MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
声のする町
雪の夜だった。
窓の外は白く、隣家の灯りだけが滲んでいる。居間の床には、チョークで引かれた円と線が幾重にも重なっていた。曲がった線を消しては引き直した跡が、板の目に白い粉になって残っている。
エドは円の縁に膝をついていた。十歳だった。向かいには一つ下の弟、アルがいる。弟は、兄の手元をまばたきも忘れたように見ていた。
二人がこの家に戻ってきたのは、今日の昼だった。
母が死んで二年になる。遺された兄弟は母の友人に引き取られ、遠い土地で修行をした。体力、基礎、錬金術の理屈。最初に叩き込まれたのは、してはいけないことの一覧だった。
帰ってきた家は、出たときのままだった。台所には母の使っていたエプロンがかかっていて、居間の椅子の背には、編みかけのマフラーが畳まれている。毛糸の端が、二年前と同じ形で垂れていた。
母の友人は、二人を送り届けると、墓地と役所に寄ってくると言って町へ出ていった。戻りは遅くなる、先に休んでいろと言い置いて。
父は戻っていない。ずっと前に家を出たきり、手紙の一枚もよこさない男だ。
エドは、修行で身につけた力を信じていた。陣は間違えずに描ける。理屈も頭に入っている。教わった禁忌を忘れたわけではなかった。ただ、自分なら届くと思った。
夜になって、父の書斎の本を開いた。
本には、人を作る方法が書かれていた。材料の種類と量、陣の形、手順。禁じられていることは、最初のページに太い字で書いてあった。エドはそのページを一度読んで、閉じなかった。
そして今、円の縁に膝をついている。
「本当にやるの、兄さん」
「ここまで来て、やらないなんて言えるかよ」
声は強がっていた。自分でも分かっている。分かっていて、止まらなかった。
陣の中央には、台所の戸棚と書斎から持ち出したものが並んでいる。水、炭、薬品、金属の粉。本に書かれていた数字は、全部暗記した。足りないものは何もない。足りないものは何もないはずだった。
アルが小さく息を吸う音がした。
「もし、うまくいかなかったら」
「うまくいく」
「でも」
「母さんにもう一度会いたくないのか」
アルは黙った。言い返せば兄がなお意地になると、弟は知っている。やがて、小さくうなずいた。
エドは息を吸い、両の掌を合わせた。
陣が光る。白い雪明かりを塗りつぶすような青い光が、床から壁へ駆け上がった。アルが何か叫んだが、聞こえなかった。
次の瞬間、エドは何もない場所に立っていた。
床も天井もない。白い空間の真ん中に、扉があった。見上げても上の端が見えないほど大きな扉で、その表面に刻まれた模様が、動いている。
扉の隙間から、無数の手が伸びてきた。
気がつくと、居間の床に倒れていた。左の脚が、膝の上から消えている。血が板の間に広がっていく。陣は焼け焦げ、光は消え、焦げた匂いだけが残っていた。
「こんなはずじゃ……畜生、持っていかれた!」
陣の中央には、母ではない「何か」が横たわっていた。人の形をしているとも言えず、していないとも言えなかった。それが何かを、エドは見ないことにした。
「……アル」
返事がない。
首をひねって、向かいを見た。そこには焼け焦げた床があるだけだった。さっきまで弟が膝をついていた場所に、弟の靴が片方、転がっている。
「アル! アルフォンス!」
どこにもいない。叫んでも、陣の中央から何も返ってこない。
エドは這って、焼け焦げた円の中央まで行った。
「……心臓だろうとくれてやる! だから!! 返せよ!! たった一人の弟なんだよ!」
両の掌を打ち合わせ、陣の中央に叩きつけた。光が一度だけ走って、右の腕が付け根から消えた。弟の代わりに何が払われたのか、それで弟が戻るのかも、エドには分からなかった。
