MCU:Fullmetal Alchemist   作:ゴミ収集者

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本日2話目


返ってくる声

翌朝、エドは看護師に起こされた。

 

「朝ごはん、冷めるわよ」

 

扉の向こうで言うだけ言って、足音が階段を降りていく。エドは枕に顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。

 

〈起きたほうがいいよ〉

 

〈分かってる〉

 

〈昨日の夜、兄さん三回寝言言ってた〉

 

〈言ってねえ〉

 

〈言ってた。一回は「牛乳」って〉

 

〈……忘れろ〉

 

〈無理だよ。僕、寝ないから全部聞いてるもん〉

 

エドは上半身を起こして、髪をかき上げた。左手の手袋は枕元に置いてある。窓の外はもう明るくて、広場のほうから荷車の音が聞こえた。

 

食卓には、焼いたパンと卵、豆のスープが並んでいた。ハリス院長はもう席についていて、新聞を畳みながら顔を上げた。

 

「よく眠れたかね」

 

「はい。ベッド、助かりました」

 

「そりゃよかった。今日は急ぎの仕事もないから、ゆっくりしていきなさい」

 

「院長先生」

 

エドはスープに口をつけてから、切り出した。

 

「あの導師って人、いつ頃から町にいるんですか」

 

院長の手が止まった。給仕をしていた看護師も、ちらりと院長を見る。

 

「三か月ほど前だな。教会の裏の空き家を借りてね。最初は追悼の会という名前で、身内を亡くした老人が五、六人集まるだけだった」

 

「それが今は」

 

「昨日の夜の集会で、四十人は入ったと聞いとる」

 

「四十人。この町、どれくらいの人口ですか」

 

「千人はおらんよ」

 

エドはパンをちぎって、口に放り込んだ。噛みながら考える。四十人。小さな町には多すぎる。

 

「先生は、行ったことありますか」

 

「一度だけな。誘われて」

 

「どうでした」

 

「いい話をする人だったよ。悲しみを無理に忘れなくていい、とか、死んだ人はそばにいる、とかね。聞いていて悪い気はせんかった」

 

「それだけですか」

 

「それだけだ」

 

院長は少し間を置いて、付け足した。

 

「帰りに、寄付箱があった。みんな自然に入れていくんだ。私も入れた。ほんの小銭だがね。そのとき、箱の横に立っていた青年が、私の手元を見ていた。金額を数えているような目だった」

 

「灰色の長衣の」

 

「会ったのかね」

 

「昨日、広場で紙をもらいました」

 

看護師が小さく息を吐いた。それから、思い出したように前掛けのポケットから何かを取り出した。

 

「そうだ。エドくん、頼まれてくれない?」

 

淡い藤色の布だった。肩掛けらしい。

 

「ローズさんが昨日、待合室に忘れていったの。家は川沿いの、青い屋根のところ。今朝はまだ見えなくて、昨日のことで来づらいのかもしれない。届けてあげてくれる? 私、午前中は手が離せなくて」

 

エドは肩掛けと看護師の顔を見比べた。

 

「……俺ですか」

 

「他にいないもの」

 

〈行こうよ〉

 

〈なんで俺が〉

 

〈昨日のこと、ちゃんと謝ってないでしょ〉

 

〈謝る必要あるのかよ。あっちは何も怒ってなかった〉

 

〈兄さん〉

 

声の調子が変わらないので、かえって重かった。エドは舌打ちをこらえて、肩掛けを受け取った。

 

「分かりました。届けます」

 

「ありがとう。お昼は帰ってこなくていいわよ、お弁当作っておくから」

 

「そこまでは」

 

「持っていきなさい」

 

看護師の言い方に逆らえず、エドは頷いた。枕元の手袋を左にはめ、肩掛けを持って階段を降りた。

 

***

 

川沿いの道は、町の外れに向かってゆるく曲がっていた。

 

水は浅く、石の上を細く流れている。柳が何本か並んで、枝の先を水面にくっつけていた。道の端には、洗濯物を干した庭先が続いている。

 

その柳の下で、小さな男の子が一人、石を水に投げていた。投げては、数を数えている。

 

