MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
飛行機の窓の外は、もう半日近く、青い海と雲しか見えなかった。
エドは座席に深く沈んで、コートの内ポケットに手を入れていた。ヒューズの鍵が、指に触れる。施設を出てから、何度これを触っただろう。夜が明けた砂漠で、顧問契約の延長にサインをした。紙一枚で、バートンへの借りが「任務」の名前を貰った。それだけのことだった。
〈兄さん、寝てないでしょう〉
〈寝た。三十分くらい〉
〈それは寝てないって言うんだよ〉
〈うるせえ。この座席、狭すぎんだよ。足が伸ばせねえ〉
〈兄さんの足、片方は機械なのに〉
〈だから余計にだ!〉
アルの声は、いつもより遠慮がちだった。あの男に「先客」と呼ばれてから、アルは自分から話しかけてくる回数が減っている。見られたことを、まだ引きずっているのだろう。エドもそうだった。胸の奥の、冷たいものが入ってきて止まった場所が、ずっと、打ち身のように疼いている。
〈着いたら、バナーって人に会うんだよね〉
〈ああ。半日、先に入っていいって言われた。ナターシャって人が着くまでに〉
〈断られたら?〉
〈断られる。たぶん〉
エドは窓の外に目を戻した。断られても、いい。ただ、顔を見せておく。先に一人で行って、話だけして帰る。追われてると思わせたら、相手は逃げるだけだ。
隣の席では、同行のエージェントが、地図を膝に広げていた。コールソンの部下だと名乗ったが、名前は聞いていない。聞く暇もなかった。
「ロマノフ捜査官は、ロシアでの任務を終えてから、夜にはコルカタに入ります」
「その間は、俺がバナーに話す」
「話すだけでお願いします」エージェントは地図から目を上げなかった。「彼を驚かせると、危険ですから」
「分かってる」
「本当に、分かっていますか」
「十回聞いた」
エージェントは、それ以上は言わなかった。
***
コルカタに着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
空港を出た途端、空気が体にまとわりついた。排気ガスと、揚げ物の油と、濁った川の匂いが、湿気に溶けて鼻の奥に居座る。右腕と左脚の付け根が、汗でじっとりと重くなった。機械鎧の継ぎ目に水気が入ると、動きが一拍、遅れる。
〈暑いね〉
〈機械鎧には最悪だ〉
車は大通りをしばらく走って、途中で降りた。そこから先は、人の波を縫って歩くしかなかった。リキシャの鈴、露店の呼び声、どこかのラジオから流れる歌。路地に入ると、洗濯物と電線が頭の上で交差して、空が細い帯になった。
子供が三人、エドの左脚を見ていた。歩き方の癖を、目が追っている。エドが顔を向けると、三人とも、同時に目を逸らした。
〈ああいう目、久しぶりだね〉
〈慣れてる〉
〈慣れてる、って言う時の兄さんは、慣れてない時だよ〉
エドは答えなかった。
エージェントは、路地の入口で足を止めた。
「私はここで待ちます。小屋の中には、一人で」
「監視は」
「外から、見ています」
「それ、俺に言っていいのか」
「言っておかないと、あとで怒るでしょう」
エドは鼻で笑って、路地の奥へ入った。
紙に書かれていた住所は、診療所とも呼べない代物だった。トタンの屋根の下に、布が一枚垂れている。それが入口だった。布をめくると、薬と汗と、湿った藁の匂いが流れ出てきた。
中には簡易の寝台が十ほど並んでいた。咳をしている老人、腹を押さえた女、膝の上で眠る赤ん坊を抱えた母親。奥の流しに、背の高い痩せた男が立っていた。眼鏡をかけて、桶の水で手を洗っている。シャツの袖口が擦り切れていた。
「診察は、午後三時からだよ」
英語だった。男は、振り向きもしなかった。
「診察じゃねえ。ブルース・バナー、だろ」
男の手が、水の中で止まった。
水音が、消えた。患者の咳だけが、小屋の中に残った。
「帰ってくれ」
「話があるだけだ。論文を読んだ。ガンマ線と細胞再生のやつ」
「誰の論文の話だ」
「あんたのだ。エドワード・エルリックだ。研究者……まあ、あんたの論文を全部読んだ奴だ」
「全部、ね」バナーは、ようやく振り向いた。
疲れた目だった。何年も眠れていない人間の目だった。その目が、エドの背丈と、右の袖の下の硬い輪郭と、床を踏む左脚の音の重さを、順番に見ていく。診られている、と感じた。
「何歳だ」
「十五。もうすぐ十六だ」
「ここは、子供の来る所じゃない」
「どこも、そうだろ」
