MCU:Fullmetal Alchemist   作:ゴミ収集者

12 / 12
遺したもの

土曜の夕方、雨はすぐに本降りになった。

 

リザ・ホークアイは、植え込みの根元に伏せたまま、ライフルの照準を動かさなかった。肩から背中にかけて、外套が水を吸って重くなっていく。泥が肘から染みて、袖の内側を冷やした。それでも銃口は、門の前の女の胸から離さなかった。

 

女は傘を差して、立っている。門の内側へは、一歩も入ってこない。入ってこないことが、かえって気味が悪かった。

 

最初の五分は、何も起きなかった。十分が過ぎた頃、女が顔を上げた。

 

「居間の窓が、明るいわね」

 

リザは答えなかった。居間のカーテンの隙間から、灯りが漏れている。グレイシアは台所で夕食の後片づけをしていて、エリシアは居間の床で絵本を広げている。二人とも、同じ一階にいた。外に何が立っているかを、二人とも知らない。知らせないために、リザは外に出ていた。

 

「小さい影が動いているわ。いい子ね。窓際に寄って、雨を見ているのかしら」

 

引き金にかけた指が、一度だけ、勝手に動いた。リザはその指を、意識して緩めた。

 

雨粒が、スコープの縁を伝って落ちた。目の下に溜まった水を、瞬きで逃がす。膝の下の土は冷たく、湿った草の匂いが鼻に上がってきた。二階の窓の灯りが、雨の幕の向こうで橙色に滲んでいる。あの灯りを、あの子の窓を、割らせるわけにはいかなかった。誰にも、何にも。

 

「撃たないのね」

 

女は植え込みに向かって言った。

 

「撃てば、私の指は窓まで届くわ。あなたの弾より、少しだけ速い」

 

そのとおりだった。距離は十五メートルもない。リザは先週のうちから、この門の前に立った時の弾道と、庭から二階の窓までの距離を、何度も頭の中で測っていた。測るたびに、結果は同じだった。先に撃てば、先に窓が割れる。

 

十五分で戻る、と大佐は言った。待つことは、得意だった。狙撃手の仕事の九割は、待つことだ。待つ間に何を考えるかが、問題だった。

 

女は、時々、窓を見上げた。見上げるたびに、リザの指は引き金の上で硬くなる。女はそれを、分かってやっている。分かっていて、楽しんでいる。会話が途切れるたびに、雨の音が大きくなった。屋根を叩く音。植え込みの葉を叩く音。傘の布を叩く音。その全部を聞き分けながら、リザは自分の呼吸を数えた。吸って四つ。止めて四つ。吐いて四つ。

 

雨だ、とリザは思った。

 

大佐が最初に炎を見せた日のことを、リザは覚えている。国境の近くの、乾いた丘だった。大佐は笑っていた。誰かを助けられると、まだ信じていた頃の笑いだった。今夜、大佐は雨の中を走って帰ってくる。手袋は、役に立たない。

 

雨だと言え、とヒューズさんは言ったそうだ。それが、無能という意味でもあるのなら、あの人は、最期まで嫌な男だった。同じことを、リザは大佐から聞いた。

 

大佐は、それを話した夜、一度も顔を上げなかった。リザも、何も言わなかった。言えば、大佐が壊れてしまう気がした。壊れた大佐を、見たくなかった。見たくないと思う自分が、副官失格なのだとも思った。それでも、あの背中を追うことだけは、やめられなかった。

 

***

 

研究所の門から町まで、車で十分かかった。

 

大佐は運転席で、一度も口をきかなかった。濡れた手袋が、ハンドルの上で重く垂れている。ワイパーが雨を払うたびに、道の先に町の灯りが滲んで見えた。タイヤが水を跳ね上げる音が、車の底で絶えず鳴っていた。窓の内側が白く曇って、エドは袖でそれを拭った。拭った先に、暗い並木が流れていった。エドは助手席で、脇腹を押さえていた。昨夜の浅い傷が、下水道の湿気でまた開いていた。

 

「痛むか」

 

「平気だ」

 

「平気な顔をしているだけだ」大佐は前を向いたまま言った。「リザが縫うだろう。今夜のうちにな」

 

「今夜があれば、な」

 