エドは通り過ぎようとして、足を止めた。男の子の投げ方があまりに雑で、石がどれも一回も跳ねずに沈んだからだ。

 

「それ、手首だ」

 

「え?」

 

「腕で投げてるだろ。手首を返すんだよ。見てろ」

 

エドは足元の平たい石を拾って、体を横に向けた。右腕は動かさない。左手だけで、低い位置から水平に放った。石は水面を四回跳ねて、向こう岸の草に消えた。

 

「すげえ」

 

「ほら、やってみろ」

 

男の子は言われたとおりに投げた。二回、跳ねた。目を丸くして、エドを見上げる。

 

「兄ちゃん、強いの?」

 

「強くねえよ。水切りが得意なだけだ」

 

「兄ちゃんもここの人?」

 

「違う。昨日来た」

 

「ふうん」

 

男の子は次の石を探しながら、ぽつりと言った。

 

「母さんがさ、夜に誰かとしゃべってるんだ」

 

エドの手が止まった。

 

「誰か、って」

 

「分かんない。寝室で、小さい声で。誰もいないのに、ずっと笑ってる。この前は、僕が起きてきたら、慌てて布団かぶって寝たふりした」

 

「親父さんは」

 

「もういない。去年、仕事で」

 

男の子はそこで言葉を切って、石を投げた。三回、跳ねた。

 

「前はよく泣いてたんだ、母さん。今は泣かない。笑ってる。でも、朝になっても僕の顔見てないんだ。目を合わせてくれない」

 

エドは言葉が出なかった。内側の弟も黙っている。

 

「……パン食うか」

 

鞄の中の弁当の包みを開いて、挟んであったパンを半分に割り、男の子に渡した。

 

「いいの?」

 

「俺は一個で足りる」

 

男の子はパンを受け取って、その場で食べ始めた。口の周りにパン屑をつけたまま、「ありがとう」と言った。

 

エドは立ち上がって、川沿いの道を歩き出した。

 

〈……兄さん〉

 

〈なんだよ〉

 

〈さっきの、本当は足りないでしょ〉

 

〈足りるって言っただろ〉

 

〈兄さん、朝あんまり食べてなかったもん〉

 

〈うるせえ〉

 

***

 

青い屋根の家は、すぐに見つかった。

 

小さな平屋で、庭に干し草の束が積まれている。扉をノックすると、中から足音がして、ローズが顔を出した。

 

「あら」

 

驚いた顔だった。それから、少しだけ警戒するような、困ったような目をした。

 

「昨日の、技師さん」

 

「エドワードです。あの、これ」

 

肩掛けを差し出す。ローズは受け取って、胸に抱えた。

 

「まあ。わざわざ。ありがとう」

 

「看護師さんに頼まれただけで」

 

言いかけて、エドは口を閉じた。言い訳みたいに聞こえた。弟が内側で、何も言わないまま、じっと待っているのが分かる。

 

「……昨日は、悪かった」

 

声が低くなった。

 

「あんたに言う話じゃなかった。いや、言ってること自体は間違ってねえとは思ってる。けど、あんな言い方は」

 

〈兄さん、言い訳〉

 

「……とにかく、悪かった」

 

ローズは目を丸くして、それからふっと笑った。昨日の、頬の力を抜くような笑い方とは少し違った。

 

「いいのよ。入って。お茶くらい出すわ」

 

「いや、俺は」

 

「お昼まだでしょう?」

 

断る理由が見つからなかった。

 

居間は小さく、きちんと片付いていた。暖炉の上に、男の写真が飾ってある。四角い顔で、眉が太く、写真に向かってやや照れたように笑っている。

 

「あの人、ジョン。笑った顔が下手でしょう。写真屋さんが何度も撮り直したの」

 

「そうですね」

 

「あら、否定しないのね」

 

ローズはお茶を淹れながら笑った。カップをエドの前に置く。琥珀色の茶だった。ミルクの小瓶が、横に添えられている。

 

「ミルクは」

 

「いりません」

 

食い気味に断ったので、ローズが目を瞬かせた。

 

「あなた、牛乳が嫌いなの?」

 

「違います。茶の味が好きなんで」

 

