MCU:Fullmetal Alchemist   作:ゴミ収集者

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決着

石の隙間から、炎が走った。雨を割って、一直線に女へ向かう。熱の風が、エドの頬を打った。雨粒が、炎の縁で白く弾けて消えていく。

 

終わったと思っていた男の炎に、女の目が見開かれた。女は避けようとして、半歩、遅れた。腕と胸が、炎に呑まれた。

 

雨の中に、焦げた臭いが立った。人の髪と、油の混じった臭いだった。女は燃えながら、一歩、下がった。それから、顔を歪めて笑った。焼けた皮膚の下から、新しい皮膚が盛り上がる。傷は、数秒で消えた。足元に、赤黒い粒が一つ落ちた。女は、それを見下ろして、初めて表情を動かした。

 

「無駄よ。雨でも、晴れでも、再生はするわ。それに、少し見ていたいの。その筒が、どこまで持つか」

 

「そうか」筒の中から、大佐が言った。「なら、何回でも焼く」

 

隙間の向こうで、炎の照り返しが、大佐の目許だけを赤く浮かせた。下水道で見たのと、同じ目だった。女から一度も逸らさない。左肩の傷は、自分で焼いて塞いである。焦げた布の下から、肉の臭いがした。左手の甲は、まっすぐに前を向いていた。

 

エドは、その細い光を見た。下水道で見た背中と、同じだった。外から見ると、こういう目をしているのか。

 

筒の外から、指が飛んできた。エドは筒を叩き直し、削られた壁を作り足した。女の指が、筒を斜めに裂く。エドが次の壁を立てる。大佐が、血で書き直す。大佐の親指が、ライターの輪を弾く。火花が、手の甲の陣に降りた。炎が走る。その繰り返しだった。繰り返すたびに、エドの腹の底が空になっていく。空腹の痛みが、胃の裏側を引っ掻いた。

 

二度目の炎のあと、大佐の手が血で滑って、線が一本、雨に滲んだ。大佐は舌打ちもせず、ナイフで手の甲の傷を切り直して、線を引き直した。その間、エドは筒の口に立って、女の指を背中で受ける覚悟をしていた。リザの弾が、一本を弾いた。もう一本は、エドの頬をかすめて、髪を数本、持っていった。

 

エドは、焼け落ちた女の指の欠片に、左の素手を触れた。

 

声がした。

 

指の中に、声が詰まっていた。一人ではない。何十人もの声が、束になって押し込められている。男も女も、子どももいた。助けて、と言う声があった。何も言わない声もあった。母を呼ぶ声が、一つ混じっていた。エドは、その声に耳を塞ぎたくなった。数えようとして、四十を超えたところでやめた。

 

赤黒い粒が、女の足元に溜まり始めていた。炎で焼かれ、再生するたびに、粒が増えていく。粒が増えるたび、束の中の声が、いくつもまとめて静かになった。石の中で潰れて、消えたのだった。

 

エドは、手を離した。吐き気を堪えた。この女は、石でも、人間でもない。人の魂を削って動いている。4話の遺体から漏れていた灰色の層が、頭に浮かんだ。あの子の中にも、こうして削られていく何かがあった。

 

〈兄さん〉

 

〈聞こえてる。……こいつ、人の声でできてる〉

 

〈うん。僕にも、聞こえる〉

 

エドは大佐の背中に声をかけた。

 

「あと何回、撃てる」

 

「五回か、六回だ」大佐の声は細かった。「それ以上は、私が先に倒れる」

 

「十分だ。その間に、石を引きずり出す。逃がさねえ」

 

エドは殻の裏に回り、石を一枚、薄く削いだ。大佐だけに聞こえる声で言った。

 

「裏の石は、外れるようにしといた。あの女が殻から目を離したら、出ろ」

 

「分かった」大佐は、床にもナイフの先を当てた。「足元にも、一つ書く。リザは、見ていれば分かる」

 

