MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
コールソンの歩幅は、いつも一定だった。
艦内の通路を、エドは半歩遅れてついていった。壁の配管が、ときどき低く唸る。檻のある区画に近づくほど、すれ違う人間が減っていった。
「バートンの手がかりは」
「まだ、出ていません」コールソンは前を向いたまま答えた。「長官は、見つかり次第、君に知らせるはずです」
「あの人、そういうとこは嘘つかねえよな」
「嘘をつく時は、先に自分で言う人です」
「それ、嘘って言わねえだろ」
コールソンは、ほんの少しだけ、笑った。
「ロキの前に君を出さないと決めたのは、君のためだけではありません。あの男が君に何を言うか、私たちにも読めない。それが怖いんです」
「あんたらでも、怖いのか」
「怖いですよ。仕事ですから」
エドは、それ以上は聞かなかった。通路の突き当たりで、コールソンが足を止めた。
檻のある区画の手前に、細長い部屋があった。
壁の一面が、丸ごと画面になっている。映っているのは、ガラスで囲われた、何もない小部屋だった。床も壁も灰色で、ベッドも椅子もない。ただ、それだけの箱が、画面の中央に置かれている。
部屋には、先客が二人いた。
一人は、ロジャースだった。腕を組んで、画面を睨んでいる。
もう一人は、壁際の椅子に座っていた。座っていても、頭が扉の上の灯りに届きそうだった。長い髪を後ろに流して、肩に赤いマントを掛けている。膝に置いた手が、エドの頭より大きく見えた。
〈兄さん、あの人……〉
〈見てる〉
〈椅子が、小さく見える〉
〈……でけえ〉
「エルリックさん」後ろから、コールソンの声がした。「紹介は、長官が来てからにします。座って待っていてください」
エドは、ロジャースの隣に立った。座るほどの時間は、なさそうだった。
「君も呼ばれたのか」ロジャースが、画面から目を離さずに言った。
「槍のことで聞きたいんだと」
「槍は、まだ解析してるのか」
「バナーが見てる。俺は、手を離してきたとこだ」
ロジャースは、小さくうなずいた。それから、思い出したように、続けた。
「さっきは、すまなかった。スタークが、バナーに電気を当てた時だ」
「あんたが謝ることじゃねえだろ。やったのは、あっち」
「僕は、何もできなかった。君のほうが、早かった」
「体が勝手に動いただけだ」
壁際の大男が、こっちを見ていた。
エドは、見られているのに気づいて、視線を返した。大男は、重そうな腰を上げて、立ち上がった。立つと、天井との間が、拳一つ分しかなかった。
「小さき戦士よ」
「……あ?」
「許せ。艦の者から、そなたの話は聞いた。槍を読む者だと」
「小さきって言ったか!」エドは、一歩踏み出した。
「言った」
「誰が小さ——」ロジャースの手が、エドの肩を押さえた。
「その、言葉は、不適切か」大男は、真剣な顔でロジャースを見た。「彼の国では、小さきは、敬意ではないのか」
「ソー」ロジャースが、額を押さえた。「ここでは、不適切だ」
「そうか」ソーは、エドに向き直って、胸に手を当てた。「無礼を詫びる。私は、ソー。アスガルドの王の子だ」
「エドワード・エルリック。ただの技師だ」
「ただの技師が、あの槍を読むのか」
「ただの技師でも、できる奴はいる」
ソーは、愉快そうに笑った。笑うと、部屋の空気が、少し揺れた。この人は、嘘がつけない人だ、とエドは思った。ロジャースと、同じ型だ。ただし、サイズが倍ある。
「資料に、雷の神ってあった。本当に雷を出すのか」エドは訊いた。
「出せる」
「見せろ」
「ここでは、遠慮する。艦が割れる」
「割れんのかよ」
「割れる」
ロジャースが、咳払いで笑いを隠した。
その時、扉が開いて、フューリーが入ってきた。
***
「揃っているな」
フューリーは、部屋を見回して、最後にエドで目を止めた。
「エルリック。槍を読んだな」
「30秒ずつ、何回か」
「結果を聞く。短く」