バナーは、少しだけ黙った。
「研究者を名乗る奴は、これまでも来た。口だけの奴が多かった。……手は動くのか」
水桶の脇に置かれた、小さな機械を顎で指す。
「あれが動かない。三日前から」
揚水ポンプだった。診療所の水は、あれで井戸から引いている。止まって三日、ということは、患者の水は誰かが桶で運んでいたのだろう。流しの横の床に、濡れた跡が点々と続いていた。
「見ていいか」
「壊さないなら」
エドはしゃがんで、左の手袋を外した。素手の指先を、ポンプの胴にそっと当てる。
金属の中の、ひびの走り方が分かる。羽根の根元が、髪の毛ほどの細さで割れていて、軸が少しずれている。素材は鋳物。古い部品だ。無理に動かし続けたせいで、割れ目が熱で広がっていた。
手が覚えた位置を頭に留めて、手袋をはめ直した。それから、バナーに道具を借りた。ばらして、割れた羽根の縁を紙やすりで削って、針金で軸を押さえる。細かい作業だった。時間のかかる分だけ、汗が目に入った。
バナーは、その間ずっと、何も言わなかった。患者の額に手を当てて、熱を診ている。手首の内側を、時々、指で押さえていた。自分の脈を数えているのだと気づくまで、少しかかった。診察の合間に、必ずやっている。何かが変わる前触れを、自分で見張っているのだ。歩き回るたびに、寝台の脚と床の隙間を、足の先が自然に避けていた。この小屋のどこに何があるか、体が覚えている。一年か二年はここにいる人間の歩き方だった。
水が出たのは、日が少し傾き始めた頃だった。
寝台の誰かが小さく声を上げた。蛇口から落ちる水を見て、子供が笑った。
「あんた、直せるのか」バナーが、初めてエドの顔を見た。
「半分な。部品が割れてた。針金はしばらくもつけど、新しいのに替えろ」
「……ありがとう」
「礼はいい。論文の続きだ」
エドは桶の水で手を洗って、棚の端に腰を下ろした。バナーは、少し迷ってから、向かいの空き箱に座った。
「あんたの論文、あの数字、おかしいだろ」エドは身を乗り出した。「傷の塞がる速さ。桁が違う」
バナーの目が、一瞬だけ動いた。
「……どこが」
「足したんじゃねえ。押し上げてんだ、体の仕組みを」
「その読み方をした人は、初めてだ」
「俺は、別の道で近いことを考えてた。石に頼らないで傷を塞ぐ方法」
「石?」
「比喩だ。便利な近道のことだ」エドは目を逸らした。「そういうのは、だいたいツケがある」
バナーの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……だろうね」
「見りゃ分かる」
それきり、二人は黙った。患者の咳と、蛇口の水音だけが、小屋の中を行き来した。
エドは、その場を離れなかった。バナーに頼まれて、薬の瓶を運んだ。濡れた布を絞って、老人の額に載せた。熱を出した少年が泣き出したので、抱えて背中を叩いた。少年の体は小さく、軽く、熱かった。昔、熱を出したアルを背負った時と、同じ重さだった気がした。そこで考えるのをやめた。
バナーは、少年を受け取りながら言った。
「慣れてるな」
「弟が、小さい時にな」
それだけだった。誘う言葉は、一言も口にしなかった。バナーも、帰れ、とは言わなかった。
〈兄さん〉
〈何だ〉
〈あの人、すごく静かに怒ってる。ずっと〉
〈ああ。自分に、な〉
エドは少年の背中に、掌を置いたまま、言った。
〈分かるんだ。俺も——〉エドは言いかけて、やめた。
アルは、続きを聞かなかった。聞かなくても分かる。少年の呼吸が、掌の下で、少しずつ深くなっていく。
***
夕方、診療所の裏口で、バナーが小さな鍋を火にかけていた。
「飲むか。紅茶だ」
「もらう」
差し出された素焼きの器から、甘い匂いがした。口をつけた瞬間、エドの眉が寄った。
「……これ、ミルクが入ってる」
「この辺りの茶は、牛乳で煮るんだ」
「俺は飲まねえ」
「そうか」バナーは平然と、自分の分を飲んだ。「慣れる。毎日飲むと、三日目で諦めがつく」
「三日も、いねえよ」
「そうだったね」
エドは器を両手で持ったまま、湯気を睨んだ。結局、半分は飲んだ。残りは、そっと流しに捨てた。バナーは見ないふりをしていた。
裏口の外には、乾いた空き地があって、子供が三人、古い自転車の車輪を転がして遊んでいた。夕日が、その背中を赤く染めている。
「さっきの話の続きだ」エドは言った。「傷が塞がる速度のこと」
「うん」
「あれ、代わりに何を払ってる」
バナーの手が、器の縁で止まった。
