MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
土曜は、昼近くまで寝ていた。気づいたら、日が高かった。左脚の付け根が熱を持っていて、起き上がるのに三度、体を押し上げた。
食卓の端の席に、新聞が折りたたんで置かれていた。二面が表になっている。ヒューズが座っていた席だった。地方紙の二面の隅に、締め切り間際に差し込まれたような、小さな記事が載っている。川沿いの旧研究所でガス管が破裂、負傷者なし、原因は老朽化。写真はなかった。昨夜の光と音の割に、小さな扱いだった。誰かが書かせたのだと分かった。
台所の戸口で、グレイシアが新聞を見て、ほんの少し手を止めた。
「ごめんね。癖で、まだ置いちゃうの。あの人、いつも二面から読んだから」
「……いえ」
エドは、新聞を元の位置に戻した。折り目も、ヒューズの読んだ向きのままにした。
〈昨日のこと、大佐さんは何も聞かなかったね〉
〈ああ〉
〈聞かれなかったのが、怖い?〉
〈……怖くねえ。気持ち悪いだけだ〉
エリシアは自分の席で、棒つきの飴を舐めていた。口の周りが赤い。エドの顔を見ると、椅子の背を指さした。洗った上着が、掛けてあった。
エドは、台所の方へ頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「お昼は、冷蔵庫に入れてあります」グレイシアは言った。それから、少し間を置いた。「気をつけて」
エドは頷いた。返事の言葉が、見つからなかった。
玄関の呼び鈴が鳴った。
戸の外に、大佐が帽子を手に立っていた。後ろにリザがいる。二人とも軍靴ではなく、作業靴だった。リザの手に、懐中電灯が二本あった。
「奥様。リザを、この家の近くに置かせてください。外にいます」
「ええ。お茶を、持っていきます」グレイシアは頷いた。「手帳は、読んでくださったんですね」
「読みました」
「何が、書いてありましたか」
大佐は帽子の縁を、指で押さえた。
「ほとんど、あなたと娘さんのことでした」
「そうですか」
グレイシアは、ほんの少し笑った。
「あの人らしいです。……エド君を、お願いします」
「無理はさせません」大佐は言った。それからリザに向き直った。「昨夜のこともある。窓の見える位置にいろ」
***
ポーチの段に座って、大佐は黒い表紙の手帳を開いた。擦り切れた角に、ヒューズの親指の跡が、黒く残っていた。エドの膝の上に、見開きが載る。鉛筆の癖のある字が、頁の端まで詰まっていた。
真ん中に、地図があった。川沿いの低い丘の上の研究所から、川までの間に、細い線が一本、赤で引き足されている。線の終わりには、丸が付いて、横に走り書きがあった。
「川下の排水口。格子に擦れた跡、五つ。粒あり」
「あの人、いつ歩いたんだ」
「先週の水曜だ。あいつが死ぬ三日前だ」大佐は線を指でなぞった。「私は日曜の夜に読んだが、意味が分からなかった。昨夜の広場で、同じ傷を見るまでは」
エドは、昨夜の鉄格子を思い出した。格子の目に走っていた、削ったような傷。
「研究所の地下から川まで、古い下水道が一本通っている。夜に人が道を歩けば目立つが、下ならば誰も見ない。タッカーは、そこを使った」
「でも、それは十日も前の話だろ」
「その時の粒は、古かった。昨夜の格子の粒は、新しい。同じ道を、今も使っている」
大佐は手帳を閉じた。
「灰色の長衣の男がいるなら、そこだ」
「行くのか」
「行く。昨夜の女は、挑発しに来た。次は仕掛けてくる。十中八九、誘いだ。私の炎の強さは、向こうも知っているはずだ。それでも下水道に呼ぶなら、炎を封じる仕掛けがある」
「罠なのに、行くのか」
「上に応援を頼めば、また漏れる。動けるのは、私とリザとお前だけだ。……夕方から雨になるそうだ。それまでに片付ける。降られても、手がないわけではない。陣は、血でも書ける。乾いた面があればな。お前は来るな、と言っても聞かんだろう」
「当たり前だ」
