MCU:Fullmetal Alchemist   作:ゴミ収集者

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Fullmetal Alchemist: Reforged
声のする町


雪の夜だった。

 

窓の外は白く、隣家の灯りだけが滲んでいる。居間の床には、チョークで引かれた円と線が幾重にも重なっていた。曲がった線を消しては引き直した跡が、板の目に白い粉になって残っている。

 

エドは円の縁に膝をついていた。十歳だった。向かいには一つ下の弟、アルがいる。弟は、兄の手元をまばたきも忘れたように見ていた。

 

二人がこの家に戻ってきたのは、今日の昼だった。

 

母が死んで二年になる。遺された兄弟は母の友人に引き取られ、遠い土地で修行をした。体力、基礎、錬金術の理屈。最初に叩き込まれたのは、してはいけないことの一覧だった。

 

帰ってきた家は、出たときのままだった。台所には母の使っていたエプロンがかかっていて、居間の椅子の背には、編みかけのマフラーが畳まれている。毛糸の端が、二年前と同じ形で垂れていた。

 

母の友人は、二人を送り届けると、墓地と役所に寄ってくると言って町へ出ていった。戻りは遅くなる、先に休んでいろと言い置いて。

 

父は戻っていない。ずっと前に家を出たきり、手紙の一枚もよこさない男だ。

 

エドは、修行で身につけた力を信じていた。陣は間違えずに描ける。理屈も頭に入っている。教わった禁忌を忘れたわけではなかった。ただ、自分なら届くと思った。

 

夜になって、父の書斎の本を開いた。

 

本には、人を作る方法が書かれていた。材料の種類と量、陣の形、手順。禁じられていることは、最初のページに太い字で書いてあった。エドはそのページを一度読んで、閉じなかった。

 

そして今、円の縁に膝をついている。

 

「本当にやるの、兄さん」

 

「ここまで来て、やらないなんて言えるかよ」

 

声は強がっていた。自分でも分かっている。分かっていて、止まらなかった。

 

陣の中央には、台所の戸棚と書斎から持ち出したものが並んでいる。水、炭、薬品、金属の粉。本に書かれていた数字は、全部暗記した。足りないものは何もない。足りないものは何もないはずだった。

 

アルが小さく息を吸う音がした。

 

「もし、うまくいかなかったら」

 

「うまくいく」

 

「でも」

 

「母さんにもう一度会いたくないのか」

 

アルは黙った。言い返せば兄がなお意地になると、弟は知っている。やがて、小さくうなずいた。

 

エドは息を吸い、両の掌を合わせた。

 

陣が光る。白い雪明かりを塗りつぶすような青い光が、床から壁へ駆け上がった。アルが何か叫んだが、聞こえなかった。

 

次の瞬間、エドは何もない場所に立っていた。

 

床も天井もない。白い空間の真ん中に、扉があった。見上げても上の端が見えないほど大きな扉で、その表面に刻まれた模様が、動いている。

 

扉の隙間から、無数の手が伸びてきた。

 

気がつくと、居間の床に倒れていた。左の脚が、膝の上から消えている。血が板の間に広がっていく。陣は焼け焦げ、光は消え、焦げた匂いだけが残っていた。

 

「こんなはずじゃ……畜生、持っていかれた!」

 

陣の中央には、母ではない「何か」が横たわっていた。人の形をしているとも言えず、していないとも言えなかった。それが何かを、エドは見ないことにした。

 

「……アル」

 

返事がない。

 

首をひねって、向かいを見た。そこには焼け焦げた床があるだけだった。さっきまで弟が膝をついていた場所に、弟の靴が片方、転がっている。

 

「アル! アルフォンス!」

 

どこにもいない。叫んでも、陣の中央から何も返ってこない。

 

エドは這って、焼け焦げた円の中央まで行った。

 

「……心臓だろうとくれてやる! だから!! 返せよ!! たった一人の弟なんだよ!」

 

両の掌を打ち合わせ、陣の中央に叩きつけた。光が一度だけ走って、右の腕が付け根から消えた。弟の代わりに何が払われたのか、それで弟が戻るのかも、エドには分からなかった。

 

視界が白んでいく。隣家の窓に灯りがつくのが見えた。玄関を叩く音がして、女の子の悲鳴のような呼び声が遠くから届く。誰の声かを確かめる力は、もう残っていなかった。

 

***

 

長距離バスは、乾いた丘陵地を走り続けていた。

 