大佐が、横目でエドを見た。エドは言ってから、言わなければよかったと思った。

 

「あの女は、雨を待っていた」大佐は言った。「雨の中の私が、ただの人間だと知っている。だから、お前に全部出させようとする」

 

「俺が全部出せば、勝てるのか」

 

「勝てるかどうかは、知らん。ただ、お前一人に全部は出させん。手袋は道具に過ぎん。私が焔の錬金術師なのは、手袋のおかげではない」

 

車が角を曲がった。ヒューズ家の屋根が、雨の向こうに見えた。窓の灯りが、二つ点いている。

 

エドは、返事ができなかった。守られる側に回るのは、居心地が悪かった。昨夜、手を止められたのも、アルの声があったからだ。自分の力ではない。

 

〈兄さん〉

 

〈聞こえてる〉

 

〈僕が言うまで、止まれなかったよ〉

 

〈分かってるって。……今夜も、頼む〉

 

〈うん。でもね、兄さん。今夜は、僕が言う前に、止まってみせて〉

 

エドは窓の外に目を逸らして、答えなかった。答えない代わりに、拳を一度だけ握り直した。義肢の指が、きし、と鳴った。

 

***

 

大佐は、上着の内側に左手を当てた。布の下に、小さな固い重みがある。

 

葬儀のあと、グレイシアが紙の箱を持って来た。

 

「主人の机の奥にあったの。あなた宛てだと思って」

 

箱には、銀色のライターが入っていた。古い型の、重い一つだった。蓋を開けると、内側に細い字が彫ってある。

 

〈ロイへ。雨の日は宴会芸ができんと、三年前にぼやいてたよな。ハボックと技師を探した。誕生日に間に合わなかったら、すまん〉

 

大佐は、しばらく何も言わなかった。やすりの輪を、一度だけ弾いた。部屋の中なのに、火花が鋭く散った。

 

「あの男は、いつも人の知らんところで手を回す」

 

「ええ。そういう人でした」グレイシアは笑おうとして、笑えなかった。

 

大佐はライターを、使わずに上着へ仕舞った。使う場面は、来ないと思っていた。

 

***

 

道の奥から、ブレーキの音がした。濡れた路面を斜めに滑って、車が止まる。ドアが開いて、大佐とエドが飛び出してきた。二人とも、頭から濡れていた。大佐の手袋が雨を吸って、指先まで重く垂れているのを、リザは一目で見た。エドの脇腹の服が、赤く滲んでいた。

 

「来たわね。雨の中を、ご苦労さま」

 

女は傘を畳んで、門柱に立てかけた。雨が、黒い髪に落ちた。

 

「家から離れろ」大佐が言った。

 

「そのつもりよ。この道は狭いもの」女は大通りの方を指した。「エドワード君は、この家の中では手を縮めるでしょう。あそこなら、思い切り出せる。通りには、人も住んでいるけれど」

 

「俺は、あんたの言うことなんか」

 

「窓が割れてもいいなら、ここでも構わないわ。雨は、朝まで降り続くそうよ」

 

エドは歯を噛んだ。大佐は、植え込みの方を見ずに言った。

 

「リザ。家を頼む」

 

「はい」

 

女は背を向けて、雨の中を歩き出した。傘は置いたままだった。大佐が続き、エドが続いた。三人の背中が角を曲がるのを、リザは銃口を下げずに待った。

 

それから玄関の戸を外から叩いて、グレイシアに、窓の鍵をかけて二階へ上がるよう言った。隣家の夫人にも、電話で声をかけた。女が家を離れた以上、家の守りは鍵と隣人で足りる。足りない分は、自分の弾で埋める。戸が細く開いて、グレイシアが顔を出した。エリシアの手を引いている。

 

「エド君は」

 

「大佐と一緒です。無事です」

 

「お茶を、淹れたんです。持っていけなくなってしまいましたね」グレイシアは、無理に笑った。手が、少し震えていた。「あの人の時も、こうでした。出ていく背中を、見送るだけで」

 

リザは、返す言葉を探した。見つからなかった。代わりに、外套の内側から小さな懐中電灯を出して、グレイシアに握らせた。

 