〈兄さん〉

 

〈なんだ〉

 

〈声が裏返ってた〉

 

〈黙れ〉

 

ローズは笑いを噛み殺しながら、自分のカップにミルクを注いだ。それから、胸元に手をやって、細い鎖をつまみ出した。

 

灰色の円盤が、鎖の先で揺れた。親指ほどの大きさで、表面には細かな線が刻まれている。

 

エドの目が、それを捉えた。

 

「それ」

 

「ああ、これ? 集会でいただいたの。祈りの印っていうのよ。これを持って祈ると、声が聞こえやすくなるの」

 

ローズは円盤を指先で転がした。

 

「寝るときはね、枕元に置くの。夜になるとこの子がほんのり温かくなって、そうするとジョンの声が」

 

「見せてもらっていいですか」

 

「え?」

 

「技師の癖で。細工が細かいと、気になるんです」

 

嘘ではなかった。ローズは少し考えてから、鎖を首から外して、エドの右手に載せた。

 

円盤は見た目より重かった。その重みが、腕の付け根に伝わった。

 

エドは左手の手袋を歯で引いて外した。素手の指先を、円盤の縁に滑らせる。ほんの少し温かかった。

 

構造が、流れ込んできた。

 

薄い金属の殻。その内側に、髪の毛よりも細い灰色の筋が、何重にも折り畳まれて詰まっている。筋は金属ではない。かといって、有機物とも言えない。わずかに、脈打っていた。

 

覚えのある手触りだった。

 

エドの背中を、冷たいものが這い上がった。

 

あの夜、陣の中央へ這っていったとき、指先に触れたもの。人の形をしているとも言えず、していないとも言えなかった「何か」。見ないことにした、あの感触。

 

〈兄さん〉

 

アルの声が、いつもより小さかった。

 

〈……兄さんが言ってた、あの夜の〉

 

〈……ああ〉

 

〈なんで、こんなものが〉

 

〈分かんねえ〉

 

答えながら、エドは指を離せないでいた。円盤の中の灰色の筋が、指先の体温に応えるように、かすかに震える。

 

「どうしたの? エドくん」

 

名前を呼ばれて、はっとした。ローズが心配そうにこちらを見ている。

 

「顔色が」

 

「いえ。細工が、細かいなって」

 

円盤を手から滑らせるようにして、ローズに返した。指が、うまく動かなかった。外した手袋は、鞄に突っ込んだ。

 

「綺麗でしょう」

 

「……そうですね」

 

「これを握ると、ジョンの声が、少し遠くから聞こえるの。夜、寝室だとはっきりするわ」

 

ローズは円盤を胸に抱いた。そうしていると、本当に何かの温もりを抱いているように見えた。

 

「聞こえるのは、いつもですか」

 

「え?」

 

「あんたが握ってる間だけ、とか」

 

「握ってるときが一番はっきりするわ。枕元に置くだけでも、夜は聞こえるけど」

 

ローズは少し考えてから、答えた。

 

「集会の次の日は、特にはっきり聞こえるの。三日くらい経つと、だんだんぼんやりしてくる。だから、また行くの」

 

エドは、お茶を一口飲んだ。味がしなかった。

 

三日で薄れる。集会に行けば、また濃くなる。

 

〈……兄さん〉

 

〈言うな〉

 

〈言わないよ〉

 

しばらく、どちらも黙っていた。

 

ローズが小さな声で言った。

 

「ねえ、エドくん」

 

「はい」

 

「あなた、昨日、私にきついことを言ったでしょう。でもね、あの後、少し考えたの」

 

「……」

 

「夜に声を聞いて、朝になって、私は何をしてるんだろうって。洗濯をして、掃除をして、それから診療所に行って、座ってる。声のために、一日を使ってるって。確かに、そうだなって」

 

ローズは笑った。昨日より、少しだけ痛そうな笑い方だった。

 

「でもね、止められないの。止めたら、全部消えてしまうでしょう。あの人の声まで」

 

エドは、返す言葉を持たなかった。

 

「今夜の集会」

 

エドは立ち上がっていた。

 

「俺も行きます」

 