窓際の席で、エドは肘をついて、窓の外を向いている。両手には黒い手袋をはめていた。右手は膝の上に置いたまま、動かさない。右の薬指には、手袋の上から細い銀の指輪が一つ、はまっている。

 

あれから四年が過ぎた。エドの背は、年の割に高いとは言えなかった。それを口にした者は、これまでに三人、後悔している。

 

〈そろそろ着くよ、兄さん。さっき車内放送があった〉

 

声が頭の中で響いた。

 

エドは唇を動かさずに返す。

 

〈起きてる〉

 

〈寝てたよ。僕は真っ暗だったけど、兄さんが目を開けた時に見えた。口の端が濡れてた〉

 

〈濡れてねえ〉

 

〈窓に映ってたよ。前の席のおばさんも見てた〉

 

〈……どこまで見えてんだよ、お前〉

 

〈兄さんが見てるものだけ。目を閉じられると、僕も真っ暗になるんだ〉

 

アルフォンスには、身体がない。

 

あの夜、目を覚ましたとき、弟の身体はどこにもなかった。かわりに、内側から声がした。それから弟は、ずっと兄の内側にいる。目や耳は兄のものを共有し、声は声帯を使わずに、兄の頭の中だけで響く。口を持たない弟の声は、エドの頭の中にしか届かない。

 

だからエドは人前では、口を動かさずに弟と話す癖がついた。ときどき、うっかり声に出す。そのたびに周りの人間が振り向く。

 

バスが減速する。窓の外に、赤茶けた屋根の小さな町が見えてきた。入口の看板に、塗料の剥げかけた文字で町の名が書かれている。

 

リオール。

 

エドは膝の上の鞄から、封筒を取り出した。三日前、錬金術師の結社の連絡員から手渡されたものだ。薄い紙が二枚入っている。

 

一枚目は派遣依頼書だった。

 

アメストリス財団 派遣依頼書

派遣先:リオール町診療所(院長 ハリス)

業務:医療機器三台の点検、必要に応じた修理

期間:一週間程度

報酬:日当。宿泊は診療所の二階を使うこと

身分:当財団技術部 見習い E・エルリック

 

表向きの用件は、これだけだ。

 

もう一枚は、封が閉じられたままだ。連絡員は「現地の協力者は診療所だけだ。二枚目は、診療所での仕事が済んでから、一人で開けること」とだけ言った。

 

〈二枚目、まだ開けないの?〉

 

〈診療所の仕事が済んでからって言われただろ〉

 

〈兄さんが素直に従うの、珍しい〉

 

〈今回は、何が書いてあるか大体想像がつくんだよ〉

 

エドはそれ以上、何も言わなかった。バスの扉が開く。鞄を肩にかけ、ステップを降りた。

 

***

 

リオールの広場は、思ったより人が多かった。

 

石畳の中央に噴水があり、その周りを露店が囲んでいる。果物、乾物、布、錆びた工具。値段を言い合う声と、荷車の車輪が石を叩く音が重なっている。通りを行く人々の顔は、どれも穏やかだった。

 

〈みんな、機嫌がいいね〉

 

〈ああ〉

 

〈何か気になる?〉

 

〈田舎の町にしちゃ、揉めてる奴がいねえ。露店の値切りですら、笑ってやってる〉

 

〈いいことじゃないの?〉

 

〈いいことなら、いいんだけどな〉

 

広場の角に、食堂があった。診療所の場所は分かっているが、約束の時刻までは間がある。腹が先に鳴った。

 

扉を押すと、パンと煮込みの匂いがした。カウンター席の端に腰を下ろすと、恰幅のいい女将が水を置きながら、エドの全身を一度だけ見た。

 

「見ない顔だね。旅の人かい」

 

「財団の技師です。診療所の機械を見に来ました」

 

「ああ、先生が言ってた子か。そりゃ、ご苦労さん」

 

女将は注文を聞く前に、白い液体の入ったコップをどんとカウンターに置いた。

 

「食べ盛りだろ。うちのは搾りたてだよ。たくさん飲んで、背を伸ばしな」

 

エドの動きが止まった。

 

〈……〉

 

〈兄さん?〉

 

「俺は、牛乳は飲まない」

 

声が出ていた。女将が目を丸くする。

 

「どうしてさ。身体にいいんだよ」

 

「どうしてもだ。あと、俺は十分に」

 

〈兄さん、声に出てる〉

 

「……煮込みとパンをください」

 

「はいよ」

 

