MCU:Fullmetal Alchemist 作:ゴミ収集者
朝が来たことは、壁の時計で知った。
エドが気づいたのは、作業台の端に置いたコップの茶が、冷めて、表面に薄い膜を張っていたからだ。昨夜、自分が一口だけ飲んだ茶だった。その向こうに、布をかけた槍が横たわっている。布の下の膨らみが、青い玉の形をしていた。
エドは椅子に深くもたれて、肩から毛布を落とした。いつ掛けられたのか、覚えていない。首の後ろが痛んだ。左手の指先は、感覚がまだ鈍かった。
〈兄さん、おはよう〉
〈おはよう……って言うほど寝てねえ〉
〈三時間は寝たよ。僕、数えてたから〉
〈数えんな〉
部屋の向こうでは、バナーとスタークが、まだ画面の前に立っていた。バナーは眼鏡を額に上げて、目頭を揉んでいる。スタークは、片手に持った小さな機械を、くるくる回していた。二人とも、昨夜と同じ服だった。昨夜の続きが、そのまま続いているようだった。
「起きたか、エド」スタークが、振り向かずに言った。「ちょうどいい。バナー博士が、そろそろ限界だ」
「限界じゃない」バナーが言った。「少し、目が霞むだけだ」
「それを限界と呼ぶ」
エドは、立ち上がって、二人の後ろから画面を覗いた。画面には、世界の地図が出ていた。赤い点がいくつか灯っては、消えている。点の数は、昨夜より減っていた。
「絞れてるのか」
「絞れてる」スタークが言った。「あと一時間もあれば、大陸の単位じゃなく、都市の単位まで落とせる。槍の波と、キューブの波が、同じ癖を持ってるおかげだ」
「槍だけ見てれば、キューブの癖が分かるのか」
「分かる。君が、手で拾った拍と、博士の機械が拾った揺れを、重ねてくれたからだ」スタークは、画面から目を離さずに言った。「昨夜の30秒を、誰に感謝すべきか考えていた。君だと思う」
「……感謝されるほどのことは、してねえ」
「そこは、素直に受け取れ。私は、滅多に感謝しない」
エドは、口を閉じた。頬のあたりが緩みそうになって、慌てて引き締めた。バナーが、横を向いて、肩を揺らしていた。
エドは、地図の赤い点を、もう一度見た。点の消え方に、癖があった。消えるたびに、隣の点が、ほんの少し明るくなる。
「待て。こっちの点、消えてるんじゃなくて、重なってるだけだ」
「何」スタークが、画面に顔を寄せた。
「あんたが言ったろ。槍の波は、読む波と入る波で形が違うって。その片方が、雑音に混じってる。二つ組で、間隔が毎回違うやつだ。入る波のほうを引けば、消えてる点の裏に、もう一つ出てくる」
スタークは、エドの顔を見た。それから、画面を見た。それから、もう一度、エドの顔を見た。
「……私が一時間かけて、気づかなかった」
「先に気づくって、言っただろ」
「言ったな」スタークは、指を鳴らした。「ジャーヴィス、エドの言った通りにやれ」
『かしこまりました』
赤い点が、二つ、新しく灯った。エドは、握った拳を、体の横で小さく振った。バナーが、「見事だ」と小声で言った。エドは、聞こえないふりをした。聞こえていた。
「予定より、早く済みそうだ」スタークが言った。「30分あれば足りる」
「30分」バナーが繰り返した。「なら、コーヒーを淹れる時間はあるな」
その時、扉が開いた。
***
「何をしている」
フューリーが、入ってきた。顔つきが、昨夜より硬かった。画面に目を走らせて、すぐに、スタークの手元の端末に視線を移した。
「長官、おはよう」スタークが、機嫌の良い声で言った。「ちょうど、いいところだ」
「質問に答えろ。キューブは、見つかったのか」
「あと少しです」バナーが答えた。「場所の絞り込みは、ほぼ終わってる。30分ほどで」
「その前に」スタークが、画面の別の窓を開いた。「長官に、見てほしいものがある」
画面が、切り替わった。地図が消えて、図面が出てきた。
エドは、息を止めた。
それは、部品図だった。円筒状の筒に、細い配管。先端の窓に、青い光の絵が添えてある。筒の横には、寸法と、動力の流れと、用途が並んでいた。見慣れた書式だった。ピナコの工房の壁に貼ってあった設計図と同じ、技師が人に見せるための書式だった。
ただ、用途の欄には、言葉が一つだけ書かれていた。
