MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
石の隙間から、炎が走った。雨を割って、一直線に女へ向かう。熱の風が、エドの頬を打った。雨粒が、炎の縁で白く弾けて消えていく。
終わったと思っていた男の炎に、女の目が見開かれた。女は避けようとして、半歩、遅れた。腕と胸が、炎に呑まれた。
雨の中に、焦げた臭いが立った。人の髪と、油の混じった臭いだった。女は燃えながら、一歩、下がった。それから、顔を歪めて笑った。焼けた皮膚の下から、新しい皮膚が盛り上がる。傷は、数秒で消えた。足元に、赤黒い粒が一つ落ちた。女は、それを見下ろして、初めて表情を動かした。
「無駄よ。雨でも、晴れでも、再生はするわ。それに、少し見ていたいの。その筒が、どこまで持つか」
「そうか」筒の中から、大佐が言った。「なら、何回でも焼く」
隙間の向こうで、炎の照り返しが、大佐の目許だけを赤く浮かせた。下水道で見たのと、同じ目だった。女から一度も逸らさない。左肩の傷は、自分で焼いて塞いである。焦げた布の下から、肉の臭いがした。左手の甲は、まっすぐに前を向いていた。
エドは、その細い光を見た。下水道で見た背中と、同じだった。外から見ると、こういう目をしているのか。
筒の外から、指が飛んできた。エドは筒を叩き直し、削られた壁を作り足した。女の指が、筒を斜めに裂く。エドが次の壁を立てる。大佐が、血で書き直す。大佐の親指が、ライターの輪を弾く。火花が、手の甲の陣に降りた。炎が走る。その繰り返しだった。繰り返すたびに、エドの腹の底が空になっていく。空腹の痛みが、胃の裏側を引っ掻いた。
二度目の炎のあと、大佐の手が血で滑って、線が一本、雨に滲んだ。大佐は舌打ちもせず、ナイフで手の甲の傷を切り直して、線を引き直した。その間、エドは筒の口に立って、女の指を背中で受ける覚悟をしていた。リザの弾が、一本を弾いた。もう一本は、エドの頬をかすめて、髪を数本、持っていった。
エドは、焼け落ちた女の指の欠片に、左の素手を触れた。
声がした。
指の中に、声が詰まっていた。一人ではない。何十人もの声が、束になって押し込められている。男も女も、子どももいた。助けて、と言う声があった。何も言わない声もあった。母を呼ぶ声が、一つ混じっていた。エドは、その声に耳を塞ぎたくなった。数えようとして、四十を超えたところでやめた。
赤黒い粒が、女の足元に溜まり始めていた。炎で焼かれ、再生するたびに、粒が増えていく。粒が増えるたび、束の中の声が、いくつもまとめて静かになった。石の中で潰れて、消えたのだった。
エドは、手を離した。吐き気を堪えた。この女は、石でも、人間でもない。人の魂を削って動いている。4話の遺体から漏れていた灰色の層が、頭に浮かんだ。あの子の中にも、こうして削られていく何かがあった。
〈兄さん〉
〈聞こえてる。……こいつ、人の声でできてる〉
〈うん。僕にも、聞こえる〉
エドは大佐の背中に声をかけた。
「あと何回、撃てる」
「五回か、六回だ」大佐の声は細かった。「それ以上は、私が先に倒れる」
「十分だ。その間に、石を引きずり出す。逃がさねえ」
エドは殻の裏に回り、石を一枚、薄く削いだ。大佐だけに聞こえる声で言った。
「裏の石は、外れるようにしといた。あの女が殻から目を離したら、出ろ」
「分かった」大佐は、床にもナイフの先を当てた。「足元にも、一つ書く。リザは、見ていれば分かる」
エドは通りの両側に走り、壁に触れた。石の脚が、舗装を擦って遅れる。店の前面が音を立てて立ち上がり、道を塞いだ。女の左右と後ろに、石の壁が閉じる。通りは、四角い箱になった。
「逃げ道を塞いでも、同じよ」
「同じじゃねえよ」
筒から炎が走った。二度目。女が焼けて、再生した。
女は、壁を蹴って屋根へ跳んだ。箱の上が、開いている。エドは地面に両手を叩きつけた。石の壁が、せり出して蓋になった。女の指が蓋を切る。その切り口へ、大佐の三度目の炎が飛んだ。女は空中で燃えた。落ちてくる体を、リザの弾が撃った。足が砕け、再生が一拍、遅れた。
