MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
土曜の夕方、雨はすぐに本降りになった。
リザ・ホークアイは、植え込みの根元に伏せたまま、ライフルの照準を動かさなかった。肩から背中にかけて、外套が水を吸って重くなっていく。泥が肘から染みて、袖の内側を冷やした。それでも銃口は、門の前の女の胸から離さなかった。
女は傘を差して、立っている。門の内側へは、一歩も入ってこない。入ってこないことが、かえって気味が悪かった。
最初の五分は、何も起きなかった。十分が過ぎた頃、女が顔を上げた。
「居間の窓が、明るいわね」
リザは答えなかった。居間のカーテンの隙間から、灯りが漏れている。グレイシアは台所で夕食の後片づけをしていて、エリシアは居間の床で絵本を広げている。二人とも、同じ一階にいた。外に何が立っているかを、二人とも知らない。知らせないために、リザは外に出ていた。
「小さい影が動いているわ。いい子ね。窓際に寄って、雨を見ているのかしら」
引き金にかけた指が、一度だけ、勝手に動いた。リザはその指を、意識して緩めた。
雨粒が、スコープの縁を伝って落ちた。目の下に溜まった水を、瞬きで逃がす。膝の下の土は冷たく、湿った草の匂いが鼻に上がってきた。二階の窓の灯りが、雨の幕の向こうで橙色に滲んでいる。あの灯りを、あの子の窓を、割らせるわけにはいかなかった。誰にも、何にも。
「撃たないのね」
女は植え込みに向かって言った。
「撃てば、私の指は窓まで届くわ。あなたの弾より、少しだけ速い」
そのとおりだった。距離は十五メートルもない。リザは先週のうちから、この門の前に立った時の弾道と、庭から二階の窓までの距離を、何度も頭の中で測っていた。測るたびに、結果は同じだった。先に撃てば、先に窓が割れる。
十五分で戻る、と大佐は言った。待つことは、得意だった。狙撃手の仕事の九割は、待つことだ。待つ間に何を考えるかが、問題だった。
女は、時々、窓を見上げた。見上げるたびに、リザの指は引き金の上で硬くなる。女はそれを、分かってやっている。分かっていて、楽しんでいる。会話が途切れるたびに、雨の音が大きくなった。屋根を叩く音。植え込みの葉を叩く音。傘の布を叩く音。その全部を聞き分けながら、リザは自分の呼吸を数えた。吸って四つ。止めて四つ。吐いて四つ。
雨だ、とリザは思った。
大佐が最初に炎を見せた日のことを、リザは覚えている。国境の近くの、乾いた丘だった。大佐は笑っていた。誰かを助けられると、まだ信じていた頃の笑いだった。今夜、大佐は雨の中を走って帰ってくる。手袋は、役に立たない。
雨だと言え、とヒューズさんは言ったそうだ。それが、無能という意味でもあるのなら、あの人は、最期まで嫌な男だった。同じことを、リザは大佐から聞いた。
大佐は、それを話した夜、一度も顔を上げなかった。リザも、何も言わなかった。言えば、大佐が壊れてしまう気がした。壊れた大佐を、見たくなかった。見たくないと思う自分が、副官失格なのだとも思った。それでも、あの背中を追うことだけは、やめられなかった。
***
研究所の門から町まで、車で十分かかった。
大佐は運転席で、一度も口をきかなかった。濡れた手袋が、ハンドルの上で重く垂れている。ワイパーが雨を払うたびに、道の先に町の灯りが滲んで見えた。タイヤが水を跳ね上げる音が、車の底で絶えず鳴っていた。窓の内側が白く曇って、エドは袖でそれを拭った。拭った先に、暗い並木が流れていった。エドは助手席で、脇腹を押さえていた。昨夜の浅い傷が、下水道の湿気でまた開いていた。
「痛むか」
「平気だ」
「平気な顔をしているだけだ」大佐は前を向いたまま言った。「リザが縫うだろう。今夜のうちにな」
「今夜があれば、な」
大佐が、横目でエドを見た。エドは言ってから、言わなければよかったと思った。
「あの女は、雨を待っていた」大佐は言った。「雨の中の私が、ただの人間だと知っている。だから、お前に全部出させようとする」