兵器。
「フェーズ2」スタークが、読み上げるように言った。「キューブの力を使った、新しい武器の計画だ。手に入れるのに苦労はなかった。そこは、安心してくれていい」
「何を言っている」フューリーが言った。「テッセラクトに関する資料を、集めただけだ」
「集めただけの資料に、配管の寸法は載らない」
扉が、もう一度開いた。ロジャースだった。肩に細長い布包みを担いでいる。部屋の空気を読んで、一度足を止めたが、そのまま、作業台まで歩いてきた。布が、ほどかれた。中から出てきたのは、一丁の銃だった。奇妙な形をしていた。銃身が太く、青白い筋が、本体の側面に走っている。
「七十年前に、僕が戦った相手が使っていた銃と、同じ型だ」ロジャースが言った。「ただし、中の仕組みは、もっと新しい」
「ロジャース大尉」
「これは、キューブを使った武器だ。あの時、僕らが追い払ったはずの技術を、あなた方は、まだ使い続けている」ロジャースの声は、大きくなかった。ただ、背中の筋が張っているのが見えた。「あなた方は、安全のためだと言った。守るためだと言った。守るために、これを作る必要はあるのか」
エドは、図面を見ていた。見ているうちに、胃のあたりが、硬くなってきた。紙の上の、ただの線だった。なのに、昨夜、槍に触れた時と、同じ種類の嫌な予感がした。
違う、と頭のどこかが言った。この線を、俺は知っている。
「……この図面」エドは、声が出ていることに、遅れて気づいた。「昨夜、俺とバナーが取った波の数字が、使われてる」
全員が、エドを見た。
エドは、画面の隅を指した。動力の流れを示す線の脇に、小さな数字の列が並んでいた。昨夜、ラボの紙の裏に書き殴った式の、係数だった。バナーが測った揺れの帯域と、エドが手で掴んだ拍の間隔が、そのまま、設計の入力値になっている。
「この数字は、昨夜、ここで取った数字だ。俺の読みが、そのまま入ってる」
「それは違う」フューリーが言った。「フェーズ2の設計は、数年前からある。お前の数字は、参考として、後から回されただけだ」
「回された? 誰が」
「分析部門が」
「俺は、誰にも回してない」
「お前の報告書は、艦のデータベースに入る。使える数字は、使われる」フューリーは、淡々と言った。「それが、組織だ」
エドは、画面の数字をもう一度なぞった。列の途中に、一つだけ、空欄が残っていた。
補正項だった。三つの山の間隔が毎回違う、その癖を打ち消す数字だ。これがなければ、この装置は、狙った出力で安定しない。昨夜、紙には書いた。報告書には、書かなかった。スタークが言っていた。隠してることを隠してる類いの人間だ、と。その言葉を聞いたあとで、手札を全部渡すのは、馬鹿のやることに思えた。契約の紙が守られるか分からないうちは、渡す物と返る物の釣り合いを見る。それだけのことだった。
「ただし、一つ足りない数字がある」フューリーは言った。「補正項だ。これがないと、設計は完成しない。お前の報告書にも、載っていなかった」
「書いたことしか、書いてねえ」
「そうか」フューリーの片目が、ほんの少し動いた。「お互い様、というわけか」
エドは、フューリーの顔を見た。この人は、嘘をついていない。ただ、本当のことを、最後まで言っていない。返す機会は作る、ただし俺の指示の範囲でだ。昨日、そう言った人だった。あの時から、この人は、そういう人だと分かっていた。
分かっていて、それでも、足の裏が冷えるのが分かった。
「契約に、書いてある」エドは言った。「兵器の開発には、従事させないって。コールソンが、ばあさんの前で、約束した」
「約束は、守る。お前の仕事は、解析だ。兵器に回すのは、別の部署だ」
「そこに回るんだろ」
「……もう回っている」フューリーは、一拍置いて言った。「これからも、回る。否定はしない」
エドは、何も言い返せなかった。喉が、貼りついていた。目の前の図面が、あの朝の地下と同じ種類の絵に見えた。自分の手が触れたものが、自分の知らない所で、形を変えて、誰かを傷つける。
昨夜、このラボで、自分が言った言葉が頭の中で鳴った。言えないことがある時は、先に言う。そういう大人もいる。
