MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
翌朝、エドは看護師に起こされた。
「朝ごはん、冷めるわよ」
扉の向こうで言うだけ言って、足音が階段を降りていく。エドは枕に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。
〈起きたほうがいいよ〉
〈分かってる〉
〈昨日の夜、兄さん三回寝言言ってた〉
〈言ってねえ〉
〈言ってた。一回は「牛乳」って〉
〈……忘れろ〉
〈無理だよ。僕、寝ないから全部聞いてるもん〉
エドは上半身を起こして、髪をかき上げた。左手の手袋は枕元に置いてある。窓の外はもう明るくて、広場のほうから荷車の音が聞こえた。
食卓には、焼いたパンと卵、豆のスープが並んでいた。ハリス院長はもう席についていて、新聞を畳みながら顔を上げた。
「よく眠れたかね」
「はい。ベッド、助かりました」
「そりゃよかった。今日は急ぎの仕事もないから、ゆっくりしていきなさい」
「院長先生」
エドはスープに口をつけてから、切り出した。
「あの導師って人、いつ頃から町にいるんですか」
院長の手が止まった。給仕をしていた看護師も、ちらりと院長を見る。
「三か月ほど前だな。教会の裏の空き家を借りてね。最初は追悼の会という名前で、身内を亡くした老人が五、六人集まるだけだった」
「それが今は」
「昨日の夜の集会で、四十人は入ったと聞いとる」
「四十人。この町、どれくらいの人口ですか」
「千人はおらんよ」
エドはパンをちぎって、口に放り込んだ。噛みながら考える。四十人。小さな町には多すぎる。
「先生は、行ったことありますか」
「一度だけな。誘われて」
「どうでした」
「いい話をする人だったよ。悲しみを無理に忘れなくていい、とか、死んだ人はそばにいる、とかね。聞いていて悪い気はせんかった」
「それだけですか」
「それだけだ」
院長は少し間を置いて、付け足した。
「帰りに、寄付箱があった。みんな自然に入れていくんだ。私も入れた。ほんの小銭だがね。そのとき、箱の横に立っていた青年が、私の手元を見ていた。金額を数えているような目だった」
「灰色の長衣の」
「会ったのかね」
「昨日、広場で紙をもらいました」
看護師が小さく息を吐いた。それから、思い出したように前掛けのポケットから何かを取り出した。
「そうだ。エドくん、頼まれてくれない?」
淡い藤色の布だった。肩掛けらしい。
「ローズさんが昨日、待合室に忘れていったの。家は川沿いの、青い屋根のところ。今朝はまだ見えなくて、昨日のことで来づらいのかもしれない。届けてあげてくれる? 私、午前中は手が離せなくて」
エドは肩掛けと看護師の顔を見比べた。
「……俺ですか」
「他にいないもの」
〈行こうよ〉
〈なんで俺が〉
〈昨日のこと、ちゃんと謝ってないでしょ〉
〈謝る必要あるのかよ。あっちは何も怒ってなかった〉
〈兄さん〉
声の調子が変わらないので、かえって重かった。エドは舌打ちをこらえて、肩掛けを受け取った。
「分かりました。届けます」
「ありがとう。お昼は帰ってこなくていいわよ、お弁当作っておくから」
「そこまでは」
「持っていきなさい」
看護師の言い方に逆らえず、エドは頷いた。枕元の手袋を左にはめ、肩掛けを持って階段を降りた。
***
川沿いの道は、町の外れに向かってゆるく曲がっていた。
水は浅く、石の上を細く流れている。柳が何本か並んで、枝の先を水面にくっつけていた。道の端には、洗濯物を干した庭先が続いている。
その柳の下で、小さな男の子が一人、石を水に投げていた。投げては、数を数えている。
エドは通り過ぎようとして、足を止めた。男の子の投げ方があまりに雑で、石がどれも一回も跳ねずに沈んだからだ。
「それ、手首だ」
「え?」
「腕で投げてるだろ。手首を返すんだよ。見てろ」
エドは足元の平たい石を拾って、体を横に向けた。右腕は動かさない。左手だけで、低い位置から水平に放った。石は水面を四回跳ねて、向こう岸の草に消えた。
「すげえ」
「ほら、やってみろ」
