再投稿します。
キーンコーンカーンコーン……。
吉祥学苑に放課後を告げるチャイムが鳴り響いた。
生徒たちが部活動や下校のために家路へと散っていく中、みやび達の居るあの薄暗い旧校舎の一室には、どんよりとした停滞感と焦燥が渦巻いていた。
「ち、ちょっと、どういうことよ泉に浅倉……! 教頭先生、なんて言ってたの!?」
みやびが、ヒステリックに声を裏返して友人であり、とりまきである泉智佳子と浅倉冴子に詰め寄る。
彼女に詰め寄られた二人は、顔を真っ青にしてガタガタと震えていた。
朝一番、鬼塚を教師生命ごと抹殺するために仕掛けたはずの「嘘の暴力告発」。
いつもならネチネチと喜んで乗っかってくるはずの内山田教頭が、なぜか昼休みに彼女たちを呼び出し、「これ以上鬼塚先生を陥れるような真似をするなら、君たちの過去の悪行をすべて公にして処分する!」と、半ば狂乱状態で怒鳴り散らしてきたのだ。
「わ、私達に言われたってわからないわよぉ……!」
「教頭先生、目が完全に血走ってて、ズボンもなんか妙にシワシワで……とにかく、相沢達の顔なんて二度と見たくないって……!」
「くそっ、あのハゲ、急に裏切るなんて何考えてんのよ……!!」
大人のルール、女子生徒の証言という『絶対に破られないはずの盾』が、なぜか一瞬にして消失してしまった。
自分たちの後ろ盾が完全に消え去り、旧校舎の冷気の中で孤立無援になったことを悟り、みやびは苛立ちのままに床を強く踏みつけた。
「――大人の建前が通じなくなって、ずいぶんと困惑しているみたいね。みやび?」
コツ……コツ……。
静まり返った教室に、冷徹で上品なローファーの足音が響き渡る。
驚いて三人が振り返った先――粉砕されたままの扉の枠組みの向こうに、鞄を律儀に抱えた神崎麗美が、夕闇を背負って静かに佇んでいた。
「麗……神崎……!? あんた、なんでここに……!」
麗美の名前を言いかけ、直ぐに苗字呼びに言い直すと、みやびが彼女を鋭く睨みつける。
しかし、麗美はその視線を意に介す風もなく、壊れた教卓の破片をローファーの先で退けながら、優雅に教室の中へと歩み進めてきた。
その美しい顔には、すべてをチェス盤の上から見下ろすかのような、底知れない、冷酷な笑みが浮かんでいる。
「教頭先生の動きなら、あたしが少しプログラミングを書き換えてあげたわ。あのおじさん、自分の保身のためなら、生徒の手首を切り落とすことだって厭わないもの。……あなたたちの安っぽい涙なんて、今のあの人にはただの『破滅の引き金』にしか見えないのよ」
「な、何言ってるのよあんた……! まさか、あんたが教頭先生に何か吹き込んだの!?」
泉が悲鳴のように叫ぶが、麗美はフッと冷ややかに目を細めるだけだった。
しかし、それは肯定しているも同然の反応であった。
麗美の脳内には、前の世界の記憶が完全に再現されている。
みやびがどれほど大人を憎み、その憎しみの根底にどんな「過去の傷痕」があるのかも、すべて知っている…
その根底が…小学校時代のある出来事だったことも……
「みやび、あなたは大人を憎んでいる。自分の都合で子供を裏切り、傷つける汚い大人をね。……だから、あの真っ直ぐでバカな鬼塚が、あたしたちと同じ『吉祥学苑の教師』という枠に収まっていることが、反吐が出るほど許せないんでしょう?……あたし達生徒の為に逃げずに真っ向から向き合ってくるあのバカな先生が」
「っ……!!」
みやびの身体が、一瞬で硬直した。
他人がいる前では、例えイジメの主犯格であるみやびたちの前であっても、決して「英吉」とは呼ばない。
完璧な秘密の遵守。
あくまで冷徹に、 客観的に「鬼塚」と呼ぶ麗美の態度が、逆にみやびへの心理的な圧迫感を際立たせていた。
例えかつては親友同士だったとはいえ、なぜ、そこまで深く知りえるはずのない自分の内面を、この天才少女が正確に言い当ててくるのか?
