MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
金曜の朝、エドは六時前に起きた。眠れた気はしなかった。
鞄は昨夜のまま、口を開けていた。枕の下から、折りたたんだ紙を出す。見ないふりは、後で一番高くつく。何度読んでも、癖のある字は同じことしか言わなかった。
紙を鞄に突っ込んだ。鞄の口を閉めかけて、また開けた。荷物は昨夜から一つも増えていないのに、重さだけが変わった気がした。右腕の付け根が、朝から疼いている。雨の前の日は、いつもこうだった。
靴を履こうとして、手が止まった。左の靴がない。
〈ベッドの下は、見た?〉アルが聞いた。
〈見た〉
〈椅子の裏は〉
〈見たって〉
階段の下から、小さな鼻をすする音がした。エドは右の靴だけを持って、靴下のまま廊下へ出た。エリシアが階段の三段目に座って、靴を抱えていた。寝間着のままで、目の周りが赤かった。
「それ、返してくれ」
エリシアは首を横に振った。
「ないと、歩けねえんだけど」
「いかない」
四歳の声は、それだけだった。エドは階段の下で突っ立った。言い返す言葉が、どこにも見つからなかった。
「エリシア」
台所から、グレイシアの声がした。叱る声ではなかった。エリシアは靴を抱え直して、一段降りて、また座った。
***
食卓には、皿が三枚並んでいた。エドの分は、もう置いてあった。トーストだった。皿の横に、牛乳のコップがある。エドは無言でコップを押し返した。エリシアが、それを引き寄せて、一気に飲んだ。
「おおきくなるの」
「……勝手にでかくなれ」
「朝のうちに、迎えの車が来ます」
エドは立ったまま言った。
「聞いています。大佐さんから」
「俺がここにいると、また誰か来るかもしれなくて。グレイシアさんと、エリシアが」
グレイシアは、フライパンの卵を三枚の皿に分けた。手つきは、昨日と同じだった。
「ヒューズは、危ないからって、あなたを追い出しましたか」
「……いえ」
エドは、ポケットの鍵を握った。
「鍵を渡したのは、あの人です。私は、どちらとも言いません」
それだけ言って、彼女は自分の席に座った。エドの卵は、冷めかけていた。
エリシアが椅子によじ登った。靴は、エドの皿の横に置かれた。それから、膝に載せていた木の箱の蓋を開けた。
高く澄んだ音が、ひとつずつ並んでいく。母の子守歌だった。エリシアは蓋を押さえたまま、エドの顔を見ている。曲が途中で止まると、もう一度ねじを巻いた。
エドは、椅子に座った。卵を口に入れた。味がしなかった。三口目で、喉が詰まった。
〈兄さん、息が変だよ〉
〈食ってるだけだ〉
エリシアが、三度目のねじを巻いた。エドは靴を取って、履いた。紐を結ぶ指が一度ほどけて、結び直した。
***
角の向こうの通りに、黒い乗用車が停まっていた。八時ちょうどだった。運転席から降りた男が、ドアの脇に立った。濃い灰色の背広で、襟に財団の小さな徽章をつけている。
「エドワード・エルリック様ですね。お荷物を」
男が、手を差し出した。エドは、鞄の持ち手を握ったまま、動けなかった。
手を放せば、この鞄は車に積まれる。そのまま、総裁のところまで運ばれる。誰かが段取りを組んでくれた道だった。楽な道だった。
枕の下の紙の字が、頭の中で繰り返された。
――見ないふりは、後で一番高くつく。
ヒューズさんを殺した奴は、まだこの町にいるかもしれない。この家の場所も、グレイシアとエリシアの顔も知っている。ここで車に乗れば、あとは誰かがなんとかする。俺のせいじゃない、と思えるようになる。それは、見ないふりをするということだった。
――逃げた分の勘定は、他人に回るぞ。
エドは、持ち手を握り直した。
「行かねえ」
