビにした無能、とマスコミに叩かれる……!? いや、それどころか私自身が彼女たちの片棒を担いだことになってしまうではないですかァーーーっ!!)

 

恐怖と保身のパニックでハゲ頭からドッと汗を噴き出させ、メモを握りしめてガタガタと震え出す内山田。

 

麗美の仕掛けた罠は見事、完膚なきまでに炸裂し、大人の盾は内側から完璧に崩壊していた。

 

そこへ校舎の屋上から、まるでゾンビのように這い出てきた三年四組の担任・鬼塚英吉が、どすの利いたダミ声とともに、ぬっと内山田の背後から抜群のタイミングで姿を現した。

 

「…おい、教頭。人の落とし物じろじろ見て、何ハゲ散らかしてんだよ?」

 

「お、お、鬼塚ぁ……ッ!!」

 

内山田が飛び上がって振り返ると、そこには隈だらけの般若のような顔をした鬼塚が、ポケットに手を突っ込んで見下ろしていた。

 

麗美の凄まじい夜のペナルティによる極限の睡眠不足と機嫌の悪さ。

 

それが、みやびたちの姑息な罠への怒りと完全に合流し、今の鬼塚は火薬庫のように危険な状態だった。

 

「朝っぱらから相沢達に呼ばれて、嬉しそうに俺のクビを理事長に直訴しに行こうとしてたらしいじゃねえかハゲ……で? そのメモ、何が書いてあんだよ。あぁ!?」

 

鬼塚はジリ、と内山田に距離を詰める。

 

その瞬間、彼が纏う空気が、しがない新任教師のそれから、数百人の不良を従えたかつての伝説の暴走族のリーダーの片割れ【鬼の英吉】のそれへと完全に変貌した。

 

むき出しの凶暴性と、網膜に突き刺さるような本物の殺気。

 

「あ、いや、これは……その……何でもありません!!」

 

内山田はガタガタと震えながら、メモを必死にポケットへと隠した。

 

しかし、鬼塚の機嫌の悪さは、そんな内山田への容赦のない「八つ当たり」へと加速する。

 

「何でもないわけねえだろ。相沢たちの言うことを真に受けて、また大人だのルールだのの建前で、生徒や俺をハメようとしてんならなぁ……」

 

鬼塚は内山田の胸ぐらを片手で容易く掴み上げると、顔が触れ合うほどの至近距離で、牙を剥くように吼えた。

 

「俺のルールで、その頭の残りの数本、今すぐ全部毟り取って、内臓ごと裏返しにしてやろうか、ゴラァッ!!!」

 

「ひっ……! ァ、あ……! ァゥ……!!」

 

正体を露わにした本物の修羅、本物の怪物を前にして、内山田の理性が完全に崩壊した。

 

それと同時に、内山田のスラックスの股の間にドロリとしたシミが急速に広がり、廊下の床へとポタポタと滴り落ちた。あまりの恐怖に、内山田はその場で失禁してしまったのだ。

 

「うお、汚ねぇっ!? 漏らしてんじゃねえよハゲ!!」

 

鬼塚が内山田のあまりの醜態ぶりに思わずふと我に返り、本気で嫌な表情をして瞬時に手を離すと、内山田は自分で作り出した床の水たまりの上に無様にへたり込み、腰を抜かしたままガタガタと震えながら叫んだ。

 

「ち、違います、誤解です鬼塚先生ェ!! 相沢達の言うことなど、私は最初からこれっぽっちも信じておりませんともええ!! 私自らが彼女たちにキツーーーーくお灸を据えておきますからァッ!!」

 

内山田は完全に自らの保身と恐怖のために手のひらを返し、涙目でペコペコと床に頭を擦り付けた。

 

「チッ、クソみたいな真似は二度としようとすんじゃねえぞ? 次はねえからな?」

 

鬼塚は吐き捨てると、ボロボロの身体を揺らしながら去っていった。

 

その時、廊下の陰から、すっと音もなく麗美が姿を現した。

 

「あ……神崎」

 

鬼塚が残っていたかつての仮面を捨て去り、いつもの教師の仮面を被ろうとした瞬間、麗美は歩みを止めず、すれ違いざまに鬼塚のすぐ横へと滑り込み、周囲の誰にも絶対に聞こえない極小の囁き声で、耳元に直接、熱い吐息とともに言葉を落とした。

 

「……昨日はありがとね。大好き❤

 

「っ――!?」

 

甘く独占欲の混ざった囁き。

 

それだけを言い残すと、麗美は完璧な優等生の微笑みを浮かべ、軽やかな足取りで教室へと歩き去っていった。

 

残された鬼塚は、その場に釘付けになったように立ち尽くしていた。

 

ドクン、と胸の奥で、今まで感じたことのない大きな鼓動が跳ね上がる。

 

「な、なんだよ……あいつ、反則だろ……っ」

 

乱暴に金髪の後頭部をガシガシと掻きむしる鬼塚。

 

だが、麗美の吐息が触れた彼の右耳は、隠しようもないほど真っ赤に染まっていた。

 

本人はその感情を全く自覚していない。

 

だが、麗美の前の世界の未来で別の女性を選んだはずの鬼塚英吉の心は、二度目のこの世界において、神崎麗美という一人の少女の重すぎる愛に、確実に惹かれ始めていた。

 

その様子を、振り返った廊下の先から見つめていた麗美は、フッと満足げに目を細める。

 

(さっきの英吉カッコよかったな………吉川くんも完璧に動いてくれたし……さて一気に追い詰められたわね、みやび。 これからどう動くつもり?)

 

想い人の姿に頬を赤らめると、大人の後ろ盾を完全に失い、恐怖に震えるみやびたちの放課後の運命を冷徹に見据えながら、天才少女は次なる行動を考え、妖しく、美しく微笑むのだった。





という訳で麗美の作戦により、大人…というより教頭の後ろ盾を崩されたみやび達は原作のように徐々にではなく、一気に追い詰められることになります。

原作と違い、一人一人が鬼塚側に行くのではなく、吉川の件の後にいきなり自分達が追い詰められてしまう形になったみやび達は果たしてどうなるのか?

次回もよろしくお願いします。
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