視界が白んでいく。隣家の窓に灯りがつくのが見えた。玄関を叩く音がして、女の子の悲鳴のような呼び声が遠くから届く。誰の声かを確かめる力は、もう残っていなかった。
***
長距離バスは、乾いた丘陵地を走り続けていた。
窓際の席で、エドは肘をついて、窓の外を向いている。両手には黒い手袋をはめていた。右手は膝の上に置いたまま、動かさない。右の薬指には、手袋の上から細い銀の指輪が一つ、はまっている。
あれから四年が過ぎた。エドの背は、年の割に高いとは言えなかった。それを口にした者は、これまでに三人、後悔している。
〈そろそろ着くよ、兄さん。さっき車内放送があった〉
声が頭の中で響いた。
エドは唇を動かさずに返す。
〈起きてる〉
〈寝てたよ。僕は真っ暗だったけど、兄さんが目を開けた時に見えた。口の端が濡れてた〉
〈濡れてねえ〉
〈窓に映ってたよ。前の席のおばさんも見てた〉
〈……どこまで見えてんだよ、お前〉
〈兄さんが見てるものだけ。目を閉じられると、僕も真っ暗になるんだ〉
アルフォンスには、身体がない。
あの夜、目を覚ましたとき、弟の身体はどこにもなかった。かわりに、内側から声がした。それから弟は、ずっと兄の内側にいる。目や耳は兄のものを共有し、声は声帯を使わずに、兄の頭の中だけで響く。口を持たない弟の声は、エドの頭の中にしか届かない。
だからエドは人前では、口を動かさずに弟と話す癖がついた。ときどき、うっかり声に出す。そのたびに周りの人間が振り向く。
バスが減速する。窓の外に、赤茶けた屋根の小さな町が見えてきた。入口の看板に、塗料の剥げかけた文字で町の名が書かれている。
リオール。
エドは膝の上の鞄から、封筒を取り出した。三日前、錬金術師の結社の連絡員から手渡されたものだ。薄い紙が二枚入っている。
一枚目は派遣依頼書だった。
アメストリス財団 派遣依頼書
派遣先:リオール町診療所(院長 ハリス)
業務:医療機器三台の点検、必要に応じた修理
期間:一週間程度
報酬:日当。宿泊は診療所の二階を使うこと
身分:当財団技術部 見習い E・エルリック
表向きの用件は、これだけだ。
もう一枚は、封が閉じられたままだ。連絡員は「現地の協力者は診療所だけだ。二枚目は、診療所での仕事が済んでから、一人で開けること」とだけ言った。
〈二枚目、まだ開けないの?〉
〈診療所の仕事が済んでからって言われただろ〉
〈兄さんが素直に従うの、珍しい〉
〈今回は、何が書いてあるか大体想像がつくんだよ〉
エドはそれ以上、何も言わなかった。バスの扉が開く。鞄を肩にかけ、ステップを降りた。
***
リオールの広場は、思ったより人が多かった。
石畳の中央に噴水があり、その周りを露店が囲んでいる。果物、乾物、布、錆びた工具。値段を言い合う声と、荷車の車輪が石を叩く音が重なっている。通りを行く人々の顔は、どれも穏やかだった。
〈みんな、機嫌がいいね〉
〈ああ〉
〈何か気になる?〉
〈田舎の町にしちゃ、揉めてる奴がいねえ。露店の値切りですら、笑ってやってる〉
〈いいことじゃないの?〉
〈いいことなら、いいんだけどな〉
広場の角に、食堂があった。診療所の場所は分かっているが、約束の時刻までは間がある。腹が先に鳴った。
扉を押すと、パンと煮込みの匂いがした。カウンター席の端に腰を下ろすと、恰幅のいい女将が水を置きながら、エドの全身を一度だけ見た。
「見ない顔だね。旅の人かい」
「財団の技師です。診療所の機械を見に来ました」
「ああ、先生が言ってた子か。そりゃ、ご苦労さん」
女将は注文を聞く前に、白い液体の入ったコップをどんとカウンターに置いた。
「食べ盛りだろ。うちのは搾りたてだよ。たくさん飲んで、背を伸ばしな」
エドの動きが止まった。
〈……〉
〈兄さん?〉
「俺は、牛乳は飲まない」
声が出ていた。女将が目を丸くする。
「どうしてさ。身体にいいんだよ」
「どうしてもだ。あと、俺は十分に」