「なら、条件がある」大佐は前を向いたまま言った。「私の炎は、空気を食う。閉じた所で撃ち続ければ、敵より先に私が倒れる。だから、風の道はお前が作れ。私は前を向いて焼く。後ろを見る余裕はない」大佐は、少しだけ間を置いた。「背中は預ける。換気口の位置を読むのは、お前の方が上手い」
エドは、思わず顔を上げた。命令でも、頼みでもない言い方だった。使う、と言われた。使われるのは、嫌ではなかった。黙って待たされるよりは、ずっとよかった。
「分かった」
家を出る前に、リザが、エドの横に立った。
「大佐は、頭に血が上ると、周りが見えなくなります」
「知ってる」
「見えなくなったら、引きずってでも戻ってください」リザは真顔だった。「あなたも、同じです」
エドは言い返せなくて、頷いた。
車は、川沿いの道を走った。空は晴れていた。雲ひとつなく、白い光が、水面に砕けていた。
エドは窓の外を見たまま言った。
「指輪のこと」
「割れても使えた。見ていた」
「……最初から、要らなかったんだ。触媒も、陣も。会には、言ってねえ」
大佐は、ハンドルを握ったまま黙っていた。
「理由は」
「言えねえ。まだ」
「そうか」
それきりだった。それ以上は聞かれなかった。エドは、息を一つ吐いた。黙っていて悪かった、とは言えなかった。代わりに言った。
「ヒューズさんの最後の言葉。雨だと言え、って。……あれ、何の合図だったんだ」
「雨の日は、私の炎は使えん。あいつは、その話をするたびに、私の機嫌を悪くして楽しんでいた」大佐は言った。「『雨だと言え』は、『お前は無能だ』という意味だ。最後まで、あの男は」
大佐の口の端が、ほんの少し動いた。それから、また元に戻った。
***
研究所の門に、見張りの背広の男が立っていた。大佐が「財団の調査課だ」と告げると、男は目を逸らして、門のテープを持ち上げた。エドの顔を見なかった。見ないことにしたのだ。
昨夜の広場は、昼の光の下で見ると、思っていたより壊れていた。本館の梁は何本も抜けて、非常階段は半分が地面に落ちている。動物棟の屋根は潰れていた。
エドは、広場の端の鉄格子の前で、両手を合わせた。鉄の格子に触れると、錆びた蝶番が、布のようにほどけた。口の奥に、梯子の段が見えた。
梯子を降りる。六メートルほどで、足が湿った石の床に着いた。途端に、鼻を突く臭いが来た。腐った水と、泥と、鉄の臭いだった。懐中電灯を点けると、光は壁にぶつかる前に闇に呑まれた。
天井は高く、幅は車が並んで通れるほどあった。町の汚水と雨水を、川へ流すための、古い大きな下水道だった。中央を、黒く濁った水が細く流れている。両脇に、人が歩ける幅の石の縁が続いていた。壁は緑の苔にぬめり、足元を何かが走って、闇に消えた。鉄の臭いが混じっていた。地下で嗅いだ、粒の臭いだった。
「昨夜の格子の傷は、この壁の傷と同じ高さだ」
大佐が懐中電灯で壁をなぞった。肩の高さに、爪で引いたような筋が何本も走っている。
「やはり、わざと残したな。ここまで来いという道標だ」
百歩ほど進むと、頭上に灰色の円が見えた。マンホールの蓋の隙間から漏れる、昼の光だった。
「光が見えるうちは、空気がある」
大佐は小声で言った。足音が、壁に吸われて返ってこなかった。
「傷の高さが、肩だ」エドは小声で言った。「人の爪じゃねえ」
「這った跡か、立って擦った跡か。どちらにせよ、数は考えるな」
大佐は、前を向いたまま歩いた。
さらに進むと、床の隅に、白いものが落ちていた。拾い上げると、プラスチックの腕輪だった。印字が掠れている。協力者、三番。エドは、それをポケットに入れた。
その先にも、同じ腕輪が、あちこちに落ちていた。一番。二番。四番。五番。壁際の泥に、半分埋まったものもあった。五つ揃ったところで、大佐は一つずつ黙って見て回り、数を確かめた。エドは残りの四つも拾って、全部ポケットに入れた。
「全員、ここを通ったのか」エドが聞いた。
「全員、ここで終わった」大佐の声は平らだった。「ヒューズの手帳の数字と、合う」
エドは五つの腕輪を、ポケットの中で握り直した。ここに五人分の人生が落ちている。それを、何も言わずに通り過ぎるのは、やはり嫌だった。
〈兄さん、持って帰るの〉
〈持って帰る。誰かが、名前を探すかもしれねえ〉