女将は笑いながら牛乳を下げた。その横の席で、新聞を読んでいた老人が肩を震わせている。エドは顔をそむけて、水を一気に飲んだ。

 

〈相変わらずだね、牛乳〉

 

〈お前は黙ってろ〉

 

〈僕、食べられないから、食べ物の話聞くの好きなんだ。牛乳でも〉

 

その一言で、エドは言い返す気をなくした。

 

煮込みが運ばれてきた。野菜と肉がごろごろ入った、素朴な味だった。ひと口ごとに、弟が内側で耳を傾けているのを、エドは感じる。味を伝えることはできない。ただ、旨いと思いながら食べると、弟の気配が少しだけ緩む。

 

食べ終わる頃、隣の老人が新聞を畳んで、話しかけてきた。

 

「あんた、診療所に行くんなら、気をつけたほうがいいぞ」

 

「何をですか」

 

「先生は人がいいからね。最近は、ほら、広場の裏の集会所に町の連中が通ってるだろう。診療所にも、その話を持ってくる客が増えてる。先生は迷惑がってるが、断りきれんのさ」

 

「集会所?」

 

「導師さんのところじゃ。亡くなった家族の声を聞かせてくれるんだと」

 

女将が、皿を片付けながら割って入った。

 

「うちの常連も、何人か通ってるよ。みんな、顔が明るくなってね。いいことだと思うけど、毎晩のように通ってる人もいるから、ちょっとね」

 

「寄付とか、取られるんですか」

 

「気持ち程度だって、みんな言うよ。お金より、通う回数のほうが気になるのさ」

 

最後は小声だった。女将は、言ってはいけないことを口にしたというように、咳払いをして厨房へ戻った。

 

エドは、パンのかけらを皿に残したまま、立ち上がった。代金をカウンターに置く。

 

「ごちそうさまでした」

 

「はいよ。気をつけてね」

 

外に出ると、昼の光が石畳を白く照らしていた。広場の奥、教会の裏手に、小さな建物が見える。屋根の上に、くすんだ布の旗が一本、風になびいていた。

 

〈あれが、集会所かな〉

 

〈たぶんな〉

 

〈今、行く?〉

 

〈まだだ。先に診療所に行く。協力者はあそこだけだって、連絡員が言ってただろ〉

 

***

 

診療所は、広場から一本入った通りにあった。平屋の煉瓦造りで、白い十字の看板は塗りが剥げている。入口の脇には、赤い花をつけた鉢が並んでいた。手入れが行き届いている。

 

扉を開けると、消毒液の匂いがした。待合室の長椅子には誰もいない。受付の奥から、白衣の老人が顔を出した。

 

「ああ、財団から来た技師さんかね」

 

「エドワード・エルリックです。点検の件で」

 

奥の部屋の戸が少し開いて、看護師が会釈した。

 

「よく来てくれた。院長のハリスだ。この診療所はもう長年やっとるが、機械がどうにも、年寄りよりも先にへそを曲げよる」

 

ハリス院長は、白い口髭を揺らして笑った。温厚そうな人だ。握手の手は乾いていて、少し冷たかった。

 

「見習いと聞いていたが、ずいぶん若いね。いくつかね」

 

「十四です」

 

「十四か。立派なもんだ。無理はせんでくれたまえ。私は午後の往診がある。夕方までには戻る」

 

「分かりました。ゆっくり見ておきます」

 

診療所の奥には、点検の対象になる機器が三台並んでいた。心電計、古い型のX線装置、電子式の血圧測定器。三台とも、表示が不安定になって一週間ほどだという。

 

ハリス院長が往診鞄を提げて出ていくと、診療所は静かになった。看護師が一人、奥の部屋で薬を並べる音がするだけだ。

 

エドは心電計の前に立つと、側面のねじを外し、蓋を持ち上げた。基板が剥き出しになる。

 

〈……ここ、焦げてる〉

 

〈ああ。コンデンサが膨らんでる。電源回路の部品が劣化してるんだな〉

 

〈取り替えるの? 部品、持ってきてないよね〉

 

〈いらねえ〉

 

エドは周囲を見回した。看護師の気配は、奥の部屋から動かない。廊下の窓の外にも人影はない。

 

左手の手袋を外し、膨らんだ部品に素手で触れた。

 

指先から、構造が流れ込んでくる。電解液が劣化して、容器が内側から押されている。隣の部品は無事。配線は生きている。部品を換える必要はない。劣化した液の中に、まだ使える成分が残っている。