男は、手を出したまま止まった。
「……失礼ですが」
「行かねえって言った。総裁には、悪いけど」
「総裁自らのお申し出です。お考え直しいただけませんか」
「考えた。行かねえ」
言った後で、声が裏返ったのに気づいた。足の指が、靴の中で丸まっている。男は表情を変えずに、手を引っ込めた。
「そのまま、お伝えします」
男は運転席に戻りかけて、ドアに手をかけたまま言った。
「総裁から、言付かっております。あなたがどう答えるかは、予想していた、と」
エドは、返事ができなかった。男はそれ以上は何も言わず、ドアを閉めた。車が角を曲がって見えなくなるまで、エドは立っていた。手のひらが、汗で濡れていた。
〈言っちゃったね〉
〈言った〉
〈よかった?〉
〈知らねえ。……よくねえかもしれねえ〉
〈どうして、残るの。兄さんのせいだって、思ってるのに〉
〈思ってるから残る。……さっきの手帳の通りだ〉
〈危ないのは、兄さんがいるからかもしれないよ〉
〈分かってる。でも、見えねえ所で何か起きる方が、もっと嫌だ。俺が見える所にいれば、少なくとも、間に合うかもしれねえ〉
アルは、それ以上は言わなかった。
通りの反対側の角に、見覚えのある車が停まっていた。運転席で、大佐が新聞を広げている。後部座席に、リザの背中が見えた。エドは道を渡って、窓を叩いた。ガラスが半分、下りた。
「決めた。行かねえ」
「そうか」
大佐は新聞を畳んだ。
「聞いた。聞いたから、動く」
「何するんだよ」
「お前と同じだ。あいつの勘定は、私もまだ払い終えていない。邪魔なら言え」
「……邪魔じゃねえ」
後部座席で、リザが咳払いのような息を漏らした。大佐は前を向いたまま続けた。
「総裁には、迎えの車が出るまで様子を見ておけと言われていた。直接な」
「あの人、現場の人間に直接は言わねえんじゃなかったのか」
「長いこと一度もないと、古参が言っていた」
「あんたも、あの文を読んだんだろ」
「読んだ」
「選べ、って。あんたは、選んだのか」
大佐は、少し黙った。
「選んだつもりで、流されたことの方が多い。軍を出た時だけは、自分で選んだ」
エドは、リザの横顔を思い出した。判を押せなくなった日、と彼女は言った。
「報告すんのか」
「今夜は書かない」大佐は言った。「ヒューズが死んだのは、私が報告を上げた後だ。あれが届く先を、私は知らん。確かめるまで、紙には書かん。書くなら、書く前にお前に見せる」
エドは、窓枠から手を離した。大佐は、自分の報告が漏れたのかもしれないと疑っている。それで、エドの動きまで自分の手で守ろうとしている。それ以上は、聞かなかった。
***
昼のうちは、何も起きなかった。
エドはグレイシアに頼まれて、買い物の荷物を持った。エリシアはグレイシアの手を握り、もう片方の手でエドの上着の裾を掴んで、離さなかった。通りの人は、こちらを見て、目を逸らした。パン屋の女将は、釣り銭を渡す時に、エドの手を一瞬だけ握った。リザの車が、二区画後ろを同じ速さでついてきた。エドは気づかないふりをした。
雑貨屋では、主人が自分で袋に詰めた。あの夜、店の壁にもたれて、エドの錬成を見ていた男だった。グレイシアが財布を出すと、主人は首を振った。代わりに、小さな紙袋を一つ、エドの方へ押した。エリシアは母親の後ろに隠れて、目だけを出している。
「嬢ちゃんに」
中に、棒つきの飴が入っていた。
「あの晩のあんたの手は、震えてたな」主人は袋の口を折りながら言った。誰に聞かせるでもない声だった。「それだけ覚えてる」
「……はい」
「また来な。釣りは、いつでも出す」
店を出てから、エドは飴の袋を握ったまま、少し歩いた。見ていたはずの人が、見なかったことにしてくれている。借りが、また一つ増えた。