エドは通りの両側に走り、壁に触れた。石の脚が、舗装を擦って遅れる。店の前面が音を立てて立ち上がり、道を塞いだ。女の左右と後ろに、石の壁が閉じる。通りは、四角い箱になった。

 

「逃げ道を塞いでも、同じよ」

 

「同じじゃねえよ」

 

筒から炎が走った。二度目。女が焼けて、再生した。

 

女は、壁を蹴って屋根へ跳んだ。箱の上が、開いている。エドは地面に両手を叩きつけた。石の壁が、せり出して蓋になった。女の指が蓋を切る。その切り口へ、大佐の三度目の炎が飛んだ。女は空中で燃えた。落ちてくる体を、リザの弾が撃った。足が砕け、再生が一拍、遅れた。

 

その隙に、女の指が筒の根元を割った。石の殻が傾いて、大佐の体が雨の中へ半分はみ出した。陣の線が濡れて、滲んでいく。

 

「書き直す」

 

大佐はナイフで、手の甲をもう一度切った。声は出さなかった。にじむ血が、前より薄い色をしていた。

 

「大佐!」

 

「まだだ」大佐の声が、低かった。「あいつの勘定は、まだ払い終えていない」

 

エドは割れた根元に掌を叩きつけて、殻を継ぎ直した。石が足りない。足元の舗装を剥がして使うと、自分の足場が崩れた。石の脚が、泥にめり込んだ。構わなかった。

 

四度目。

 

壁の隙間から、通りの窓が見えた。人の顔がいくつも並んでいた。携帯の小さな光が、雨の中でいくつも点いている。エドは、それを見て、また見なかったことにした。誰かが、あの光の一つに、この顔を残している。それでもいい、と思えた。思ってしまったことが、少しだけ怖かった。

 

四度目の炎で、女の右半身が崩れた。粒が、雨に混じって流れていく。女は、笑わなかった。

 

「……思っていたより、しぶといのね。二人とも」

 

女の指が、殻に殺到した。エドが壁を立てる。立てるそばから、削られた。女は焦っていた。再生の速さが、目に見えて落ちている。ついに女は、体ごと壁にぶつかった。石に爪を立てて、殻の継ぎ目をこじ開けようとする。

 

銃声がした。

 

弾が、女の右目を撃ち抜いた。女は仰け反って、初めて声を荒げた。

 

「……あの女」

 

通りの角で、リザが次の弾を薬室に送っていた。

 

「いいわ。あなたから、やってあげる」

 

女の十本の指が、一斉にリザへ向いた。胸の高さに、十本の先が揃っている。リザは動かなかった。動けば、後ろの家に当たる。

 

「やめろ!」

 

エドは走った。石の脚が遅れる。それでも、間に合った。リザの前に滑り込んで、右腕を上げた。

 

金属の悲鳴が、雨を裂いた。義肢の前腕に、指が三本、突き刺さって、肘までを歪ませた。火花が散る。右手の指が、一本、跳ねて落ちた。それでも腕は、エドの胸と指のあいだに、残っていた。

 

〈兄さん! 腕が——〉

 

〈動く。四本あれば足りる〉

 

右腕の付け根から、焼けるような痛みが走った。ウィンリィが、三日徹夜で調整してくれた腕だった。あいつ、また怒るな、と思った。怒られるなら、生きて帰らなければならない。

 

エドは、女の指ごと右腕を引き寄せた。女の体が、前へ傾いた。

 

女は、笑った。三本はエドの腕に刺さったまま、残る七本が、エドの頭の上を越えた。

 

「守る人は、もういないわ」

 

七本の指が、石の殻に突き立った。殻が割れる。女は自分から、その割れ目へ体をねじ込んだ。中の人間を、この手で潰すために。

 

手応えが、なかった。

 

殻の中は、空だった。足元の石の床に、血で書いた円が、乾いたまま残っていた。

 

「何——」

 