その隙に、女の指が筒の根元を割った。石の殻が傾いて、大佐の体が雨の中へ半分はみ出した。陣の線が濡れて、滲んでいく。
「書き直す」
大佐はナイフで、手の甲をもう一度切った。声は出さなかった。にじむ血が、前より薄い色をしていた。
「大佐!」
「まだだ」大佐の声が、低かった。「あいつの勘定は、まだ払い終えていない」
エドは割れた根元に掌を叩きつけて、殻を継ぎ直した。石が足りない。足元の舗装を剥がして使うと、自分の足場が崩れた。石の脚が、泥にめり込んだ。構わなかった。
四度目。
壁の隙間から、通りの窓が見えた。人の顔がいくつも並んでいた。携帯の小さな光が、雨の中でいくつも点いている。エドは、それを見て、また見なかったことにした。誰かが、あの光の一つに、この顔を残している。それでもいい、と思えた。思ってしまったことが、少しだけ怖かった。
四度目の炎で、女の右半身が崩れた。粒が、雨に混じって流れていく。女は、笑わなかった。
「……思っていたより、しぶといのね。二人とも」
女の指が、殻に殺到した。エドが壁を立てる。立てるそばから、削られた。女は焦っていた。再生の速さが、目に見えて落ちている。ついに女は、体ごと壁にぶつかった。石に爪を立てて、殻の継ぎ目をこじ開けようとする。
銃声がした。
弾が、女の右目を撃ち抜いた。女は仰け反って、初めて声を荒げた。
「……あの女」
通りの角で、リザが次の弾を薬室に送っていた。
「いいわ。あなたから、やってあげる」
女の十本の指が、一斉にリザへ向いた。胸の高さに、十本の先が揃っている。リザは動かなかった。動けば、後ろの家に当たる。
「やめろ!」
エドは走った。石の脚が遅れる。それでも、間に合った。リザの前に滑り込んで、右腕を上げた。
金属の悲鳴が、雨を裂いた。義肢の前腕に、指が三本、突き刺さって、肘までを歪ませた。火花が散る。右手の指が、一本、跳ねて落ちた。それでも腕は、エドの胸と指のあいだに、残っていた。
〈兄さん! 腕が——〉
〈動く。四本あれば足りる〉
右腕の付け根から、焼けるような痛みが走った。ウィンリィが、三日徹夜で調整してくれた腕だった。あいつ、また怒るな、と思った。怒られるなら、生きて帰らなければならない。
エドは、女の指ごと右腕を引き寄せた。女の体が、前へ傾いた。
女は、笑った。三本はエドの腕に刺さったまま、残る七本が、エドの頭の上を越えた。
「守る人は、もういないわ」
七本の指が、石の殻に突き立った。殻が割れる。女は自分から、その割れ目へ体をねじ込んだ。中の人間を、この手で潰すために。
手応えが、なかった。
殻の中は、空だった。足元の石の床に、血で書いた円が、乾いたまま残っていた。
「何——」
女の目が、円を見下ろした。
銃声がした。
リザが、女の足元の石を撃っていた。弾が石を砕き、火花が、円に降りた。
火柱が、女の足元から立った。炎は雨を押し返して、空へ伸びた。大佐は通りの端に立っていた。殻の裏の、外れた石の隙間から、いつの間にか出ていた。左手の甲は、下ろしたままだった。
五度目の炎が、通りを赤く照らした。
女の胸が、焼け割れた。肉の奥から、赤黒い石が覗いた。人の握りこぶしほどの大きさで、表面に細かい顔のようなものが、浮いては消えている。女は膝をついた。
再生は、もう始まらなかった。
エドは、石の前に立った。大佐は通りの端で、膝をついて肩で息をしていた。雨がエドの頭を叩いていた。
「……いい手ね」
女は顔を上げた。唇の赤が、雨で薄れていた。エドは何も答えなかった。左の素手を石に当て、歪んだ右の手の掌を重ねた。
石の中の声が、一斉にこちらを向いた。
怖がっている声はなかった。ただ、長い間、出られなかった声だった。耳を澄ますほど、音が増えた。赤ん坊の泣き声と、年老いた男の咳。誰かが、小さく歌っている。
掌に、石の温度が伝わってきた。生き物の体温に近い、ぬるい熱だった。脈のような震えが、指の腹を内側から押し返してくる。
壊せば、この女は死ぬ。人間ではないと分かっていても、手が止まった。ヒューズさんの時は、迷っているうちに間に合わなかった。今度は、迷った分だけ誰かが長く閉じ込められる。