「俺が全部出せば、勝てるのか」
「勝てるかどうかは、知らん。ただ、お前一人に全部は出させん。手袋は道具に過ぎん。私が焔の錬金術師なのは、手袋のおかげではない」
車が角を曲がった。ヒューズ家の屋根が、雨の向こうに見えた。窓の灯りが、二つ点いている。
エドは、返事ができなかった。守られる側に回るのは、居心地が悪かった。昨夜、手を止められたのも、アルの声があったからだ。自分の力ではない。
〈兄さん〉
〈聞こえてる〉
〈僕が言うまで、止まれなかったよ〉
〈分かってるって。……今夜も、頼む〉
〈うん。でもね、兄さん。今夜は、僕が言う前に、止まってみせて〉
エドは窓の外に目を逸らして、答えなかった。答えない代わりに、拳を一度だけ握り直した。義肢の指が、きし、と鳴った。
***
大佐は、上着の内側に左手を当てた。布の下に、小さな固い重みがある。
葬儀のあと、グレイシアが紙の箱を持って来た。
「主人の机の奥にあったの。あなた宛てだと思って」
箱には、銀色のライターが入っていた。古い型の、重い一つだった。蓋を開けると、内側に細い字が彫ってある。
〈ロイへ。雨の日は宴会芸ができんと、三年前にぼやいてたよな。ハボックと技師を探した。誕生日に間に合わなかったら、すまん〉
大佐は、しばらく何も言わなかった。やすりの輪を、一度だけ弾いた。部屋の中なのに、火花が鋭く散った。
「あの男は、いつも人の知らんところで手を回す」
「ええ。そういう人でした」グレイシアは笑おうとして、笑えなかった。
大佐はライターを、使わずに上着へ仕舞った。使う場面は、来ないと思っていた。
***
道の奥から、ブレーキの音がした。濡れた路面を斜めに滑って、車が止まる。ドアが開いて、大佐とエドが飛び出してきた。二人とも、頭から濡れていた。大佐の手袋が雨を吸って、指先まで重く垂れているのを、リザは一目で見た。エドの脇腹の服が、赤く滲んでいた。
「来たわね。雨の中を、ご苦労さま」
女は傘を畳んで、門柱に立てかけた。雨が、黒い髪に落ちた。
「家から離れろ」大佐が言った。
「そのつもりよ。この道は狭いもの」女は大通りの方を指した。「エドワード君は、この家の中では手を縮めるでしょう。あそこなら、思い切り出せる。通りには、人も住んでいるけれど」
「俺は、あんたの言うことなんか」
「窓が割れてもいいなら、ここでも構わないわ。雨は、朝まで降り続くそうよ」
エドは歯を噛んだ。大佐は、植え込みの方を見ずに言った。
「リザ。家を頼む」
「はい」
女は背を向けて、雨の中を歩き出した。傘は置いたままだった。大佐が続き、エドが続いた。三人の背中が角を曲がるのを、リザは銃口を下げずに待った。
それから玄関の戸を外から叩いて、グレイシアに、窓の鍵をかけて二階へ上がるよう言った。隣家の夫人にも、電話で声をかけた。女が家を離れた以上、家の守りは鍵と隣人で足りる。足りない分は、自分の弾で埋める。戸が細く開いて、グレイシアが顔を出した。エリシアの手を引いている。
「エド君は」
「大佐と一緒です。無事です」
「お茶を、淹れたんです。持っていけなくなってしまいましたね」グレイシアは、無理に笑った。手が、少し震えていた。「あの人の時も、こうでした。出ていく背中を、見送るだけで」
リザは、返す言葉を探した。見つからなかった。代わりに、外套の内側から小さな懐中電灯を出して、グレイシアに握らせた。
「停電になったら、これを。……二階から、出ないでください。私が戻るまで、戸は開けないで」
「ええ」グレイシアは頷いた。「あの子を、お願いします」
リザは頷いて、銃を担ぎ直し、三人の後を追った。
***
大通りまでの道は、エドが毎朝ヒューズと歩いた道だった。
右手に、パン屋のシャッターが半分下りている。左手に、雑貨屋の軒先。去年のクリスマスの飾りが、まだ一つだけ残っていた。ヒューズはいつも、その飾りを指さして、あれはうちの嫁さんが見つけたやつでな、と言った。毎朝、同じことを言った。エドは毎朝、へえ、と答えた。