〈……うん〉
アルの声は、少し遅れて返ってきた。
下水道は、緩やかに曲がっていた。途中で、細い支流の水路が、脇に口を開けていた。壁の傷が、進むほど増えた。
歩きながら、エドは壁の傷を数えた。五つ。十。二十。数えるのをやめた時、懐中電灯の光が、天井の継ぎ目に走った亀裂を照らした。ここだけ、作りが新しい。コンクリートに、粒の色が染み込んでいる。
四百歩を数えたあたりで、道が急に開けた。汚水の溜め桝になっている、大きな円形の部屋だった。中央の窪みに、濁った水が溜まっている。天井が高く、換気口がない。光が届かなかった。
懐中電灯の円の端に、人が倒れていた。
グレイシアだった。
エプロンの肩が裂けて、腕から血が流れていた。スリッパが片方、脱げている。その傍らに、黒い服の女が立っていた。ラストだった。グレイシアの背に、爪の伸びた指を軽く添えている。
グレイシアが、顔を上げた。
「大佐さん……エド君……」
「グレイシアさん!」
エドが走り出した襟首を、大佐が掴んだ。後ろへ放り投げられて、エドは通路の口の石壁に背中をぶつけた。
「何すんだ! 血が——」
「動くな」大佐は、倒れた女から目を離さなかった。「家にはリザがいる。奥様が、一人で、ここへ来ることはない」
エドは、息を呑んだ。足が止まった。
ラストが、小さく溜め息をついた。血まみれの顔のまま、グレイシアが笑った。
笑顔が、崩れた。
髪が黒く伸びて、顔の骨が変わっていく。エプロンの上に、灰色の長衣が現れた。広場で見たあの青年が、立ち上がって、肩をすくめた。
「なんだ、騙されてくれないのか。つまんないの」
「来てくれて嬉しいわ」ラストが微笑んだ。「疑わなかったの?」
「疑っていた」大佐が言った。「換気口のない部屋に、炎の使い手を呼ぶ。分かりやすい罠だ。それでも来た」
青年は、笑った。
「あんた、あのおっさんと同じ顔するね。あっちも、最初は疑ってたよ。でも、俺が『娘を一人にして来た』って言ったら、撃てねえ顔になった。傑作だったよ。最期まで女房の顔に、引き金が引けなくてさ。効いたから、あんたにも効くかと思って、また借りたんだ。昨夜、広場の格子を見ただろ。下から来ると思って、待ってたんだ」
大佐は、何も言わなかった。
「声まで真似たらさ、銃口が下がるんだ。あれは笑えた。……あの家の食卓も、窓の外から見てたんだぜ。何日もな。人間ってのは、飯の前に手を合わせて、娘の名前を呼んで、笑うんだ。たかが肉の袋が、毎晩、幸せそうな顔をしやがる」
エドは、拳を握った。呼吸が、浅くなった。
「チビの電話のこともさ」青年は言った。「あんたが親切に上に教えてくれたから、手間が省けた。粒のことも、いつ誰に出したのかも。誰が聞いてるかなんて、考えもしないんだもんなあ」
「上とは、誰だ」
「さあね。教えたら、つまらないだろ」
「……ああ」
大佐の声は、平らだった。
「私が書いた。粒のことも、日付も、報告書にな。誰が読むのかまでは、確かめなかった」
エドは、大佐の横顔を見た。何の表情も浮かんでいなかった。浮かべないようにしているのだと、分かった。
「大佐さんは、その子と遊んであげて」ラストが言った。「エドワード君は、私と」
ラストが、通路の口へ歩いてきた。エドの隣に立った。エドは拳を握り直して、ラストに向き直った。
「ふざけ——」
ラストの指が、一本、伸びた。エドの頭の上の天井を、通路の口の梁ごと、すっと切り裂いた。
「エドワード!」
大佐の声が、石の向こうに消えた。
天井が落ちた。通路の口が、崩れた石で塞がった。エドとラストは通路側に、大佐と青年は部屋側に分かれた。粉が舞って、懐中電灯が転がる。壁の向こうで、指の鳴る音が一度、二度、続いた。
***
部屋の中には、大佐と青年だけが残った。
大佐は、手袋の指をこすり合わせた。
「挑発なら、乗ってやる」
青年の笑いが、一瞬、止まった。
大佐は、帽子を脱いで床に置いた。きちんと埃を払って、鍔を上に。それから、指を鳴らした。
炎が、青年の足元から立った。