 

エドは部品から指を離し、両の掌を打ち合わせて、もう一度、部品に触れた。

 

小さな光が、基板の上で一瞬だけ瞬いた。膨らんでいた容器は元の形に戻り、劣化した液は、使える成分だけが組み直されて澄んでいた。錬成陣は描いていない。彼にはその必要がなかった。

 

〈相変わらず、陣がいらないのは便利だよね〉

 

〈便利なもんかよ。結社の連中は陣と触媒がなきゃ何もできない。それが普通なんだ。俺みたいなやり方を見せたら、全員が顔色変える〉

 

蓋を戻し、電源を入れる。心電計の表示が安定した。次の機械へ移る。X線装置は配線の接触不良、血圧測定器はセンサーの経年劣化。どちらも二十分ほどで直った。

 

エドは一度、手を止めた。

 

この仕事は、本来の目的ではない。分かっていても、壊れたものが元に戻る手応えは、悪くなかった。何かを正しい形に戻す。それだけは、自分にもできる。

 

〈兄さん、今ちょっと笑った?〉

 

〈笑ってねえ〉

 

〈息の音がそうだった。鼻で抜けるやつ〉

 

〈ため息だ〉

 

最後に動作を一通り試してから、エドは左手の手袋をはめ直し、道具を片付けた。

 

〈ふう。意外と早く終わったね〉

 

〈これくらいで済んでくれて助かる。本題は、こっちじゃねえからな〉

 

〈……うん〉

 

エドは鞄の底から、閉じたままの二枚目の紙を取り出した。封を切る前に、一度だけ息を吐く。

 

そのとき、待合室のほうで扉が開く音がした。

 

***

 

待合室の長椅子には、女が一人座っていた。

 

三十代半ばだろうか。黒に近い紺の服に、淡い藤色の肩掛け。色の褪せた髪留め。左手の薬指には、細い金の指輪がはまっている。膝の上で、手が組まれていた。

 

受付にいた看護師が、カウンターの内側から小声でエドに言った。

 

「ローズさんよ。毎日来るの。薬をもらうわけでもないのに、ああして座ってらっしゃるの」

 

「どこか悪いんですか」

 

「身体は丈夫よ。半年前に、ご主人を亡くされてね」

 

エドは何も言わなかった。看護師は肩をすくめて、続けた。

 

「でもね、先月あたりから様子が変わったの。顔色は良くなったんだけど、今度は、夜に」

 

「夜に?」

 

「ご主人の声が聞こえるんですって」

 

待合室の長椅子の女が、顔を上げた。

 

目が合った。

 

彼女は少し驚いたようにまばたきをして、それから、頬の力を抜くように笑った。

 

「ごめんなさいね、変な話を聞かせてしまって」

 

「いえ。俺は」

 

「あなた、財団の技師さんね。ハリス先生から聞いたわ。まだこんなに若いのに」

 

ローズは立ち上がろうとして、そのまま座り直した。膝が一度、浮いただけだった。

 

「でも、本当なのよ。夜になるとね、ジョンが私の名前を呼ぶの。『ローズ、寒くないか』って。生きている時と同じ声で。間違えるはずがないでしょう、何年も一緒にいたんだもの」

 

〈兄さん〉

 

弟の声が、内側で低く響いた。

 

エドは受付のカウンターに片手をついたまま、動かなかった。

 

「……それは、どこで聞こえるんですか」

 

「家で。寝室で。集会でいただいた印を枕元に置いて眠ると、聞こえるの。最初は夢だと思ってたの。でも、ある人が教えてくれたの。それは夢じゃなくて、あの人が私に会いに来てくれているんだって」

 

「ある人?」

 

「コーネロ様よ。広場の裏手の集会所で、毎晩お話を聞かせてくださるの。亡くなった人の声を、もう一度届けてくださる方」

 

エドは眉を寄せた。

 

二枚目の紙の中身が、想像から確信に変わった。

 

「それで、あなたは」

 

「私は、週に二度は通っているわ。寄付も少しだけ。そうすると、声がはっきり聞こえるの。今の私には、それが全部だから」

 

ローズはもう一度笑った。優しい笑い方だった。それだけに、エドは奥歯を噛んだ。

 

「声が聞こえて、それで、どうなるんだよ」

 

口が、勝手に動いていた。

 

「どうなるって」

 

