MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
飛行機の中では、誰も眠らなかった。
エドは窓側の席で、片膝を立てていた。隣に、バナーが座っている。通路を挟んだ向こうの席では、ナターシャが目を閉じていた。眠っているのか、眠ったふりなのか、見ても分からない。
機内で配られた弁当は三つあった。ナターシャが、黙って二人の前に置いていった。エドは自分の分を食べ終えて、手を止めた。
「それ、食べないのか」
バナーの弁当は、ほとんど手つかずだった。
「あまり、腹が空かなくてね」
「少しでも食っとけ。診る奴が倒れたら、笑えねえ」
バナーは少し驚いた顔をして、それから、フォークを持ち直した。少しずつ食べ始めた。エドはそれを見届けてから、窓の外に目を戻した。
「右腕」しばらくして、バナーが言った。「湿気で、痛まなかったか」
エドは目を閉じたまま、答えなかった。バナーが、続けた。
「診療所で、ずっと袖を気にしてた。右肩だけ、動きが少しずつ遅れていた」
「……診るなよ」
「癖だ。すまない」
「痛くはねえ。きしむだけだ」
バナーは、それ以上は聞かなかった。聞かないまま、座席に沈んで、窓の外を見た。エドは薄く目を開けて、その横顔を盗み見た。他人の体を診ながら、自分の体を一番信用していない人間の目だった。
「あんたは」エドは言った。「いつから、あそこに」
「もう、長いこと」
「なんで、あそこだったんだ」
「逃げ込める所が、あそこしかなかっただけだ」
エンジンの低い音だけが、機内を満たしていた。
***
空母は、海のど真ん中にいた。
滑走路を持った、巨大な船だと思っていた。着陸して、扉が開いて、ようやく違うと分かった。これは、船じゃない。船の形をした、街だ。甲板を、制服を着た人間が何十人も走り回っている。誰もが、自分のするべきことを分かっている足取りだった。
風が強かった。三つ編みが、勝手に肩の上で跳ねる。油と潮の匂いが、喉の奥に貼りついた。足の裏から、低い振動が上がってくる。機械鎧の継ぎ目が、その振動に合わせて小さく唸った。エドは足元の鉄板に目を落とした。継ぎ目の溶接が、驚くほど細かい。これだけの大きさの物を、海の上に浮かせておくなど、錬金術にも、普通の工学にも、できることではない。どんな仕組みなのか、手を当てて確かめたくなった。あとでだ、と自分に言い聞かせた。
「ここで待つわ」ナターシャが言った。「あなたたちを待ってる人が、あと二人いるから」
待ったのは、ほんの短い間だった。
遠くの空から、小さな機影が近づいてきた。甲板に降りて、後部の扉が開く。降りてきたのは、コールソンと、金髪の大柄な男だった。
〈兄さん、あの人……〉
〈後だ。黙ってろ〉
エドは、資料で見た写真を思い出していた。戦時中の兵士。氷の中から出てきた、七十年前の英雄。その顔が、目の前で歩いてくる。体の厚みが違った。足の運びに、無駄がなかった。
「ロマノフ捜査官。ロジャース大尉」コールソンが、ナターシャに軽く頭を下げた。
金髪の男が、ナターシャに軽く会釈を返した。コールソンは、艦橋から呼ばれて、すぐに行ってしまった。
ナターシャは、残された金髪の男にだけ聞こえるような小声で、何かを言って笑った。男の頬が、少し赤くなった。何を言ったのかは、聞こえなかった。
それから、男はまっすぐバナーの前に来て、手を出した。
「話は聞いてます。あなたなら、キューブを探せると」
「他には、何か言われてます?」
「私には、それだけで十分です」
バナーが、小さく息を吐いた。エドは、その肩から力が抜けるのを見た。
〈この人、いい人だね〉
〈鼻につくけどな〉
男の視線が、エドに向いた。