「払う、と言うのか」
「速く治るなら、どっかから持ってきてんだろ」
「そのとおりだ」バナーは、空き地の方を見たまま言った。「僕の場合、見えにくい形で払ってる。睡眠は、ほとんど取れない。体温は、緊張すると上がる。記憶が飛ぶことがある。……あれが出たあと、何をしたか思い出せない」
「あれ」
「あれ、だよ」
エドは、深くは聞かなかった。聞かなくても、大体の想像はついた。昼間、袖口を何度も押さえていた手。脈を数える癖。
「戻れるのか」エドは聞いた。自分でも、何を聞いているのか分かっていなかった。「一度、失ったものを。そのまま」
バナーは、少し黙った。
「戻れない。僕のは、壊れたまま動くだけだ」
「君は、戻したいものがあるのか」
「別に」
「そうか」
バナーは、器の縁を指でなぞった。
〈兄さん〉
〈言うな〉
〈何も言ってないよ〉
〈言おうとしてた〉
アルは黙った。夕日が、地面の影を長く伸ばしていく。エドは器の底に残った茶を見ながら、思った。この人は、石を使わずに、体のほうを変えた。代償は、石の代わりに、睡眠と記憶と、時間が払っている。それでも、動いている。
もしも、あの方法に近い何かが、石を使わなくても——そこで、考えを打ち切った。まだ早い。何も分かっていない人間に、期待を預けるな。
「礼を言う」バナーが言った。
「何の」
「紅茶を残さなかった」
「残したよ」
「半分は、飲んだ」
エドは舌打ちをした。バナーは、今日初めて、声を出して笑った。
***
日が落ちて、ポンプの音が遠くなった頃、布の入口が揺れた。
赤い髪の女が、夜気と一緒に入ってきた。名乗られる前に、ナターシャだと分かった。足音が、まったくしなかった。
彼女はエドを、一度だけ見た。何も言わなかった。それから、診察台のバナーに向かって、まっすぐ歩いていった。
「ドクター。話があるの」
エドは立ち上がって、奥の仕切りの布の向こうへ下がった。聞こえてしまう位置だ。わざとだった。
「世界規模の危機が迫ってる。あなたの力が必要」
「やめてくれ」
「見てほしいものがあるの」
紙の鳴る音がした。何かの写真を、見せたらしい。バナーの息が、短くなった。
「やめろ! もう、嘘をつくな!」
床が軋んだ。小屋の空気が、重くなった。患者の咳が、一斉に止まった。
〈兄さん、止めに出る?〉
〈出ない〉
エドは、布の隙間から覗いた。ナターシャの手が、腰の拳銃の近くにあった。抜いてはいない。構えもしない。ただ、いつでも抜ける位置に手があって、顔だけが静かだった。その静けさが、かえって怖かった。
バナーは、両手を自分の胸に押し当てていた。肩が上下している。首筋の血管が浮いて、皮膚の色が、じわりと変わりかけていた。緑がかった、鈍い色。
エドは息を止めた。足の裏に、小屋の床の冷たさが急に伝わってきた。見たことのある形だった。内側の何かが出口を探して、体を押している。ひびの入った器の前で、何度も見てきた顔だ。ローズも、あの広間の人々も、こんな顔をしていた。
バナーは目を閉じた。長く息を吐いて、また吸って、三度、繰り返した。
色が、戻っていった。シャツの袖口が、わずかに裂けていた。伸びかけた腕が、縮んだ跡だった。
「……すまない。大声を出した」バナーの声は、ひどく疲れていた。
ナターシャは、手を腰から下ろした。
「怒ってはいないわ」
「こっちが、怒るとまずいんだ」
小屋の外から、靴音が近づいてきた。何人もの、揃った足並み。バナーは、ようやく気付いたらしい。顔を上げて、ナターシャを見た。
「君と、僕の二人だけか」
「いいえ」ナターシャは、あっさり認めた。「でも、あなたが首を横に振れば、彼らは入ってこない」
バナーは、ゆっくりと仕切りの方を向いた。
「そこの子も、そうかい」
エドは布を引いて、出ていった。隠れているのが馬鹿らしくなった。
「聞いてた」
「だろうね」バナーは、ほんの少しだけ笑った。「君は、行くのか」
エドは、ナターシャを見た。ナターシャは、何も言わずに待っている。自分で答えろ、という顔だった。
行く、と答えるのは簡単だ。ただ、それだと、嘘が混ざる。バナーの目を見ていると、嘘をつく気が、失せた。
「借りがある」エドは言った。「作ったままにして、帰れねえ」
「借り」
「庇ってくれた奴がいる。まだ、返せてない」
バナーは眼鏡を外して、指で目頭を押さえた。しばらく、そのまま動かなかった。それから、眼鏡を戻して、棚の上の水差しに視線を落とした。
「ポンプの部品を、替えてから行く」