青年が跳んで避ける。大佐は、着地する前の顔を見た。指が鳴った。目の前で炎が弾けた。青年が顔を押さえて転がる。大佐の視線が、そこへ動く。指が鳴る。転がった先で、喉が燃えた。
大佐は、一歩も動いていなかった。視線の向いた先なら、どこにでも、一拍で炎が現れる。見る場所と、焼く場所が同じだった。目、喉、手首。動くための場所から、順に焼いていく。
「そんなもんか、焔の——」
炎が細い線になって、青年の胸を横に薙いだ。胴が裂けて、赤黒い粒が舞った。粒はすぐに寄り集まって、肉に戻る。青年は、裂けたまま笑っていた。
「怒ってるんだろ? 怒ってる顔、見たかったんだ」
二度目の炎が、青年の口を焼いた。喋っている途中だった。三度目が、肩を落とした。四度目は、膝だった。足を焼かれた青年が、這って壁際の水路の口へ向かった。大佐は、その行く手に炎の線を引いた。這う先が、燃えている。青年は引き返した。
大佐は半歩ずつ、前に出ていた。声を荒げることも、怒鳴ることもなかった。顔だけが、普段と違った。眉の間に深い皺が寄って、こめかみに血管が浮いている。見開いた目は、青年から一度も逸れない。口の端は下がったまま、歯を食いしばった顎が、小刻みに動いていた。いつもの薄い笑いは、跡形もなかった。
指が鳴る。焼く。再生が追いつく前に、また鳴る。粒が舞い、肉が戻る。戻った所から、順に焼き直す。炎は一撃ごとに大きくなって、部屋の壁が橙色に染まった。
青年が形を変えた。眼鏡をかけた、短い髪の男になった。顎の先に、薄い髭がある。
「ロイ」
ヒューズの声だった。
「……娘に、会わせてくれ」
大佐の炎が、一拍遅れて、その男を燃やし尽くした。
青年は、また形を変えた。痩せた初老の男。腕に、白い腕輪をつけている。若い女。背の低い男。顔が入れ替わるたびに、声が違った。助けて、と言った。痛い、と言った。大佐は、全部を同じ速さで焼いた。指を鳴らす音が、乾いた間隔で続く。一つ鳴るたびに、焦げた臭いが濃くなって、顔が一つ減った。
「その顔を、お前が使うな」
低い声だった。それだけだった。
大佐は、ヒューズの顔を思い出していた。
私は、ヒューズと同じ隊にいた。撃てない男だった。引き金の前で、いつも一拍遅れた。その一拍で、何人も助けた。私は、その一拍を待てなかった。待たずに撃った側だ。待つ側の男が、死んだ。私が書いた報告書のせいで。
肺の奥が熱い。閉じた部屋の空気は、もう薄かった。視界の端が、白く滲んでいる。それでも指は止まらなかった。止めたら、今度こそ、あの男の顔を一人で見ることになる。
「似てただろ、あの声。さっき、あんたの手も一瞬止まったぜ、大佐」
大佐の指が、一瞬だけ止まった。止まっただけだった。次の炎は、さらに大きかった。
***
エドは、ラストと向き合っていた。
上着の携帯を探った。圏外だった。
石の壁の向こうで、炎の音が続いていた。壁の隙間から、焦げた空気が細く漏れてくる。
「どけ」
「どかないわ」
エドは両手を合わせて、床に叩きつけた。石の槍が、ラストの足元から走った。ラストは跳ばなかった。指を軽く振っただけで、槍の根元が、音もなく切れた。
エドは床を沈めた。ラストの足元に穴が開く。ラストは指を壁に突き立てて、体を宙に止めた。その隙に、エドは壁に掌をつき、石の腕を伸ばして手首を挟んだ。ラストは指を一本曲げて、石の腕の継ぎ目を突く。腕は粉になって落ちた。
「遊んでいるの?」
「時間稼ぎだ」エドは言った。「あんたに構ってる暇は、本当はねえ」
「昨夜より、動きがいいのね。むしろ冷静だからかしら」
「うるせえ!」
〈兄さん、あの部屋の口は、ここだけだよ〉
〈分かってる〉
〈大佐さんの炎は、空気を食うよ〉
エドは、奥歯を噛んだ。壁を壊せば、崩れた天井が部屋ごと落ちる。壊さずに、空気だけを通す方法は。
エドは、ラストに背を向けた。
「逃げるの?」
ラストの指が、背中を狙って伸びた。エドは振り向かず、塞がった通路の瓦礫に掌を叩きつけた。石が筒になって、一方は瓦礫の山を斜めに貫き、向こうの部屋へ抜けた。もう一方は天井へ伸びて、数メートル分の土を突き破った。昼の光が、一本、差し込んだ。