***
夕方、エドは墓地へ行った。出がけに、グレイシアへ行き先を告げた。
「ヒューズさんのところです。すぐ戻ります」
グレイシアは頷いて、エリシアを抱え上げた。歩いて十五分ほどの道だった。リザは家の前の車に残った。代わりに、通りの向こう側を、大佐が新聞を片手に、同じ速さで歩いていた。墓地の門が見える角で、大佐は足を止めた。エドは、振り返らなかった。
墓の前では、エドは一人だった。
土はまだ新しく、盛り上がっていた。花が何束も重なって、枯れかけたものが下になっている。エドは、ポケットから鉄の鍵を出して、掌に載せた。
「借りたままだ」
墓石は、まだなかった。葬儀社が置いた仮の金属の標識が、土に挿してあるだけだった。
「最後の頁、読んだ。写しだけどな。……逃げるなって、書いてあった。逃げねえよ。あんたに言われたからじゃねえ。俺が、そう決めた」
言ってから、後ろを見た。誰もいなかった。エドは鍵を握り直した。
「でも、また間違えたら、化けて出てくれ」
その時、背後で砂利が鳴った。
灰色の長い外套の青年が、三つ向こうの墓の前にしゃがんでいた。手には、どこかで摘んだらしい白い花が一輪ある。広場で見た顔だった。ヒューズさんの腹に刃を入れた、あの顔だった。
「いい墓だね」青年は花を、近くの土に突き刺した。「人間って、死んでも花をもらえるんだな。いいなあ」
エドの喉が鳴った。足が、勝手に前へ出かけた。
「やる? ここで?」青年は笑って、墓地の門の方へ顎をしゃくった。「ほら、墓参りの人が来た。見られながらやる? 巻き込んだ方が、楽しいだろ」
門の方から、花束を抱えた老夫婦が、ゆっくり歩いてくる。エドは止まった。両手が震えた。
「……何しに来た」
「おっさんに挨拶。あんたの席、あったかそうだったろ。毎晩見てたんだ、窓の外から。……また見に行くよ」
煽られている、と分かった。分かっていて、腹の底が煮えた。エドは拳を握ったまま、一歩も動かず、青年を睨み返した。
「見に来るだけか」
「ん?」
「羨ましいなら、戸を叩けよ。叩けねえんだろ。窓の外から眺めて、嫌がらせするだけで、一生、中には入れねえ」
青年の笑いが、止まった。目の奥だけが、初めて冷えた。
「……つまんないの」
吐き捨てるように言って、青年は立ち上がり、外套の埃を払った。足音がしなかった。エドが瞬きをした間に、墓石の列の向こうへ消えていた。置いていった白い花だけが、土に突き刺さったまま、風に揺れていた。
エドが門まで走ると、角の大佐が新聞を畳んでいた。
「見えた」大佐は短く言った。「追えば、家が空く。追わん」
「あいつ、毎晩、窓の外から」
「……そうか」大佐は一度、目を伏せた。「お前が止まって、よかった」
「なあ、大佐」
「元、だ。もう二年になる」
「うるせえ。他に呼びようがねえんだよ」
大佐は肩をすくめて、それ以上は訂正しなかった。
大佐は、それ以上言わなかった。エドは鍵をポケットに戻して、花の包み紙を一枚、直してから帰った。
***
夜、エリシアが寝てから、エドは客間の灯りを消して、床に座った。
〈出し渋るのは、やめる〉
〈うん〉
〈見られたら、師匠が呼ばれる。分かってる〉
〈それでも?〉
〈それでも。あの文に、逃げた分の勘定は他人に回るって書いてあった。土曜の夜に回したのは、俺だ〉
アルは、すぐには何も言わなかった。
〈師匠には、手紙を書く?〉
〈後で。殴られてからでいい〉
〈殴られる前に書いた方が、軽いと思うけど〉
〈お前、結構いい性格してるよな〉
アルが小さく笑う気配がした。それから、声の調子が変わった。
〈兄さん、一つだけ決めよう〉
〈なんだ〉
〈兄さんが怒ってる時。ニーナちゃんの時みたいに、止まれなくなる時。僕が言う。止まれ、って〉