フューリーが、先に言ったことは、一度もなかった。
スタークが、横目でこっちを見ていた。何も言わなかった。言わないことが、昨夜の自分への答えのようで、エドは、歯を食いしばった。
結社の二つ名持ちは、会の犬と呼ばれる。戦いを任される側の人間だ。その呼び名が嫌で、それでも飲み込んで、ここまで来た。その自分が、この艦の中で、兵器を建てる側に回されている。
建てる側の子供。
〈兄さん〉
〈……分かってる〉
〈兄さんのせいじゃない〉
〈分かってるって言ってんだ〉
エドは、拳を握った。爪が、手のひらに食い込んだ。
***
「ずいぶん熱くなっているな、エド」
スタークが、画面を閉じながら言った。口調は軽かった。ただ、目は、エドを見ていなかった。ロジャースが置いた銃を見ていた。
「君が怒るのは分かる。私も、こういうのは嫌いだ。兵器を作って、何度も後悔してきた。だから、もう作らないと決めた」
「だったら、なんで」
「私が決めたのは、私の会社の話だ」スタークは言った。「他人の会社が、何を作るかは、決められない」
「そうやって、いつも自分の話にする」ロジャースが言った。「あなたは、そうだ」
「あなた、とは、他人行儀だな。さっきまでは君と呼んでいた」
「あなたが、さっきまでの君と、同じ人間なのか疑わしくなったんだ」
「ほう」スタークが、片眉を上げた。
その時、扉が開いて、ソーとナターシャが入ってきた。ソーは、天井に頭をぶつけないように身をかがめた。ナターシャは、昨夜の顔色が戻っていた。
「何の話だ」ソーが訊いた。
「フェーズ2だ」バナーが答えた。声が、いつもより硬かった。「長官が、キューブを使った兵器を作る計画を、僕らに隠していた」
「隠していたのではない」フューリーが言った。「必要のない者には、知らせていなかった」
「同じことだ」バナーが言った。
バナーは、ナターシャのほうを向いた。
「君は、知っていたのか」
「知らなかった」ナターシャは、答えた。「でも、驚いてもいない」
「それは、知っていたのと、同じことだ」
「ドクター、落ち着いて」ナターシャが言った。「ロキは、あなたを揺さぶろうとしてる。それに乗っちゃ駄目」
「ロキに揺さぶられなくても、僕は、揺さぶられるに値する理由を、いま見せられている」バナーの声は、小さかった。小さいぶん、芯があった。「なぜ、シールドは、キューブで兵器を作っている?」
フューリーは、すぐには答えなかった。
「地球は、いま、危険にさらされている」やがて、低い声で言った。「ソーが来て、外の世界が、我々の存在に気づいた。敵対する世界を、呼び込んだ。それに備える手段を、我々は、持たなければならない」
「核の抑止力と同じ理屈だな」スタークが、肩をすくめた。「あれは、いつも成功してきた」
「皮肉はよせ、スターク」
「皮肉じゃない。史実だ」
ソーが、一歩前に出た。
「そなたらの備えが、我が弟に届くと思うのか」
「あなたの弟を連れてきたのは、あなたの世界だ」ロジャースが言った。
「それは」
「事実だ」
「……事実だ」ソーは、拳を握った。
会話が、同時にいくつも走り出した。
「自分の会社の兵器を片付けてから、人に説教したらどうだ」ロジャースが言った。
「その時代遅れの価値観で、よく今まで生き残れたな」スタークが言い返した。
「親の話を出すなら、君から先に出せ」
「出した覚えはない」
「出そうとした顔だ」
聞こえてくる言葉は、ほとんどが、問題の中身から外れていた。ナターシャが、誰かの肩を押さえた。フューリーが、何かを言おうとして、声がかき消された。
「待て」ソーが叫んだ。「争うなら、まず敵を見よ」
「敵は、武器を作ってた連中だろ」
「武器を作らない奴が、この艦を飛ばせるか?」
エドは、耳を塞ぎたかった。大人が声を荒げる時、言っていることと言いたいことは、いつも違う。リオールでも、ヒューズの家でも、そうだった。違うまま、いつも、誰かが取り残された。
「うるせえ」
小さな声だった。誰にも、届かなかった。
「うるせえって、言ってんだ」
届かない。エドは、肺いっぱいに息を吸った。
そして、気づいた。
バナーが、いなくなっていた。