「まあ」

 

ローズの顔に、驚きと、嬉しさが一緒に浮かんだ。それが、エドの胸の奥を、さらに重くした。

 

***

 

昼過ぎから夕方まで、エドは広場と集会所の周りを歩いて回った。人の出入りと、裏口の位置を確かめてから、診療所に戻った。二階の部屋で着替えを済ませる。

 

財団支給の作業服を脱ぎ、町の少年が着るような薄茶のシャツに袖を通す。見習い技師の肩書きは、集会では目立つ。

 

〈ねえ、本当に行くの?〉

 

〈行く〉

 

〈危ないかもよ〉

 

〈分かってる〉

 

〈導師が錬金術師だったら〉

 

〈だから、結社に連絡する前に、自分の目で見る〉

 

エドは窓際の丸椅子に腰を下ろして、膝に肘をついた。

 

〈あの円盤、あの中身。普通の人間が作れるもんじゃない。あれを作った奴は、あの夜の陣の中身を知ってる〉

 

〈それって〉

 

〈あの夜、陣の中に残ってたもんと同じ手触りだった。それを、集めてやがる〉

 

〈どこで?〉

 

〈知るかよ。だから見に行くんだ〉

 

弟は、少しの間黙った。

 

〈……兄さん、一つだけ約束して〉

 

〈なんだ〉

 

〈怒りすぎないで。ローズさんもいるし、他の人もいる。兄さんが暴れたら、巻き込まれるのはあの人たちだよ〉

 

エドは額に手を当てた。

 

〈……分かった〉

 

〈本当に?〉

 

〈本当だ〉

 

〈兄さんの本当は、半分くらいしか信用できないけど〉

 

〈お前な〉

 

〈でも、約束してくれたからいい〉

 

エドは返事をしなかった。鞄から手袋を取り出して、左にはめた。窓の外では、日が落ちかけている。

 

***

 

集会所は、思っていたより広かった。

 

大広間は天井が低く、中央の床に灰色の大きな円が描かれていた。長椅子は、その円を囲むように三列、弧を描いて並んでいる。正面には、布をかけた台がある。蝋燭が壁際にずらりと並び、揺れる光が人々の顔を黄色く照らしている。

 

入口で、灰色の長衣の青年が頭を下げた。

 

「ようこそ。昨日の方ですね。来てくださって、嬉しいです」

 

「ああ」

 

「最初の印は、お代はいりません。どうぞ」

 

小さな円盤が、手のひらに載せられた。ローズが持っていたものと同じ形だ。エドは受け取って、握らずにポケットへ落とした。

 

青年の目が、一瞬だけ、エドの右袖に向いた。昨日と同じだった。それから柔らかい笑みを作って、次の客に向き直った。

 

「エドくん、こっち」

 

ローズが手招きしている。隣の席を空けてくれていた。エドは長椅子の端に腰を下ろした。

 

見渡すと、客は大勢いた。年寄りが多いが、若い夫婦もいる。ローズと同じ年頃の女性、杖をついた老人、小さな子を連れた母親。全員が静かに前を見ていた。誰も、私語をしない。

 

〈静かだね〉

 

〈ああ〉

 

〈ちょっと、怖い〉

 

〈そうだな〉

 

奥の扉が開いた。

 

痩せた男が、台の前に進み出た。四十代半ばに見える。灰色に近い白の長衣を着て、胸には、広場の青年のものより大きな円形の徽章をつけていた。髪は短く整えられ、目元は穏やかに下がっている。

 

「皆さん。今夜も、お集まりいただきありがとうございます」

 

声は低く、柔らかかった。大きな声ではないのに、広間の隅まで届いた。

 

「今日は、少しだけ、別れの話をしましょう」

 

導師コーネロは、それから十分ほど話した。院長が言ったとおりの話だった。悲しみを無理に忘れなくていい。人は亡くなっても、思いの形で残り続ける。声は、その思いのしるしである。

 

内容は、ありふれていた。どこの教会でも聞けそうな話だった。それなのに、言葉の置き方が巧みだった。聞いているうちに、胸の奥が緩んでいくのが分かって、エドは奥歯を噛んだ。

