MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
包帯を替える間、ロイは黒い手帳から目を離さなかった。
借りた家の居間は、ヒューズの町から車で一時間ほど離れた、郊外の道路沿いにあった。窓の外を、トラックが一台、砂埃を上げて通り過ぎた。左肩と脇腹の傷は、リザが縫い直した。病院へは行けなかった。記録が残れば、名前も残る。
「動かないでください」
「動いていない」
「呼吸が動いています」
リザは包帯の端を結んだ。ロイは右手だけで手帳の頁を繰った。ヒューズの字は角ばっていて、癖がある。点検の記録、見回りの時刻、財団の担当への問い合わせの回数。担当の返事は遅い、と書いてある。粒の件の返事だけが、一分だった。ヒューズは、それに気づいていた。
死の三日前、水曜の頁に、粒を州立大に送った送り状の写しが挟んである。金庫の中身の覚え書き。川下の古い下水道の地図。最後の頁の写しはエドに渡した。原本は読み返せないと思っていたのに、毎晩、開いている。
金庫の粒のことを書いたのは、私だ。火曜の夜に書いて、本部に出した。
リザが湯で濡らした布を絞りながら言った。
「また同じ頁を見ています」
「確かめているだけだ」
「何を」
ロイは答えなかった。リザも聞き返さなかった。
総裁は、日曜の電話で、休め、と言った。そのすぐ後に、報告書は期限までに出せと言い、エドを切ると告げた。声は、ずっと優しかった。二年前、軍を辞めた私に、会の現場を任せた時と、同じ声だった。
手帳の後ろの方に、戦場にいた頃の走り書きが、一行だけ残っていた。生きて帰れたら、家に帰れる仕事をする。ヒューズは、そう言って軍を辞めた。私が辞めたのは、その後だった。
手帳を閉じた。
***
火曜の夕方に、玄関のベルが鳴った。
リザが、銃に手を伸ばしかけてやめた。覗き窓の向こうに、火の点いていない煙草を咥えた男が立っていた。金髪を逆立てて、紙袋を二つ抱えている。
「大佐ー。生きてますか」
リザが扉を開けた。男は靴の泥を落としもせずに入ってきて、居間の椅子に紙袋を置いた。
「ハボック少尉」ロイは言った。「……お前か」
「あ、もう大佐じゃないんでしたっけ。すんません、癖で」ハボックは咥えた煙草を揺らした。「俺も軍を辞めて、今は、まあ、似たようなとこで働いてます。差し入れです。缶詰とパンと薬。ブレダが選んだんで、半分は要らないやつですけど」
ハボックはロイの包帯を見た。軽口が、そこで止まった。
「ヒューズさんのこと、聞きました。……ひでえな」
「大した傷ではない」
「肺は」
「外れた」
「運が良かった」
「運ではない。優秀な子供がいた」
「来る途中で、奥さんとエリシアちゃんにも会ってきました。墓にも、挨拶しときました」
「そうか」
「奥さん、そっちの怪我を気にしてましたよ。まだ顔を見せてないんでしょう」
「……行けるときに行く」
ハボックは何か聞きたそうな顔をした。リザが湯呑みを三つ運んできた。
「用件を」
「ああ、それなんですけど」ハボックは頭を掻いた。「さっき言った職場の、うちの上司が、会いたがってます。辞めてすぐ声をかけられたんですよ。給料がよくて」
ロイは湯呑みを持つ手を止めた。
「どの機関だ」
「それは、会って、上司の口から聞いてください。俺も全部は知らないんで。悪い連中じゃないです。少なくとも、俺の知ってる範囲では」
「上司の名前は」
「コールソンさん」
ロイはリザと目を合わせた。リザの口元がわずかに引き締まった。
日曜に、ヒューズの家へ来て、エドに名刺を渡した男だ。二日後に、二年見なかった元部下が来る。偶然にしては、整いすぎている。
「ハボック。お前は、私の居場所を誰から聞いた」
ハボックは煙草の先を指で押さえた。