男の子は言われたとおりに投げた。二回、跳ねた。目を丸くして、エドを見上げる。
「兄ちゃん、強いの?」
「強くねえよ。水切りが得意なだけだ」
「兄ちゃんもここの人?」
「違う。昨日来た」
「ふうん」
男の子は次の石を探しながら、ぽつりと言った。
「母さんがさ、夜に誰かとしゃべってるんだ」
エドの手が止まった。
「誰か、って」
「分かんない。寝室で、小さい声で。誰もいないのに、ずっと笑ってる。この前は、僕が起きてきたら、慌てて布団かぶって寝たふりした」
「親父さんは」
「もういない。去年、仕事で」
男の子はそこで言葉を切って、石を投げた。三回、跳ねた。
「前はよく泣いてたんだ、母さん。今は泣かない。笑ってる。でも、朝になっても僕の顔見てないんだ。目を合わせてくれない」
エドは言葉が出なかった。内側の弟も黙っている。
「……パン食うか」
鞄の中の弁当の包みを開いて、挟んであったパンを半分に割り、男の子に渡した。
「いいの?」
「俺は一個で足りる」
男の子はパンを受け取って、その場で食べ始めた。口の周りにパン屑をつけたまま、「ありがとう」と言った。
エドは立ち上がって、川沿いの道を歩き出した。
〈……兄さん〉
〈なんだよ〉
〈さっきの、本当は足りないでしょ〉
〈足りるって言っただろ〉
〈兄さん、朝あんまり食べてなかったもん〉
〈うるせえ〉
***
青い屋根の家は、すぐに見つかった。
小さな平屋で、庭に干し草の束が積まれている。扉をノックすると、中から足音がして、ローズが顔を出した。
「あら」
驚いた顔だった。それから、少しだけ警戒するような、困ったような目をした。
「昨日の、技師さん」
「エドワードです。あの、これ」
肩掛けを差し出す。ローズは受け取って、胸に抱えた。
「まあ。わざわざ。ありがとう」
「看護師さんに頼まれただけで」
言いかけて、エドは口を閉じた。言い訳みたいに聞こえた。弟が内側で、何も言わないまま、じっと待っているのが分かる。
「……昨日は、悪かった」
声が低くなった。
「あんたに言う話じゃなかった。いや、言ってること自体は間違ってねえとは思ってる。けど、あんな言い方は」
〈兄さん、言い訳〉
「……とにかく、悪かった」
ローズは目を丸くして、それからふっと笑った。昨日の、頬の力を抜くような笑い方とは少し違った。
「いいのよ。入って。お茶くらい出すわ」
「いや、俺は」
「お昼まだでしょう?」
断る理由が見つからなかった。
居間は小さく、きちんと片付いていた。暖炉の上に、男の写真が飾ってある。四角い顔で、眉が太く、写真に向かってやや照れたように笑っている。
「あの人、ジョン。笑った顔が下手でしょう。写真屋さんが何度も撮り直したの」
「そうですね」
「あら、否定しないのね」
ローズはお茶を淹れながら笑った。カップをエドの前に置く。琥珀色の茶だった。ミルクの小瓶が、横に添えられている。
「ミルクは」
「いりません」
食い気味に断ったので、ローズが目を瞬かせた。
「あなた、牛乳が嫌いなの?」
「違います。茶の味が好きなんで」
〈兄さん〉
〈なんだ〉
〈声が裏返ってた〉
〈黙れ〉
ローズは笑いを噛み殺しながら、自分のカップにミルクを注いだ。それから、胸元に手をやって、細い鎖をつまみ出した。
灰色の円盤が、鎖の先で揺れた。親指ほどの大きさで、表面には細かな線が刻まれている。
エドの目が、それを捉えた。
「それ」
「ああ、これ? 集会でいただいたの。祈りの印っていうのよ。これを持って祈ると、声が聞こえやすくなるの」
ローズは円盤を指先で転がした。
「寝るときはね、枕元に置くの。夜になるとこの子がほんのり温かくなって、そうするとジョンの声が」
「見せてもらっていいですか」
「え?」
「技師の癖で。細工が細かいと、気になるんです」
嘘ではなかった。ローズは少し考えてから、鎖を首から外して、エドの右手に載せた。
円盤は見た目より重かった。その重みが、腕の付け根に伝わった。
エドは左手の手袋を歯で引いて外した。素手の指先を、円盤の縁に滑らせる。ほんの少し温かかった。
構造が、流れ込んできた。