 

ローズが隣で、小さく鼻をすすった。その向こうの若い夫婦が、手を握り合っている。

 

エドは唇を結んで、前を見ていた。

 

「では、祈りの時間にしましょう。皆さん、印を握って、目を閉じてください」

 

全員が、一斉に動いた。胸元の円盤を握る。目を閉じる。広間の空気が変わった。

 

導師が、列の間を歩き始めた。一人ずつ、肩に手を置き、握られた円盤の上にもう一方の手をかざしていく。指に光る金の指輪から、ほんの少しだけ光がこぼれた。

 

〈今の、見た?〉

 

〈ああ〉

 

〈指輪、陣じゃない?〉

 

〈そうだな。あの指輪に、陣が刻んである〉

 

〈触媒はどうなってる。結社の連中しか、持てねえはずだろ〉

 

〈じゃあ、誰かが渡したってこと?〉

 

〈……結社の中に、そういう奴がいるのかもな〉

 

エドは目を閉じなかった。薄目を開けて、導師の動きを追う。指輪が光るたびに、握られた円盤がかすかに脈打つのが、周囲の空気の揺れで分かった。

 

導師が、ローズの前で足を止めた。

 

「ジョンさんが、今日も、そばにいらっしゃいますよ」

 

「……ありがとうございます」

 

ローズが震える声で答える。導師の手が、円盤の上に重なった。光が、一瞬揺れる。

 

それから導師は、隣のエドの前に立った。

 

「あなたは、初めての方ですね」

 

近くで見る目は、驚くほど優しかった。

 

「お名前は」

 

「エドです」

 

言ってから、しまったと思った。昨日、診療所で本名を名乗っている。

 

「エド君。若いのに、この集まりに来てくださった。きっと、どなたかを大切にされているのでしょう」

 

エドは答えなかった。導師は気にした様子もなく、微笑んで、次の人のところへ移っていった。その途中、指輪の手が、エドのポケットの上を一瞬だけかすめた。

 

ほっとした瞬間、ポケットの中が温かくなった。

 

エドの左手が、勝手にそこへ伸びた。

 

〈兄さん? どうしたの〉

 

アルに見えているのは、ポケットへ向かう兄の手だけだった。エドは答えず、左手でポケットの中の円盤に触れた。さっきまで冷たかった金属が、確かに温もりを帯びている。じんわりと、体温に似た温度で。

 

握ってはいけない。そう分かっていた。分かっていたのに、指が勝手に、それを包んでいた。

 

声が、聞こえた。

 

『エド』

 

息が止まった。

 

『アル。ごはんよ。手を洗ってらっしゃい』

 

そのあとに、小さな笑い声が続いた。澄んで、整った、きれいな笑い声だった。

 

間違えるはずがない、と体のほうが先に思った。

 

台所の窓から差し込む夕日の中で、振り返る母。エプロンの端を指でつまんで、笑いながら二人を呼ぶ。庭で泥だらけになった自分と弟を、呆れた顔で眺めて、それから名前を呼ぶ。

 

その、声だった。

 

「……っ」

 

エドは立ち上がっていた。椅子ががたんと音を立て、周囲の何人かが振り向いた。

 

〈兄さん!〉

 

アルの声が、必死だった。

 

〈兄さん、落ち着いて。これは、違う。本物じゃない〉

 

たぶん、円盤が持ち主の記憶を拾って返しているだけだ。母の声ではない。母の声に似せた、何かだ。

 

それでも、足が動かなかった。もう一度、聞きたかった。もう一回でいいから、名前を呼んでほしかった。

 

「エドくん?」

 

ローズの手が、袖に触れた。

 

その手が触れた瞬間、エドは我に返った。ポケットの円盤から手を離す。温もりが、指先から離れていった。

 

「……すんません。ちょっと、外の空気を」

 

小さく言って、通路に出た。振り向かなかった。背中に、導師の視線を感じた。

 

***

 

集会所の裏手に回ると、夜風が顔に当たった。

 

エドは壁に背をつけて、深く息を吸った。それから、左の拳で一度、壁を叩いた。手袋の甲が裂けて、血が滲んだ。

 