〈兄さん、声に出てる〉
「……煮込みとパンをください」
「はいよ」
女将は笑いながら牛乳を下げた。その横の席で、新聞を読んでいた老人が肩を震わせている。エドは顔をそむけて、水を一気に飲んだ。
〈相変わらずだね、牛乳〉
〈お前は黙ってろ〉
〈僕、食べられないから、食べ物の話聞くの好きなんだ。牛乳でも〉
その一言で、エドは言い返す気をなくした。
煮込みが運ばれてきた。野菜と肉がごろごろ入った、素朴な味だった。ひと口ごとに、弟が内側で耳を傾けているのを、エドは感じる。味を伝えることはできない。ただ、旨いと思いながら食べると、弟の気配が少しだけ緩む。
食べ終わる頃、隣の老人が新聞を畳んで、話しかけてきた。
「あんた、診療所に行くんなら、気をつけたほうがいいぞ」
「何をですか」
「先生は人がいいからね。最近は、ほら、広場の裏の集会所に町の連中が通ってるだろう。診療所にも、その話を持ってくる客が増えてる。先生は迷惑がってるが、断りきれんのさ」
「集会所?」
「導師さんのところじゃ。亡くなった家族の声を聞かせてくれるんだと」
女将が、皿を片付けながら割って入った。
「うちの常連も、何人か通ってるよ。みんな、顔が明るくなってね。いいことだと思うけど、毎晩のように通ってる人もいるから、ちょっとね」
「寄付とか、取られるんですか」
「気持ち程度だって、みんな言うよ。お金より、通う回数のほうが気になるのさ」
最後は小声だった。女将は、言ってはいけないことを口にしたというように、咳払いをして厨房へ戻った。
エドは、パンのかけらを皿に残したまま、立ち上がった。代金をカウンターに置く。
「ごちそうさまでした」
「はいよ。気をつけてね」
外に出ると、昼の光が石畳を白く照らしていた。広場の奥、教会の裏手に、小さな建物が見える。屋根の上に、くすんだ布の旗が一本、風になびいていた。
〈あれが、集会所かな〉
〈たぶんな〉
〈今、行く?〉
〈まだだ。先に診療所に行く。協力者はあそこだけだって、連絡員が言ってただろ〉
***
診療所は、広場から一本入った通りにあった。平屋の煉瓦造りで、白い十字の看板は塗りが剥げている。入口の脇には、赤い花をつけた鉢が並んでいた。手入れが行き届いている。
扉を開けると、消毒液の匂いがした。待合室の長椅子には誰もいない。受付の奥から、白衣の老人が顔を出した。
「ああ、財団から来た技師さんかね」
「エドワード・エルリックです。点検の件で」
奥の部屋の戸が少し開いて、看護師が会釈した。
「よく来てくれた。院長のハリスだ。この診療所はもう長年やっとるが、機械がどうにも、年寄りよりも先にへそを曲げよる」
ハリス院長は、白い口髭を揺らして笑った。温厚そうな人だ。握手の手は乾いていて、少し冷たかった。
「見習いと聞いていたが、ずいぶん若いね。いくつかね」
「十四です」
「十四か。立派なもんだ。無理はせんでくれたまえ。私は午後の往診がある。夕方までには戻る」
「分かりました。ゆっくり見ておきます」
診療所の奥には、点検の対象になる機器が三台並んでいた。心電計、古い型のX線装置、電子式の血圧測定器。三台とも、表示が不安定になって一週間ほどだという。
ハリス院長が往診鞄を提げて出ていくと、診療所は静かになった。看護師が一人、奥の部屋で薬を並べる音がするだけだ。
エドは心電計の前に立つと、側面のねじを外し、蓋を持ち上げた。基板が剥き出しになる。
〈……ここ、焦げてる〉
〈ああ。コンデンサが膨らんでる。電源回路の部品が劣化してるんだな〉
〈取り替えるの? 部品、持ってきてないよね〉
〈いらねえ〉
エドは周囲を見回した。看護師の気配は、奥の部屋から動かない。廊下の窓の外にも人影はない。
左手の手袋を外し、膨らんだ部品に素手で触れた。