薄い金属の殻。その内側に、髪の毛よりも細い灰色の筋が、何重にも折り畳まれて詰まっている。筋は金属ではない。かといって、有機物とも言えない。わずかに、脈打っていた。
覚えのある手触りだった。
エドの背中を、冷たいものが這い上がった。
あの夜、陣の中央へ這っていったとき、指先に触れたもの。人の形をしているとも言えず、していないとも言えなかった「何か」。見ないことにした、あの感触。
〈兄さん〉
アルの声が、いつもより小さかった。
〈……兄さんが言ってた、あの夜の〉
〈……ああ〉
〈なんで、こんなものが〉
〈分かんねえ〉
答えながら、エドは指を離せないでいた。円盤の中の灰色の筋が、指先の体温に応えるように、かすかに震える。
「どうしたの? エドくん」
名前を呼ばれて、はっとした。ローズが心配そうにこちらを見ている。
「顔色が」
「いえ。細工が、細かいなって」
円盤を手から滑らせるようにして、ローズに返した。指が、うまく動かなかった。外した手袋は、鞄に突っ込んだ。
「綺麗でしょう」
「……そうですね」
「これを握ると、ジョンの声が、少し遠くから聞こえるの。夜、寝室だとはっきりするわ」
ローズは円盤を胸に抱いた。そうしていると、本当に何かの温もりを抱いているように見えた。
「聞こえるのは、いつもですか」
「え?」
「あんたが握ってる間だけ、とか」
「握ってるときが一番はっきりするわ。枕元に置くだけでも、夜は聞こえるけど」
ローズは少し考えてから、答えた。
「集会の次の日は、特にはっきり聞こえるの。三日くらい経つと、だんだんぼんやりしてくる。だから、また行くの」
エドは、お茶を一口飲んだ。味がしなかった。
三日で薄れる。集会に行けば、また濃くなる。
〈……兄さん〉
〈言うな〉
〈言わないよ〉
しばらく、どちらも黙っていた。
ローズが小さな声で言った。
「ねえ、エドくん」
「はい」
「あなた、昨日、私にきついことを言ったでしょう。でもね、あの後、少し考えたの」
「……」
「夜に声を聞いて、朝になって、私は何をしてるんだろうって。洗濯をして、掃除をして、それから診療所に行って、座ってる。声のために、一日を使ってるって。確かに、そうだなって」
ローズは笑った。昨日より、少しだけ痛そうな笑い方だった。
「でもね、止められないの。止めたら、全部消えてしまうでしょう。あの人の声まで」
エドは、返す言葉を持たなかった。
「今夜の集会」
エドは立ち上がっていた。
「俺も行きます」
「まあ」
ローズの顔に、驚きと、嬉しさが一緒に浮かんだ。それが、エドの胸の奥を、さらに重くした。
***
昼過ぎから夕方まで、エドは広場と集会所の周りを歩いて回った。人の出入りと、裏口の位置を確かめてから、診療所に戻った。二階の部屋で着替えを済ませる。
財団支給の作業服を脱ぎ、町の少年が着るような薄茶のシャツに袖を通す。見習い技師の肩書きは、集会では目立つ。
〈ねえ、本当に行くの?〉
〈行く〉
〈危ないかもよ〉
〈分かってる〉
〈導師が錬金術師だったら〉
〈だから、結社に連絡する前に、自分の目で見る〉
エドは窓際の丸椅子に腰を下ろして、膝に肘をついた。
〈あの円盤、あの中身。普通の人間が作れるもんじゃない。あれを作った奴は、あの夜の陣の中身を知ってる〉
〈それって〉
〈あの夜、陣の中に残ってたもんと同じ手触りだった。それを、集めてやがる〉
〈どこで?〉
〈知るかよ。だから見に行くんだ〉
弟は、少しの間黙った。
〈……兄さん、一つだけ約束して〉
〈なんだ〉
〈怒りすぎないで。ローズさんもいるし、他の人もいる。兄さんが暴れたら、巻き込まれるのはあの人たちだよ〉
エドは額に手を当てた。
〈……分かった〉
〈本当に?〉
〈本当だ〉
〈兄さんの本当は、半分くらいしか信用できないけど〉
〈お前な〉
〈でも、約束してくれたからいい〉
エドは返事をしなかった。鞄から手袋を取り出して、左にはめた。窓の外では、日が落ちかけている。
***
集会所は、思っていたより広かった。