女の目が、円を見下ろした。

 

銃声がした。

 

リザが、女の足元の石を撃っていた。弾が石を砕き、火花が、円に降りた。

 

火柱が、女の足元から立った。炎は雨を押し返して、空へ伸びた。大佐は通りの端に立っていた。殻の裏の、外れた石の隙間から、いつの間にか出ていた。左手の甲は、下ろしたままだった。

 

五度目の炎が、通りを赤く照らした。

 

女の胸が、焼け割れた。肉の奥から、赤黒い石が覗いた。人の握りこぶしほどの大きさで、表面に細かい顔のようなものが、浮いては消えている。女は膝をついた。

 

再生は、もう始まらなかった。

 

エドは、石の前に立った。大佐は通りの端で、膝をついて肩で息をしていた。雨がエドの頭を叩いていた。

 

「……いい手ね」

 

女は顔を上げた。唇の赤が、雨で薄れていた。エドは何も答えなかった。左の素手を石に当て、歪んだ右の手の掌を重ねた。

 

石の中の声が、一斉にこちらを向いた。

 

怖がっている声はなかった。ただ、長い間、出られなかった声だった。耳を澄ますほど、音が増えた。赤ん坊の泣き声と、年老いた男の咳。誰かが、小さく歌っている。

 

掌に、石の温度が伝わってきた。生き物の体温に近い、ぬるい熱だった。脈のような震えが、指の腹を内側から押し返してくる。

 

壊せば、この女は死ぬ。人間ではないと分かっていても、手が止まった。ヒューズさんの時は、迷っているうちに間に合わなかった。今度は、迷った分だけ誰かが長く閉じ込められる。

 

手が止まった理由を、エドは自分で探した。この女のためではない。中にいる声のために、迷っているのだった。壊すことが、解放なのか、殺すことなのか。分からなかった。分からないまま、決めなければならなかった。

 

ニーナの、最後の声を思い出した。痛いの、なくなった。あの時、止めた手が、あの子を楽にしたのかどうか、今でも分からない。そして今、掌の下に、同じ声が何十もある。

 

〈いいよ、兄さん〉

 

アルが言った。

 

〈ここで止まったら、あの人たちは、まだ中にいる。……僕は、見てるから〉

 

エドは、うなずいた。

 

両手を合わせた。右の指は三本しか動かなかった。それでも、石を両の掌で挟んだ。力を、内側へ流した。

 

力を流した。石の震えが、一段ずつ静かになっていく。赤ん坊の声が遠のき、咳が止み、歌が途切れた。最後に残ったのは、母を呼ぶ声が一つ。エドは奥歯を噛んで、さらに力を込めた。

 

石は、砕けた。

 

砕けた瞬間、雨音が戻ってきた。それまで耳から消えていたことに、エドはその時初めて気づいた。

 

破片が、雨の中に散った。その瞬間、通りじゅうの暗がりから、淡い光が浮き上がった。小さな光が、一つずつ石の欠片から離れていく。いくつもあった。雨粒の間を、ゆっくりと昇っていった。

 

光は、壁を越えて、屋根を越えて、見えなくなった。最後の一つが消えるまで、エドは目を離さなかった。母を呼んでいた声が、どれだったのかは、分からなかった。

 

そこで、膝が折れた。石の脚が、泥に沈んだ。顔を上げると、雨が目に入った。冷たかった。喉の奥から、声にならない息が漏れて、止まらなくなった。拭っても、拭っても、顔が濡れた。雨のせいにできるのが、ありがたかった。

 

女は、最後に空を見ていた。

 

「全部出しても、粒ひとつ落ちない」

 

女は、少し笑った。

 

「……確認は、終わったわ。あなたの手なら、あの方の……」

 

それが最後の言葉だった。体が灰色に崩れた。雨が、灰を流していった。路面に、赤黒い粒だけが、幾つか残った。

 

通りが、静かになった。

 