その恐怖にみやびの瞳が激しく揺れる。
「でも、あの子たちは違うわ」
麗美は冷徹に言い放ち、手帳から破り取った数枚のプリントを、みやびたちの足元へハラリと投げ捨てた。
「泉さんに浅倉さん。 あなたたちが過去に他のクラスで行ってきた恐喝、万引きの身代わり強要、そして裏サイトでの同級生の誹謗中傷のログ。……すべてあたしがサルベージして、いつでも警察と教育委員会、そしてあなたたちの両親の携帯へ同時に一斉送信できるように設定してあるわ」
「ひっ……! あ、嘘……なんで、それを……!?」
「いや、嫌ぁあ! パパにバレたら私、本当に勘当されちゃう……!」
足元に落ちた紙面を見た泉と浅倉が、文字通りその場にへたり込み、涙を流して絶望に顔を歪めた。
そこには、消去したはずの、自分たちにしか知り得ない「本物の罪の証拠」が、寸分の狂いもなく印字されていたからだ。
前の世界の知識と、麗美のIQ200のクラッキング技術。
その前では、中学生の悪行などガラス張りの檻に入っているのと変わらない。
「これで分かったかしら? あなたたちの『チェックメイト』よ。これに懲りたら二度と、先生や吉川くん、勿論、朋子や他の生徒にも手を出さないこと。もし次にあたしの邪魔するバグになろうとしたら……その時は、あなたたちの人生のデータを、社会のゴミ箱へ完全にデリートしてあげる……それが嫌なら大人しくしておくことね」
麗美の背後から漂う、圧倒的な絶対強者のオーラ。
泉と浅倉は恐怖のあまり歯をガタガタと震わせ、もはや一言の反論すらできずに床に平伏していた。
だが――ただ一人、みやびだけは違った。
プライドと策略を天才少女によって同時に打ち砕かれ、自身の無能さを突きつけられたような、自分の心の奥底をすべて踏みにじられた屈辱。
激しい怒りとパニックが、彼女の顔を鬼のように歪ませる。
最早、当時の幼馴染だろうが、何だろうが関係ない!
目の前に居るこの天才気取りの女を絶望の底へ再び叩き落としてやる!
「くそっ……! 覚えてなさい神崎!!」
みやびは血がにじむほどに拳を握りしめ、床に這いつくばる泉たちを一瞥もせず、麗美を狂わんばかりの目で睨みつけた。
「わたしはあなたを絶対に許さない……!! あなたがどれだけ澄ました顔をしてたって…あなたが絶望する姿をわたしは知っている!!…あなたの秘密……学校中にぶち撒けてやるんだから!!」
激しい捨て台詞を残すと、みやびはまるで何かに追われるように、激しく足音を立てて一人走ってその場を後にした。
ー
ー
ー
夕闇が深まる旧校舎の教室。
残された泉と浅倉のすすり泣きが響く中、麗美はみやびが走り去った廊下の闇を、静かに見つめていた。
「あたしの秘密、ね……」
麗美の薄い唇から、ふっと自嘲気味な、だが何よりも底冷えするような憐れみの混ざった吐息が漏れた。
みやびが学校中にぶち撒けようと画策している、神崎麗美の最大の弱み。
最大のトラウマ。
――『精子バンクの優秀な遺伝子だけを組み合わせて作られた、人工的な天才児』という、おぞましい出生の秘密。
前の世界での麗美……鬼塚に救われる以前の彼女なら、それを突きつけられただけで、きっと世界が崩壊するほどの絶望を味わい、死ぬ為に失踪を図ったことだろう。
大人たちのエゴと都合だけで、まるで実験室の試験管から生み出されたサンプルのように扱われた、呪われた血筋。
麗美は自分のことを人間だなんて思えなかった。
心なんて無意味で、死んでしまえば人間はただの無機質な『タンパク質の塊』に戻るだけだと、本気でそう信じて、いつ死んでも構わないとすら思っていた。
けれど、みやびは何も分かっていない。
彼女が必死に握りしめているその最凶最悪の切り札が、今の麗美にはもう、これっぽっちのダメージも与えられないという事実を……