「停電になったら、これを。……二階から、出ないでください。私が戻るまで、戸は開けないで」

 

「ええ」グレイシアは頷いた。「あの子を、お願いします」

 

リザは頷いて、銃を担ぎ直し、三人の後を追った。

 

***

 

大通りまでの道は、エドが毎朝ヒューズと歩いた道だった。

 

右手に、パン屋のシャッターが半分下りている。左手に、雑貨屋の軒先。去年のクリスマスの飾りが、まだ一つだけ残っていた。ヒューズはいつも、その飾りを指さして、あれはうちの嫁さんが見つけたやつでな、と言った。毎朝、同じことを言った。エドは毎朝、へえ、と答えた。

 

今は、その飾りが、雨の中で小さく揺れていた。

 

歩きながら、大佐がエドにだけ聞こえる声で言った。

 

「私の炎は、今夜は役に立たん。お前が押さえろ」

 

「分かってる。……あんた、無理して息を切らすなよ」

 

「努力はする」

 

努力、という言葉を、エドは初めて聞いた気がした。この人は、できると言うか、できんと言うかのどちらかだった。努力はする、は、どちらでもない。

 

脇腹の傷が、一歩ごとに疼いた。昨夜の浅い傷は、下水道で擦れて、また開いていた。左脚の付け根の接続部も、雨の湿気で重い。自分の体の調子を、エドは正確に知っていた。万全ではない。万全だったことは、この町に来てから、一度もない。

 

大通りは、広かった。両側に店が並んで、シャッターは半分ほど下りている。街灯が、雨の筋を白く浮かせていた。まだ夕方だというのに、空は夜のように暗かった。

 

女は通りの真ん中で足を止め、振り返った。

 

「大佐さん。指を鳴らしてみて」

 

大佐は鳴らした。乾いた音が、雨に吸われただけだった。手袋の布は水を吸って、重く垂れている。火花は、ひとつも出なかった。

 

もう一度鳴らした。やはり、出なかった。

 

「保安官さんは、親切な人ね」

 

女は言った。

 

「最期に、雨だと言え、って。あなたに教えていたのでしょう。私は屋根の上で、聞いていたわ」

 

大佐の顔が、動かなかった。動かないように、していた。

 

雨音の向こうで、大佐は十年以上前の駅のホームを思い出していた。ヒューズは、あの日も傘を二本持っていた。お前は雨に濡れると使えなくなるんだから、持ち歩けよ、と笑って、一本を押しつけてきた。大佐は、いらん、と言って返した。あの傘を、受け取っておけばよかった。くだらない後悔だと分かっていても、頭から離れなかった。雨だと言え。あれは、傘を持てという意味だったのかもしれない。無能だ、という意味と、同じ重さで。

 

「……屋根の上」エドの声が、掠れた。「あの夜、見てたのか」

 

「観察が仕事だもの」

 

「助けられただろ」

 

「助ける理由がないわ」

 

エドは、自分の中で何かが縮むのを感じた。怒りが来る前の、いつもの感触だった。熱いものが来る前に、先に体の芯が冷える。ニーナの時もそうだった。冷えて、それから煮える。

 

〈兄さん〉

 

〈……分かってる。まだ、だ〉

 

〈兄さん、あの人、ずっと笑ってる〉

 

〈知ってる。楽しんでるんだ〉

 

〈楽しんでる人は、手を抜くよね〉

 

〈抜かせとけ。その間に、読む〉

 

雨が、頬を打っていた。冷たいはずなのに、顔の内側だけが熱い。エドは手の甲で水を拭った。濡れた前髪が目にかかって、視界の端が揺れる。女の傘のない黒髪から、雫が肩へ伝っていくのが見えた。

 

エドは両手を合わせた。右の手袋と、左の素手が、濡れた音で重なる。地面に手をつくと、舗装が割れて、石の槍が何本も立ち上がった。女は歩きながら、指で払った。槍は根元から滑るように切れて、雨の中に倒れた。

 

「悪くないわ。昨夜より、手が速い」

 

エドは止まらなかった。街灯の支柱に触れて曲げ、シャッターを引き剥がして壁にした。水道管を割って、水の柱を立てた。触れた場所が、順に形を変えていく。女は受け流しながら、通りの中央へ下がった。まだ本気ではない。顔を見れば分かった。