手が止まった理由を、エドは自分で探した。この女のためではない。中にいる声のために、迷っているのだった。壊すことが、解放なのか、殺すことなのか。分からなかった。分からないまま、決めなければならなかった。
ニーナの、最後の声を思い出した。痛いの、なくなった。あの時、止めた手が、あの子を楽にしたのかどうか、今でも分からない。そして今、掌の下に、同じ声が何十もある。
〈いいよ、兄さん〉
アルが言った。
〈ここで止まったら、あの人たちは、まだ中にいる。……僕は、見てるから〉
エドは、うなずいた。
両手を合わせた。右の指は三本しか動かなかった。それでも、石を両の掌で挟んだ。力を、内側へ流した。
力を流した。石の震えが、一段ずつ静かになっていく。赤ん坊の声が遠のき、咳が止み、歌が途切れた。最後に残ったのは、母を呼ぶ声が一つ。エドは奥歯を噛んで、さらに力を込めた。
石は、砕けた。
砕けた瞬間、雨音が戻ってきた。それまで耳から消えていたことに、エドはその時初めて気づいた。
破片が、雨の中に散った。その瞬間、通りじゅうの暗がりから、淡い光が浮き上がった。小さな光が、一つずつ石の欠片から離れていく。いくつもあった。雨粒の間を、ゆっくりと昇っていった。
光は、壁を越えて、屋根を越えて、見えなくなった。最後の一つが消えるまで、エドは目を離さなかった。母を呼んでいた声が、どれだったのかは、分からなかった。
そこで、膝が折れた。石の脚が、泥に沈んだ。顔を上げると、雨が目に入った。冷たかった。喉の奥から、声にならない息が漏れて、止まらなくなった。拭っても、拭っても、顔が濡れた。雨のせいにできるのが、ありがたかった。
女は、最後に空を見ていた。
「全部出しても、粒ひとつ落ちない」
女は、少し笑った。
「……確認は、終わったわ。あなたの手なら、あの方の……」
それが最後の言葉だった。体が灰色に崩れた。雨が、灰を流していった。路面に、赤黒い粒だけが、幾つか残った。
通りが、静かになった。
雨の音だけが、続いていた。
***
日はとうに落ちていた。大通りの両側の窓は、まだ開いたままだった。
エドは壁を崩して、通りを元の形に近づけようとした。全部は戻せなかった。曲がった街灯、剥がれた看板、割れた舗装。直すより先に、人の声がした。誰かが泣いている。誰かが、携帯を耳に当てて叫んでいる。
向かいの店の二階の窓に、エドと同じくらいの年の少年がいた。携帯をこちらに向けたまま、動かなかった。エドと目が合った。少年は、携帯を下ろさなかった。
「撮られたな」
大佐が、筒の中から言った。血で濡れた顔のまま、笑っていた。
「見なかったことにする、程度の話では済まん」
「分かってる」
「お前を、この町にいさせるわけにはいかなくなった」
リザが毛布を持って駆けてきた。路面を転がった義肢の脚も、拾って抱えていた。エドはその毛布を、先に大佐の肩にかけさせた。傷は深かった。遠くで、消防車のサイレンが鳴り始めていた。病院へは行けない。記録が残れば、エドの名も出る。
シャッターの隙間にいた男が、通りへ出てきた。子供を抱いている。男はエドの前で足を止めて、何か言おうとして、言えなかった。それから、帽子を取って、頭を下げた。
エドは、頭を下げ返した。それしか、できなかった。
筒の中へ戻ると、大佐は壁に背を預けたまま、目を閉じていた。陣の血は、乾いて茶色くなっている。エドは隣に座り込んだ。石の脚が、からりと乾いた音を立てた。
「……ヒューズさんが死んだ時、あんたも、こんな気分だったのか」
大佐は、目を開けなかった。
「あの夜、私は間に合わなかった。お前の腕の中で死なせた。だから今夜は、飛び込んだ。それだけだ」
「それ、慰めてんのか」
「違う」大佐は、薄く笑った。「守られたことを、背負いすぎるな。背負うなら、私の分まで背負え」
「余計なこと、しやがって」
「そうだな」
「借りは返すからな。いつか、絶対」
「借りだと思うな。返さなくていい」
「うるせえ。返すっつったら返す」
エドは、膝の間に顔を埋めた。雨が、後頭部を叩いている。筒の庇が、そこだけ雨を遮った。肩が震えているのを、大佐は見ないふりをした。
***
翌日の昼、グレイシアの家のテレビが、地方局のニュースを流していた。