「君は」
「エドワード・エルリック」
「十五だそうだね」
「もうすぐ十六だ」
「家の人は」
「母さんは死んだ。親父は、どこにいるかも知らねえ」
男は、言葉に詰まった。それから、何かを決めたように、背筋を伸ばした。
「……すまない」
「危険な任務だ。無理は、しないでくれ」
「子供扱いすんな」
「子供だろう」
「おい」
ナターシャが、咳払いをした。笑いを噛み殺している。バナーは、横を向いて肩を震わせていた。
「中に入った方がいいわ。上がると、息がしにくくなるから」
艦が揺れた。足元の、鉄の下から、低い音が這い上がってくる。四基の巨大なプロペラが回り始めたのだ。甲板が、少しずつ海から離れていく。
「ああ」バナーが額を押さえた。「飛行機より、ひどい」
エドは、手すりを握った。体が持ち上がる感覚が、列車でも飛行機でもなかった。足元の地面ごと、持ち上げられていく。胃の底が、浮いた。
〈兄さん、胃が浮いてるでしょ〉
〈浮いてねえ。ちょっと、ふわっとしただけだ〉
***
艦内の通路は、研究所の廊下に似ていた。
壁は灰色の金属で、配管が天井を這っている。すれ違う人間は、誰も立ち止まらず、左脚の足音が一つだけ重いのに、誰も振り向かなかった。見る暇がないのだ、と分かった。
先頭を、ナターシャが歩く。その後ろを、バナーがうつむいたまま歩いて、エドが続いた。
「天井の隅」バナーが、足を止めずに小声で言った。「小さなレンズがある。壁にも。ここで喋ったことは、全部聞かれてると思った方がいい」
「分かってる」
「慣れてるのか」
「軍の人間とは、少しな」
バナーは何か言いかけて、やめた。眼鏡の奥の目が、天井の球を一度だけ見て、すぐに逸れた。見られることに、この人はもっと慣れているのだ、とエドは思った。
最後尾に、ロジャースがいた。背筋の伸びた、大柄な男だった。通路の真ん中を、迷いのない足取りで歩いている。
「エルリック君」
背中に声がかかった。振り返ると、ロジャースが、少し歩く速さを緩めていた。
「さっきは、すまなかった。子供扱いするつもりは、なかった」
「してたろ」
「してた。……癖だ」ロジャースは、困ったように笑った。「君くらいの年なら、今の時代でも、高校に通っているものだと思ってね。僕もそうだった」
「通ってる奴は、通ってるだろ」
「君は通っていないのか」
「通ってねえ。仕事してる」
「そうか」
ロジャースは、少し黙った。それから、ぽつりと言った。
「僕も、昔は小さかった」
エドの足が、止まった。
「……誰が、小さいって?」
「君のことじゃない。僕のことだ。注射を打つ前は、君より——」
「俺より、何だ」
「いや、その」ロジャースは、慌てて手を振った。「君が、小さいという意味じゃ」
「今、小さいって言ったよな」
「言っていない」
「言った!」
〈兄さん、落ち着いて〉
〈落ち着いてる!〉
前を歩くナターシャの肩が、小刻みに揺れていた。バナーは、笑いをこらえすぎて咳き込んでいる。ロジャースは、本気で青ざめていた。この人は嘘がつけない、とエドは思った。嘘がつけない人間に腹を立てるのは、難しい。
「悪かった」ロジャースは、真面目な顔で頭を下げた。「本当に悪かった。次から気をつける」
「別に、怒ってねえ」
「怒ってるように見える」
「怒ってねえって言ってんだろ!」
エドはずんずん歩き出した。背中のほうで、ロジャースが小さく「難しいな」と呟くのが聞こえた。エドは、聞こえないふりをした。胸の奥が、ほんの少しだけ、軽くなっていた。
通路の突き当たりが、大きな扉だった。両開きの重い鉄の扉の脇に、武装した兵が二人立っている。ナターシャが何か合図をすると、扉が横に滑って開いた。