大広間は天井が低く、中央の床に灰色の大きな円が描かれていた。長椅子は、その円を囲むように三列、弧を描いて並んでいる。正面には、布をかけた台がある。蝋燭が壁際にずらりと並び、揺れる光が人々の顔を黄色く照らしている。
入口で、灰色の長衣の青年が頭を下げた。
「ようこそ。昨日の方ですね。来てくださって、嬉しいです」
「ああ」
「最初の印は、お代はいりません。どうぞ」
小さな円盤が、手のひらに載せられた。ローズが持っていたものと同じ形だ。エドは受け取って、握らずにポケットへ落とした。
青年の目が、一瞬だけ、エドの右袖に向いた。昨日と同じだった。それから柔らかい笑みを作って、次の客に向き直った。
「エドくん、こっち」
ローズが手招きしている。隣の席を空けてくれていた。エドは長椅子の端に腰を下ろした。
見渡すと、客は大勢いた。年寄りが多いが、若い夫婦もいる。ローズと同じ年頃の女性、杖をついた老人、小さな子を連れた母親。全員が静かに前を見ていた。誰も、私語をしない。
〈静かだね〉
〈ああ〉
〈ちょっと、怖い〉
〈そうだな〉
奥の扉が開いた。
痩せた男が、台の前に進み出た。四十代半ばに見える。灰色に近い白の長衣を着て、胸には、広場の青年のものより大きな円形の徽章をつけていた。髪は短く整えられ、目元は穏やかに下がっている。
「皆さん。今夜も、お集まりいただきありがとうございます」
声は低く、柔らかかった。大きな声ではないのに、広間の隅まで届いた。
「今日は、少しだけ、別れの話をしましょう」
導師コーネロは、それから十分ほど話した。院長が言ったとおりの話だった。悲しみを無理に忘れなくていい。人は亡くなっても、思いの形で残り続ける。声は、その思いのしるしである。
内容は、ありふれていた。どこの教会でも聞けそうな話だった。それなのに、言葉の置き方が巧みだった。聞いているうちに、胸の奥が緩んでいくのが分かって、エドは奥歯を噛んだ。
ローズが隣で、小さく鼻をすすった。その向こうの若い夫婦が、手を握り合っている。
エドは唇を結んで、前を見ていた。
「では、祈りの時間にしましょう。皆さん、印を握って、目を閉じてください」
全員が、一斉に動いた。胸元の円盤を握る。目を閉じる。広間の空気が変わった。
導師が、列の間を歩き始めた。一人ずつ、肩に手を置き、握られた円盤の上にもう一方の手をかざしていく。指に光る金の指輪から、ほんの少しだけ光がこぼれた。
〈今の、見た?〉
〈ああ〉
〈指輪、陣じゃない?〉
〈そうだな。あの指輪に、陣が刻んである〉
〈触媒はどうなってる。結社の連中しか、持てねえはずだろ〉
〈じゃあ、誰かが渡したってこと?〉
〈……結社の中に、そういう奴がいるのかもな〉
エドは目を閉じなかった。薄目を開けて、導師の動きを追う。指輪が光るたびに、握られた円盤がかすかに脈打つのが、周囲の空気の揺れで分かった。
導師が、ローズの前で足を止めた。
「ジョンさんが、今日も、そばにいらっしゃいますよ」
「……ありがとうございます」
ローズが震える声で答える。導師の手が、円盤の上に重なった。光が、一瞬揺れる。
それから導師は、隣のエドの前に立った。
「あなたは、初めての方ですね」
近くで見る目は、驚くほど優しかった。
「お名前は」
「エドです」
言ってから、しまったと思った。昨日、診療所で本名を名乗っている。
「エド君。若いのに、この集まりに来てくださった。きっと、どなたかを大切にされているのでしょう」
エドは答えなかった。導師は気にした様子もなく、微笑んで、次の人のところへ移っていった。その途中、指輪の手が、エドのポケットの上を一瞬だけかすめた。
ほっとした瞬間、ポケットの中が温かくなった。
エドの左手が、勝手にそこへ伸びた。
〈兄さん? どうしたの〉
アルに見えているのは、ポケットへ向かう兄の手だけだった。エドは答えず、左手でポケットの中の円盤に触れた。さっきまで冷たかった金属が、確かに温もりを帯びている。じんわりと、体温に似た温度で。
握ってはいけない。そう分かっていた。分かっていたのに、指が勝手に、それを包んでいた。
声が、聞こえた。
『エド』
息が止まった。
『アル。ごはんよ。手を洗ってらっしゃい』