「なら、俺がやる」
エドは水桶の脇に膝をついた。棚の隅に、錆びた鉄屑が積まれている。針金で押さえた羽根を外して、その上に置き、鉄屑に手を伸ばして、両の掌を打ち合わせた。
青白い光が、小屋の暗がりを一瞬だけ照らした。鉄屑が盛り上がって、形を変える。光が消えた時、掌の間には、傷一つない新しい羽根があった。
ナターシャが、初めてエドの顔をまっすぐ見た。バナーは、息を止めたまま、エドの両手を見ている。
「……君も、そうなのか」
「あんたと同じ、とは言わねえ。でも、俺も普通じゃない」
バナーは、何も言わなかった。眼鏡の奥の目から、疲れとは別の何かが、少しだけ薄れた。この世界で自分だけではなかった、と知った人間の目だった。
エドが羽根をはめ込むと、蛇口の水は昼間よりも勢いよく流れた。
「水まで直したのね」ナターシャが言った。
「ついでだ」
「ついででも、直した」
それだけ言って、彼女は背を向けた。声に、棘がなかった。
***
バナーの荷物は、古い布の鞄一つに収まった。
着替えが二枚。擦り切れた手帳。眼鏡の予備。薬の瓶が三つ。鞄の底には、折りたたんだ地図が一枚入っていた。エドは手伝おうとして、手を引っ込めた。持ち物を触られるのを、この人は好まないだろう。
小屋の若い手伝いが、エドの作った羽根の付いたポンプを、両手で何度も撫でていた。バナーが、現地の言葉で何か説明している。エドには分からない言葉だった。でも、ゆっくり、同じ言葉を二度繰り返す話し方で、聞かせたい内容は伝わった。
寝台の奥から、小さな女の子が出てきた。昼間は、見かけなかった子だ。バナーの白衣の裾を、無言で握った。
バナーは、膝をついて、女の子の頭に手を置いた。
「すぐ戻る」英語だった。「ちゃんと、戻ってくる」
女の子は何も言わなかった。握った裾を、離さない。バナーは、握られたままの裾ごと、少しの間、動かなかった。それから、そっと指を一本ずつ外した。
嘘だ、とエドは思った。この人は、戻ってこない。本人も、それを知っている。知っていて、そう言った。
女の子が、エドを見た。黄色い小さな花を一輪、差し出してくる。庭に落ちていたものを、摘んできたのだろう。エドは受け取って、どうしていいか分からなかった。
「ありがとな」
通じたのかどうかは、分からない。女の子はうなずいて、また寝台の奥へ戻っていった。
〈兄さん、それ、持っていくの〉
〈……枯れるぞ〉
〈押し花にすればいいよ。本に挟めば〉
エドは、花をコートの内ポケットに入れた。ヒューズの鍵の隣だった。
***
夜中の滑走路で、エドは機体のタラップに腰掛けて、待っていた。
バナーは、診療所に最後の引き継ぎを済ませてから、別の車で来ることになっていた。出発が少し遅れたのは、そのためだった。エドは何も言わなかった。待つのは、嫌いじゃなかった。
「食べた?」
隣に、ナターシャが座った。差し出してきたのは、軍用のレーションだった。
「食った」
「嘘ね。唇が乾いてる」
エドは、袋を受け取った。中身はビスケットとチーズで、チーズは少し固かった。黙って齧っていると、ナターシャが、前を向いたまま言った。
「借りの話、聞いてもいい?」
「聞いてどうすんだ」
「どうもしない。ただ、聞きたいだけ」
エドは噛んでいたビスケットを飲み込んだ。
「やられそうになった時に、助けられた。そいつは、俺の代わりにやられた」
「死んだの?」
「死んでねえ。……死んでない、と思う」
ナターシャは何も言わなかった。滑走路の向こうで、風に煽られた布がはためいている。しばらくして、彼女は言った。
「貸した方が、返してほしいと思っているとは限らないわ」
「知ってる」
「知ってる顔をしてない」
「うるせえな」
ナターシャは、小さく笑った。息が漏れたような音だった。
「あなたの借りがどう返されるかは、私には分からない。でも、返しに行く時は、一人で行かないで」
「何でだよ」
「私が、そうしなくて失敗したから」
それ以上は、話さなかった。ナターシャは立ち上がって、機内に入っていった。エドは、齧りかけのビスケットを手に持ったまま、閉まりかけの扉を見ていた。
〈いい人だね〉
〈いい人かは、分からねえ〉
〈でも、嘘はついてなかった〉
〈それは、そうだ〉
背後から、バナーの足音が来た。眼鏡のレンズが、滑走路の灯りを一つずつ拾って光った。
「行こうか」
「ああ」
エドは立ち上がって、齧りかけのビスケットを口に放り込んだ。タラップの金属が、足の下で低く鳴った。