***
艦橋は、思っていたよりずっと広かった。
天井が高く、窓の外は一面の青だった。海と空の境目が、ガラスの向こうでぼんやりと溶けている。部屋の中には、何十もの席が段になって並んでいて、そのどれにも、画面を睨む人間が座っていた。誰かが小声で数字を読み上げ、誰かがそれを復唱する。声が重なって、低い波のように聞こえた。
中央の高い位置に、黒いコートの男が立っていた。片目に眼帯。フューリーだった。
その隣に、黒いスーツの女がいた。右の足首に包帯を巻いている。少し離れた席では、コールソンが通信を受けていた。
「ヒル」
エドが言うと、ヒルが振り向いた。唇の端が、ほんの少しだけ上がった。
「脚、立ってて平気なのか」エドは言った。
「座ってたら、仕事が溜まるのよ」ヒルは、包帯の足首を軽く持ち上げて見せた。「労災の書類は、あなたの名前で出しておいたわ」
「何で俺の名前なんだよ」
「現場にいた顧問だもの。崩れた天井の分も、まとめて」
「崩したのは俺じゃねえ!」
「割ったのは?」
「……助けた方が先だろ、それは」
ヒルの唇の端が、さっきより少しだけ上がった。
フューリーが、ゆっくり振り向いた。
「揃ったか」
声は低かった。誰に向けて言ったのか、分からない。ただ、ナターシャが、バナーが、ロジャースが、それぞれ背筋を伸ばしたのが分かった。エドも、いつの間にか、肩に力が入っていた。
「ロマノフ。連れてきたな」
「はい」
「バナー博士。ようこそ、ヘリキャリアへ」
「ここに来る気は、なかったんですが」バナーが、穏やかに返した。
「承知している」
フューリーの片目が、エドに向いた。
「エルリック。契約の延長書類は受け取った。今日から、お前も正式に艦のスタッフだ」
「分かってる」
「口を出す時は、手を出す前に言え。手を出す時は、俺に言え。勝手に前に出るな」
「それ、前にも聞いた」
「何度でも言う」
その時、ヒルが前を向いたまま、声を張った。
「長官。ステルス、固定しました」
「よし」フューリーは短く答えた。それから、艦橋全体に聞こえる声で言った。「消えるぞ」
艦橋の空気が、変わった。
最初に起きたのは、音だった。遠くで鳴っていた低い唸りが、一段、深くなる。
エドは、息を呑んだ。
窓の端に、船体の縁が見えていた。その縁から、色が抜けていく。外側の板が一斉に返って、海と空を映し始めたのだ。船の輪郭が、風景に溶けていく。最初から、そこになかったように、周りの景色が繋がっていく。
〈兄さん〉
〈ああ。見てる〉
〈どうやってるんだろう〉
〈分からねえ。……分からねえけど〉
左手が、疼いた。手袋の下で、指先が勝手に動く。どんな仕組みなのか、確かめたい。触れて、読んで、構造を知りたい。この船全体が、とてつもなく大きな錬成陣のように見えた。
「触るなよ。この船には、お前に許可してない秘密が山ほどある」
フューリーの声がした。振り向くと、眼帯の男は、わずかに口の端を持ち上げていた。
「顔に書いてある」
「書いてねえ!」
「書いてある」ヒルが、小声で言った。
「あなたは分かりやすいわ」ナターシャも言った。
バナーは、咳払いのふりをして顔を背けた。ロジャースは、気まずそうに天井を見上げていた。エドは、全員に聞こえるように舌打ちをした。
フューリーは、それで話を切り上げたようだった。表情が、戻っていた。
「全員、聞け」
艦橋が、静まった。
「状況は、お前たちも知っているとおりだ。奴は、あれを持って、どこかにいる。バートンとセルヴィグを使って、何かを準備している。次の動きを待つ間に、こちらも動く。バナー博士」
「はい」
「奴の使うエネルギーは、独特の波を残す。あなたの研究と、一致するはずだ。探せるか」