「……上司です。調べたのは、別の人ですけど」
「お前を使って、私を呼んだ」
「そういう言い方も、できます」ハボックは困った顔で笑った。「でも、断ってもいいです。断ったからって、何かされるわけじゃない。俺が保証します」
ロイはしばらく黙っていた。
「会う。条件は私が決める」
「それ、俺から言っていいんですか」
「お前の上司に、そう伝えろ」
ハボックは背筋を伸ばした。
「了解です」
ハボックは背筋を伸ばして、それから、照れたように煙草を咥え直した。
ハボックが外で煙草に火を点けている間に、リザが湯呑みを片づけながら言った。
「彼らと組むおつもりですか」
「話を聞くだけだ」
「聞いたら、あの子の話をしないわけにいきません」
「そのとおりだ。だから、コールソンの話は、先に私が聞く。あの子に聞かせるのは、その後だ」
リザは湯呑みを置いた。
「その間、傷を治すことは、お忘れなく」
***
水曜の午後、コールソンは部下を連れずに来た。
玄関の前で柔らかく頭を下げた。手には紙のコーヒーカップを二つ持っている。
「お見舞いに、と思いまして。ブラックで良かったですか」
「毒味をしろと言うのか」
「そう仰ると思いました」
コールソンは自分のカップを一口飲んでから、ロイに差し出した。ロイは右手で受け取った。毒は入っていなかった。それでも飲む気にはなれなかった。
居間の椅子に、二人は向かい合って座った。リザは台所の戸口に立っていた。ハボックは外の車で待っている。
「マスタングさん。まず、お伝えしたいことがあります」
「何だ」
「ヒューズ保安官のことです。お悔やみを。私は会ったことがありませんが、町での評判は、いくつも聞きました」
ロイはカップを机に置いた。
「評判」
「通りの雑貨屋の主人が言っていました。あの保安官は、誰にでも名前で挨拶する、と。うちの息子が迷子になった時も、一晩中探してくれた、と」
ロイはすぐには答えられなかった。
「用件を聞こう」
「その前に、私の所属を。S.H.I.E.L.D.(シールド)という機関です。国土の安全に関わる仕事をしています。細かいことは、今は名前だけ。隠して近づくより、正面から名乗る方が、信用していただけると思いまして」
「聞いたことがない」
「聞かれないように、作られていますから」
ロイは右手の指先で机を叩いた。
「政府の調査員、というのは」
「嘘ではありません。全部でもありません」
コールソンは悪びれなかった。ロイは、その態度を少しだけ評価した。
「私どもは、財団が子供を選んでいる件を追っています。あなたは、その財団の方ですね」
「そうだ」
「では、お互いに言えることだけ言う形で、いかがでしょう」
「構わん」
「あなたの動きを教えてほしいわけではありません。一つだけ伺います。保安官事務所から持ち出された物が、一つあります。何かは、こちらでは分かっていません。ご存じなら」
ロイは、粒のことをどこまで言うかを、少しだけ考えた。
「人の手で作られた、粒だ。出所は分からん」
「それを、報告書に書きましたか」
ロイの背筋が強張った。リザの視線が横顔に刺さった。
「……書いた。読めたのは、本部にいる者だけだ。誰かは特定できない」
「確証がない、ということですね」
「そういう意味だ」
コールソンは手帳を開いた。
「あなたの疑いを、そのまま教えていただく必要はありません。思い当たる方向があれば、私には聞こえるように話してください。書き留めませんから」
ロイは唇の端だけで笑った。
「書き留めない諜報員が、いるものか」
「私は、書き留めた後で、話を聞くのが得意ですが」
「それは、書き留めるということだ」
「ええ」
ロイは、ようやく肩の力を抜いた。
「財団の中に、私の知らない動きをしている者がいる可能性は、考えている。確証はない。名前は出さん」