 

通りの窓が、いくつも開いた。誰かが顔を出している。誰かが、手に小さな光るものを持っている。エドはそれを一度だけ見て、見なかったことにした。目立つな、と言われて動けなかったあの夜から、まだ十日も経っていない。以前の自分なら、手が縮んだはずだった。今は縮まなかった。隠しても、守れなかった。隠す意味は、もう残っていなかった。

 

その間にも、エドは女の指を見ていた。壁は根元から、槍は付け根から、水の柱は一番太い所から。見えた物を、見えた順に切っている。

 

〈兄さん、順番が決まってる〉

 

〈ああ。読めた〉

 

エドは壁を二枚、わざと立てた。女の指が、二枚を同じ速さで切り裂く。その切り口の向こうで、足元の舗装が口を開けた。落とし穴だった。女の片足が沈む。

 

「あら」

 

沈んだ足首に、石が絡みついて固まった。エドは雨の中を走って、右の拳を女の腹に叩き込んだ。義肢の拳だった。手応えは、人の体ではなかった。重く、硬い。拳が、痺れた。

 

女は笑った。

 

「やっと当てたわね」

 

指が、横から走った。エドは身を倒した。それでも、左の膝から下が、すっと軽くなった。切り離された義肢の脚が、雨の路面を転がっていく。からん、からん、と鉄の音が、通りの端まで響いた。

 

〈脚!〉

 

エドは膝をついた。接続部の神経が、遅れて悲鳴を上げた。喉の奥から、声にならない息が漏れた。奥歯を噛んで、舗装に掌を叩きつける。アスファルトが盛り上がって、膝から先を包み、石の脚に固まった。神経には繋がらない。腰を振って、ぶら下げるように動かすしかない。立てればいい。

 

「器用ね」女は、足首の石を指で割った。「でも、遅くなった」

 

そう言いながら、女は別の方向を見た。通りの向かいの店の、半分下りたシャッターの隙間に、男と小さな子供が立っていた。逃げもせず、窓から外を見ている。子供は男の脚にしがみついて、目だけを出していた。エリシアと同じ仕草だった。

 

「見ている人がいるわ。あなたなら、守るでしょう」

 

女の指が、そちらへ伸びた。

 

エドは動いた。石の脚が、地面を擦って遅れた。間に合わない。壁を立てようと手を伸ばした。

 

大佐が先に、窓と指のあいだに飛び込んでいた。走れる足ではなかった。それでも、体ごと割り込んだ。

 

大佐の靴が水を蹴って、白い飛沫が上がった。エドの目には、その飛沫の一粒ずつが見えた。間に合わない、と思った。

 

濡れた布を裂く音がした。五本の指が、大佐の左肩と脇腹を貫いて、背中へ抜けた。鉄の匂いが、雨の匂いに混じった。大佐は声を出さなかった。膝が折れて、濡れた舗装に手をついた。血が雨に混ざって、薄く広がった。シャッターの隙間の男が、子供の目を手で覆った。

 

「また倒れたわ」

 

女は、指を引き抜いた。

 

「あなたの周りの人は、よく倒れるわね。保安官さんも、そこの大佐さんも」

 

耳の奥で、音が消えた。

 

「てめえ……ッ」

 

一言だけ、喉から漏れた。それで、全部だった。エドの顔から、表情が落ちた。眉が寄るのでも、歯を剥くのでもない。目だけが、瞳の奥だけが、白く冷えて、女を見ていた。それが、この少年の怒りの、一番深い形だった。

 

左の石の脚が、きしんだ。右の肩が、熱を持った。あの夜と同じ形だった。雨の中で、大佐が、ヒューズさんと同じように倒れている。守られた。また、守られた。自分は、また間に合わなかった。

 

視界の端が白くなって、世界から色が抜けた。雨粒の一つ一つが、止まって見えた。ヒューズさんの声が、聞こえた。うちの嫁さんが見つけたやつでな。あれは、毎朝のことだった。毎朝のことが、もう来ない。

 

そう思った時には、もう両手が地面に叩きつけられていた。

 

通りの舗装が、めくれた。

 