バナーは、少しだけ黙った。そして、うなずいた。
「やってみます。ただし、使える設備と時間が」
「設備は用意してある。時間は、あまりない」
「分かりました」
フューリーの片目が、再びエドに向いた。
「エルリック。お前は、博士に付け。必要になったら、俺が呼ぶ」
「俺に何をさせる」
「博士の機械は、奴の波を拾う。お前は、その波の持ち主がどういう構造をしているか読め。奴の槍が、どうやって人を動かしているのか」フューリーは言った。「それが分かれば、バートンとセルヴィグを取り戻せる」
エドは、窓の外を見た。消えかけた景色の向こうに、水平線が細く光っていた。胸の奥の、冷たいものが入ってきて止まった場所が、また小さく疼いた。バートンの青い目が浮かんで、消えなかった。
***
研究室は、艦の奥にあった。
窓がない。壁一面に機械が並び、作業台の上には、エドが見たこともない形の測定器が口を開けていた。バナーは入ってくるなり上着を脱いで、袖をまくり、機械の電源を一つずつ入れていった。迷いがなかった。体が、仕事を覚えている動きだった。
「分光計の較正に、あと三十分」
「俺は何をする」
「そこの記録を、読んでくれ。彼が最初にキューブを使った時の波形だ。数字の読み方は分かるが、その波が何をしているかまでは、この機械では拾えない。君の手なら、何か分かるかもしれない」
エドは、机に積まれた紙束を引き寄せた。波が、縦線の束になって並んでいる。見ているうちに、左手が冷えてきた。紙の上のただの線なのに、あの施設で触れたキューブの冷たさが、指の先に戻ってくる。
エドは、左手を腿の下に押し込んだ。それから、何でもない顔で紙をめくった。
「この山、何回かに一回だけ、でかい」
「どれだ」
「ここと、ここと、ここ。使い方が違ったんだろ。普通に使った時と、無理やり通した時」
バナーは、顔を上げた。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「……確かに、その三つだけ振れ幅が違う。装置の癖だと思っていたが、使った側の差か」
「俺の方でも同じなんだよ。力の量は決まってる。でも、通す奴が焦ると、波が荒れる」
「通した人間の癖が、残るのか」
「残る。だから読める」
バナーは、何も言わずにその三つの山の印をつけた。机の上の機械が、低く鳴った。
それから三十分、二人はほとんど喋りどおしだった。エドが波の癖を説明すると、バナーは測定器の数字を並べて、どこまで裏が取れるかを返した。話が分かれるたびに、エドが「そこは違う」と遮って、バナーが「なぜ」と聞き返す。途中で、バナーが紙の束の端を指で叩いた。「三つの山の間隔が君の言うとおりなら、四つ目は、ここに来るはずだ」。めくると、本当にそこにあった。エドは、思わず声を上げそうになった。こっちが手で掴んだ癖を、この人は、数字だけでたどり着いて先回りしている。技術では負けない、と思っていた。それが少しだけ、揺らいだ。紙の裏が、二人の書き殴った式で埋まっていった。診療所では必要なことしか言わなかった人が、いつの間にか、倍の速さで喋っていた。本人は、気づいていないようだった。
波が出るまで、あとは待つだけだった。
エドは、紙を置いて立ち上がった。
「艦橋に行ってくる。バートンを探してるんだろうし、見つかるなら、見たい」
「行ってくれ。ここは、僕がやっておく」
「戻ってくる。それまで、その山、触るなよ」
「触らない」バナーは、小さく笑った。「その代わり、戻ったら聞かせてくれ。君の見方を」
***
艦橋に上がったエドを、フューリーは追い出さなかった。エドは隅の席で、バートンの手がかりが出るのを、そのまま夜まで待っていた。