そのあとに、小さな笑い声が続いた。澄んで、整った、きれいな笑い声だった。
間違えるはずがない、と体のほうが先に思った。
台所の窓から差し込む夕日の中で、振り返る母。エプロンの端を指でつまんで、笑いながら二人を呼ぶ。庭で泥だらけになった自分と弟を、呆れた顔で眺めて、それから名前を呼ぶ。
その、声だった。
「……っ」
エドは立ち上がっていた。椅子ががたんと音を立て、周囲の何人かが振り向いた。
〈兄さん!〉
アルの声が、必死だった。
〈兄さん、落ち着いて。これは、違う。本物じゃない〉
たぶん、円盤が持ち主の記憶を拾って返しているだけだ。母の声ではない。母の声に似せた、何かだ。
それでも、足が動かなかった。もう一度、聞きたかった。もう一回でいいから、名前を呼んでほしかった。
「エドくん?」
ローズの手が、袖に触れた。
その手が触れた瞬間、エドは我に返った。ポケットの円盤から手を離す。温もりが、指先から離れていった。
「……すんません。ちょっと、外の空気を」
小さく言って、通路に出た。振り向かなかった。背中に、導師の視線を感じた。
***
集会所の裏手に回ると、夜風が顔に当たった。
エドは壁に背をつけて、深く息を吸った。それから、左の拳で一度、壁を叩いた。手袋の甲が裂けて、血が滲んだ。
〈兄さん、手が〉
〈いい〉
〈血が出てる〉
〈いいんだよ〉
〈……〉
弟は黙った。エドは額を壁に押しつけた。
母の声。あの円盤は、あの声を作ったのだ。人の中でいちばん大事な部分を拾い上げて、返してくる。
何度も来て、同じ場所に座り続ける。
ふざけるな。体の奥から、それだけが突き上げてきた。
〈兄さん〉
〈なんだよ〉
〈僕も、聞こえたよ〉
エドは顔を上げた。
〈母さんの声。僕にも聞こえた〉
〈……〉
〈嬉しかった。一瞬だけ。でも、すぐに分かった。これ、違うって。母さんは、あんなにきれいに笑わなかった。もっと、変な声で笑ってた〉
〈……ああ〉
〈だから、大丈夫。僕は大丈夫。兄さんも、大丈夫だよ〉
エドは目を閉じた。喉の奥が詰まって、返事ができなかった。
しばらくして、息を整える。
〈……裏口、あるな〉
〈え?〉
〈この壁の向こうが、奥の部屋だ。導師が出てきた扉がある。そこに、材料の貯蔵庫か何かがあるはずだ〉
〈入るの?〉
〈入る〉
〈約束したのに〉
〈暴れないって言っただけだ。見るだけだよ〉
〈それ、暴れる人の言い方だよ〉
〈うるせえ〉
エドは裏口の取っ手に手をかけた。鍵はかかっていなかった。蝶番が小さく軋んで、暗い廊下が口を開けた。
廊下の奥に、もう一枚、扉があった。その扉の隙間から、かすかな囁き声が漏れてくる。たくさんの人間が、遠くで同時にしゃべっているような音だった。
エドは足音を殺して、扉を押し開けた。
そこは、地下へ降りる階段だった。
石の段を降りた先に、地下室があった。天井の低い、細長い部屋だ。壁際に木の棚が並び、ガラスの瓶が整然と置かれている。瓶の中には、灰色の、どろりとしたものが詰まっていた。
数えきれないほどの瓶。そのひとつひとつの中身が、ゆっくりと、息をするように揺れている。
そして瓶から、声がした。
『……寒くないか』
『……お母さん』
『……ただいま』
『……先に逝って、ごめんな』
〈兄さん〉
アルの声が、震えていた。
〈これ、全部〉
〈……ああ〉
〈全部、人の〉
〈そうだ〉
エドは立ち尽くした。棚と棚の間の通路を、一歩進む。瓶の中身がかすかに脈打ち、囁きが少しだけ大きくなる。
あの夜の、あれと同じ手触りだ。
円盤が拾っていたのは、握った奴の記憶だった。けれど、それだけじゃない。声を聞かせるたびに、聞いた奴の中から何かが少しずつ抜けて、ここへ溜まっている。笑うようになって、立ち上がらなくなったローズの顔が浮かんだ。誰かが、これだけの数を集めたのだ。
「素晴らしいでしょう」
背後で、声がした。
エドは振り向いた。階段の下に、導師コーネロが立っていた。壁の燭台に、一本だけ火が灯っていた。穏やかな顔が、その光に浮かんでいる。
「鍵はかけておりませんでした。ここまで辿り着く方には、お見せするつもりでしたから。ただ、扉を開けた足音が静かすぎましたね。慣れた方の歩き方です」