風が、筒を通って、瓦礫の向こうの部屋へ流れ込んだ。
ラストの指は、エドの脇腹を掠めて、石の壁に刺さっていた。エドは、そのまま一歩横へ避けた。血が滲んだ。構わなかった。
もう一本。反対側に掌をつく。二本目の光が、落ちた。
「自分が危ないのに、あの人の空気を通すのね」
ラストが、指を引いた。
ラストは足元を見た。エドが立てた槍の欠片が、石の床に散っている。石の欠片だけだった。赤黒い粒も、灰色の屑も、一つも落ちていない。
「これだけ使って、削れないのね」
「何の話だ」
壁の向こうで、炎の音が膨らんだ。ラストは、そちらへ一度だけ目をやった。
「大佐さんの炎、思っていた以上ね。私とは、相性が悪いわ」ラストは、脇の支流の水路の方へ下がった。「雨が降ったら、お家で待っているわ。あの子は、大佐さんにお任せする」
「待て!」
ラストの背中は、暗がりに消えた。追えなかった。壁の向こうで、炎が続いていた。リザは家にいる。そう言い聞かせて、エドは石に向き直った。
エドは、瓦礫の山に掌をついた。
***
風が通った分、炎は強くなった。
「ふざけるな」
青年の声が、石の壁を割った。
「あんたも、あのおっさんも、娘に名前を呼ばれて、飯を食って! どうして、人間ばっかり! どうして——」
体が、膨れ上がった。
灰色の長衣が裂けた。肉の塊が、部屋を埋めるように盛り上がっていく。表面に、顔が浮かんだ。ひとつ、ふたつ、数え切れないほどの顔が、目を閉じたまま、口だけを開けていた。
大佐の炎が、顔の上を走った。顔は、火に焼かれて、声もなく崩れていった。焼けるたびに、石のような粒が、ぱらぱらと床に落ちた。
石の壁の一角が、ほどけた。エドが、瓦礫を石の階段に組み替えて、中へ飛び込んできた。
「大佐!」
「来るな——」
「風は通した!」
エドは、足元の粒に目を落とした。
〈兄さん、あの粒。ニーナの時と同じだ〉
〈ああ。ニーナの時に見た、あの屑だ。炎に焼かれるたびに、体から落ちてる〉
〈……何でできてるんだろう、あの体〉アルの声が、いつもより低かった。エドは、唇を噛んだ。口の中に鉄の味が広がった。
巨大な体が、削られていく。
炎が通るたびに、塊は小さくなった。大佐の息は荒かった。それでも、風の通る道ができたぶん、炎の勢いは落ち着いて見えた。人の背丈になり、子供の背丈になり、犬ほどの大きさになった。最後に、掌に乗るほどの、黒い生き物が残った。毛のない、蛇とも幼虫ともつかない体に、短い爪のついた手足が四本、生えていた。背中に、赤黒い石が一つ、脈打って埋まっていた。
床の上を、這っていた。
大佐が、その前に立った。片手を上げた。指に、布が掛かっている。
「ラストの野郎、俺を置いていきやがった」
小さな体が、掠れた声で言った。
「やれよ」
青年は、大佐ではなく、エドを見上げた。
「お前は、こっち側だろ。触媒も陣もなしで、あれだけやれる。人間じゃねえ。なのに、飯を食って、笑って、あの家のガキに懐かれてやがる。……何で、お前だけ楽しめるんだよ」
大佐の指が、動こうとした。
エドは、床に落ちた小さな体を見ていた。見ていて、気づいた。
エプロンとスリッパ。傷だらけで倒れる芝居。台所の暮らしを知り尽くした変身だった。窓の外から見ていた、という言葉は本当だ。焼かれるたびに、この男は人の顔ばかり選んだ。怒った顔が見たい、とも言った。人間の何かを、欲しがっているようにしか見えなかった。
こいつは、上を知っている。ここで死なせたら、手がかりが消える。
「お前。上は、誰だ」
「……言うかよ」
言わない。分かっていた。だから、別の所を突いた。
「窓の外から、何日も見てたんだろ。あの食卓を。俺が座ってた席を」
小さな体が、動きを止めた。
「毎晩、幸せそうな顔をしやがる、って言ったな。……憎いんじゃねえ。羨ましかったのか。人間が」
音が消えた。
「……ふざけるな」
声は、震えていた。
「俺が。俺が、人間なんかを——」
小さな体が、短い腕を背中へ回した。赤黒い石に、爪がかかる。もがく手足が、石の縁を探っていた。
「やめ——」
エドが叫びかけた時には、遅かった。
石が、引きちぎられた。