艦橋は、夜になっていた。
照明が落とされて、画面の青白い光だけが、人間の顔を下から照らしている。昼間のざわめきが消えて、誰かがキーを叩く音だけが、規則的に続いていた。
前方の大きな画面に、街の映像が出ていた。カメラの粗い画像だ。石畳に、古い建物。その上に、小さな枠が幾つも重なって、顔の写真が高速で入れ替わっている。
「照合中です」オペレーターが言った。
「見つかるまで、何分だ」
「分かりません。世界中の防犯カメラを当たってるので」
エドは、艦橋の隅に立っていた。ロジャースとコールソンが、画面の前に並んでいる。ヒルは少し離れた席で、足を投げ出していた。包帯が、薄暗がりの中で白く見えた。
「あなたを庇った時のバートン」ヒルが、小声で言った。「あの後、何かされたのよね」
「目が、青くなってた。元は、違う色だった」エドは、言った。「あの槍に触られると、そうなる」
ヒルは、それ以上は聞かなかった。
その時、オペレーターの声が上がった。
「ヒット。ドイツ、シュトゥットガルト。今夜の催し物の会場周辺です」
画面の一つが切り替わった。舞台の照明に照らされた、豪華な広間。燕尾服の男たちと、ドレスの女たちが、グラスを持って談笑している。そのざわめきの中を、一人だけ、場違いな男が歩いていた。
黒い礼装。黒い髪。杖のように握った、長い棒。
〈兄さん〉
〈ああ。あいつだ〉
背の高い男だった。他の誰とも、体の使い方が違う。人の波が、ひとりでに左右に割れていく。誰も男を見ていないのに、誰もその進路を塞がない。
「ロジャース大尉」フューリーの声が、艦橋に響いた。「出番だ」
ロジャースは、短く頷いた。それから、すぐに歩き出して、艦橋の出口へ向かう。ナターシャが、いつの間にか隣にいて、同じ歩調で並んでいた。
エドは、思わず足を前に出した。
「待て。俺も——」
「ダメだ」
フューリーの声は、後ろから来た。振り向かなくても、眼帯の男がこちらを見ているのが分かった。
「お前は、ここにいろ」
「でも、バートンが」
「バートンがいるなら、なおさらだ。ロキは、お前に興味があると言った。その男の前に、お前を出す理由がない」
「……」
「勝手に前に出るなと言ったな」
エドは、拳を握った。握った拳が、冷えていた。画面の中では、男が広間の中央に出ていた。人の波が、そこで止まった。
***
「座ったら」ヒルが言った。「立っていても、映像は変わらないわ」
エドは、渋々、近くの空いた席に腰を下ろした。画面の中で、何かが動いた。
同じ頃の、別のカメラの映像が回ってきた。研究棟の入り口だった。ガラスの扉の脇に、読み取り機がある。そこで、背中を向けた男が、小さな機械を読み取り機にかざしている。
顔は見えない。ただ、その腕の線に、エドは覚えがあった。施設で、りんごを投げて寄越した手の動きだった。
「バートンだ」
ヒルが、画面を睨んだ。「分かるの」
「たぶんな。腕の振りが同じだ」
握った左手の爪が、手袋の上から手のひらに食い込んでいた。
〈兄さん〉
〈黙ってろ〉
声が、自分でも低いと思った。
扉が、開いた。バートンの背中が、建物の中に消える。次の画面で、バートンは細長い容器を抱えて出てきた。
「イリジウムです」オペレーターが言った。
コールソンが、小声で言った。
「何のために、あれが要る」
誰も、答えられなかった。
画面が、再び広間に戻る。男が、杖を高く構えていた。足元で、客が次々に膝をついていく。逆らえる者は、誰もいない。誰かが、泣いていた。
「ひざまずけ」
音声が、遅れて拾われた。男の声は、よく通った。
「人は、ひざまずくために生まれた。自由など、お前たちには重すぎる」