〈兄さん、手が〉

 

〈いい〉

 

〈血が出てる〉

 

〈いいんだよ〉

 

〈……〉

 

弟は黙った。エドは額を壁に押しつけた。

 

母の声。あの円盤は、あの声を作ったのだ。人の中でいちばん大事な部分を拾い上げて、返してくる。

 

何度も来て、同じ場所に座り続ける。

 

ふざけるな。体の奥から、それだけが突き上げてきた。

 

〈兄さん〉

 

〈なんだよ〉

 

〈僕も、聞こえたよ〉

 

エドは顔を上げた。

 

〈母さんの声。僕にも聞こえた〉

 

〈……〉

 

〈嬉しかった。一瞬だけ。でも、すぐに分かった。これ、違うって。母さんは、あんなにきれいに笑わなかった。もっと、変な声で笑ってた〉

 

〈……ああ〉

 

〈だから、大丈夫。僕は大丈夫。兄さんも、大丈夫だよ〉

 

エドは目を閉じた。喉の奥が詰まって、返事ができなかった。

 

しばらくして、息を整える。

 

〈……裏口、あるな〉

 

〈え?〉

 

〈この壁の向こうが、奥の部屋だ。導師が出てきた扉がある。そこに、材料の貯蔵庫か何かがあるはずだ〉

 

〈入るの?〉

 

〈入る〉

 

〈約束したのに〉

 

〈暴れないって言っただけだ。見るだけだよ〉

 

〈それ、暴れる人の言い方だよ〉

 

〈うるせえ〉

 

エドは裏口の取っ手に手をかけた。鍵はかかっていなかった。蝶番が小さく軋んで、暗い廊下が口を開けた。

 

廊下の奥に、もう一枚、扉があった。その扉の隙間から、かすかな囁き声が漏れてくる。たくさんの人間が、遠くで同時にしゃべっているような音だった。

 

エドは足音を殺して、扉を押し開けた。

 

そこは、地下へ降りる階段だった。

 

石の段を降りた先に、地下室があった。天井の低い、細長い部屋だ。壁際に木の棚が並び、ガラスの瓶が整然と置かれている。瓶の中には、灰色の、どろりとしたものが詰まっていた。

 

数えきれないほどの瓶。そのひとつひとつの中身が、ゆっくりと、息をするように揺れている。

 

そして瓶から、声がした。

 

『……寒くないか』

 

『……お母さん』

 

『……ただいま』

 

『……先に逝って、ごめんな』

 

〈兄さん〉

 

アルの声が、震えていた。

 

〈これ、全部〉

 

〈……ああ〉

 

〈全部、人の〉

 

〈そうだ〉

 

エドは立ち尽くした。棚と棚の間の通路を、一歩進む。瓶の中身がかすかに脈打ち、囁きが少しだけ大きくなる。

 

あの夜の、あれと同じ手触りだ。

 

円盤が拾っていたのは、握った奴の記憶だった。けれど、それだけじゃない。声を聞かせるたびに、聞いた奴の中から何かが少しずつ抜けて、ここへ溜まっている。笑うようになって、立ち上がらなくなったローズの顔が浮かんだ。誰かが、これだけの数を集めたのだ。

 

「素晴らしいでしょう」

 

背後で、声がした。

 

エドは振り向いた。階段の下に、導師コーネロが立っていた。壁の燭台に、一本だけ火が灯っていた。穏やかな顔が、その光に浮かんでいる。

 

「鍵はかけておりませんでした。ここまで辿り着く方には、お見せするつもりでしたから。ただ、扉を開けた足音が静かすぎましたね。慣れた方の歩き方です」

 

導師は、階段を降りてきた。

 

「エド君、というのでしたね。それとも、エドワード・エルリックさん、とお呼びしたほうがいいでしょうか」

 

エドの全身が、冷えた。

 

「広場の青年から聞きました。財団から技師の方が見えたと。名前は、診療所の看護師さんが町中で話していましたよ。親切な方ですが、口が軽い」

 

「……」

 

「その技師が、私の集会に来て、一人だけ席を立った。財団の見習いが、ただの客のはずがありません。結社の方でしょう」

 