エドは、画面の前に立ったまま、言葉を選んだ。ラボで、人に何度か言ってきたことだ。順番は、頭に入っている。
「洗脳だ。あの槍で触られると、中に入られて、操られる。入る前に、先に相手を読んでる。スタークとバナーが、機械で確かめた」
「スタークが」フューリーの片目が、少しだけ細くなった。「あの男は、もう、お前に会ったか」
「会った」
「どうだった」
「……頭が、いい」
言ってから、エドは、口を閉じた。口の端が、勝手に引きつっている。ソーが、不思議そうにこっちを見ていた。
「それで。解く方法は」
「分からねえ。ただ……」エドは、自分の胸の真ん中を、指で叩いた。「入られた奴の中に、跡が残ってる気がする。入る前と、入った後で、何か、こう」
「何か」
「分かんねえもんは、分かんねえんだよ」
「それでいい」フューリーは、短く言った。「分からないと言える人間は、使える」
フューリーは、扉へ向かった。出る前に、一度だけ振り向いた。
「バートンに借りがあるのは知っている。返す機会は、作る。ただし、俺の指示の範囲でだ」
「それ、前にも聞いた」
「何度でも言う」
扉が、閉まった。エドは、舌打ちを呑み込んだ。「何度でも言う」は、この人の口癖らしい。
エドは、無意識に、左手を右の脇に挟んでいた。ロジャースが、それに気づいた。
「手が、どうかしたのか」
「冷えただけだ。槍を触ると、こうなる」
「痛むのか」
「痛くはねえ。感覚が鈍るだけだ」
「それは、平気とは言わない」ロジャースは、真面目な顔で言った。「戦場でも、痛くないと言う兵ほど、あとで長引いた」
「あんた、そういうの詳しいのか」
「詳しくなってしまった」ロジャースは、少しだけ、笑った。「君は、自分で決めて、ここにいるんだろう。なら、止めない。ただ、限界の手前で、止まってくれ」
「……分かってる」
返事が、素直になりすぎた気がして、エドは、画面に目を戻した。
「あいつの目的は、何なんだ」エドは、ソーに訊いた。「槍とキューブで、人を操って、何をする気だ」
ソーは、重い腰を椅子に戻した。椅子が、きしんだ。
「ロキは、この星を、手に入れるつもりだ。キューブの力で、門を開き、別の世界から軍勢を呼ぶ。チタウリという。人ではない。数は、多い」
「軍勢」ロジャースの声が、低くなった。
「ロキは、その軍勢に、この星を差し出すと約束した。見返りに、玉座を得る」
「玉座」エドは、思わず繰り返した。「ここの?」
「ここの、だ」ソーは、苦い顔で笑った。「あの男は、昔から、玉座を欲しがっていた。私は、それを、見ようとしなかった」
エドは、何も言い返さなかった。ソーの言葉は、長い間、頭の中で転がされてきた言葉の形をしていた。何度も言って、何度も飲み込んで、それでも出てくる言葉だ。
〈あの人、さっきから拳を握ってる〉
〈……ああ〉
エドは、返事をしなかった。
画面の中に、人が入ってきた。フューリーが、一人で、ガラスの箱の前に立っている。兵に連れられて、黒い髪の男が、箱に入れられた。
***
ロキは、箱の真ん中に立った。
縄も鎖も、なかった。男は、自分の手首を見下ろして、小さく鼻で笑った。そして、ガラスの外に立つフューリーを、見上げた。
「ずいぶん、手の込んだ歓迎だ」
音声が、部屋のスピーカーから流れてきた。男の声は、よく通る。誰かに聞かせるための声だった。
「ここは、どういう作りか分かるか」フューリーは言った。そして、壁のパネルに手を置いた。
箱の床の、ロキの足元のすぐ脇が、音もなく開いた。下に、何もない。空と、遠い海が、ずっと下に見える。
「この床が、抜ける。高度は、一万メートル近い」
〈……あの床、どういう仕組みだ〉エドは、思わず内側で呟いた。〈蝶番か、スライドか。見てえ〉
〈兄さん、今そこ?〉
〈気になるもんは気になる〉
「それで?」
「アリと、ブーツだ」フューリーは、淡々と言った。「アリが、ブーツに文句を言うか? 言わない。踏まれるだけだ」
「いい比喩だ」