指先から、構造が流れ込んでくる。電解液が劣化して、容器が内側から押されている。隣の部品は無事。配線は生きている。部品を換える必要はない。劣化した液の中に、まだ使える成分が残っている。
エドは部品から指を離し、両の掌を打ち合わせて、もう一度、部品に触れた。
小さな光が、基板の上で一瞬だけ瞬いた。膨らんでいた容器は元の形に戻り、劣化した液は、使える成分だけが組み直されて澄んでいた。錬成陣は描いていない。彼にはその必要がなかった。
〈相変わらず、陣がいらないのは便利だよね〉
〈便利なもんかよ。結社の連中は陣と触媒がなきゃ何もできない。それが普通なんだ。俺みたいなやり方を見せたら、全員が顔色変える〉
蓋を戻し、電源を入れる。心電計の表示が安定した。次の機械へ移る。X線装置は配線の接触不良、血圧測定器はセンサーの経年劣化。どちらも二十分ほどで直った。
エドは一度、手を止めた。
この仕事は、本来の目的ではない。分かっていても、壊れたものが元に戻る手応えは、悪くなかった。何かを正しい形に戻す。それだけは、自分にもできる。
〈兄さん、今ちょっと笑った?〉
〈笑ってねえ〉
〈息の音がそうだった。鼻で抜けるやつ〉
〈ため息だ〉
最後に動作を一通り試してから、エドは左手の手袋をはめ直し、道具を片付けた。
〈ふう。意外と早く終わったね〉
〈これくらいで済んでくれて助かる。本題は、こっちじゃねえからな〉
〈……うん〉
エドは鞄の底から、閉じたままの二枚目の紙を取り出した。封を切る前に、一度だけ息を吐く。
そのとき、待合室のほうで扉が開く音がした。
***
待合室の長椅子には、女が一人座っていた。
三十代半ばだろうか。黒に近い紺の服に、淡い藤色の肩掛け。色の褪せた髪留め。左手の薬指には、細い金の指輪がはまっている。膝の上で、手が組まれていた。
受付にいた看護師が、カウンターの内側から小声でエドに言った。
「ローズさんよ。毎日来るの。薬をもらうわけでもないのに、ああして座ってらっしゃるの」
「どこか悪いんですか」
「身体は丈夫よ。半年前に、ご主人を亡くされてね」
エドは何も言わなかった。看護師は肩をすくめて、続けた。
「でもね、先月あたりから様子が変わったの。顔色は良くなったんだけど、今度は、夜に」
「夜に?」
「ご主人の声が聞こえるんですって」
待合室の長椅子の女が、顔を上げた。
目が合った。
彼女は少し驚いたようにまばたきをして、それから、頬の力を抜くように笑った。
「ごめんなさいね、変な話を聞かせてしまって」
「いえ。俺は」
「あなた、財団の技師さんね。ハリス先生から聞いたわ。まだこんなに若いのに」
ローズは立ち上がろうとして、そのまま座り直した。膝が一度、浮いただけだった。
「でも、本当なのよ。夜になるとね、ジョンが私の名前を呼ぶの。『ローズ、寒くないか』って。生きている時と同じ声で。間違えるはずがないでしょう、何年も一緒にいたんだもの」
〈兄さん〉
弟の声が、内側で低く響いた。
エドは受付のカウンターに片手をついたまま、動かなかった。
「……それは、どこで聞こえるんですか」
「家で。寝室で。集会でいただいた印を枕元に置いて眠ると、聞こえるの。最初は夢だと思ってたの。でも、ある人が教えてくれたの。それは夢じゃなくて、あの人が私に会いに来てくれているんだって」
「ある人?」
「コーネロ様よ。広場の裏手の集会所で、毎晩お話を聞かせてくださるの。亡くなった人の声を、もう一度届けてくださる方」
エドは眉を寄せた。
二枚目の紙の中身が、想像から確信に変わった。
「それで、あなたは」
「私は、週に二度は通っているわ。寄付も少しだけ。そうすると、声がはっきり聞こえるの。今の私には、それが全部だから」
ローズはもう一度笑った。優しい笑い方だった。それだけに、エドは奥歯を噛んだ。
「声が聞こえて、それで、どうなるんだよ」
口が、勝手に動いていた。
「どうなるって」