今は、その飾りが、雨の中で小さく揺れていた。
歩きながら、大佐がエドにだけ聞こえる声で言った。
「私の炎は、今夜は役に立たん。お前が押さえろ」
「分かってる。……あんた、無理して息を切らすなよ」
「努力はする」
努力、という言葉を、エドは初めて聞いた気がした。この人は、できると言うか、できんと言うかのどちらかだった。努力はする、は、どちらでもない。
脇腹の傷が、一歩ごとに疼いた。昨夜の浅い傷は、下水道で擦れて、また開いていた。左脚の付け根の接続部も、雨の湿気で重い。自分の体の調子を、エドは正確に知っていた。万全ではない。万全だったことは、この町に来てから、一度もない。
大通りは、広かった。両側に店が並んで、シャッターは半分ほど下りている。街灯が、雨の筋を白く浮かせていた。まだ夕方だというのに、空は夜のように暗かった。
女は通りの真ん中で足を止め、振り返った。
「大佐さん。指を鳴らしてみて」
大佐は鳴らした。乾いた音が、雨に吸われただけだった。手袋の布は水を吸って、重く垂れている。火花は、ひとつも出なかった。
もう一度鳴らした。やはり、出なかった。
「保安官さんは、親切な人ね」
女は言った。
「最期に、雨だと言え、って。あなたに教えていたのでしょう。私は屋根の上で、聞いていたわ」
大佐の顔が、動かなかった。動かないように、していた。
雨音の向こうで、大佐は十年以上前の駅のホームを思い出していた。ヒューズは、あの日も傘を二本持っていた。お前は雨に濡れると使えなくなるんだから、持ち歩けよ、と笑って、一本を押しつけてきた。大佐は、いらん、と言って返した。あの傘を、受け取っておけばよかった。くだらない後悔だと分かっていても、頭から離れなかった。雨だと言え。あれは、傘を持てという意味だったのかもしれない。無能だ、という意味と、同じ重さで。
「……屋根の上」エドの声が、掠れた。「あの夜、見てたのか」
「観察が仕事だもの」
「助けられただろ」
「助ける理由がないわ」
エドは、自分の中で何かが縮むのを感じた。怒りが来る前の、いつもの感触だった。熱いものが来る前に、先に体の芯が冷える。ニーナの時もそうだった。冷えて、それから煮える。
〈兄さん〉
〈……分かってる。まだ、だ〉
〈兄さん、あの人、ずっと笑ってる〉
〈知ってる。楽しんでるんだ〉
〈楽しんでる人は、手を抜くよね〉
〈抜かせとけ。その間に、読む〉
雨が、頬を打っていた。冷たいはずなのに、顔の内側だけが熱い。エドは手の甲で水を拭った。濡れた前髪が目にかかって、視界の端が揺れる。女の傘のない黒髪から、雫が肩へ伝っていくのが見えた。
エドは両手を合わせた。右の手袋と、左の素手が、濡れた音で重なる。地面に手をつくと、舗装が割れて、石の槍が何本も立ち上がった。女は歩きながら、指で払った。槍は根元から滑るように切れて、雨の中に倒れた。
「悪くないわ。昨夜より、手が速い」
エドは止まらなかった。街灯の支柱に触れて曲げ、シャッターを引き剥がして壁にした。水道管を割って、水の柱を立てた。触れた場所が、順に形を変えていく。女は受け流しながら、通りの中央へ下がった。まだ本気ではない。顔を見れば分かった。
通りの窓が、いくつも開いた。誰かが顔を出している。誰かが、手に小さな光るものを持っている。エドはそれを一度だけ見て、見なかったことにした。目立つな、と言われて動けなかったあの夜から、まだ十日も経っていない。以前の自分なら、手が縮んだはずだった。今は縮まなかった。隠しても、守れなかった。隠す意味は、もう残っていなかった。
その間にも、エドは女の指を見ていた。壁は根元から、槍は付け根から、水の柱は一番太い所から。見えた物を、見えた順に切っている。
〈兄さん、順番が決まってる〉
〈ああ。読めた〉
エドは壁を二枚、わざと立てた。女の指が、二枚を同じ速さで切り裂く。その切り口の向こうで、足元の舗装が口を開けた。落とし穴だった。女の片足が沈む。