ロキは、床の穴を見下ろして、少しも動かなかった。そのまま顔を上げた。
「だが、この箱は、私のために作られたのではない」
「そうだ。もっと、強いものを閉じ込めるために作った」
「それは、面白い」
ロキは、笑った。ほんの少し、口の端を上げただけだった。
「あの男は、今、何を考えている」ロジャースが、低い声で言った。
「分からん」ソーが答えた。「ただ、笑っている間は、本心を言っていない」
エドは、画面の中の男の口元を見直した。確かに、口の端は上がっているのに、目の奥が、笑っていない。声を出さない笑い方だ。施設で、自分に槍を向けた時の顔と、同じだった。追い詰められているのは、箱の中の男のはずなのに、見ている側のほうが、狭い部屋に閉じ込められている気がした。
「あいつ、わざと捕まったな」
声に出ていた。ソーが、こっちを見た。
「何故、そう思う」
「慌ててねえ。逃げようともしてねえ。……むしろ、ここに入りたかったみたいな顔だ」
「弟は」ソーは、画面から目を離さずに言った。「昔から、そういう男だ」
「弟?」
「そうだ。血は、繋がっていない。それでも、弟だった」ソーは、拳を握った。「あの男の言葉で、多くの者が命を落とした。それでも、私は、弟を、救えると思っていた。……思っていたかった」
エドは、何も言えなかった。
ソーは、さっきまでの笑顔を、どこかに置いてきた顔をしていた。
「あんたの弟は、まだ、そこにいるだろ」エドは、ぼそりと言った。「まだ、死んでねえ。だったら、直す方法を探せ」
「直す」
「俺は、そうしてる」
ソーは、エドを見下ろした。長い間、何も言わなかった。それから、小さくうなずいた。
「……そうか。そういう生き方も、あるのだな」
「生き方ってほどじゃねえよ。ただ、諦めるのが、下手なだけだ」
「それは、いい才能だ」
ロジャースが、二人の顔を、交互に見ていた。何か言いたそうだった。結局、何も言わなかった。
画面の中で、ロキが、フューリーに向かって話し始めた。
「お前は、焦っている。私の行方を追い、あれを取り戻したいと思っている。そのために、人を集め、艦を飛ばし、箱を作った」
「その通りだ」
「あれは、お前が思っているほど、扱いやすい物ではない。持つ者に、力を与える。ただ、その力は、持ち主を選ばない」
「何が言いたい」
「本当の力を前にすれば、分かるということだ」ロキは言った。「お前たちが、どれほど小さいかが」
フューリーは、鼻を鳴らした。
「言いたいことは、それだけか」
「ほう」
「続けたければ、続けろ。時間は、たっぷりある」
フューリーは、背を向けて出ていった。その背中が、扉の向こうに消えるまで、ロキは何も言わなかった。床の穴は、いつの間にか閉じていた。笑みだけが、箱の中に残っていた。
そして、ロキは、天井の隅にあるレンズを、見上げた。
まっすぐに。
エドは、息を呑んだ。画面の中の男と、目が合った気がした。この部屋に誰がいるのか、向こうに分かるはずがない。分かるはずがないのに、数ある顔の中から、一人を選んで見られた気がした。
〈……こっち、見てる〉
アルの声だった。いつもより、ずっと低かった。
〈大丈夫だ。画面越しだ〉
〈でも〉
〈大丈夫だって言ってんだろ〉
自分の声が、強がりに聞こえた。エドは、握った拳を、体の後ろに隠した。ロキの口が、動いた。声は、ない。唇だけが、ゆっくりと形を作った。
いずれ。
そう、読めた。
***
しばらくして、画面の中に、別の人影が現れた。
ナターシャだった。一人で、ガラスの前に立っている。手には、何も持っていない。男は、箱の中から彼女を見ていた。
ロジャースが、体を前に傾けた。
「彼女が、一人で行くのか」
「尋問は、彼女の専門だ」コールソンが言った。「ただ、無理はしないはずです」
音声が、また流れ出した。
「何をしたの。バートンに」
「何も、していない。私は、ただ、目を開かせただけだ」
「それが、何をしたのかと聞いてるの」