エドは返事をしなかった。
〈一回しか言わない。理由も言わない。言い返さないで、止まって〉
〈お前の声で言われても、怖くねえぞ〉
〈師匠の声は、出せないよ〉
〈出すな。出されたら、本当に止まる〉
〈それ、いいね〉
〈よくねえよ〉
思わず、声に出していた。壁の向こうでエリシアが寝返りを打つ気配がして、二人とも黙った。
〈……分かった。言い返さねえ〉
〈約束だよ〉
〈おう〉
エドは手帳から白い頁を一枚破って、膝の上に置いた。
師匠へ、と書いた。鉛筆の先が、そこで止まった。
見られました、と書いて、消した。わざと見せます、と書いて、それも消した。結局、頁には師匠へ、の三文字だけが残った。エドはそれを折りたたんで、四つ葉の隣に挟んだ。
〈明日、書こう〉
〈明日な〉
***
金曜の夜は、日付が変わっても眠れなかった。水を飲もうと台所へ降りて、窓の外を見た。
向かいの街灯の下に、黒い服の女が立っていた。長い髪が、夜風に揺れている。
エドの体が、冷えた。窓から離れて、玄関に回った。戸を開けて、ポーチに出る。通りの端に、リザの車が見えた。灯りは消えている。
女は、エドが出てくるのを待っていたように、口元だけで笑った。
「ずいぶん、決めた顔をしているわね」
「何の用だ」
「挨拶よ。ラストと呼んでいいわ。名乗っていなかったから」
「いらねえ」
「ここで始めてもいいのよ。二階で、小さな子が寝ているけれど」
エドは二階の窓を見上げかけて、やめた。見上げれば、そこが弱みだと認めることになる。
「あら」ラストは目を細めた。「弱みを見せまいとするなんて、健気で可愛いじゃない」
「あなたの全力が見たいの。陣も使わずに、どこまで届くのか。この家の中だと、あなたは手加減するでしょう。だから、川沿いの研究所。あそこなら、壊しても怒る人がいないわ。来ないなら、この家の戸を順番に叩くだけ。誰かに知らせても同じよ。その人が駆けつけるより先に、戸は開くわ。……あなたが決めて」
「ふざけんな」
「ふざけていないわ」
ラストは背を向けて、歩き出した。急ぐ様子はなかった。
〈大佐さんに知らせないと〉
〈呼んだら、あいつが家の方に回る〉
〈でも〉
〈三十分で戻る。車の二人は、寝てる〉
〈兄さん〉
エドは上着を掴んで、戸を閉めた。目立つな、と言われて動けなかった夜のことを思い出した。大佐を呼べば、また誰かの許可を待つことになる。今度は、待たない。その理屈が間違っていることには、半分、気づいていた。
女の背中を追って、川沿いの道を歩いた。街灯が途切れて、足音だけになった。
あの家の戸は、叩かせない。足が勝手に速くなる。ヒューズなら、ここで誰を呼んだだろう。考えかけて、やめた。あの人は、もういない。呼ぶ相手を選ぶのは、俺だ。
***
車の中で、ロイは目を開けた。眠っていたわけではなかった。膝の上に、ヒューズの手帳がある。最後の頁だけ、開き癖がついていた。
後部座席から、リザの声がした。
「大佐」
「見ている」
街灯の下を、エドが黒い服の女の後ろについて歩いていくところだった。呼び止める声はなかった。少年の背中は、一度も振り返らなかった。
「あの女は、地下にいた女ですね」
「ああ」
「追います」
「研究所の裏の道は、先週のうちに調べてあります。先回りできます」
「撃てる位置に着くまで、手を出すな」ロイは手帳を閉じた。「ここで止めれば、あいつは次から何も言わなくなる」
「大佐」
「分かっている。決めたら聞かせろと言った。行き先は聞かされていないがな。……私は家を見てから行く。あの女が囮なら、家が先だ」
リザは返事をしなかった。ドアの閉まる音がして、金髪が暗がりに消えた。