導師は柔らかく笑った。結社の名を、この男は知っている。

 

指輪を持つ人間が結社の外にいるはずがない。その疑いが、確信に近づいた。

 

エドは、拳を握った。何も言わなかった。口を開いたら、全部崩れそうだった。

 

「ところで、エド君。聞こえましたか。あなたの印の中の声は」

 

「……」

 

「誰の声でした?」

 

声が、喉の奥で詰まった。

 

答える必要はない。そう分かっている。それなのに、あの台所の夕日が、目の裏に浮かんで、口が開かない。

 

〈兄さん!〉

 

アルの声が、鋭く響いた。

 

〈兄さん、聞いちゃだめだ。返事しなくていい!〉

 

エドは唇を噛んだ。口の中に鉄の味が広がる。

 

「……あれは」

 

声が出た。低く、かすれていた。

 

「あれは、俺の記憶だ。あんたのもんじゃねえ」

 

「ええ、もちろん。あなたの記憶です。ですが、声は声ですよ。聞いて、救われる人がいる。それは事実でしょう」

 

「救われてなんかいねえ。あの人たちは、声に縛られてるだけだ」

 

「それの何が悪いのでしょう」

 

導師は、穏やかな口調のまま、瓶のひとつに指を触れた。

 

「彼らは、大切な人を失いました。もう二度と、その声を聞くことはできない。そう思っていた。私は、彼らに、もう一度聞かせてあげた。それだけです。通ってくださるほど、この瓶は満ちていきます。声を聞くたびに、皆さんの中の一番柔らかい部分が、少しずつ、こちらへ届くのです。ご存じの方は、ほとんどいませんが。瓶が満ちるほど、この指輪も強くなる。この指輪をくださった方々も、中身を欲しがっておられます」

 

「それだけ、じゃねえだろ!」

 

怒鳴り声が、石の壁に反響した。瓶の中身が、一斉にざわめいた。

 

導師は微笑んだまま、首を傾げた。

 

「では、お聞きしましょう。あなたは、彼らから、声を取り上げますか?」

 

エドの呼吸が止まった。

 

「ローズさんから。小さな子を連れた母親から。あなたが私を止めれば、あの人たちは二度と、愛する人の声を聞けなくなります。その責任を、あなたは、取れますか?」

 

エドは何も言えなかった。

 

言い返す言葉は、いくつもあった。どれも喉の手前で、崩れた。責任。母の声が、いまも耳の奥に残っている。あれを取り上げられたら、自分は、どうなる。

 

〈兄さん〉

 

アルの声が、小さく、そしてはっきり響いた。

 

〈兄さん。さっきの母さんの声、本物じゃなかったよね。あの人たちが聞いてるのも、同じだよ〉

 

エドは息を吐き切った。縛られている人間が、目の前にいる。取り上げるかどうかを悩むのは、その後だ。

 

「……ああ。そうだな」

 

声が、いつもの調子に戻っていた。

 

「あの声は、聞いた奴の記憶から作った写しだ。本物じゃねえ。写しを取り上げても、元の記憶は消えねえよ。……それより、通わせるたびに人の中身を吸い上げて、瓶に貯めてたのはあんただろ。人の願いにつけ込んで縛って、搾り取る。そういうやつが、俺は世界で一番嫌いなんだよ」

 

導師の笑みが、わずかに薄れた。

 

「そうですか。残念です」

 

導師は瓶の列に向き直り、右手を持ち上げた。薬指の金の指輪が、淡く光る。

 

「聡明な方だと思っていました。見ていただいた以上、お帰りいただくわけにはいかなくなりました」

 

棚の瓶が、一斉に震え始めた。

 

灰色の中身が、ガラスの内側を這い上がる。栓が内側から押し上げられ、どろりとしたものが縁を越えて床へ垂れた。棚の脚を這い、エドの靴のほうへ伸びてくる。

 

囁きが重なって、数百の声がひとつの塊になり、耳の奥へ流れ込んできた。

 

母の声。誰かの声。知らない声。泣き声。笑い声。

 

〈兄さん、来るよ!〉

 

エドは、床を蹴った。

 

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