雨の音だけが、続いていた。

 

***

 

日はとうに落ちていた。大通りの両側の窓は、まだ開いたままだった。

 

エドは壁を崩して、通りを元の形に近づけようとした。全部は戻せなかった。曲がった街灯、剥がれた看板、割れた舗装。直すより先に、人の声がした。誰かが泣いている。誰かが、携帯を耳に当てて叫んでいる。

 

向かいの店の二階の窓に、エドと同じくらいの年の少年がいた。携帯をこちらに向けたまま、動かなかった。エドと目が合った。少年は、携帯を下ろさなかった。

 

「撮られたな」

 

大佐が、筒の中から言った。血で濡れた顔のまま、笑っていた。

 

「見なかったことにする、程度の話では済まん」

 

「分かってる」

 

「お前を、この町にいさせるわけにはいかなくなった」

 

リザが毛布を持って駆けてきた。路面を転がった義肢の脚も、拾って抱えていた。エドはその毛布を、先に大佐の肩にかけさせた。傷は深かった。遠くで、消防車のサイレンが鳴り始めていた。病院へは行けない。記録が残れば、エドの名も出る。

 

シャッターの隙間にいた男が、通りへ出てきた。子供を抱いている。男はエドの前で足を止めて、何か言おうとして、言えなかった。それから、帽子を取って、頭を下げた。

 

エドは、頭を下げ返した。それしか、できなかった。

 

筒の中へ戻ると、大佐は壁に背を預けたまま、目を閉じていた。陣の血は、乾いて茶色くなっている。エドは隣に座り込んだ。石の脚が、からりと乾いた音を立てた。

 

「……ヒューズさんが死んだ時、あんたも、こんな気分だったのか」

 

大佐は、目を開けなかった。

 

「あの夜、私は間に合わなかった。お前の腕の中で死なせた。だから今夜は、飛び込んだ。それだけだ」

 

「それ、慰めてんのか」

 

「違う」大佐は、薄く笑った。「守られたことを、背負いすぎるな。背負うなら、私の分まで背負え」

 

「余計なこと、しやがって」

 

「そうだな」

 

「借りは返すからな。いつか、絶対」

 

「借りだと思うな。返さなくていい」

 

「うるせえ。返すっつったら返す」

 

エドは、膝の間に顔を埋めた。雨が、後頭部を叩いている。筒の庇が、そこだけ雨を遮った。肩が震えているのを、大佐は見ないふりをした。

 

***

 

翌日の昼、グレイシアの家のテレビが、地方局のニュースを流していた。

 

『昨夜、市内の大通りで、ガス管の爆発と落雷が重なり、通りの舗装が広い範囲で損壊しました。けが人は軽傷が二人。詳しい原因は調査中です』

 

映像が切り替わった。誰かが窓から撮った、手ぶれの映像だった。雨の中で舗装がめくれ上がり、車が浮いている。次の瞬間、画面が真っ白になる。それから、光が空へ昇っていく。

 

『なお、昨夜、現場周辺で複数の住民が、光のようなものを目撃しています。専門家は、落雷に伴う発光現象の可能性があるとして——』

 

グレイシアが、リモコンでテレビを消した。

 

「あの光は、何だったのかしらね」彼女は、エドを見ないで言った。

 

「……悪いものじゃ、ないです」エドは言った。

 

グレイシアは、小さく頷いた。それ以上は聞かなかった。台所へ立って、湯を沸かし始めた。

 

エリシアが、エドの膝によじ登ってきた。杖を珍しそうに見て、先端を指でつつく。

 

「エドお兄ちゃん、足が、きらきらしてる」

 

「街灯だからな。今夜から、道を照らす」

 

「ほんと?」

 

「嘘。明日には直す」

 

エリシアは声を立てて笑った。その笑い声が、居間の空気を少しだけ軽くした。エドは、自分が守ったものの重さを、膝の上に感じていた。小さくて、温かい。あの通りで、一瞬でも潰しかけた重さだった。

