冷たい床の感触だった。
固くて平らな面に背中が沈むことなく触れている。
男は仰向けに倒れていた。
瞼の裏に薄く、閉じ込めた光を通し。
指先が微かに痺れ、耳の奥で血の流れる音がする。
呼吸をするたび、空気が喉の奥をひりつかせていた。
目を開けた。
無機質なコンクリートの天井があった。
照明の青白い光が、柱の奥に開いた穴の向こうから漏れている。
まるで、檻の外からこちらを覗くために照らしているようだった。
上体を起こした。跳ねたと言ってもいい。
頭の芯が揺れ、額に血が下りる。冷たい汗がこめかみを伝った。
照らされた埃が舞い、それ以外は何もかもが沈黙に溶けている。
唇を引き結び、息を呑んで周囲を見る。
四方をスチール製のケージに囲まれ、積み上げられたコンテナ。
危険物表示がされた、まばらに積まれた銀色のドラム缶。
駅のようだった。だが、倉庫か荷物の集積所のようでもある。
彼は首を回した。
視界の左の方に、一両だけの列車が止まっている。
装甲車のように重厚な外見の、後部がわ。
そこに赤と黒のマークがペイントがされているのが見えた。
赤と黒の三角形が交互に並び、中心から放射状に広がるデザイン。
アンブレラ。
思考に浮かんでは消える、その言葉。
既視感が胃の底からせり上がってくるようだった。
知っている。だが、なぜ───。
ふと、硬い感触が腹を押す。
彼は視線を落とした。
ベルトが巻かれている。
布でも革でもない。硬い帯が服の上から腰を締め付けている。
無骨で、洗練とは程遠い異形。
複眼のようにも見える緑のレンズ。
左右に突き出た金属製のグリップ。
アマゾンズドライバー。
その名前が自然と男の頭に浮かぶ。
心臓が跳ねた。
これも知っている。
なのに身に覚えがない。
いつから、誰が、何のために。
だが、本能が叫んでいた。
これは失くしてはならない。
手放した瞬間に、何かが終わってしまう。
腹に巻かれた冷たくて熱い、この枷。
男は無意識のうちに強く握りしめたが、やがて手を離した。
彼はケージに手をつけ立ち上がった。
その瞬間だった。
―――バキン、
という、金属がへし折れる鋭い音が静かな空間に響き渡る。
彼は尻もちをついていた。
驚いて手元を見る。
手には、千切れたケージのフレームが握られていた。
次いで、ケージを見る。
まるで飴細工のように、手を付けた部分が抉り取られている。
彼は、自分の手のひらを見つめた。
傷ひとつない。痛みもない。
ただ、冷たい金属の感触が残っているだけだ。
ごく普通の、人間の手のはずだ。
しかしその内側には、もはや普通ではない何かが宿っている。
彼は呆然と、自分の両手を見つめ続けた。
指を開き、握り、また開く。
その動作は、自分の意志で動かしたもののはずだ。
なのに、まったく別人の、他人事のように感じられた。
この身体は、もはや普通の人間のものではなくなっている。
その紛れもない事実が、彼の胸の奥に冷たく沈んでいった。
◇
彼は立ち上がった。
床をついた手に付着した埃は服に擦ってはらう。
空調の低い唸りがどこからか聞こえるが、それだけだ。
それが、却ってこの場所の死んだ匂いを際立たせていた。
車両に近づく。
ホームにぴたりと着いている、車両の側面に沿って歩く。
足音が大きく響く。
ホームのコンクリートが音を吸わない。壁が反響を押し返してくる。
彼は立ち止まり、列車の後部へ視線を走らせた。
車体の外側に張り出したステップの横。
太いゴムネットが、何かを詰め込んだかのように膨らんでいる。
その中に、黒いナイロンのバッグが見えた。
ステップを上り、手を伸ばす。
それなりの重さがありそうなバッグなのに、軽い。
それを床に下ろし、ファスナーを開けると銀色のケースが現れた。
傷ひとつない。
手のひらに伝わる冷たさ、ケース表面のキーパネルに触れる。
映像が、断片的な記憶が頭の奥で繋がっていく。
目を閉じた。
瞼の裏に、その光景が広がる。
地下研究施設。人の死。恐慌。混乱。T-ウイルス。ワクチン。
赤いドレス。アリス。