***
バナーは、作業台の向こうまで下がっていた。
背中を壁に押しつけて、うつむいている。眼鏡は外れて、床に落ちていた。額に、汗の粒が浮いている。
その手に、槍があった。
エドは、一瞬、何が見えているのか分からなかった。作業台の端にあったはずの槍の布が、床に落ちている。バナーは、槍を握っている。握っていることに、気づいていない。握った手の関節が白くなって、指が、柄に食い込んでいる。槍の先の青い玉が、脈を打つように、光っていた。
「バナー」
エドは、声を出した。喧騒の中では、聞こえなかった。もう一度、さっきより大きな声で言った。
「バナー」
返事はなかった。バナーの口が、小さく動いている。何かを数えているのだと、エドには分かった。診療所で、人の腕を診ながら数えていた時と、同じ動きだ。
エドは、足を踏み出した。喧騒の中を、二歩、三歩。
左手の指が、勝手に強ばった。昨夜の冷たさを、体が覚えている。槍が、バナーの何かを探している。一番開いている所を。
〈兄さん、ダメだ。近づいちゃ〉
〈あの人が持ってんだぞ〉
〈でも〉
〈見てろ〉
「バナー!」エドは、怒鳴った。
全員が、エドを見た。喧騒が、止まった。
「持ってるもの、見ろ!」
ロジャースが、バナーに気づいた。全員が、息を詰めた。部屋の空気が、一気に硬くなった。
「バナー博士」ロジャースが言った。声が、驚くほど穏やかだった。「それを、置いてくれ」
バナーは、顔を上げた。目が、焦点を結んでいなかった。
「……何を」
「手元だ。見てみろ」
バナーの視線が、下に降りた。自分の右手と、そこに握られた槍を、見た。
「ああ」バナーが言った。声が、かすれていた。「いつの間に」
エドは、バナーの前に立った。左手を、槍の柄の下に差し出しかけて、止めた。
「俺の手に乗せろ、って言いたいとこだけど」
「やめてくれ」バナーが言った。「君の手が、30秒じゃ済まなくなる」
「冗談だ。作業台に置け」
バナーは、力のない笑い方をした。それから、槍を持ち上げて、作業台の上に置いた。ごとり、と重い音がした。青い玉の光が、少しずつ、弱くなっていく。
「……ありがとう」
「礼はいい。論文の続きだ」
バナーは、一度、目を閉じた。次に開けた時、眼鏡のない目が、いつもの穏やかさを取り戻していた。
「すまない。取り乱した」
「みんな取り乱してた」エドは言った。「俺も」
後ろで、誰かが小さく息を吐いた。ロジャースだった。
***
静かになった部屋で、全員が、お互いの顔を見ていた。
スタークが、咳払いをした。
「ええと」スタークは言った。「全員、疲れているようだ。私の提案を言っていいか」
「言うな」フューリーが言った。
「言う。私は、シャワーを浴びて、コーヒーを飲んで、場所を特定する。博士は、座れ。他の人間は、各自、反省」
「反省」ロジャースが繰り返した。
「大尉の分は、特に長めに」
「君に言われたくない」
誰かが、声を殺して笑った。ソーだった。続いて、ナターシャが、肩を揺らした。ロジャースは、口を引き結んで、必死にこらえていた。
エドは、バナーのそばから離れずに、小さく息を吐いた。左手を、右の腕の中に挟んだ。
「エド」バナーが、小声で言った。
「何だ」
「さっきの兵器の件だ。君の数字が、使われた。君は、怒っていい」
「分かってる。怒ってる」
「ただ、君の数字が、人を守る方にも使えることは、忘れないでくれ」
「使える数字は使われる、って言われたんだぞ」
「そうだ。だから、使う人を、見ていないといけない」バナーは、眼鏡を拾って、掛け直した。「見ているのは、僕らの仕事だと思う」
エドは、何も言わなかった。胸の奥に、重いものが残っていた。ただ、その重さは、昨夜までとは違った。誰かが一緒に持ってくれている気がした。
フューリーが、エドの横に来た。他の誰にも聞こえない声だった。
「エルリック」
「何だ」
「お前の数字は、設計に入った。それは、事実だ」
「知ってる」
「お前の名前は、図面に載せない。載せさせない」フューリーは言った。「今の私に言えるのは、それだけだ」
「……俺の名前は、もう載ってんじゃねえのか。あの図面の隅に」
「載っていない。確認した」