「あの男は、今、前よりずっと自由だ。誰にも命令されず、自分の意思で動いている。……私の意思に従うという、自分の意思で」
ナターシャの指が、ガラスの縁を掴んだ。エドには、そう見えた。
ロキは、続けた。声を荒げることもなく、丁寧に。
「お前の帳簿は、赤いままだ。私は、それが読める」
彼女の名前、彼女の仕事、彼女の記録。ロキは、それを一つずつ、並べていった。ナターシャは、顔を動かさなかった。ただ、掴んだ指の関節だけが、白くなっていった。
「あなたは、怪物よ」ナターシャが言った。声が、震えていた。
「怪物を、連れてきたのは、お前たちだ」
「……っ」
「そして、この艦の、本当の怪物は」ロキは、箱の中で首を傾げた。「まだ、眠っている」
ナターシャは、一度、目を閉じた。次に目を開けた時、顔が変わっていた。さっきまで揺れていた肩が、止まっていた。
「分かった。もういい」
「十分よ」
ナターシャは、背を向けて、箱から離れた。歩きながら、耳の後ろに指を当てた。
「聞いて」声は、低かった。「ロキの狙いは、ハルクよ。バナー博士を怒らせて、艦の中で、あれを出す気。博士を、ラボに閉じ込めておいて。それから、ソーを、こっちに寄越して」
部屋の中の全員が、動いた。
「ソー」ロジャースが言った。
「行こう」ソーは、すでに扉に向かっていた。マントが、ふわりと揺れた。「弟の顔を、見てくる」
「エルリックさん」コールソンが、エドの肩に触れた。「博士のそばに」
「言われなくても、行く」
廊下の角で、エドは、ナターシャとすれ違った。
彼女は、足を止めなかった。顔色が、少しだけ悪かった。エドは、一歩だけ後ろを振り返って、彼女の背中に声をかけた。
「大丈夫か」
「平気よ」
「今の、平気って顔じゃなかった」
ナターシャは、足を止めて、振り返った。目が、一瞬だけ、エドを測った。それから、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
「子供に心配される歳じゃないわ」
「あんた、前に言ったろ。借りを返す時は、一人で行くなって」
「……覚えてたの」
「忘れてねえよ」
ナターシャは、何も言わなかった。ただ、通路の先へ歩き出す前に、エドの肩を、軽く叩いた。
「バナーを、お願い」
エドは、走り出していた。
***
ラボの扉が、勢いよく横に滑って開いた。
「バナー!」
バナーは、顔を上げた。作業台の前で、紙を一枚持ったまま、眼鏡の奥から、エドを見た。
「そんなに急いで、どうしたんだ」
「ロキの狙いが、あんただ」
「……ああ」バナーは、少しだけ、目を伏せた。「そうだと思った」
「分かってたのか」
「昨夜の数字で。槍の波は、人の怒りに反応して強くなる。僕が一番、揺さぶりやすい人間なのは、僕が一番よく知ってる」
エドは、息を整えながら、バナーを見た。顔色は、悪くなかった。声も、落ち着いている。ただ、紙を持つ指が、わずかに白かった。
「あんたを、ここから出さねえように、言われてる」
「僕の、見張りか」
「ちげえよ。……いや、まあ、そうか」エドは、頭をかいた。「でも、一人にするなって意味だ」
「同じことだ」バナーは、小さく笑った。「構わない。僕は、一人にならないほうが、いい」
エドは、近くの椅子を引き寄せて、座った。しばらく、二人とも何も言わなかった。作業台の槍が、ケースの中で、青く光っていた。金具に挟まれた小さな表示灯が、一定の間隔で点滅している。
「バナー。診療所で言った、傷の塞がる速さの話だ。あれは、あんたの体で、実際に起きてるのか」
バナーは、手を止めた。
「ああ。ハルクが出てくると、僕の体は、普通の何倍もの速さで傷を塞ぐ。切っても、撃っても、数分で消える」
「治り方を、体が覚えてるみたいに」
「そう見える。ガンマ線が、細胞に、治り方の手順を書き込んだ。そう考えると、数字が合う」バナーは、紙の端を指で叩いた。「ただ、書き込んだのは偶然で、読む側は、僕の意思じゃない。傷が塞がるのは、結果だ。制御の手段じゃない」