それらは所詮、記憶だが、確信があった。
ここは、その中だ。
ケースをバッグごと背負いなおして視線を上げる。
ホームの先。
通路の奥に、ゲートがあった。
壁面に据えられたカメラのレンズ。
その下部が、小さく赤い光を灯している。
こちらを向いている。見られている。
だが、それは今さらだった。
引き返す選択肢は最初からない。
既にこの場所に足を踏み入れてしまっている。
カメラを無視して歩き出す。
半開きのゲートへ向かう。
そうすると、人が通った跡がある。
床に点々と、汚れた足跡が続いている。
先ほどまで、何人もの人間がここを通った。
ゲートを抜けると、空気が変わった。
ホームに漂っていた油と埃の匂いが薄れた。
代わりに清掃の行き届いた無機質な匂いが鼻を突く。
空調の音が一定の高さで唸り、床のタイルは淡い光を反射していた。
彼は室内を見渡した。
左手にエレベーターが三基並んで、どれも表示灯が沈黙している。
正面には、大きなブラインドが下りている。
壁一面を覆うそれを透かして、柔らかな光が漏れていた。
地上の風景を映す擬似窓。
本物と見紛うが、だからこそこの場所の嘘くささを際立たせている。
右側は通路になっていた。
奥へ続く壁沿いに、誘導灯が青白く点っている。
エレベーターの前の床に、飲み物がこぼれたような染みがあった。
染みは乾きかけており、表面がわずかに光っている。
誰かがカップを落としたのか、それとも誰かがぶつかったのか。
飛沫は細かく床に散っていたが、足で踏まれた形跡はない。
エレベーターの前に立つ。
こじ開けられた扉の先を見る。
昇降路の底から油の匂いと澱んだ空気が漂っている。
中の空間は口を開けて獲物が飛び込むのを待っているようだった。
彼は扉の縁に食い込んだ手を離した。
エレベーターは使えない。それだけじゃない。
この施設の全てが正しく機能していない。そのことを知っている。
施設を統括するメインコンピューターの暴走。
正確にはウイルスの拡散・流出を防ぐためにここの職員を殺した。
迷いもなく。躊躇いもなく。無慈悲に冷徹に、プログラムの通りに。
右側の通路へ視線を向けた。
誘導灯が青白く壁の下を照らしている。
まず下りるための階段を探す。
エレベーターの昇降路から、そのまま飛び降りる手もあった。
最短距離という意味でも、まずこっちの方が早い。
それでも内部の構造を大まかに把握したかった。
それに、
通路を進む。
ゴム底が擦り、わずかな摩擦音がする。
壁は白く清潔で、何の汚れもない。だが気配はない。
曲がり角を曲がれば、目的の階段の入口があった。
重い鉄扉が半開きになっていて、向こう側はやや薄暗い。
蝶番が軋む。
階段室の空気は廊下よりも冷えていた。
コンクリート剥き出しの壁。手すりは塗装の剥げたスチール。
下へ続く段差が、規則的に折り返しながら、闇へ消えている。
一段目に足を下せば、足音がはっきりと響く。
壁に反響して自分のものではない別の足音のように返ってくる。
踊り場まで下りて、壁の表示を確認する。
地下十二階。
かれらがいる場所は、ここより最下階。*2
唇を引き結んだ。
腰のベルトに手を触れる。
なぞる指先をグリップの冷たさが刺すが、まだ握らない。
まだ早い。
エネルギーを消費すれば、あとで動けなくなる。
階段を下り続ける。
地下十一階。十階。九階。
階層表示の数字が減るごとに空気の質が変わっていく。
少しずつ何かが腐敗したような悪臭が混ざりだした気がする。
こちらを見るカメラを見た。
赤い点灯。レンズの奥に、まだこちらを見返す何かの気配。
その瞬間。
停電した。
唐突に、全ての光が消えた。
視界が完全な暗闇に包まれる。
空調の唸りもどこかで微かに震えていた機械音も、まとめて死んだ。
静寂。
指先の感覚だけがやけに鋭くなる。
壁に触れた手のひらが、コンクリートのざらついた表面を感じ取った。
彼は動かなかった。
息が詰まり、心臓の音がやけに大きく聞こえている。
遅かった。
同時に、思考の奥で一つの言葉が浮かんだ。
始まりの合図だ。
お久しぶり。