体が、灰色に崩れた。ほどけるように砂になって、床に散った。巨大な体に浮かんでいた顔たちも、一つずつ口を閉じて、いつの間にか消えていた。どこへ行ったのかは、エドにも分からなかった。
静かになった。炎の音だけが、少し残って、やがて消えた。
大佐は、手を上げたままだった。指から、細い煙が上がっていた。手袋の指先が、黒く焦げて、縁がほつれている。
大佐は、背中を壁に預けて、ずるずると座り込んだ。肩が上下していた。エドは、初めてこの人が疲れているのを見た。額から、汗が顎まで伝っていた。
「……終わりだ」
大佐は、手を下ろした。
「家だ」エドは言った。「あの女が——」
「分かっている。急ぐぞ」
大佐は立ち上がって、外套の埃を払った。
「あんた、俺が入ってきても、振り向かなかったな」
「気づいていた」
「嘘だ。一度も、こっち向かなかった」
「向く余裕がなかった」大佐は言った。「言い訳だがな」
エドは、足元の灰を見た。
「昨日の俺も、そうだった」
「そうか」
「ああいう背中なんだな。外から見ると」
「いい背中ではない」大佐は言った。
それきり、二人とも口を閉じた。
先に口を開いたのは、エドだった。
「ヒューズさんが死んだの、あんただけのせいじゃねえ。俺も、あの夜、電話した」
「お前の電話は、私に宛てたものだ。漏れたのは、私が上に出した先だ」大佐は言った。「その先は、私の仕事だ」
「……そうかよ」
それ以上は、エドも言わなかった。
天井の穴から、風が入っていた。大佐は、その方を見上げた。
「助かった」
「……別に」
エドは、ポケットの中で、五つの腕輪を握った。大佐は床の帽子を拾って、埃を払った。
灰の中に、赤黒い粒が一つだけ残っていた。エドは屈んで、それを拾おうとした。大佐が、その手首を掴んだ。
「触るな」
「でも」
「粒は、私が持つ」大佐はハンカチで包んで、胸の内ポケットに入れた。「お前には、もう持たせん」
手首を放す時、大佐の手が、わずかに震えていた。エドは見なかったことにした。
***
二人は、川へ出る口まで走った。
足を出すたびに、湿った泥が音を立てた。大佐は何も言わなかった。エドも、言わなかった。下水道の終わりに、鉄の格子が、傷だらけで横倒しになっていた。
外に出ると、空が暗かった。
昼は、あれほど晴れていた。西から黒い雲が、川の上にせり出している。風が、濡れた土の匂いを運んできた。
洗ったばかりの上着が、もう汗と埃で、背中に貼りついていた。
遠く、町の方角に、細い煙が何本も上がっていた。マンホールの隙間から、地下の煙が漏れているのだった。通りの人は、もう気づいているだろう。ガス管の次は、何だと言われるのか。エドには見当がつかなかった。
エドの上着の中で、携帯が震えた。出ると、リザの声だった。大佐の携帯は、地下で電波を失ったまま、まだ戻っていなかった。
『大佐は』
「隣にいる」
『黒い服の女が、門の前に来ました。入ってはきません。ただ立って、空を見ています。奥様とお嬢さんは居間です。私は植え込みから見ています』
エドは、携帯を大佐に渡した。大佐は短く聞いて、短く答えた。
「手を出すな。あの女の指は、窓まで届く。こちらが先に動けば、家が先にやられる。待て。十五分で戻る」
電話の向こうで、リザが何か言った。大佐は通話を切った。
通話を切って、大佐は空を見た。頬に、雨粒が一つ落ちた。手袋の布にも、黒い染みが一つできた。大佐は、その手をしばらく見ていた。まだ、一粒だった。
「走るぞ」
研究所の門まで、土手を走った。車は、門の前に残してあった。大佐が先に立って、運転席に飛び込んだ。エドは後ろで、息を切らしながら、遅れまいとした。背後で、地面を打つ雨音が、徐々に大きくなっていった。
***
ヒューズ家の門の前に、黒い服の女が立っていた。
傘を差していた。まだ、降っていなかった。通りの窓が、いくつか細く開いていた。誰も出てこない。女は空を見上げて、小さく笑った。
門の内側の植え込みから、銃口がこちらを向いていた。女は、その方へ微笑んでみせた。
女は傘の柄を、一度だけ握り直した。
雨が、降り始めた。