歩道も車道も、一枚の板のようにせり上がって、波になった。路肩の車が持ち上がる。街灯が根元から曲がる。店の看板が、軋んで外れた。波は女に向かっているはずだった。向かっているのかどうか、エドには分からなくなっていた。

 

〈止まれ〉

 

一回だけだった。

 

掌が、地面に張りついて離れなかった。止まりたくなかった。止まれば、あの女は笑うのだ。歯が、かちかちと鳴った。それでも、アルの声が、金曜の約束が、背中を引いた。止まるのは、負けるのとは違う。そう自分に言い聞かせるのに、一拍かかった。

 

エドは、手を止めた。言い返す言葉が喉まで来て、消えた。金曜の夜、研究所の広場で聞いたのと同じ声だった。あの時は、手を止めるまでに一拍かかった。今度は、すぐだった。

 

せり上がった舗装が、空中でぎしりと止まった。持ち上がった車が、斜めに傾いたまま浮いている。波の先端は、さっきの店のシャッターの手前、一メートルで止まっていた。あのまま続けていれば、あの親子ごと押し潰していた。

 

エドは、息を吐いた。手が震えていた。ゆっくりと、波を下ろした。車が舗装の上に戻って、傾いた街灯が、地面に寝た。

 

女は、少年の足元を見ていた。散った石の欠片に、一筋の灰も、一粒の赤も混じっていない。自分の指は、切るたびに粒を落としている。羨ましい、とは思わなかった。ただ、知りたかった。この子の手は、何で動いているのか。止まれる手は、どこまで動くのか。

 

「壊れるまで使うかと思ったのに、止まるのね」

 

女は、表情を変えずにそう言った。

 

「あとは、おまけ。大佐さんには、ここで終わってもらうわ」

 

女の指が、大佐の頭の高さに揃った。

 

銃声がした。

 

指の一本が弾かれて、軌道が逸れた。

 

通りの角に、リザが立っていた。家を隣人に預けて、後を追ってきたのだった。ライフルを肩に、傘も差さずにいる。女の指は十本ある。一発で全部は止められない。リザは分かっていて、一本だけを撃った。大佐の頭に向かう、一本だけを。残りの九本が自分に向かないことも、分かっていた。女の関心は、少年に向いている。

 

女は一瞬だけ、そちらを見た。

 

エドは、その一瞬に走った。石の脚が遅い。それでも走った。

 

大佐の横に滑り込んで、膝をついた。血は止まっていない。雨で薄まって、余計に多く見えた。傷口に当てた掌が、熱かった。

 

「大佐」

 

「声が、大きい」大佐は薄く目を開けた。「雨だな」

 

大佐の息は、浅く速かった。胸の下で、何かが泡立つ音がする。傷は、肺の端をかすめているのかもしれない。エドは、それを知っていて、言わなかった。言えば、手が震える。

 

「見りゃ分かるよ。なんで飛び込んだ」

 

「お前の足が、遅かった。それだけだ」大佐は、口の端で笑った。血の気のない唇だった。「……手袋は、使えん。だが、手と血は残っている。陣は、血で書ける」

 

大佐は右手の指を、肩の傷に当てた。指先に、血が付いた。

 

 

「手の甲に、陣を書く。雨の入らん場所が要る」大佐は声を落とした。「私を、隔離しろ。あの女に、私は終わったと思わせろ」

 

エドは、大佐の血だらけの手と、雨を弾いている女の指を、交互に見た。

 

「死んだ顔、してるぜ」

 

「なら、ちょうどいい」

 

大佐は上着の内側から、古い銀色のライターを出した。親指で、やすりの輪を弾く。雨の中を走ってきたのに、火花は鋭く散った。

 

「濡れてるのに」

 

「雨でも点く」大佐は、ライターを握り込んだ。「あいつの置き土産だ」

 

大佐は、外套の内側から小さなナイフを出した。刃先を、左の手の甲に当てる。迷いはなかった。血が一筋、滲んだ。

 

「あら」女が、首を傾げた。「大佐さんを、しまってしまうの」

 

「これ以上、あんたに触らせねえ」

 