導師は、階段を降りてきた。
「エド君、というのでしたね。それとも、エドワード・エルリックさん、とお呼びしたほうがいいでしょうか」
エドの全身が、冷えた。
「広場の青年から聞きました。財団から技師の方が見えたと。名前は、診療所の看護師さんが町中で話していましたよ。親切な方ですが、口が軽い」
「……」
「その技師が、私の集会に来て、一人だけ席を立った。財団の見習いが、ただの客のはずがありません。結社の方でしょう」
導師は柔らかく笑った。結社の名を、この男は知っている。
指輪を持つ人間が結社の外にいるはずがない。その疑いが、確信に近づいた。
エドは、拳を握った。何も言わなかった。口を開いたら、全部崩れそうだった。
「ところで、エド君。聞こえましたか。あなたの印の中の声は」
「……」
「誰の声でした?」
声が、喉の奥で詰まった。
答える必要はない。そう分かっている。それなのに、あの台所の夕日が、目の裏に浮かんで、口が開かない。
〈兄さん!〉
アルの声が、鋭く響いた。
〈兄さん、聞いちゃだめだ。返事しなくていい!〉
エドは唇を噛んだ。口の中に鉄の味が広がる。
「……あれは」
声が出た。低く、かすれていた。
「あれは、俺の記憶だ。あんたのもんじゃねえ」
「ええ、もちろん。あなたの記憶です。ですが、声は声ですよ。聞いて、救われる人がいる。それは事実でしょう」
「救われてなんかいねえ。あの人たちは、声に縛られてるだけだ」
「それの何が悪いのでしょう」
導師は、穏やかな口調のまま、瓶のひとつに指を触れた。
「彼らは、大切な人を失いました。もう二度と、その声を聞くことはできない。そう思っていた。私は、彼らに、もう一度聞かせてあげた。それだけです。通ってくださるほど、この瓶は満ちていきます。声を聞くたびに、皆さんの中の一番柔らかい部分が、少しずつ、こちらへ届くのです。ご存じの方は、ほとんどいませんが。瓶が満ちるほど、この指輪も強くなる。この指輪をくださった方々も、中身を欲しがっておられます」
「それだけ、じゃねえだろ!」
怒鳴り声が、石の壁に反響した。瓶の中身が、一斉にざわめいた。
導師は微笑んだまま、首を傾げた。
「では、お聞きしましょう。あなたは、彼らから、声を取り上げますか?」
エドの呼吸が止まった。
「ローズさんから。小さな子を連れた母親から。あなたが私を止めれば、あの人たちは二度と、愛する人の声を聞けなくなります。その責任を、あなたは、取れますか?」
エドは何も言えなかった。
言い返す言葉は、いくつもあった。どれも喉の手前で、崩れた。責任。母の声が、いまも耳の奥に残っている。あれを取り上げられたら、自分は、どうなる。
〈兄さん〉
アルの声が、小さく、そしてはっきり響いた。
〈兄さん。さっきの母さんの声、本物じゃなかったよね。あの人たちが聞いてるのも、同じだよ〉
エドは息を吐き切った。縛られている人間が、目の前にいる。取り上げるかどうかを悩むのは、その後だ。
「……ああ。そうだな」
声が、いつもの調子に戻っていた。
「あの声は、聞いた奴の記憶から作った写しだ。本物じゃねえ。写しを取り上げても、元の記憶は消えねえよ。……それより、通わせるたびに人の中身を吸い上げて、瓶に貯めてたのはあんただろ。人の願いにつけ込んで縛って、搾り取る。そういうやつが、俺は世界で一番嫌いなんだよ」
導師の笑みが、わずかに薄れた。
「そうですか。残念です」
導師は瓶の列に向き直り、右手を持ち上げた。薬指の金の指輪が、淡く光る。
「聡明な方だと思っていました。見ていただいた以上、お帰りいただくわけにはいかなくなりました」
棚の瓶が、一斉に震え始めた。
灰色の中身が、ガラスの内側を這い上がる。栓が内側から押し上げられ、どろりとしたものが縁を越えて床へ垂れた。棚の脚を這い、エドの靴のほうへ伸びてくる。
囁きが重なって、数百の声がひとつの塊になり、耳の奥へ流れ込んできた。
母の声。誰かの声。知らない声。泣き声。笑い声。
〈兄さん、来るよ!〉
エドは、床を蹴った。