 

エドの左脚は、街灯の鉄を曲げて組み直した仮の脚だった。通りの老人が貸してくれた杖がなければ、数歩で傾く。リザが拾ってきた義肢の脚は、卓の脇に立てかけたままだった。右腕は肘から先が歪んで、指が三本しか動かない。

 

大佐の傷は、リザが縫った。肺は外れていた。出血が多かっただけだ、とリザは言った。大佐は、昼過ぎに起き上がって、居間へ来た。上着の肩が、包帯で膨らんでいる。顔色は悪かった。

 

「座れ」

 

「あんたこそ座れよ」

 

大佐はエドの向かいの椅子に腰を下ろして、しばらく黙っていた。

 

「下水道で拾った五つの腕輪は、私が預かる。手帳に挟んで、一番から五番まで、全員の名前を探す」

 

エドはポケットから腕輪を出して、大佐の掌に載せた。白いプラスチックに、掠れた番号が並んでいる。軽いのに、手放すと、指が少し寂しかった。

 

「それと、総裁から、電話があった」

 

エドは顔を上げた。

 

「昨夜の件は、ガス管の事故として処理された。会が、そう手を回した。お前の名前は、どこにも載らん」

 

「……庇ってくれたってことか」

 

「逆だ。会はお前を切る」大佐は、はっきり言った。「保護の申し出は取り下げられた。怪我人の家族と地元の警察は、会が抑える。お前のことは、一切、関知しないそうだ」

 

居間の時計の針の音が、やけに大きかった。

 

エドは、自分の足元を見た。迎えの車を断った朝のことを思い出した。使者の、あの丁寧な声を思い出した。断った時、こうなる可能性は考えなかった。考えていたら、断らなかったのか。分からなかった。

 

「そうかよ」

 

「それで済むとは思えん」大佐は言った。「昨夜のことは、撮られた。軍や役所にも、裏の連中にも、勘付かれた可能性がある。会がお前を切ったのは、そちらへの言い訳だ」

 

「……俺は、どうなる」

 

「籍は、そのままにしておく。会が切ったのは、お前の面倒だけだ」

 

「なんでだよ。切られたのに、まだあそこにいろってのか」

 

「会の上に、裏切り者がいる見込みが高い」大佐の声は低かった。「ヒューズを消した手は、あそこにある。報告書の提出も求められた。私は、中から探る。お前は、籍があるだけでいい。表では、何もするな」

 

「あんたのせいじゃねえ」

 

大佐は目を細めた。

 

「そう言うと、思った」

 

「だって、そうだろ。迎えを断ったのは俺だ。あんたに知らせずに、一人で研究所に行ったのも、俺だ」

 

「……そうだな」大佐は言った。「イズミ・カーティスには、私から連絡する。お前がまだ書けないなら、先に私が話す」

 

「やめろ」エドの声が裏返った。「殺される。自分で言う。……ちゃんと、自分で言うから」

 

大佐は、愉快そうに眉を上げた。

 

エドは、返事ができなかった。師匠の名前を出されて、喉が詰まった。書かなければならなかった手紙の、三文字だけが頭に浮かんだ。

 

***

 

昼下がりに、玄関のベルが鳴った。

 

出たのは、リザだった。戸口に、背の高い男が立っていた。黒いスーツで、ネクタイは細い。肩に、雨の名残が少しだけ残っている。男は、柔らかい声で言った。

 

「フィル・コールソンといいます。政府の調査員です。昨夜の通りの件で、お話を伺いたくて。こちらに、財団の技師さんが泊まっていると聞きました」

 

エドは、居間から顔を出した。

 

男はエドを見て、にこやかに頷いた。

 

「エドワード・エルリックさんですね。十四歳。財団の見習い技師で、書類の上では」

 

「……なんだよ」

 