「死んだ人の声が聞こえて、毎晩それを聞いて、あんたは明日、何をするんだ。声のためだけに生きてんのかよ」

 

待合室の空気が止まった。看護師が息を呑んだ。

 

〈兄さん、言い過ぎ〉

 

弟の声で、エドは我に返った。目の前のローズは、笑顔のまま固まっていた。それから、目を伏せた。

 

「……そうね。あなたの言うとおりかもしれない」

 

「悪い。今のは」

 

「いいのよ。若い人には、怖い話に聞こえるわよね」

 

ローズは膝の上で手を握りしめた。その手は震えていた。指の関節が白かった。

 

エドは言葉を探した。どれも、口に出す前に崩れた。

 

「……仕事が残ってるんで」

 

それだけ言って、背を向けた。

 

***

 

診療所の裏口から路地に出ると、夕方の風が首筋を撫でた。

 

エドは壁にもたれて、しばらく動かなかった。右手の手袋の指先を、左手で握っている。強く握るほど、何も感じなかった。

 

〈兄さん〉

 

〈……何も言うな〉

 

〈言わないよ。ただ、いるから〉

 

弟はそれだけ言って、黙った。黙ったまま、内側にいた。何度も繰り返してきたやり方だった。兄が崩れそうな時、弟は言葉を足さない。そのことに、エドは何度救われたか、数えるのをやめている。

 

しばらくして、足が勝手に広場のほうへ向かった。

 

日が傾き、露店はほとんど片付いていた。噴水の水音だけが、石畳に響いている。教会の裏手に、集会所の屋根が見えた。入口の扉は開いていて、短い夕方の祈りを終えた人たちが出てくる。

 

小さな集団だった。老人、中年の男、若い女。誰もが穏やかな顔をしている。その中の一人、中年の女性が、誰もいない空間に向かって小さくうなずいた。

 

「ええ、今夜も聞くわ。大丈夫、ちゃんと食べてるから」

 

誰に向かって話しているのか、エドには分かった。分かってしまった。

 

〈……兄さん〉

 

〈ああ〉

 

入口の脇に、一人の青年が立っていた。灰色の長衣を着て、胸に小さな円形の徽章をつけている。出てくる人々に頭を下げながら、小さな案内の紙を手渡していた。エドの前を通り過ぎた女性が、その紙を大事そうに胸に抱えている。

 

エドは近づいて、青年の手から紙を一枚受け取った。

 

「あなたにも、大切な方の声を」

 

青年は柔らかな声で言った。その目が、エドの手袋と右の袖口を一度だけなぞった。

 

「今夜も集会があります。どなたでも歓迎ですよ」

 

「ああ。考えとく」

 

エドは紙を折り畳んで、ポケットに入れた。歩き出す背中に、青年の視線がしばらく残っていた。

 

〈今の人、兄さんの腕を見てた〉

 

〈ああ。見てた〉

 

〈気づかれたかな〉

 

〈どうだろうな。ただの癖かもしれねえ。でも、覚えとく〉

 

***

 

診療所に戻ると、ハリス院長が往診から帰っていた。診察室の灯りの下で、疲れた顔で書類をまとめている。

 

「ああ、エルリック君。機械はどうだったね」

 

「全部、直りました」

 

「全部? もうかね」

 

「古い部品が劣化してただけです。使えるように調整しておきました」

 

院長は目を丸くし、それから、感嘆したように首を振った。

 

「財団はいい技師を送ってくれたものだ。礼をしなければな。今夜は、うちで食べていきなさい。私の煮込みでよければ、だがね」

 

「いえ、俺は」

 

「遠慮はいらん。二階に泊まるんだろう」

 

勧められるまま、診療所の奥の小さな食卓についた。院長が鍋から注いでくれた煮込みは、昼に食べたものとよく似ていた。この町の味なのだろう。

 

食事の間、院長は多くを語らなかった。ただ、パンをちぎる手を止めて、ぽつりと言った。

 

「ローズさんのこと、気にしてくれたかね」

 

エドは手を止めた。

 

「……さっきは、きつい言い方をしました」

 

「いや。あの子は、誰かにそう言われたかったのかもしれん」

 

「どういうことですか」

 

「半年前、ご主人の最期を看取ったのは私でな。急な病だった。あの子は一滴も泣かずに、葬儀を済ませた。泣かないまま、毎日ここへ来て、座っている。何をするでもなく」

 

院長は、指で眼鏡の位置を直した。

 