「十分です」
「条件がある」
コールソンは手帳を閉じた。
「伺います」
「エドワード・エルリックに、三週間、手を出すな。あの子は、右腕と左脚を壊した。義肢の修理には三週間かかると、本人から聞いた」
「その後は」
「その後も、決める前に、私に話をさせろ。あの子を、兵器として扱うな」
「兵器にするつもりは、ありません」
「口で言うのは簡単だ」
「私は、そうさせません。それで足りないなら、足りるまで、見ていてください」
ロイはコールソンの目を見た。柔らかい顔の奥に、動かない芯があった。
「もう一つ。あの子に、嘘はつくな」
「ヒューズ保安官の、教えですか」
「あの子の、癖だ。ヒューズが、先に気づいていた」
「嘘はつきません。ただ、言わないことは、あります」
「それなら構わん」
コールソンは立ち上がって頭を下げた。
「三週間、お待ちします」
「待つなら、ハボックに飯を奢れ。あいつは、安月給のはずだ」
「検討します」
コールソンは笑って玄関へ向かった。扉が閉まった。リザが台所の戸口から出てきた。
「信用なさるのですか」
「していない」
「では、なぜ」
ロイは冷めたコーヒーを見た。
「私は、あの子に、何も差し出せなかった。町の夜も、通りの夜も、守られたのは私の方だ。せめて、あの子に近づく人間の顔は、私が先に見ておく」
リザは何か言いかけて、やめた。
「大佐。その傷は、まだ縫い目が閉じていません。お休みください」
「分かっている」
ロイは肩を竦めた。立ち上がろうとしたのは、本当だった。
***
その夜、ロイは手帳に挟んだ五つの白い腕輪を、机の引き出しにしまいかけた。
ハボックが、居間の隅から、それを見ていた。
「それ、何ですか」
「見るな」
「見ちまいました。……協力者、って印字されてる。番号付きだ」
ロイは引き出しを閉める手を止めた。
「どこかで見たか」
「病院で腕に巻く奴に似てます。でも、文字が違う」ハボックは煙草を指先で転がした。「うちの機関に、記録を探す部署があります。現物はいりません。番号と文字の写しだけで、探せるかもしれない」
「現物は渡さん」
「それでいいです」
ロイは便箋を一枚破って、五つの番号を、順に書き写した。一番から五番まで。下水道で拾った。持ち主の名前を探す、と、エドの前で約束した。
「私の名前は出すな」
「マスタングさんは、俺の上司に、何を条件に出したんですか」
「飯だ」
「は?」
「お前の飯だ」
ハボックはきょとんとした。それから声を上げて笑った。リザも台所で、わずかに口元を緩めた。
ロイは便箋の番号を、もう一度指で追った。名前が、あるはずだった。誰かの子供で、誰かの兄で、誰かの友人だった人間の。
***
三週間後の木曜の夜、電話が鳴った。
ロイは居間の椅子から立ち上がった。傷はほとんど塞がって、左腕を吊る布も外れていた。受話器を取る。
『もしもし。……俺』
「お前か」
『電話しろって、言ったろ。選ぶ前に』
ロイは椅子の背に手を置いた。
「何を選ぶ」
『あのコールソンってやつから、電話が来た。会えないかって。三日後に決める、って言った』
「そうか」
『……怒んねえのか』
「怒る理由が、ない」ロイは言った。「会う前に、もう一度電話をしろ。あの男の話を、先に私が聞かせる」
受話器の向こうで、息を吐く音がした。
『分かった』
「脚はどうだ」
『直った。前より、軽い』
「そうか」
『……あんたの腕は』
「治った」ロイは嘘をついた。まだ、時々痛んだ。
『嘘ついてんだろ』
「お前は、嘘に敏感だな」
『うるせえ』
電話が切れた。ロイは受話器を戻した。リザが、居間の戸口に立っていた。
「あの子は、電話をしましたね」
ロイは何も言わずに、机の引き出しを開けた。奥から、発火布の手袋を出して、右手にはめてみた。指を鳴らす前に、手を下ろした。