「いえ。きれいな書類だと思って」コールソンは手帳を閉じた。「見習いの技師さんの書類にしては、きれいすぎる。普通は、手書きの訂正とか、古いスタンプとか、もう少し汚れるものです。あなたの書類には、それが一つもない」

 

エドは答えなかった。居間の奥で、大佐が身じろぎする音がした。

 

「昨夜、通りで大きなエネルギーの反応がありました。ガス管の爆発では、あの数値は出ません。私は、その調査に来ただけで」

 

コールソンの視線が、エドの右手に落ちた。手袋の下の、指の動きに。

 

「右腕も、左脚も、ずいぶん派手に壊れていますね。窓から撮られた映像に、金属の割れる音が入っていました」

 

エドの背中が固まった。

 

「彼は未成年だ」

 

大佐が、居間の戸口に立っていた。壁に肩を預けて、立っているのがやっとの顔をしている。

 

「保護者の同席なしでは、これ以上は答えさせん。私が責任者だ。必要なら、書面で照会してくれ」

 

「存じています。マスタング大佐」コールソンは、少しだけ首を傾けた。「……いえ、元でしたね。失礼しました。今日は、お顔を見に来ただけです」

 

大佐の目が、ほんの僅か細くなった。この男は、大佐の経歴まで調べてきている。エドにも、それは分かった。

 

笑ったまま、名刺を一枚、エドに差し出した。氏名と電話番号だけが書いてある。所属は、どこにもなかった。

 

「ご心配なく。今日、あなたを連れていくつもりはありません。今のところは。この町を出る時は、一言、連絡をください。……見失うと、少し面倒なので」

 

エドは、名刺を受け取った。受け取ってから、受け取るつもりはなかったと気づいた。コールソンはグレイシアに頭を下げて、背を向けた。

 

玄関の戸が閉まった。

 

「あれが、誰か分かるか」エドが聞いた。

 

「いや」大佐は戸口にもたれた。「何者か分からん。それが厄介だ」

 

「なんでだ」

 

「会の手口なら、読める。あれは違う。正面から来て、名乗った。堂々と名乗る者の後ろに何がいるか、分からん」

 

エドには、意味がよく分からなかった。分からないまま、名刺を上着の内ポケットにしまった。

 

***

 

夜、エドは二階の客間のベッドに座っていた。

 

雨は上がっていた。階下から、グレイシアがエリシアを寝かしつける声が、かすかに聞こえる。エドは鞄の底から、小さな円盤を取り出した。

 

母の声が入っていた円盤だった。捨てずに持ってきた。今は何も返さない。聴いたことも、ほとんどなかった。

 

〈兄さん〉

 

アルが言った。

 

〈今日、怖かった?〉

 

エドは、円盤を握った手を見た。

 

「……怖くねえ」

 

少し間があった。

 

〈声で分かるよ〉

 

「…………怖かった。大佐が倒れた時、また俺のせいで人が死ぬって思った。それで、何も考えられなくなった。お前が止めてくれなかったら、あの店の人間ごと潰してた」

 

〈止まったのは、兄さんだよ〉

 

「お前が言ったからだ」

 

〈言い返さなかったのは、兄さんだよ〉

 

エドは笑おうとして、笑えなかった。目の端が熱かった。袖で擦った。

 

「泣いてねえぞ」

 

〈うん〉

 

「見えてねえだろ」

 

〈見えてないよ。声で分かる〉

 

「なあ、アル。今日、分かったことがある」

 

〈なに?〉

 

「あの女は、作られた体に、人の魂が入ってた。……体さえ用意できりゃ、魂は入れられるってことだ。お前の体も、作れるかもしれねえ」

 

〈……できるかな〉

 

「分からねえ。でも、ゼロじゃなくなった。俺一人じゃ無理だろうけどな。頼むのは癪だけど、誰かに頼む」

 

アルは、少し黙っていた。

 

〈……うん。それは、僕も一緒に頼みに行く番かもしれないね〉

 