エドは両手を合わせた。舗装から石が立ち上がって、大佐の体を包んだ。人が一人、背を預けて座れる幅の、円い殻だった。上には庇が張り出し、内側は滑らかに磨かれて、雨は一滴も入らない。目の高さに、針の目ほどの隙間を一つだけ残して、あとは閉じた。外からは、瀕死の者を戦場から隔離した、石の避難所にしか見えなかった。

 

「戦線から外したのね」女は笑った。「賢明だわ。放っておいても、あの人はもう死ぬもの」

 

エドは、殻に背を向けて立った。その背の向こうで、かり、と刃が皮を引く音がした。雨の音に紛れて、女には聞こえない。

 

通りの角で、リザが銃を構え直した。

 

「二人で、私を止められると思うの」

 

女は、エドとリザを、順に見た。殻はもう、視界の端にも入っていなかった。守る側は、あの人を捨てた。女はそう読んだ。エドは、それでよかった。わざと殻から距離を取り、女の正面に回り込んで、視線を引いた。殻の隙間が、女の脇腹の高さに向くように。

 

リザが、撃った。弾が女の膝を砕いた。女が、リザの方へ顔を向けた。エドは、地面に手を叩きつけた。石の壁が、女の前に立ち上がった。女の指が壁を切り裂く。その視線は、壁の向こうのエドの手と、リザの銃口のあいだを、せわしなく行き来していた。

 

殻の中から、かち、と乾いた音がした。

 

大佐は、血の陣を描いた左手の甲を、隙間に添えていた。右の親指が、ライターの輪を弾く。火花が、手の甲に降りかかった。

 

乾いた石の中で、火が咲いた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

仮面ライダーゼロワン ― Avengers: Age of Ultron ―(作者:吉野家)(原作:MCU アベンジャーズ)

飛電インテリジェンス社長・飛電或人と秘書型ヒューマギア・イズは、謎の空間歪曲に巻き込まれ、異なる世界へと転移してしまう。▼そこは、巨大企業スターク・インダストリーズが存在し、“アベンジャーズ”と呼ばれるヒーローたちが世界を守るニューヨーク。▼衛星ゼアとの通信は完全に途絶え、飛電インテリジェンスも存在しない。▼未知の世界で或人たちを待っていたのは、人類を守るた…


総合評価:320/評価:9/連載:3話/更新日時:2026年06月25日(木) 12:53 小説情報

星の白金(ひかり)で断つ運命(作者:クルセイダース)(原作:僕のヒーローアカデミア)

ある日、スタープラチナになった男が超常が当たり前になった世界でオラオラする話。


総合評価:6753/評価:8.38/連載:10話/更新日時:2026年06月05日(金) 11:00 小説情報

日本からアベンジャーズ入りしました。尊敬する人?五代さんと一条さんです(作者:ken4005)(原作:MARVEL)

▼クウガとアベンジャーズのクロスです。▼マーベルは完全ににわかです。▼原作を Avengers から MARVEL に変えました。▼短編から連載に変えました。▼謝罪0906▼作品を読み直した所、時系列に誤りがありました。▼黒雄が2010年4月から2014年3月までの四年間高校に在籍していたことになっています。そこで、明記はしませんが、未確認生命体関係で高校を…


総合評価:10454/評価:8.2/連載:107話/更新日時:2026年10月04日(日) 00:17 小説情報

トニー・スターク先生(作者:DRYSUPER)(原作:ブルーアーカイブ)

指を鳴らしたトニー・スターク。▼次に目を覚ました場所は、銃を携えた少女たちが暮らす学園都市「キヴォトス」だった。▼※映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』終盤から分岐する、『ブルーアーカイブ』とのクロスオーバー二次創作です。両作品のネタバレ、独自設定・解釈を含みます。


総合評価:5332/評価:8.9/連載:19話/更新日時:2026年10月11日(日) 08:39 小説情報

伏黒宿儺に「そろそろ狩るか…♠︎」する転生者(作者:羂索は踊り狂って死ぬ♠︎)(原作:呪術廻戦)

▼ 呪術廻戦を知らない転生者が伏黒宿儺相手に「そろそろ狩るか…♠︎」するだけの話。▼タグは随時追加


総合評価:5983/評価:7.44/連載:7話/更新日時:2026年08月06日(木) 18:19 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>