『昨夜、市内の大通りで、ガス管の爆発と落雷が重なり、通りの舗装が広い範囲で損壊しました。けが人は軽傷が二人。詳しい原因は調査中です』
映像が切り替わった。誰かが窓から撮った、手ぶれの映像だった。雨の中で舗装がめくれ上がり、車が浮いている。次の瞬間、画面が真っ白になる。それから、光が空へ昇っていく。
『なお、昨夜、現場周辺で複数の住民が、光のようなものを目撃しています。専門家は、落雷に伴う発光現象の可能性があるとして——』
グレイシアが、リモコンでテレビを消した。
「あの光は、何だったのかしらね」彼女は、エドを見ないで言った。
「……悪いものじゃ、ないです」エドは言った。
グレイシアは、小さく頷いた。それ以上は聞かなかった。台所へ立って、湯を沸かし始めた。
エリシアが、エドの膝によじ登ってきた。杖を珍しそうに見て、先端を指でつつく。
「エドお兄ちゃん、足が、きらきらしてる」
「街灯だからな。今夜から、道を照らす」
「ほんと?」
「嘘。明日には直す」
エリシアは声を立てて笑った。その笑い声が、居間の空気を少しだけ軽くした。エドは、自分が守ったものの重さを、膝の上に感じていた。小さくて、温かい。あの通りで、一瞬でも潰しかけた重さだった。
エドの左脚は、街灯の鉄を曲げて組み直した仮の脚だった。通りの老人が貸してくれた杖がなければ、数歩で傾く。リザが拾ってきた義肢の脚は、卓の脇に立てかけたままだった。右腕は肘から先が歪んで、指が三本しか動かない。
大佐の傷は、リザが縫った。肺は外れていた。出血が多かっただけだ、とリザは言った。大佐は、昼過ぎに起き上がって、居間へ来た。上着の肩が、包帯で膨らんでいる。顔色は悪かった。
「座れ」
「あんたこそ座れよ」
大佐はエドの向かいの椅子に腰を下ろして、しばらく黙っていた。
「下水道で拾った五つの腕輪は、私が預かる。手帳に挟んで、一番から五番まで、全員の名前を探す」
エドはポケットから腕輪を出して、大佐の掌に載せた。白いプラスチックに、掠れた番号が並んでいる。軽いのに、手放すと、指が少し寂しかった。
「それと、総裁から、電話があった」
エドは顔を上げた。
「昨夜の件は、ガス管の事故として処理された。会が、そう手を回した。お前の名前は、どこにも載らん」
「……庇ってくれたってことか」
「逆だ。会はお前を切る」大佐は、はっきり言った。「保護の申し出は取り下げられた。怪我人の家族と地元の警察は、会が抑える。お前のことは、一切、関知しないそうだ」
居間の時計の針の音が、やけに大きかった。
エドは、自分の足元を見た。迎えの車を断った朝のことを思い出した。使者の、あの丁寧な声を思い出した。断った時、こうなる可能性は考えなかった。考えていたら、断らなかったのか。分からなかった。
「そうかよ」
「それで済むとは思えん」大佐は言った。「昨夜のことは、撮られた。軍や役所にも、裏の連中にも、勘付かれた可能性がある。会がお前を切ったのは、そちらへの言い訳だ」
「……俺は、どうなる」
「籍は、そのままにしておく。会が切ったのは、お前の面倒だけだ」
「なんでだよ。切られたのに、まだあそこにいろってのか」
「会の上に、裏切り者がいる見込みが高い」大佐の声は低かった。「ヒューズを消した手は、あそこにある。報告書の提出も求められた。私は、中から探る。お前は、籍があるだけでいい。表では、何もするな」
「あんたのせいじゃねえ」
大佐は目を細めた。
「そう言うと、思った」
「だって、そうだろ。迎えを断ったのは俺だ。あんたに知らせずに、一人で研究所に行ったのも、俺だ」
「……そうだな」大佐は言った。「イズミ・カーティスには、私から連絡する。お前がまだ書けないなら、先に私が話す」
「やめろ」エドの声が裏返った。「殺される。自分で言う。……ちゃんと、自分で言うから」
大佐は、愉快そうに眉を上げた。
エドは、返事ができなかった。師匠の名前を出されて、喉が詰まった。書かなければならなかった手紙の、三文字だけが頭に浮かんだ。
***
昼下がりに、玄関のベルが鳴った。