「導師さんの集会に通い始めてから、あの子は笑うようになった。それは良いことだと、最初は私も思った。だが、笑う回数が増えるほど、立ち上がる気配が消えていく」

 

「……」

 

「年寄りの勘だ。確かなことは何も言えん。寄付がどうの、詐欺がどうのと、私が口を出せる話でもない。ただ、もし君が何か気づくことがあれば、教えてほしい」

 

エドは、煮込みの皿を見つめたまま答えた。

 

「分かりました」

 

***

 

診療所の二階は、点検に来る技師のための仮の部屋になっていた。簡素な寝台と机、窓際に背もたれのついた木の椅子がひとつ。

 

日が落ちて、窓の外は群青色になっていた。広場のほうから、鐘の音が遠く聞こえる。

 

〈兄さん〉

 

〈なんだよ〉

 

〈さっきのこと、まだ気にしてる?〉

 

〈……寝ろ〉

 

〈僕、寝られないよ。寝てる間も、兄さんの目の裏にいるだけだもん〉

 

エドは返事をしなかった。机の上に、二枚目の紙を広げる。封は、夕方の路地で切っていた。

 

紙には、短い文が並んでいた。

 

調査対象:リオール町の集会所を主宰する人物。通称「導師コーネロ」。出自、経歴は不明。約三か月前から町に滞在し、ほぼ毎晩、集会を開催。参加者に「亡き家族の声」を聞かせると称し、寄付を募っている。町の複数の住民から相談あり。錬金術の不正使用の可能性(会員の関与の有無を含む)を調査すること。

 

注意:現地の協力者は財団の診療所のみ。身分は「見習い技師」を維持。接触は最小限に。

 

エドは紙を一度、机の端に置いた。もう一度取り上げて、読み直した。

 

〈……ローズさんのこと、気になってるんだよね〉

 

〈ならねえ。仕事だ〉

 

〈兄さんの仕事は、点検と調査でしょ。でも、さっきのは仕事の声じゃなかった〉

 

〈うるせえ〉

 

〈うるさくない。事実だよ〉

 

エドは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。暗い梁が交差している。

 

声を聞かせる、と、あの青年は言った。

 

死んだ人の声を、もう一度届ける。

 

そんなことが本当にできるなら、自分はあの夜を過ごさずに済んだ。母の声ひとつ、取り戻すことができれば、床に陣を描く必要などなかった。

 

できるはずがない。できるはずがないと、誰よりも自分が知っている。あの扉の向こうで、何が起きるのか。何を持っていかれるのか。

 

人が一番弱くなる場所に手を突っ込んで居座り、願いを餌に縛りつける。そういう手口が、許せなかった。

 

「……ふざけんなよ」

 

小さく、声に出した。

 

〈兄さん、口に出てる〉

 

〈いいんだよ、今は誰もいねえ〉

 

〈うん〉

 

しばらく、どちらも話さなかった。窓の外で、風が板戸を揺らした。

 

〈ねえ、兄さん〉

 

〈なんだ〉

 

〈僕、時々思うんだ。どうして僕は、ここにいるんだろうって〉

 

エドは目を閉じた。

 

〈普通なら、扉の向こうに全部持っていかれるはずなんでしょう? 身体も、魂も。でも僕は、兄さんの中にいる。兄さんも、こうして生きてる。それって、なんでなんだろう〉

 

〈……分かんねえ〉

 

〈分からないまま、でいいの?〉

 

〈いいわけねえだろ。でも、今は分かんねえんだよ〉

 

理由は分からない。分からないまま、弟は自分の内側にいて、毎日声をかけてくる。返事をするたびに、あの夜のことを思い出す。

 

エドは目を開けた。窓の外に、広場の灯りが見える。その向こう、屋根の影に紛れるように、集会所の小さな窓がひとつ、ぼんやりと明るい。

 

ポケットから、夕方に受け取った紙を取り出した。折り目を開く。灰色の円と、その中に小さな文字が一行。

 

――あなたの大切な人の声を、もう一度。

 

エドはそれを握りつぶさなかった。皺を伸ばして、二枚目の紙の横に並べた。

 

〈……今夜は行かねえ。顔を見られたばっかりだ。明日、集会所の様子を見に行く〉

 

〈うん。僕も行く〉

 

〈お前は俺の中にいんだから、来るも何もないだろ〉

 

〈一緒に行く、って言いたいんだよ〉

 

〈……そうかよ〉

 

エドは二枚の紙を畳んで、鞄の奥にしまった。

 

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