「書き込んで、読ませる」エドは、顎に手を当てた。「それって、あの槍と、同じ型の話じゃねえか。槍は、人の頭に形を書き込んで、勝手に読ませる」
バナーの目が、一瞬だけ見開かれた。
「……同じ型。確かにそうだ。外から手順を渡して、中の仕組みに実行させる。槍は、脳を相手にして、ガンマ線は、細胞を相手にした」
「だったら、槍の波の形が分かれば、あんたの治り方に似た手順を、人の体に書く方法も——」
「それは、分からない」バナーは、首を振った。「ただ、面白い着眼だ。君の頭の中では、全部が繋がってる」
「繋がってるわけじゃねえ。繋げようとしてるだけだ」
バナーが持った紙が、小さく震えていた。本人は、気づいていない。エドは、少しだけ迷った。人の弱いところを見たら、こっちも一つ出さないと、釣り合わない気がした。迷って、左手を膝の上で握り込んだ。
「弟の体を探してる」
「弟さんの」
「ずっと前に、なくした。俺のせいだ。取り戻す方法を探してて、あんたの論文は、その一つだった」
バナーは、何も言わなかった。眼鏡の奥の目が、エドを見ていた。診る目ではなく、聞く目になっていた。
「診療所に来た理由は、それか」
「そうだ。黙ってて、悪かった」
「いや。謝ることじゃない」バナーは、首を振った。「理由があって来たほうが、僕は安心する」
「……そうか」
「ただ、僕のやり方では、無いものは作れない。傷を塞ぐところまでだ。失ったものを、ゼロから戻すことは、できない」
「分かってる」
「ゼロから体を組む話なら」バナーは、ふと扉のほうを見た。「僕より、あの人のほうが詳しいかもしれない」
「あの人?」
「スターク。彼は、自分の胸に機械を入れて、生きている。足りない部分を、技術で補う道を、毎日歩いてる」
エドは、さっきの会話を思い出した。胸の光と、心臓へ向かって動く金属の破片。冗談の包みで、さらりと出された話だった。
「聞けば、教えてくれるか」
「頼み方次第だ」バナーは、小さく笑った。「彼は、頼られるのが好きだ。ただし、頼ってきたとは思わせないほうがいい」
「めんどくせえ」
「そういう人だ」
二人は、少しだけ、笑った。
バナーは、作業台の下から魔法瓶を出して、紙のコップに注いだ。湯気が立つ。診療所で飲んだ茶の匂いがした。
「飲むかい?」
「もらう」
「診療所では、半分残してたな」
「あの茶は、薄かったんだよ」
「今日のは、濃いぞ」
エドは、コップを受け取って、一口飲んだ。渋かった。眉間に皺が寄った。バナーが、肩を揺らして笑った。
「濃すぎる」
「だから言った」
二人は、しばらく黙って、茶を飲んだ。この艦の中で、ここだけが、時間がゆっくり流れていた。ただ、それが長くは続かないことを、二人とも、分かっていた。
笑ったあとで、バナーは、ふっと真顔に戻った。作業台の端に両手を置いて、しばらく何かを数えるように、息をしていた。
「エド」
「何だ」
「もし、僕が、ここで駄目になったら」バナーは、言葉を一つずつ置いた。「ハルクが出たら、君は扉を出て、走れ。戦おうとするな。君は、まだ、子供だ」
「子供扱いすんな」
「事実だ」
「……あんたも、言うのかよ」
「君が、そう呼ばれるのを嫌うのは知ってる。それでも、言う」バナーは、困ったように笑った。「僕は、君が怪我をするのを、見たくない」
エドは、すぐに言い返そうとして、やめた。
「……駄目になる前に、俺が止める」
「止められるか」
「止める。あんたの手は、まだ、人の手だ。そこにいるうちは、止められる」
「ずいぶん、自信があるな」
「ハッタリだ」エドは、肩をすくめた。「ハッタリで通せば、本当になることもある」
バナーは、少し黙った。それから、頷いた。
「覚えておく」
作業台の上で、槍が青く光っていた。
〈ロキの唇、最後まで見えてたよ〉
〈読めたのか〉
〈うん。いずれ、って〉
〈……俺もだ〉
エドは、拳を握った。指先だけ、まだ重かった。