出たのは、リザだった。戸口に、背の高い男が立っていた。黒いスーツで、ネクタイは細い。肩に、雨の名残が少しだけ残っている。男は、柔らかい声で言った。
「フィル・コールソンといいます。政府の調査員です。昨夜の通りの件で、お話を伺いたくて。こちらに、財団の技師さんが泊まっていると聞きました」
エドは、居間から顔を出した。
男はエドを見て、にこやかに頷いた。
「エドワード・エルリックさんですね。十四歳。財団の見習い技師で、書類の上では」
「……なんだよ」
「いえ。きれいな書類だと思って」コールソンは手帳を閉じた。「見習いの技師さんの書類にしては、きれいすぎる。普通は、手書きの訂正とか、古いスタンプとか、もう少し汚れるものです。あなたの書類には、それが一つもない」
エドは答えなかった。居間の奥で、大佐が身じろぎする音がした。
「昨夜、通りで大きなエネルギーの反応がありました。ガス管の爆発では、あの数値は出ません。私は、その調査に来ただけで」
コールソンの視線が、エドの右手に落ちた。手袋の下の、指の動きに。
「右腕も、左脚も、ずいぶん派手に壊れていますね。窓から撮られた映像に、金属の割れる音が入っていました」
エドの背中が固まった。
「彼は未成年だ」
大佐が、居間の戸口に立っていた。壁に肩を預けて、立っているのがやっとの顔をしている。
「保護者の同席なしでは、これ以上は答えさせん。私が責任者だ。必要なら、書面で照会してくれ」
「存じています。マスタング大佐」コールソンは、少しだけ首を傾けた。「……いえ、元でしたね。失礼しました。今日は、お顔を見に来ただけです」
大佐の目が、ほんの僅か細くなった。この男は、大佐の経歴まで調べてきている。エドにも、それは分かった。
笑ったまま、名刺を一枚、エドに差し出した。氏名と電話番号だけが書いてある。所属は、どこにもなかった。
「ご心配なく。今日、あなたを連れていくつもりはありません。今のところは。この町を出る時は、一言、連絡をください。……見失うと、少し面倒なので」
エドは、名刺を受け取った。受け取ってから、受け取るつもりはなかったと気づいた。コールソンはグレイシアに頭を下げて、背を向けた。
玄関の戸が閉まった。
「あれが、誰か分かるか」エドが聞いた。
「いや」大佐は戸口にもたれた。「何者か分からん。それが厄介だ」
「なんでだ」
「会の手口なら、読める。あれは違う。正面から来て、名乗った。堂々と名乗る者の後ろに何がいるか、分からん」
エドには、意味がよく分からなかった。分からないまま、名刺を上着の内ポケットにしまった。
***
夜、エドは二階の客間のベッドに座っていた。
雨は上がっていた。階下から、グレイシアがエリシアを寝かしつける声が、かすかに聞こえる。エドは鞄の底から、小さな円盤を取り出した。
母の声が入っていた円盤だった。捨てずに持ってきた。今は何も返さない。聴いたことも、ほとんどなかった。
〈兄さん〉
アルが言った。
〈今日、怖かった?〉
エドは、円盤を握った手を見た。
「……怖くねえ」
少し間があった。
〈声で分かるよ〉
「…………怖かった。大佐が倒れた時、また俺のせいで人が死ぬって思った。それで、何も考えられなくなった。お前が止めてくれなかったら、あの店の人間ごと潰してた」
〈止まったのは、兄さんだよ〉
「お前が言ったからだ」
〈言い返さなかったのは、兄さんだよ〉
エドは笑おうとして、笑えなかった。目の端が熱かった。袖で擦った。
「泣いてねえぞ」
〈うん〉
「見えてねえだろ」
〈見えてないよ。声で分かる〉
「なあ、アル。今日、分かったことがある」
〈なに?〉
「あの女は、作られた体に、人の魂が入ってた。……体さえ用意できりゃ、魂は入れられるってことだ。お前の体も、作れるかもしれねえ」
〈……できるかな〉
「分からねえ。でも、ゼロじゃなくなった。俺一人じゃ無理だろうけどな。頼むのは癪だけど、誰かに頼む」
アルは、少し黙っていた。
〈……うん。それは、僕も一緒に頼みに行く番かもしれないね〉
「何でだよ」
〈僕の体だから〉
〈ねえ、兄さん。あの人、言ってたよね。全部出しても、粒ひとつ落ちない、って〉
「……ああ」
〈僕がいるせいで削れてるんじゃないかって、ずっと思ってた〉