(だって、あたしはもう、救われちゃったんだもの。――あのバカで、真っ直ぐな男にね)
前の世界で建設中のビルの屋上から身を投げた彼女を鬼塚は命懸けで救い、死ぬのが怖いという根底に眠る感情をバイクの件で叩き起こし自覚させ、秘密が再び暴露され、絶望の淵に失踪し、屋内スキー場で凍死自殺を図ろうとした際も命懸けで救い出し、その一件の際には母親とも和解することが出来た。
小学校の頃に信頼していた先生から秘密を暴露されたことで先生…否、大人どころか他者を全く信用せず、一人殻に篭っていた麗美に真っ向から向き合い、魂の叫びをぶつけ、温もりと愛情をくれ、更には……異性を愛するという優れた頭脳でも理解が困難な初めての感情をくれた鬼塚英吉という男。
あの世界で、麗美の出生のトラウマも、乾ききっていた孤独な心も、彼の不器用で強烈なパッションによって、すでに完璧に救われ、克服しているのだ。
例え明日、みやびの目論み通りにその秘密が全校生徒や世間に暴露されて、世界中の人間があたしを気味悪がり、敬遠し、手のひらを返して孤立させたとしても――。
(英吉だけは、絶対に、あたしを見捨てない。世界中を敵に回してでも、あの人はあたしの味方になって、あの大きな手のひらで泥を払ってくれる)
その絶対的な確信と信頼が、希望の光となり、今の麗美の心の最深部に、何よりも強固な核(シェルター)として存在している。
だからこそ、みやびがどれほど狂乱して麗美を貶めようと画策したところで、今の麗美をあの時のように絶望させることなんて、最早できっこないのだ。
(あたしはあの時と違って、いつ死んでも良いなんて、もうこれっぽっちも思わないわ)
旧校舎の窓から差し込む、夕暮れの赤黒い光。
麗美は自分の細い手のひらを見つめ、それをそっと胸元へと当てた。
衣服越しに、ドク、ドク、と、かつてはただの電気信号だと思っていた、確かな心臓の鼓動が彼女の手のひらに直に伝わってくる。
(死んでもタンパク質の塊に戻るだけだと思っていたあたしが……こんなに、死ぬのが怖くなるなんてね)
もし今、自分の命が尽きてしまったら、温かいあの一角――学校屋上のプレハブ小屋で、あたしの作った手料理を「うめえ、うめえ」って頬張る彼の姿を見られなくなってしまう。
あの広くて温かい胸に抱きしめられることも、照れ隠しに真っ赤になるあの可愛い耳を見ることも、すべて失われてしまう。
それが、たまらなく恐ろしい。
生きて、彼の隣に居続けたいと、本能が叫んでいる。
「……英吉、全部あんたのせいよ」
麗美は誰もいない廊下に向かって、ポツリと、けれど極上の愛おしさを込めて呟いた。
「でも……ありがと」
(あたしはあんたのおかげで、造りものではない人間になれた。)
(昔は文字の羅列としてしか理解していなかった『恋』という不確定で不合理な感情を、脳のプログラミング知識としてではなく、今、こうして胸の奥の疼きとして、実際に知ることができたんだから。)
「ふふっ……さて、愛しいダーリンの元へ帰りましょうか」
未だ蹲る泉と浅倉には一瞥もくれず、麗美はくるりと身を翻した。
前の世界の未来でこだま那奈に彼を奪われて、こじ開けられた心が再び暗闇に染まった絶望も、出生の呪いも、すべてはもう過去の遺物。
今のこの世界において、鬼塚英吉の未来を完全に支配し、その特等席に座り続けるのは、冬月先生でも他の誰でもなく、このあたしなのだからと。
夕闇に染まる長い廊下を、天才少女は影を切り裂くように、勝利を疑わない一人の恋する14歳の女の子の穏やかな微笑みを浮かべながら、愛する男が待つであろう屋上のプレハブ小屋へと、軽やかに歩みを進めるのだった。
という訳で遂に追い詰められたみやびが暴走し、麗美の秘密が暴露される展開になりました。
次回、秘密を暴露された麗美がどう動くのか?
次回もよろしくお願いします。