「何でだよ」

 

〈僕の体だから〉

 

〈ねえ、兄さん。あの人、言ってたよね。全部出しても、粒ひとつ落ちない、って〉

 

「……ああ」

 

〈僕がいるせいで削れてるんじゃないかって、ずっと思ってた〉

 

「言っただろ。削れてねえって」エドは円盤を握り直した。「あの時は、根拠なんてなかった。今日、一個できた。それだけだ」

 

〈一個だけ?〉

 

「一個あれば、二個目を探せる」

 

〈ねえ、兄さん〉

 

〈ん〉

 

〈僕の体、取り戻したら、最初に何を食べたい?〉

 

「は? 急に何だよ」

 

〈聞いておきたくなって。僕、パイが食べたい。ウィンリィのおばあちゃんの、焼きたてのやつ〉

 

「あー……あれ、熱すぎて舌やけどするぞ」

 

〈それでもいい。熱いって感じたいから〉

 

エドは、天井を見上げた。電灯の笠に、羽虫が一匹、ぶつかっては離れている。

 

「……分かった。一緒に、舌やけどしようぜ」

 

〈うん〉

 

エドは円盤を握ったまま、しばらく動かなかった。それから静かに鞄へ戻した。触れる気になるのは、まだ先でいい。そう思えた。

 

***

 

月曜の朝、グレイシアは玄関でエドの上着の襟を直した。

 

「ちゃんと食べるのよ。お昼は、鞄に入れておいたから」

 

「ありがとうございます」

 

エリシアが、母親のスカートの陰から顔を出した。

 

「また来る?」

 

「来る」エドは屈んで、目の高さを合わせた。「次は、戸を叩いて入る。……鍵は、持っとくけどな」

 

エリシアは真面目な顔で頷いた。

 

グレイシアが、エドの手に小さな包みを握らせた。重みは、ほとんどなかった。

 

「焼き菓子よ。道中で、アルくんと半分こして」

 

エドは、目を瞬かせた。

 

「……アルのこと、聞こえてたんですか」

 

「夜、壁の向こうで、アルって呼んでいたでしょう。あの人が前に言っていたの。エド君の弟さんは、遠くにいるって。会えないほど遠くのことなのね」グレイシアは、小さく笑った。「亡くなった弟さんが、エド君の心の中に、今もいるのね。会ったことはないけれど、ご挨拶はしたくて」

 

「アルは、食べられないんですけど」

 

「匂いは、分かるでしょう」グレイシアは笑った。目の縁が、少し赤かった。「あの人も、よく言っていたの。食べられなくても、一緒に座るのが、ご飯だって」

 

エドは、包みを鞄の一番上にしまった。礼を言おうとして、声が出なかった。代わりに、深く頭を下げた。

 

大佐とリザは、少し離れた車のそばにいた。大佐は、片腕を吊ったまま、車体に寄りかかっていた。

 

「行き先は、決めたのか」

 

「まず、義肢を直さねえと。ウィンリィのところだ。……師匠のところには、その後で自分で行く」

 

「選ぶ前に、一度、私に聞かせろ」大佐は言った。「今度は、事後ではなく」

 

「分かってるよ」

 

「それと」大佐は、声を落とした。「お前は、一人で抱え込む癖がある。あの背中を見ただろう。ああなる前に、電話をしろ」

 

エドは、鼻を鳴らした。それから、右手を軽く上げた。大佐も、吊っていない方の手を上げ返した。

 

「大佐は、石の中で、あなたを一度も疑いませんでした」リザが、小さな声で言った。「任せていたからです」

 

エドは、何か言い返そうとして、やめた。リザは会釈をして、車のドアを開けた。

 

町の外れまで、杖をついて歩いた。バス停で待った。通りの工事の音が、遠くで続いている。

 

バス停の隣の食堂の窓から、テレビの音が漏れていた。

 