「それで足りると思うのか」
「足りない。だが、嘘は言っていない」
エドは、フューリーの顔を、見上げた。片方だけの目が、揺れずに見返していた。この人は、信じてほしいとは言わなかった。信じるな、とも言わなかった。ただ、言えることだけを、言った。
「……次に隠し事をする時は、先に言え。俺も、そうする」
「努力する」
「努力じゃなくて、やれ」
「善処する」
「それ、同じだろ」
フューリーは、答えなかった。エドは、それ以上は追わなかった。追えないことも、分かっていた。
スタークが、コーヒーを二つ持って戻ってきた。片方を、エドに差し出す。
「図面の空欄は、わざとだろう」小声だった。「補正項が抜けてた。君は昨夜、あの式を紙に書いていた。載せなかったな」
「……何で分かる」
「君の式を一晩見た。一番丁寧に書いてあった行が、一番大事な行だ。そこだけ空いていれば、誰でも分かる」
「私なら、抜こうと思いつくまでに一週間かかった」スタークは、コーヒーをすすった。「いい手だ。ただし、使う人間には見抜かれる。以後、気をつけろ」
「怒りを向ける先は、選べないものだ。私も、まだ訓練中だ」
「訓練して、どうなる」
「人が、見てくれる」
エドは、小さく鼻を鳴らして、コーヒーを受け取った。この男の言うことは、半分が冗談で、半分が本当だった。どちらが本当なのか、毎回、見分けがつかなかった。
画面の脇で、バナーの端末が、小さく鳴った。
「出ました」バナーが、画面を覗き込んだ。
スタークが、コーヒーを置いて、素早く肩越しに覗いた。「いい。これは、いい。都市の単位まで絞れた」
「場所は」フューリーが、近づいてきた。
「今、地図に出す」バナーは、指で画面を拡大した。「ここだ。間違いない、この一点に——」
そこで、バナーの指が、止まった。画面の別の窓に、赤い文字が出ていた。エドには、読めなかった。ただ、スタークの顔色が変わったのは、見えた。
「博士」スタークが言った。「これは、何だ」
「分からない。熱源の——」
「私が行ったほうが早い」スタークは、バナーの言葉を遮るように言った。「場所は見えた。あとは、直接叩く」
「なら、スーツを着ろ」ロジャースが言った。「今すぐにだ」
「ああ、着る」スタークは、コーヒーを置いたまま、扉に向かった。
その背中を、ナターシャが目で追っていた。それから、バナーの腕に手を添えた。
「ドクター、こっちへ。下で少し休みましょう。顔色が悪い」
「でも、データが」
「データは逃げない。あなたが倒れたら、逃げる」
バナーは、一瞬だけ、エドを見た。眼鏡の奥の目が、言いたいことを選んでいた。
「エド、槍に触るなよ」
「触らねえよ。俺の手を、そんなに信用してねえのか」
「してる。だから言う」
二人が出ていった。扉が閉まる音を聞いて、エドは、画面の赤い文字を見た。読めない文字だった。ただ、数字の列の端に、時計の絵が出ていた。数字が、一つずつ、減っていた。隣では、フューリーが、同じ画面を睨んでいる。
「長官」エドは言った。「これ、何かの——」
艦が、大きく揺れた。
遠くで、何かが弾ける音がした。次の瞬間、床が、下から突き上げられた。
エドの体が、浮いた。誰かの怒鳴り声が聞こえた。壁が、横から来た。右肩から叩きつけられて、息が、抜けた。照明が消えた。非常灯の赤い光が、ぱらぱらと点いた。
〈兄さん!〉
〈……大丈夫だ。肩を打っただけ〉
〈今の、爆発だよ。下のほう〉
〈分かってる〉
エドは、床に手をついて、起き上がった。作業台が、斜めにずれている。ロジャースが、柱にもたれて立ち上がろうとしていた。ソーは、既に立っていた。フューリーの額から、血が一筋、流れていた。
「報告!」フューリーが叫んだ。
『エンジン3が、被弾しました』通信機から、ヒルの声がした。冷静だった。『ローターが、片側だけ停止します。高度が落ちます』
「全員、持ち場に戻れ。ロジャース、スタークと一緒に、エンジンへ行け」
「了解」
ロジャースは、もう走り出していた。エドは、ほとんど考える前に、その後ろに続いた。
「エルリック」フューリーが叫んだ。「お前は、槍を見張れ」