「死んだ人の声が聞こえて、毎晩それを聞いて、あんたは明日、何をするんだ。声のためだけに生きてんのかよ」
待合室の空気が止まった。看護師が息を呑んだ。
〈兄さん、言い過ぎ〉
弟の声で、エドは我に返った。目の前のローズは、笑顔のまま固まっていた。それから、目を伏せた。
「……そうね。あなたの言うとおりかもしれない」
「悪い。今のは」
「いいのよ。若い人には、怖い話に聞こえるわよね」
ローズは膝の上で手を握りしめた。その手は震えていた。指の関節が白かった。
エドは言葉を探した。どれも、口に出す前に崩れた。
「……仕事が残ってるんで」
それだけ言って、背を向けた。
***
診療所の裏口から路地に出ると、夕方の風が首筋を撫でた。
エドは壁にもたれて、しばらく動かなかった。右手の手袋の指先を、左手で握っている。強く握るほど、何も感じなかった。
〈兄さん〉
〈……何も言うな〉
〈言わないよ。ただ、いるから〉
弟はそれだけ言って、黙った。黙ったまま、内側にいた。何度も繰り返してきたやり方だった。兄が崩れそうな時、弟は言葉を足さない。そのことに、エドは何度救われたか、数えるのをやめている。
しばらくして、足が勝手に広場のほうへ向かった。
日が傾き、露店はほとんど片付いていた。噴水の水音だけが、石畳に響いている。教会の裏手に、集会所の屋根が見えた。入口の扉は開いていて、短い夕方の祈りを終えた人たちが出てくる。
小さな集団だった。老人、中年の男、若い女。誰もが穏やかな顔をしている。その中の一人、中年の女性が、誰もいない空間に向かって小さくうなずいた。
「ええ、今夜も聞くわ。大丈夫、ちゃんと食べてるから」
誰に向かって話しているのか、エドには分かった。分かってしまった。
〈……兄さん〉
〈ああ〉
入口の脇に、一人の青年が立っていた。灰色の長衣を着て、胸に小さな円形の徽章をつけている。出てくる人々に頭を下げながら、小さな案内の紙を手渡していた。エドの前を通り過ぎた女性が、その紙を大事そうに胸に抱えている。
エドは近づいて、青年の手から紙を一枚受け取った。
「あなたにも、大切な方の声を」
青年は柔らかな声で言った。その目が、エドの手袋と右の袖口を一度だけなぞった。
「今夜も集会があります。どなたでも歓迎ですよ」
「ああ。考えとく」
エドは紙を折り畳んで、ポケットに入れた。歩き出す背中に、青年の視線がしばらく残っていた。
〈今の人、兄さんの腕を見てた〉
〈ああ。見てた〉
〈気づかれたかな〉
〈どうだろうな。ただの癖かもしれねえ。でも、覚えとく〉
***
診療所に戻ると、ハリス院長が往診から帰っていた。診察室の灯りの下で、疲れた顔で書類をまとめている。
「ああ、エルリック君。機械はどうだったね」
「全部、直りました」
「全部? もうかね」
「古い部品が劣化してただけです。使えるように調整しておきました」
院長は目を丸くし、それから、感嘆したように首を振った。
「財団はいい技師を送ってくれたものだ。礼をしなければな。今夜は、うちで食べていきなさい。私の煮込みでよければ、だがね」
「いえ、俺は」
「遠慮はいらん。二階に泊まるんだろう」
勧められるまま、診療所の奥の小さな食卓についた。院長が鍋から注いでくれた煮込みは、昼に食べたものとよく似ていた。この町の味なのだろう。
食事の間、院長は多くを語らなかった。ただ、パンをちぎる手を止めて、ぽつりと言った。
「ローズさんのこと、気にしてくれたかね」
エドは手を止めた。
「……さっきは、きつい言い方をしました」
「いや。あの子は、誰かにそう言われたかったのかもしれん」
「どういうことですか」
「半年前、ご主人の最期を看取ったのは私でな。急な病だった。あの子は一滴も泣かずに、葬儀を済ませた。泣かないまま、毎日ここへ来て、座っている。何をするでもなく」
院長は、指で眼鏡の位置を直した。