『——続いて、スターク・インダストリーズのニュースです。本日、同社は、ヴァージニア・ポッツ氏が新しい最高経営責任者に就任すると発表しました。ポッツ氏は、長年トニー・スターク氏の秘書として——』

 

エドは、聞くともなく聞いていた。

 

〈ポッツって、ペッパーさんのことだよね〉

 

「ああ。ウィンリィの、いとこだ」

 

〈出世したんだね〉

 

「ああ」

 

バスが来た。エドは鞄を肩にかけて乗り込んだ。窓際の席に座ると、町の屋根が、ゆっくり後ろへ流れていった。

 

***

 

同じ朝、遠く離れた街の事務所で、男が一人、机の上のファイルを開いていた。

 

黒いスーツ、細いネクタイ。昨日と同じ柔らかい顔で、コールソンは、書類の余白にペンを走らせた。

 

氏名:エドワード・エルリック。年齢:十四。所属:財団(確認中)。現象:装置を使わず、素手の接触を起点に、広範囲の物質の形が組み替わる(動画で確認)。土曜夜の反応値は、これまでの観測記録にない。

 

最後に、表紙の右上に、ペンで一言だけ書いた。

 

要観察。

 

ペン先が、紙の上で止まった。

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仮面ライダーゼロワン ― Avengers: Age of Ultron ―(作者:吉野家)(原作:MCU アベンジャーズ)

飛電インテリジェンス社長・飛電或人と秘書型ヒューマギア・イズは、謎の空間歪曲に巻き込まれ、異なる世界へと転移してしまう。▼そこは、巨大企業スターク・インダストリーズが存在し、“アベンジャーズ”と呼ばれるヒーローたちが世界を守るニューヨーク。▼衛星ゼアとの通信は完全に途絶え、飛電インテリジェンスも存在しない。▼未知の世界で或人たちを待っていたのは、人類を守るた…


総合評価:321/評価:9/連載:3話/更新日時:2026年06月25日(木) 12:53 小説情報

星の白金(ひかり)で断つ運命(作者:クルセイダース)(原作:僕のヒーローアカデミア)

ある日、スタープラチナになった男が超常が当たり前になった世界でオラオラする話。


総合評価:6753/評価:8.38/連載:10話/更新日時:2026年06月05日(金) 11:00 小説情報

日本からアベンジャーズ入りしました。尊敬する人?五代さんと一条さんです(作者:ken4005)(原作:MARVEL)

▼クウガとアベンジャーズのクロスです。▼マーベルは完全ににわかです。▼原作を Avengers から MARVEL に変えました。▼短編から連載に変えました。▼謝罪0906▼作品を読み直した所、時系列に誤りがありました。▼黒雄が2010年4月から2014年3月までの四年間高校に在籍していたことになっています。そこで、明記はしませんが、未確認生命体関係で高校を…


総合評価:10457/評価:8.2/連載:107話/更新日時:2026年10月04日(日) 00:17 小説情報

トニー・スターク先生(作者:DRYSUPER)(原作:ブルーアーカイブ)

指を鳴らしたトニー・スターク。▼次に目を覚ました場所は、銃を携えた少女たちが暮らす学園都市「キヴォトス」だった。▼※映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』終盤から分岐する、『ブルーアーカイブ』とのクロスオーバー二次創作です。両作品のネタバレ、独自設定・解釈を含みます。


総合評価:5342/評価:8.9/連載:19話/更新日時:2026年10月11日(日) 08:39 小説情報

伏黒宿儺に「そろそろ狩るか…♠︎」する転生者(作者:羂索は踊り狂って死ぬ♠︎)(原作:呪術廻戦)

▼ 呪術廻戦を知らない転生者が伏黒宿儺相手に「そろそろ狩るか…♠︎」するだけの話。▼タグは随時追加


総合評価:5984/評価:7.44/連載:7話/更新日時:2026年08月06日(木) 18:19 小説情報


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