「見張るのは、ソーでもできる」エドは走りながら言った。「エンジンが割れたんだろ。割れは、俺が見りゃ分かる」
フューリーは、一瞬、何か言いかけた。それから、ソーに顎をしゃくった。ソーは、頷いて、槍の前に立った。
***
エンジンの区画は、熱と煙の匂いがした。
巨大な筒状の機械が、斜めに傾いたまま、重たい音を立てて軋んでいる。回転する羽根の一枚が、根元から欠けていた。欠けた断面から、白い火花が噴き出している。
「止めろ」ロジャースが、制御盤の前で言った。「どうやって止めるんだ」
『止めたら、再起動できない』耳元の通信機から、スタークの声がした。外から、機体を回り込んでいるらしい。風の音が混じっている。『ローターの回転を、半分以下に落とす。その間に、私が欠けた羽根の中に入って、軸を押し戻す』
「軸を、押す?」
『ベアリングが割れて、シャフトが歪んでる。リレーの過負荷を見てくれ。第2系統が落ちたら、手動でバイパスを——』
「分かる言葉で話せ!」ロジャースが怒鳴った。
エドは、エンジンの壁に左手を当てた。槍ではない。ただの鉄だ。冷たさは来ない。鉄の肌が、熱を持っていた。その奥で、何かが、ねじれていた。
「ロジャース」
「何だ」
「あの人の言ってること、こういうことだ」エドは、目を閉じた。手のひらから伝わる鉄の声が、頭の中で形になっていく。「真ん中の太い棒が、欠けた羽根に引っ張られて、曲がってる。その棒を支える部品が、割れてる。このまま回すと、棒が折れて、羽根が全部飛ぶ」
「どうすればいい」
「あんたは、その赤いレバーを握って、回転を半分まで落とせ。それ以上は落とすな。棒の曲がりは、あの人が押し戻す。押してる間、棒が逃げないように、俺が下から支える」
「支える? どうやって」
「こうやってだ」
エドは、両手を合わせた。壁に、掌を押しつける。
青白い光が、走った。割れた部品の隙間に、鉄の肋骨が伸びていく。壁の裏で、金属が噛み合う音がした。棒の軋みが、一段、低くなった。
ロジャースが、口を開けたまま、エドを見ていた。
「……今のは」
「後で説明する。聞く時間があったらな」
『何が起きた?』スタークの声が、通信機から割れて聞こえた。『軸の振れが、急に収まった。私の知らない補強が入ったぞ』
「俺だ」エドは言った。「あんたが押す間だけ、持たせてやる。持つのは、せいぜい数分だ」
『数分あれば足りる』スタークは、短く笑った。『エド、君は私の計算を狂わせる天才だ』
「天才って言うな。あんたに言われると、立つ瀬がねえ」
レバーが、重い音を立てて動いた。火花が、勢いを失った。エドは、壁から手を離さなかった。鉄の中で、棒が、少しずつ、まっすぐに戻ろうとしていた。
その時、天井の方で、ごとりと音がした。
エドは、顔を上げた。通気口の格子が、外れかけていた。何か、黒いものが、そこから降りてくる。ロープだった。ロープを伝って、人影が、音もなく、通路に降り立つ。
一人、二人、三人。全員が、黒い装備で、顔を覆っていた。
最後に降りてきた男だけは、顔を隠していなかった。
エドの体が、硬くなった。
背の高い男だった。肩に弓を担いでいる。腰に、矢筒。動きに、無駄がなかった。見覚えのある、歩き方だった。
「……バートン?」
エドは、声に出していた。思ったより、小さな声だった。
男が、こちらを見た。
目が、青かった。見知った茶色ではなかった。底まで抜けた、冷たい青だった。洗脳された人間の目だと、エドは、一瞬で分かった。
バートンは、エドを見た。そして、何の表情も浮かべなかった。
エドは、その目を見た。青い虹彩の縁に、細い線が一本、輪のように走っていた。縫い目のようだった。入られた跡だ。槍を読んだとき、探していたものが、そこにあった。
〈兄さん、あれ……〉
〈ああ。入られた跡だ。槍が通った所には、あれが残る〉
〈兄さん〉アルの声が、震えていた。〈あの目〉
〈分かってる〉
エドの左手の指先が、勝手に冷えた。槍に、触れてもいないのに。
バートンが、弓に矢をつがえた。ゆっくりと、こちらに向けた。
「バートン!」エドは叫んだ。「俺だ、エドだ! あんたに助けられた借りが、まだ返せてねえんだよ!」
矢は、下ろされなかった。