「あら」
沈んだ足首に、石が絡みついて固まった。エドは雨の中を走って、右の拳を女の腹に叩き込んだ。義肢の拳だった。手応えは、人の体ではなかった。重く、硬い。拳が、痺れた。
女は笑った。
「やっと当てたわね」
指が、横から走った。エドは身を倒した。それでも、左の膝から下が、すっと軽くなった。切り離された義肢の脚が、雨の路面を転がっていく。からん、からん、と鉄の音が、通りの端まで響いた。
〈脚!〉
エドは膝をついた。接続部の神経が、遅れて悲鳴を上げた。喉の奥から、声にならない息が漏れた。奥歯を噛んで、舗装に掌を叩きつける。アスファルトが盛り上がって、膝から先を包み、石の脚に固まった。神経には繋がらない。腰を振って、ぶら下げるように動かすしかない。立てればいい。
「器用ね」女は、足首の石を指で割った。「でも、遅くなった」
そう言いながら、女は別の方向を見た。通りの向かいの店の、半分下りたシャッターの隙間に、男と小さな子供が立っていた。逃げもせず、窓から外を見ている。子供は男の脚にしがみついて、目だけを出していた。エリシアと同じ仕草だった。
「見ている人がいるわ。あなたなら、守るでしょう」
女の指が、そちらへ伸びた。
エドは動いた。石の脚が、地面を擦って遅れた。間に合わない。壁を立てようと手を伸ばした。
大佐が先に、窓と指のあいだに飛び込んでいた。走れる足ではなかった。それでも、体ごと割り込んだ。
大佐の靴が水を蹴って、白い飛沫が上がった。エドの目には、その飛沫の一粒ずつが見えた。間に合わない、と思った。
濡れた布を裂く音がした。五本の指が、大佐の左肩と脇腹を貫いて、背中へ抜けた。鉄の匂いが、雨の匂いに混じった。大佐は声を出さなかった。膝が折れて、濡れた舗装に手をついた。血が雨に混ざって、薄く広がった。シャッターの隙間の男が、子供の目を手で覆った。
「また倒れたわ」
女は、指を引き抜いた。
「あなたの周りの人は、よく倒れるわね。保安官さんも、そこの大佐さんも」
耳の奥で、音が消えた。
「てめえ……ッ」
一言だけ、喉から漏れた。それで、全部だった。エドの顔から、表情が落ちた。眉が寄るのでも、歯を剥くのでもない。目だけが、瞳の奥だけが、白く冷えて、女を見ていた。それが、この少年の怒りの、一番深い形だった。
左の石の脚が、きしんだ。右の肩が、熱を持った。あの夜と同じ形だった。雨の中で、大佐が、ヒューズさんと同じように倒れている。守られた。また、守られた。自分は、また間に合わなかった。
視界の端が白くなって、世界から色が抜けた。雨粒の一つ一つが、止まって見えた。ヒューズさんの声が、聞こえた。うちの嫁さんが見つけたやつでな。あれは、毎朝のことだった。毎朝のことが、もう来ない。
そう思った時には、もう両手が地面に叩きつけられていた。
通りの舗装が、めくれた。
歩道も車道も、一枚の板のようにせり上がって、波になった。路肩の車が持ち上がる。街灯が根元から曲がる。店の看板が、軋んで外れた。波は女に向かっているはずだった。向かっているのかどうか、エドには分からなくなっていた。
〈止まれ〉
一回だけだった。
掌が、地面に張りついて離れなかった。止まりたくなかった。止まれば、あの女は笑うのだ。歯が、かちかちと鳴った。それでも、アルの声が、金曜の約束が、背中を引いた。止まるのは、負けるのとは違う。そう自分に言い聞かせるのに、一拍かかった。
エドは、手を止めた。言い返す言葉が喉まで来て、消えた。金曜の夜、研究所の広場で聞いたのと同じ声だった。あの時は、手を止めるまでに一拍かかった。今度は、すぐだった。
せり上がった舗装が、空中でぎしりと止まった。持ち上がった車が、斜めに傾いたまま浮いている。波の先端は、さっきの店のシャッターの手前、一メートルで止まっていた。あのまま続けていれば、あの親子ごと押し潰していた。
エドは、息を吐いた。手が震えていた。ゆっくりと、波を下ろした。車が舗装の上に戻って、傾いた街灯が、地面に寝た。