「導師さんの集会に通い始めてから、あの子は笑うようになった。それは良いことだと、最初は私も思った。だが、笑う回数が増えるほど、立ち上がる気配が消えていく」
「……」
「年寄りの勘だ。確かなことは何も言えん。寄付がどうの、詐欺がどうのと、私が口を出せる話でもない。ただ、もし君が何か気づくことがあれば、教えてほしい」
エドは、煮込みの皿を見つめたまま答えた。
「分かりました」
***
診療所の二階は、点検に来る技師のための仮の部屋になっていた。簡素な寝台と机、窓際に背もたれのついた木の椅子がひとつ。
日が落ちて、窓の外は群青色になっていた。広場のほうから、鐘の音が遠く聞こえる。
〈兄さん〉
〈なんだよ〉
〈さっきのこと、まだ気にしてる?〉
〈……寝ろ〉
〈僕、寝られないよ。寝てる間も、兄さんの目の裏にいるだけだもん〉
エドは返事をしなかった。机の上に、二枚目の紙を広げる。封は、夕方の路地で切っていた。
紙には、短い文が並んでいた。
調査対象:リオール町の集会所を主宰する人物。通称「導師コーネロ」。出自、経歴は不明。約三か月前から町に滞在し、ほぼ毎晩、集会を開催。参加者に「亡き家族の声」を聞かせると称し、寄付を募っている。町の複数の住民から相談あり。錬金術の不正使用の可能性(会員の関与の有無を含む)を調査すること。
注意:現地の協力者は財団の診療所のみ。身分は「見習い技師」を維持。接触は最小限に。
エドは紙を一度、机の端に置いた。もう一度取り上げて、読み直した。
〈……ローズさんのこと、気になってるんだよね〉
〈ならねえ。仕事だ〉
〈兄さんの仕事は、点検と調査でしょ。でも、さっきのは仕事の声じゃなかった〉
〈うるせえ〉
〈うるさくない。事実だよ〉
エドは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。暗い梁が交差している。
声を聞かせる、と、あの青年は言った。
死んだ人の声を、もう一度届ける。
そんなことが本当にできるなら、自分はあの夜を過ごさずに済んだ。母の声ひとつ、取り戻すことができれば、床に陣を描く必要などなかった。
できるはずがない。できるはずがないと、誰よりも自分が知っている。あの扉の向こうで、何が起きるのか。何を持っていかれるのか。
人が一番弱くなる場所に手を突っ込んで居座り、願いを餌に縛りつける。そういう手口が、許せなかった。
「……ふざけんなよ」
小さく、声に出した。
〈兄さん、口に出てる〉
〈いいんだよ、今は誰もいねえ〉
〈うん〉
しばらく、どちらも話さなかった。窓の外で、風が板戸を揺らした。
〈ねえ、兄さん〉
〈なんだ〉
〈僕、時々思うんだ。どうして僕は、ここにいるんだろうって〉
エドは目を閉じた。
〈普通なら、扉の向こうに全部持っていかれるはずなんでしょう? 身体も、魂も。でも僕は、兄さんの中にいる。兄さんも、こうして生きてる。それって、なんでなんだろう〉
〈……分かんねえ〉
〈分からないまま、でいいの?〉
〈いいわけねえだろ。でも、今は分かんねえんだよ〉
理由は分からない。分からないまま、弟は自分の内側にいて、毎日声をかけてくる。返事をするたびに、あの夜のことを思い出す。
エドは目を開けた。窓の外に、広場の灯りが見える。その向こう、屋根の影に紛れるように、集会所の小さな窓がひとつ、ぼんやりと明るい。
ポケットから、夕方に受け取った紙を取り出した。折り目を開く。灰色の円と、その中に小さな文字が一行。
――あなたの大切な人の声を、もう一度。
エドはそれを握りつぶさなかった。皺を伸ばして、二枚目の紙の横に並べた。
〈……今夜は行かねえ。顔を見られたばっかりだ。明日、集会所の様子を見に行く〉
〈うん。僕も行く〉
〈お前は俺の中にいんだから、来るも何もないだろ〉
〈一緒に行く、って言いたいんだよ〉
〈……そうかよ〉
エドは二枚の紙を畳んで、鞄の奥にしまった。