ロイは車を降りて、ヒューズ家の周りを一周した。裏の戸、台所の窓、二階の窓。どれも閉まっていた。庭の隅に、小さな三輪車が転がっていた。ロイはそれを起こして、壁際に寄せた。それから、運転席に戻った。
***
研究所の門には、黄色いテープが渡されていた。ラストはそれを跨いで入った。詰所の窓の中で、見張りの男が椅子に座ったまま眠っていた。息はあった。
本館の前の広場が、月に照らされていた。ラストは振り返った。
「さあ。見せて」
「何を」
「全部」
エドは両手を合わせた。手袋越しの右の掌と、素手の左の掌が、乾いた音を立てて重なる。そのまま地面に手をつく。石畳が波になって、ラストの足元へ走った。
ラストは跳ばなかった。指先を軽く振っただけだった。十本の指が伸びて、石の波を切り裂いた。切り口が、紙のように滑らかだった。
〈全部、切られた〉
〈分かってる〉
エドは本館の外壁に走り寄りながら手を合わせ、非常階段の鉄骨に掌を叩きつけた。鉄が曲がって、ラストの左右から挟み込む。鉄骨の根元は、地下の水道管とつながっている。手を離さずに、そこへ力を流した。管が石畳を割って噴き上がり、水の柱が鉄骨と一緒に落ちた。
ラストは指を一本だけ伸ばして、鉄骨の継ぎ目を突いた。継ぎ目だけが外れて、鉄の束は、ばらばらに足元へ落ちた。
「これが全力?」
「まだだ!」
噴き上がった水は、広場の端の鉄格子の口に吸われていった。川へ抜ける、太い排水路だった。格子の目に、削ったような傷が何本も走っている。見ている余裕はなかった。
エドは水の中を走った。走りながら、広場を囲む三方の壁に、順に掌を触れていく。噴き上がった水が霧になって、ラストの輪郭が滲んだ。その一瞬で、触れた壁が内側へ倒れた。逃げ道を塞いで、中を箱にする。陣などない。手が触れた場所から、順番に石が組み変わっていく。
人目を気にしなくていい。誰かに叱られる心配もしなくていい。それだけで、手の動きが違った。広場の端の動物棟の壁、ボイラー室の配管、本館の梁。エドは次々に触れて、形を変えて、ラストに投げ込んだ。
ラストは受けた。切り、避け、一歩ずつ下がった。本気ではない。エドにも分かった。それでも息が上がった。腹の底が空っぽになる感じがした。
エドは水と霧の中で、位置を変え続けた。ラストの指は、壁を切る時と、人を狙う時で速さが違う。人を狙う時だけ、一拍、遅い。殺す気がないからだと気づいた。気づいたところで、有利にはならなかった。殺す気のない相手に、こちらは全力で向かっているのだ。
その一拍を、エドは使った。崩れかけた鉄骨を踏んで駆け上がり、頭上から飛び降りざまに、左脚の義肢を女の肩へ叩き込む。鈍い手応えと一緒に、女の体が半歩、沈んだ。
「あら。足癖が悪いのね」
「うるせえ」
それ以上は言わず、反動で後ろへ跳んだ。
ボイラー室の配管に触れて、蒸気を噴かせた。白い熱気が広場を満たして、ラストの輪郭が消えた。その中へ、鉄骨を三本、横から叩き込む。手応えがあった。次の瞬間、三本とも根元で断たれて落ちてきた。
蒸気が、顔の皮膚に貼りついた。熱いのに、背中は冷たい汗で濡れている。息が上がって、膝が一瞬、笑った。エドは歯を食いしばって、笑う膝を無理に踏んだ。
〈当たってない〉
〈分かってる〉
左の脇腹が、熱くなった。指が一本、霧の中から伸びて、服ごと皮を裂いていた。浅い。わざと浅くしたのだと、分かった。
壁の一つが、内側から切り裂かれた。霧が割れて、ラストが歩いて出てくる。服には一筋の傷もなかった。
「悪くないわ」
「うるせえ」
「怒らないで。褒めているのよ」
褒められて、腹が立った。それが罠だと分かっているのに、腹が立った。
ラストの指が一本だけ、別の速さで動いた。エドの右手を狙っていた。手袋の上の薬指の指輪に当たって、金属が鳴った。細い罅が走って、指輪は二つに割れて地面に落ちた。