女は、少年の足元を見ていた。散った石の欠片に、一筋の灰も、一粒の赤も混じっていない。自分の指は、切るたびに粒を落としている。羨ましい、とは思わなかった。ただ、知りたかった。この子の手は、何で動いているのか。止まれる手は、どこまで動くのか。
「壊れるまで使うかと思ったのに、止まるのね」
女は、表情を変えずにそう言った。
「あとは、おまけ。大佐さんには、ここで終わってもらうわ」
女の指が、大佐の頭の高さに揃った。
銃声がした。
指の一本が弾かれて、軌道が逸れた。
通りの角に、リザが立っていた。家を隣人に預けて、後を追ってきたのだった。ライフルを肩に、傘も差さずにいる。女の指は十本ある。一発で全部は止められない。リザは分かっていて、一本だけを撃った。大佐の頭に向かう、一本だけを。残りの九本が自分に向かないことも、分かっていた。女の関心は、少年に向いている。
女は一瞬だけ、そちらを見た。
エドは、その一瞬に走った。石の脚が遅い。それでも走った。
大佐の横に滑り込んで、膝をついた。血は止まっていない。雨で薄まって、余計に多く見えた。傷口に当てた掌が、熱かった。
「大佐」
「声が、大きい」大佐は薄く目を開けた。「雨だな」
大佐の息は、浅く速かった。胸の下で、何かが泡立つ音がする。傷は、肺の端をかすめているのかもしれない。エドは、それを知っていて、言わなかった。言えば、手が震える。
「見りゃ分かるよ。なんで飛び込んだ」
「お前の足が、遅かった。それだけだ」大佐は、口の端で笑った。血の気のない唇だった。「……手袋は、使えん。だが、手と血は残っている。陣は、血で書ける」
大佐は右手の指を、肩の傷に当てた。指先に、血が付いた。
「手の甲に、陣を書く。雨の入らん場所が要る」大佐は声を落とした。「私を、隔離しろ。あの女に、私は終わったと思わせろ」
エドは、大佐の血だらけの手と、雨を弾いている女の指を、交互に見た。
「死んだ顔、してるぜ」
「なら、ちょうどいい」
大佐は上着の内側から、古い銀色のライターを出した。親指で、やすりの輪を弾く。雨の中を走ってきたのに、火花は鋭く散った。
「濡れてるのに」
「雨でも点く」大佐は、ライターを握り込んだ。「あいつの置き土産だ」
大佐は、外套の内側から小さなナイフを出した。刃先を、左の手の甲に当てる。迷いはなかった。血が一筋、滲んだ。
「あら」女が、首を傾げた。「大佐さんを、しまってしまうの」
「これ以上、あんたに触らせねえ」
エドは両手を合わせた。舗装から石が立ち上がって、大佐の体を包んだ。人が一人、背を預けて座れる幅の、円い殻だった。上には庇が張り出し、内側は滑らかに磨かれて、雨は一滴も入らない。目の高さに、針の目ほどの隙間を一つだけ残して、あとは閉じた。外からは、瀕死の者を戦場から隔離した、石の避難所にしか見えなかった。
「戦線から外したのね」女は笑った。「賢明だわ。放っておいても、あの人はもう死ぬもの」
エドは、殻に背を向けて立った。その背の向こうで、かり、と刃が皮を引く音がした。雨の音に紛れて、女には聞こえない。
通りの角で、リザが銃を構え直した。
「二人で、私を止められると思うの」
女は、エドとリザを、順に見た。殻はもう、視界の端にも入っていなかった。守る側は、あの人を捨てた。女はそう読んだ。エドは、それでよかった。わざと殻から距離を取り、女の正面に回り込んで、視線を引いた。殻の隙間が、女の脇腹の高さに向くように。
リザが、撃った。弾が女の膝を砕いた。女が、リザの方へ顔を向けた。エドは、地面に手を叩きつけた。石の壁が、女の前に立ち上がった。女の指が壁を切り裂く。その視線は、壁の向こうのエドの手と、リザの銃口のあいだを、せわしなく行き来していた。
殻の中から、かち、と乾いた音がした。
大佐は、血の陣を描いた左手の甲を、隙間に添えていた。右の親指が、ライターの輪を弾く。火花が、手の甲に降りかかった。
乾いた石の中で、火が咲いた。