「言っただろ。削れてねえって」エドは円盤を握り直した。「あの時は、根拠なんてなかった。今日、一個できた。それだけだ」
〈一個だけ?〉
「一個あれば、二個目を探せる」
〈ねえ、兄さん〉
〈ん〉
〈僕の体、取り戻したら、最初に何を食べたい?〉
「は? 急に何だよ」
〈聞いておきたくなって。僕、パイが食べたい。ウィンリィのおばあちゃんの、焼きたてのやつ〉
「あー……あれ、熱すぎて舌やけどするぞ」
〈それでもいい。熱いって感じたいから〉
エドは、天井を見上げた。電灯の笠に、羽虫が一匹、ぶつかっては離れている。
「……分かった。一緒に、舌やけどしようぜ」
〈うん〉
エドは円盤を握ったまま、しばらく動かなかった。それから静かに鞄へ戻した。触れる気になるのは、まだ先でいい。そう思えた。
***
月曜の朝、グレイシアは玄関でエドの上着の襟を直した。
「ちゃんと食べるのよ。お昼は、鞄に入れておいたから」
「ありがとうございます」
エリシアが、母親のスカートの陰から顔を出した。
「また来る?」
「来る」エドは屈んで、目の高さを合わせた。「次は、戸を叩いて入る。……鍵は、持っとくけどな」
エリシアは真面目な顔で頷いた。
グレイシアが、エドの手に小さな包みを握らせた。重みは、ほとんどなかった。
「焼き菓子よ。道中で、アルくんと半分こして」
エドは、目を瞬かせた。
「……アルのこと、聞こえてたんですか」
「夜、壁の向こうで、アルって呼んでいたでしょう。あの人が前に言っていたの。エド君の弟さんは、遠くにいるって。会えないほど遠くのことなのね」グレイシアは、小さく笑った。「亡くなった弟さんが、エド君の心の中に、今もいるのね。会ったことはないけれど、ご挨拶はしたくて」
「アルは、食べられないんですけど」
「匂いは、分かるでしょう」グレイシアは笑った。目の縁が、少し赤かった。「あの人も、よく言っていたの。食べられなくても、一緒に座るのが、ご飯だって」
エドは、包みを鞄の一番上にしまった。礼を言おうとして、声が出なかった。代わりに、深く頭を下げた。
大佐とリザは、少し離れた車のそばにいた。大佐は、片腕を吊ったまま、車体に寄りかかっていた。
「行き先は、決めたのか」
「まず、義肢を直さねえと。ウィンリィのところだ。……師匠のところには、その後で自分で行く」
「選ぶ前に、一度、私に聞かせろ」大佐は言った。「今度は、事後ではなく」
「分かってるよ」
「それと」大佐は、声を落とした。「お前は、一人で抱え込む癖がある。あの背中を見ただろう。ああなる前に、電話をしろ」
エドは、鼻を鳴らした。それから、右手を軽く上げた。大佐も、吊っていない方の手を上げ返した。
「大佐は、石の中で、あなたを一度も疑いませんでした」リザが、小さな声で言った。「任せていたからです」
エドは、何か言い返そうとして、やめた。リザは会釈をして、車のドアを開けた。
町の外れまで、杖をついて歩いた。バス停で待った。通りの工事の音が、遠くで続いている。
バス停の隣の食堂の窓から、テレビの音が漏れていた。
『——続いて、スターク・インダストリーズのニュースです。本日、同社は、ヴァージニア・ポッツ氏が新しい最高経営責任者に就任すると発表しました。ポッツ氏は、長年トニー・スターク氏の秘書として——』
エドは、聞くともなく聞いていた。
〈ポッツって、ペッパーさんのことだよね〉
「ああ。ウィンリィの、いとこだ」
〈出世したんだね〉
「ああ」
バスが来た。エドは鞄を肩にかけて乗り込んだ。窓際の席に座ると、町の屋根が、ゆっくり後ろへ流れていった。
***
同じ朝、遠く離れた街の事務所で、男が一人、机の上のファイルを開いていた。
黒いスーツ、細いネクタイ。昨日と同じ柔らかい顔で、コールソンは、書類の余白にペンを走らせた。
氏名:エドワード・エルリック。年齢:十四。所属:財団(確認中)。現象:装置を使わず、素手の接触を起点に、広範囲の物質の形が組み替わる(動画で確認)。土曜夜の反応値は、これまでの観測記録にない。
最後に、表紙の右上に、ペンで一言だけ書いた。
要観察。
ペン先が、紙の上で止まった。