エドは、割れた指輪を見た。要らないと知っていたのに、胸の底が冷えた。
〈兄さん、錬成は〉
エドは両手を合わせて、足元の石畳についた。石が、いつもの形に立ち上がった。
「指輪が割れても、まだ使えるのね」
ラストは、そう言って笑った。確かめた笑いだった。
「そういえば、あの子」
ラストが、広場の真ん中で足を止めた。
「ヒューズの娘。エリシアといったかしら。木の箱を抱えて寝ていたわ。いい寝顔だった」
耳の奥で音がして、他の音が聞こえなくなった。顎が、勝手に鳴った。左脚の継ぎ目が、きしんだ。あの家の二階で、同じ箱を抱えて寝ていた小さな頭が、見えた気がした。
エドは地面に両手を叩きつけた。本館の骨組みが軋んで、すべての梁が一斉にラストへ向いた。鉄の槍の列だった。ガラスの割れる音が続いて、動物棟の天井の一部が崩れ落ちた。犬はもういない。それだけが頭の隅にあった。他は、聞こえなかった。
〈兄さん〉
聞こえなかった。
〈止まれ〉
一回だけだった。理由は、なかった。
エドは歯を食いしばった。うるせえ、という言葉が口まで来た。言い返さない、と約束した。指先が痺れた。
梁の列が、ラストの目の前で止まった。鉄が軋んで、一本が落ちた。
本館の柱が一本、根元から抜けかけていた。エドの頭の真上の天井に、ひびが走って粉を落としている。梁を引き抜くたびに、建物を支えているものまで一緒に抜いていた。気づいていなかった。あのまま続けていれば、ラストより先に、自分が潰れていた。
膝が折れた。息ができなかった。大きな錬成のあとの空腹とめまいが、いっぺんに来た。ラストは、止まった梁の間を歩いてきた。
「止まれるのね」
ラストが言った。十本の指が、エドの喉の高さに揃った。動けなかった。
銃声が一発した。
指の一本が弾かれて、軌道が逸れた。エドの耳の横を、風が抜けた。ボイラー室の屋根の上で、金髪がちらりと見えた。リザが伏せていた。
次の瞬間、広場の端で、指を鳴らす乾いた音がした。炎が走った。壁のような炎が、ラストとエドのあいだを舐めた。ラストは身を翻して退いた。服の裾が燃えた。
ラストは指で炎を裂こうとした。切れなかった。炎は切った端から合わさって、また壁になる。三度試して、四度目に退いた。
「遅いわよ、大佐さん」
ラストは裾の火を指で払った。
「灰色の長衣の男は、どこにいる」
大佐の声は低かった。炎が、まだ手の先で揺れている。
「教えたら、私が叱られるわ」
ラストは背を向けた。
「今夜は、ここまでにしましょう。確認は、まだ途中だもの」
笑って、暗がりへ下がった。炎の壁が閉じる前に、その姿は動物棟の屋根の向こうへ消えていた。
***
炎が消えて、広場には熱だけが残った。
大佐が近づいてきた。コートの裾から、焦げた匂いがした。エドは立とうとして、立てなかった。左脚が、自分のものではないように重かった。
「……悪い。一人で行った」
「そうだな」
大佐は、エドの前にしゃがんだ。地面から、割れた指輪を拾い上げた。二つに割れた金属を、掌で転がした。
「ここから先は、聞かせろ」
「……分かった」
大佐は、割れた指輪をエドの手に載せた。それきり、何も言わなかった。陣のない錬成も、触媒が割れても動いた手も、見ていたはずだった。
「聞かねえのか」
「聞いてほしいなら、聞く」
エドは、割れた指輪を握った。会に渡された触媒が要らないことは、隠してきた。知られないために、着けていた。それが他人の前で割れたのは、初めてだった。
「……いい」
「そうか」大佐は立ち上がった。「報告に、指輪を書く欄はない」
エドは顔を上げた。大佐は、もう背を向けていた。