エドの喉の奥が、熱くなった。ほんの一瞬だけ、あの施設の臭いが戻った。血と、焦げた石と、あの男の声。
その時、画面の隅で、一人の老人が立ち上がった。
背の曲がった、白髪の男だった。周りの全員が膝をついている中で、ただ一人、腰を伸ばした。
男の杖が、老人に向いた。
老人は、言った。声は小さく、震えていた。けれど、はっきりと聞こえた。
「お前のような男には、ひざまずかない」
エドの背中に、鳥肌が立った。息を止めていたことに、遅れて気づいた。
杖の先に光が集まり、老人の胸に向かって放たれる瞬間——画面の端から、盾が飛び込んできた。
青と赤の円盤。光が、それにぶつかって、扇のように弾け散る。ロジャースが、老人の前に立っていた。
誰かが、息を吐いた。艦橋の何人かが、拳を握っている。
エドは、気づいたら立っていた。
〈兄さん、立ってるよ〉
〈……うるせえ〉
***
戦いは、長くなかった。
先に来たのは、上空の低い音だった。ナターシャの操縦する機体が、広場の真上で止まった。杖の男が、その機体に向けて光を撃った。機体は揺れて、それでも落ちなかった。
ロジャースは、その間に男との距離を詰めていた。エドが資料で読んだ七十年前の英雄の姿とは、まったく違っていた。紙の上の英雄は、もっと遠く、もっと整って見えた。画面の中の男は、息を切らして、膝をつき、それでも立ち上がっていた。土と埃にまみれた顔のまま、杖の男に突っ込んでいく。
男は、ロジャースを見て、何か言った。ロジャースは、短く言い返した。音声は拾われなかったが、ロジャースの顔つきで、相手を舐めていないことは分かった。
音楽が、鳴り出した。
誰かが、艦橋の中で呟いた。「何だ、あれ」
激しい電気楽器の音が、上空から降ってくる。その音の下を、赤と金の影が、斜めに裂いて降りてくる。
「トニー・スタークだ」ヒルが言った。
エドは、その名前を資料で見ていた。兵器会社の社長。天才。傲慢。
〈資料じゃ、天才だとよ〉エドは鼻を鳴らした。〈会ってみりゃ分かる〉
〈兄さん、会ってもないのに〉
赤と金の人影が、広場の中央に降り立った。両腕を広げ、全身の武器を男に向ける。
〈兄さん、あれ、人が入ってるの?〉
〈……関節の動きを、もう一回見せろ〉
画面に向かって言ったのが、自分でも馬鹿らしかった。左手が、また疼いた。
『ここまでだ』
声が、スピーカーから響いた。男は、杖を持ったまま、ゆっくりと周りを見回した。
ロジャースと、赤と金の影と、上空の機体。逃げ道は、ない。
エドは、男の顔を見ていた。追い詰められたのに、焦りがなかった。口の端がほんの少し上がっている。
〈兄さん、あの人、笑ってる〉
〈ああ〉
男は、武装を解いた。両手を高く上げ、鎧の男が近づくのを待った。
拘束されても、男は肩を落とさなかった。
「あっさりしすぎだ」エドは言った。
「どういうこと」
「勝てなくて降りた顔じゃねえ。……なんか、まだ余ってる顔だ」
ヒルが、振り向いた。
「根拠は」
「ねえ。ただの勘だ」エドは、画面から目を離さずに言った。「あの施設でも、あいつ、笑ってた。負けてる奴の笑い方じゃなかった」
フューリーは、何も言わなかった。眼帯の下の顔が、一度だけ、エドのほうを向いた。それから、画面に目を戻した。
画面の中で、男は機体に連れ込まれていく。ロジャースが、その後ろから続いた。
バートンの姿は、どの画面にも映っていなかった。
エドは、左手を握った。手のひらが、まだ冷たかった。バナーの機械が、遠くの部屋で鳴っている気がした。
〈兄さん、あの人、これからこの船に来るんだよね〉
〈ああ〉
〈同じ場所に、いるんだよね〉
〈……いる〉
エドは、画面から目を逸らさなかった。男の姿が見えなくなるまで、見続けた。