リザが屋根から降りてきた。銃を肩に掛け直して、倒れた梁の列を見上げた。それから、エドの顔を見た。
「撃ったのは、槍があなたの喉に届く前でした」リザは言った。「次は、間に合わないかもしれません」
「……悪かった」
「それだけです」
「大佐。川向こうの家に、灯りが点いています」
「見えている」
対岸の窓が、ひとつ、またひとつと増えていく。遠くで犬が吠えた。誰かが窓から身を乗り出して、こちらを見ていた。小さな光が、一瞬だけ瞬いた。
「じき、人が来る。ガス管が破裂したことにする」大佐は言った。「燃え方が足りんが」
立ち上がる前に、エドは広場の端の鉄格子を見た。川へ抜ける排水路の口だった。格子の目に傷が走り、その下の乾いた泥に、赤黒い粒が散っている。
「大佐、あれ」
エドが指を伸ばすより先に、大佐が格子の前に膝をついた。粒を一つ、ハンカチに包んだ。
エドは、大佐の肩を借りて立った。
〈兄さん〉
〈なんだ〉
〈約束、守れたね。一回だけ〉
〈……一回だけだ〉
〈次は、もっと早く止めるよ〉
〈その前に、俺が止まる〉
川沿いの道を戻る間、大佐は先を歩き、リザは少し後ろからついてきた。二人とも、口を開かなかった。
〈あの女、指輪を狙ったよな〉
〈うん。割れるのを、待ってたみたいだった〉
〈割れて、俺が何もできなくなるか、見たかったってことか〉
〈それなら、あの人は確かめたんだよ。できる、って〉
〈……何のために〉
アルは答えなかった。エドも、それ以上は聞かなかった。聞いても、いい答えが返ってくる気がしなかった。
***
ヒューズ家の窓が、ひとつだけ明るかった。
玄関の戸が開いて、グレイシアがポーチに立っていた。寝間着の上に、上着を羽織っている。手に、小さなランプを持っていた。エドの顔を見て、煤で汚れた上着を見て、リザの肩の銃を見た。
「……ただいま、です」
エドが言うと、グレイシアは頷いた。ポーチの灯りの下で、目の下の隈が濃く見えた。眠っていなかったのだと、分かった。
「入って。湯を沸かします。鍵は、持っていて。次は、戸を叩かなくても入れるように」
台所で、エドは湯気の立つカップを両手で持った。グレイシアは向かいに座った。時計の音だけが、部屋にあった。
「上着」
グレイシアが言った。
「洗って、椅子の背に掛けておきます。明日の朝は、煤の匂いがしないように」
エドはカップを置いた。何か言おうとして、口を開けて、閉じた。
「……お願いします」
二階で、小さな足音がした。階段の途中で、エリシアが木の箱を抱えて座っていた。目は開いていなかった。寝ぼけたまま、蓋を開けた。
高く澄んだ音が、ひとつずつ並んだ。今度は、途中で止まらなかった。
エドは、最後まで聞いた。
***
川向こうの古い建物に、灯りはなかった。
黒い服の女は、窓際の机の前に立っていた。年季の入った固定電話が、一つだけ置かれている。裾の焦げ跡を指でなぞると、呼び出し音が鳴った。三度目で受話器を取った。
『見たか』
「見ました。指輪は割れました。それでも、使えました。陣もありません」
『出力は』
「今夜は、人目も気にしませんでした。あれが上限ではありません」
受話器の向こうで、何かが小さく鳴った。
『殺してはいないな』
「殺すなとは、言われています。そこで何を出すか、見たかったのですけれど」
間があった。
『大佐は』
「書かないでしょうね。あの男は、案外、頑固だもの」
『そうか』と声は言った。『ならば、書く者が他にいる。我々は、あの少年の限界をまだ見ていない。続けろ』
女は、窓の外を見た。川向こうで、灯りがまだ増え続けていた。
『目を離すな。今日は、夕方から雨になる』
電話は、それで切れた。女は受話器を戻して、裾の焦げ跡を、もう一度なぞった。